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雑感;白州松原のこと、写本のこと

2013-02-04 01:15:52 | 歴史
雑感;白州松原のこと、写本のこと

白州松原のこと
白州松原のある北杜市は、2,3回立ち寄り、100回以上通過している町である。
かっては電車で、今は車で、小淵沢には小海線の利用で、清里には大学の農学部の農場もあった。八ヶ岳PAはドライブの疲れを休めて駐まった。その頃は、白州松原は、ほぼ記憶にない。
今回、色々な文献に当たり、あるいは付近の写真を見て、ある種の感慨を持つに至った。白州松原は白砂青松を連想させる。事実、中世(近世までもかもしれない)まで、釜無川の河原は白砂であり松林があり、海岸ではないが白砂青松の風光明媚な地域であったようである。少し前に赤石山脈の北部の岩石地質のことを書いた覚えがある。北部赤石山脈は西駒ヶ岳や鳳凰三山以北の、釜無川の源流の山を意味する。この山は花崗岩が多く、花崗岩は表面は堅そうに見えて、膨張率の異なる組成を持ち、時を経ると分解する。分解すると、岩石は川へ流れ出し河床に積み上がる。いわゆる川の氾濫の主たる要因になり、釜無川の名の由来もそこから来たのかもしれない。釜無川やその支流の川の河床や河原は比重の重い石英の結晶粒が残り、穏やかな普段は透明な川水と白砂の河原河床があり、また松原があって白州松原となった。文献と写真しか見ていない、河原の砂の組成も調べていない者の勝手な想像ではあるが。
武田信玄は、度々氾濫する釜無川を御する堤防を築いたとある。世に名高い信玄堤のことである。信玄の時代、農民と武士に区分はない。平時は農民であり事あらば武士というのが、この時代の常であった。信玄と信玄家臣団との共通の敵の自然災害への対処・防御は、信玄堤を作ることにより、強固な団結力と強靱な武士団への基になった。
ドライブで2度、上から甲府盆地を眺めたことがある。
青梅から奥多摩湖を抜け、山梨市へ降りるとき、桃の果樹園の花盛りの時で、桃の花が美しかったことを覚えている。
最近で、河口湖のミューズ館お人形がみたいと云うことで、アッシー君として参加し、帰りは御坂インター経由で帰ろうと云うことになり、一般道の山道を降りたことがある。御坂だと思っていたとこが笛吹市に変わっていた記憶がある。2度ともに、甲州盆地は、思いのほか小規模だと思った。松本、伊那、佐久、善光寺の四つの盆地や河岸段丘の豪族がなんで武田信玄に敗れたのか、経済力では説明が付かない、と思った。
武田信玄の釜無川対策の信玄堤は、連想で、矢作川の氾濫対策の三河武士の団結と家康への忠臣と似ている。家康は終生、武田信玄を恐れ敬い、信玄の政策をまねて師と仰いだとされる。矢作川も又、花崗岩のため苦労した河川だったという。

写本のこと
 「かりそめの行通路とは きゝしかど いざやしらすの まつ人もなし」李花集 岩波文庫
 「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」白州松原諏訪神社 案内文
上記は、同じ和歌で、作者宗良親王である。
掛詞が幾つかある。行通路は、行く甲斐路でもあり、行き交う道でもある。しらすは白州でもあり、知らすでもある。まつは松でもあり、待つでもある。また行き交うは人もなし、につづく詞である。白州町は甲斐を強調したかった。
宗良親王は、晩年吉野へ行き、「新葉和歌集」と「李花集」を編纂して、時の南朝の天皇の長慶天皇に進呈した。この時代印刷技術も無いことから、原本は一冊だったのだろう。人気と評判で、原本を借りた人は写本したと考えて良い。法界で云えば写経だ。その後に続きを考えれば、原本を借りた人も、写本を原本として借りた人も考えられる。希少品なるが故に、この様な作業が累々と続く。写本は、書籍への理解は丁寧になり深い読解力となる場合お多い。だが原本と後世の写本とは違う箇所が出てくることがある。例題のように、二重の意味の場合、一方の強調の偏りがあり、又読み違えの為の誤記もある。同発音のの異語は多々見られる。地方の地名などは、写本する人の知的レベルから、偏見独断から勝手に書き換えてしまうことも多い。人名などにもこの様な間違いが多い。保科氏が星名であったり、穂科であったりする。保科正信を字形の類似で正倍とする様な間違いを何度も見てきている。写本の明らかな写し間違いを「ママ」という表現で注意を促す場合もある。
この時代は、印刷技術なく製本し出版する術がなかった。写本のみが文章伝達の方法だった時代で、間違いの多い古書もあり、見分けの方法論と是正の方法論を確立し、「偽書」として葬り去らないようにできないものだろうか、と思う。


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