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保科家と荒川家の接点をもとめて(保科正之と伊奈忠次の源流)

2012-07-03 23:31:42 | 歴史
神助易正考・・・

小笠原文書 というものがある
信濃守護の小笠原家の書で事実や伝承を思惑を入れず、淡々と綴っているようで、個人的にはかなり信頼の置ける史実がある、と思っている

易正、保科家に関する項

以下原文・


実保
実行
実俊
正員
正倍五郎左衛門正信?
易正正倍嗣荒川易氏子神助

長直矢井忠長子清長孫桑淵光長曾孫常田光平孫井上家季耳孫太郎
長時
光利太郎
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正越前仕高遠頼継
正俊15091593正則子弾正越前「槍弾正」



保科実保以前は別の機会に。・・・
保科正則、保科正俊以後は歴史書で割と明白になっているので省く。
記述は、荒川易氏の次男?である荒川易正が正倍の養子になる前後の保科家の家系である。

漢文(調)のため、高校時代の、かなり薄れた知識を頼りに読み解いていく。正確かどうかも不安である。

前文;「正利正知子光利子」、後文;正則正利子易正子」、ここは意味不明。前文保科正利は正知の子であり光利の子でもある。後文保科正則は正利の子であり易正の子供でもある。はて?

今と違って、昔は「家」の存続はかなり重要な問題であったと聞く。どの時代も、生まれる子どもは男ばかりとは限らない。さらに時代背景から、「戦乱」が始まった時代、嫡男が戦死する場合も多かったとも思う。そうした時の家督相続として理解したら、納得できる。
意訳かもしれないが、前文;保科正利は光利の実子であるが、正知の子として家督を継いだ。後文;保科正則は保科正尚(=荒川易正)の実子であるが、正利の子として保科家を継いだ。
と、読み解くと論理矛盾が余りないように思える。

また、荒川易正が保科家に入り、正尚と名前を変えたことが覗える。だが、易正の名前はそのまま通り名として生きていて、通称は「易正」で呼ばれていた様だ。
この時代、家督相続や、家系正当性から名前変更は当たり前だったのだろうか。

ここに、伊奈忠次の祖先の荒川易氏の子、荒川易正が保科家に養子にいき、その子供が保科家の家督を継いだ、保科家と荒川(伊奈)家の接点が見えてきた。

次回は、北信の雄「村上一族」に、保科の里(現長野市若穂保科あたり)を追われた保科一族と「諏訪神党(諏訪神族)」を考えてみたいと思う。






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