昨夜に引き続き電位治療を6時間して目覚めたら、朝方降っていた雨が止んでいた。それでも、昨夕、植え替えたテラスの紫陽花を眺められて嬉しい。
紫陽花は、わたくしにとって眺めていて飽きない唯一の花かもしれない。
願わくば、マンションのテラスなんかではなく、
古い木造の書院造りの家の中庭にひっそりと咲いている紫陽花を終日眺めていたいなあ・・・という思いになる。
自分では贅沢志向ではない人間のつもりでも、こうして紫陽花一つをとっても、
額アジサイじゃなきゃ、いやだとか、青い紫陽花じゃなきゃダメだと言うわたくしは、わがままな人間だと改めて思う。
その紫陽花をやっと入手して、ああ、幸せと思っているのに、マンションのテラスでは土の香りがしないせいか、庭木となっている紫陽花に思いを馳せてしまう。眺めたくなる。どこかで、そんな紫陽花を恋しく思っている。
だから、どんどん贅沢な思いを抱くようになる。
眺めたいのは、本当にずっと眺めていたいのは、平安末期からある古刹の庭で、音もなく降り続く雨の中で咲いていた、あの紫陽花なのだ。木枠のガラス戸越しに眺めたあの青い紫陽花であり、孔格子の木枠のあった翳部屋から眺めた、あの額アジサイなのだということを自分でも分かっている。
本当に眺めたい紫陽花は、もうこの世にはないのだとしたら、わたくしの紫陽花への思いもまた、見果てぬ思いに身を焼くのと似ている。
満たされることはないのだ・・・・と知りつつ、
求めないではいられない。
久しぶりに聴くマリア・カラスが、心に沁みてくる。