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雑記;李花集(宗良親王私撰和歌集)岩波文庫のこと

2013-02-03 01:01:06 | 歴史
雑記;李花集(宗良親王私撰和歌集)岩波文庫のこと

白州松原(北杜市白州)をすぎて信濃に入る時、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。
甲斐 松原諏訪神社(北杜市)征東将軍宗良親王
白須松原は南北朝時代、宗良親遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよって山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」白州町教育委員会 

根拠は、 松原諏訪神社(北杜市白州(はくしゅう)町)の案内板です
・・・其他 白須松原は南北朝時代、征東将軍宗良親五遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~
「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」白州町教育委員会

その検証のために「李花集」を入手しました。
「李花集」(岩波文庫)絶版、古書として少数存在するらしい。
李花集を入手する方法としては、「群書類従」の中に登録されている。又抜粋として「宗良親王全集」著者黒河内谷右衛門がある。他には、解説本の中に数種類存在を確認する。かつて、ロマンを感じていた人に川田順がおり、川田順は「李花集」を研究していた。・・川田順は老いらくの恋で有名な人。
「李花集」(岩波文庫)絶版は、自宅付近のさいたま市大宮区の図書館のみならず、埼玉県下の図書館には無かった。それで、宗良親王が30余年在住したという長野県内図書館を検索し見つけて借りました。最終2ページに、昭和16年6月5日印刷、昭和16年6月10日発行、定価40銭と書かれています。製本の上揃えが悪く、印刷は所々かすれ、シミもあります。諏訪図書館の蔵印があります。大切に拝見します・・・。

P128
詞書き 甲斐国いらすと云う所の松原のかげにしばしやすらひて
731 かりそめの行通路と きゝしかど いざやしらすの まつ人もなし
です。
白州松原(北杜市白州)をすぎて信濃に入る時、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。
白須松原は南北朝時代、征東将軍宗良親五遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装し
は、詞書きにはありません。
別項に、古くからの伝承で「遠州伊井谷から信濃の保科氏に赴くときに山伏の姿に変装していた」という言い伝え、を確認しています。
白州町教育委員会 の歴史担当が、松原諏訪神社(北杜市白州町)の案内板を書く際に、伝承と詞書きを一緒にした文を書いた、と言うことでしょう。

このことは、前に書いた、黒河内の荘園が宗良親王の領地であり、そこの荘官=代官が保科氏であったとする説の根拠が、多少薄くなったと言えます。だが、そのまま、黒河内は宗良領で、保科はそこの荘官説を続けます。

雑感;宗良親王のこと
近くの10人ぐらいに人に、宗良親王のことを訊いたら知らないという。その中に歴史好きの方が2人いる。この分だと100人に訊いても知らなさそうだ。要するに南北朝期の皇子達には、現代人はほぼ関心がない、極めて「マイナー」なテーマなのだろう。後醍醐天皇、建武の新政、足利尊氏、新田義貞、楠正成、北畠親房、神皇正統記などは歴史好きは知っている。これが、後醍醐天皇と足利尊氏の蜜月時代とその後の反目や、新田氏と足利氏の反目の理由や経緯も余り分かっていない。まして、後醍醐の皇子達の南北朝もほとんど知識がないみたい。
このような「マイナー」なテーマのブログを見に来てくれて、本当にありがたく思っています。
ブログを立ち上げて、一貫して感じていることは、諏訪、藤沢黒河内、大草大河原など、時の権力者に敗れた一族が逃げ込み、これを隠しきって再起を促すという、この地の伝統みたいな優しさです。諏訪神社の縁起しかり、守屋しかり、高遠も宗良も時行も、再起を秘めて隠棲し、それを護った山を感じます。懐の深い山です。

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