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保科家のルーツをもとめて ・・・保科正則以前

2013-01-30 01:34:19 | 歴史
保科家のルーツをもとめて
・・・保科正則以前(槍弾正正俊以降はほぼ明確)

保科正俊の父、正則という。正則の父は易正という説有り。
保科正俊の父は正則という系譜にも混乱がある。保科正則が現長野市付近、川田郷保科で生まれ育って、のちに、父の正利と伴に、村上一族に川田郷保科を追われて、藤沢黒河内へ来た、と言う説。
高遠家の諏訪頼継に保科正則は家老として仕えた、とある。これが事実だとすれば、正俊と正利の取り違えの可能性があり、さらに流れてすぐに頼継の家老になるには無理がある。

川田郷保科の系譜
祖を保科太郎という。保科太郎は当初穂科権八を名乗った。権八は叔父の笠原平吾に誘われて平家側の城某の兵として、横田河原の戦いに参加して敗れる。この時源氏側は、木曾義仲である。笠原平吾直の出身は箕輪郷らしい。穂科権八の出身は叔父の笠原平吾と直接相談できる箕輪郷の近在と推定できる。この時、笠原と穂科は、奇策を用いて、当初赤旗(平家)を掲げていたが、急遽白旗(木曾義仲)切り替えて、少数派の木曽側の勝利に導いた井上光盛の兵軍の中にいたとも伝えられる。これを期に、穂科権八は保科太郎を名乗り、川田郷保科に居を構え、笠原はの笠原郷に牧をもったという。その後、北信に勢力のあった井上光盛と保科太郎は、源頼朝に捕らえられ、井上光盛は謀殺され、保科太郎は許された。保科太郎は、井上光盛の、北信にあった領分を継いだものと思われる。その後の承久の乱(1223年)に、保科太郎・保科次郎の父子は参加している。・・平家物語。以後川田保科家は北条党として経過する。時が経ち、北条得宗家が倒れ、中先代の乱が起こった時、北条残党の保科弥三郎は、青沼合戦(千曲市小舟山)に参加し、敗れ、小戦を繰り返しながら後退し、清滝城(松代)に籠もって抵抗するも陥落する。この時の保科弥三郎は川田郷保科と考えられる。
その後の鎌倉時代から南北朝期における保科氏は歴史書の戦に登場しない。
1400年代、諏訪家守矢神官長の『御符礼之古書』などに保科氏の名前がいくつかある。康正二年(1456)保科長光・光輝があり、長禄三年(1459)には保科駿河守満重、ついで長光・光輝のあとを継いだ信光らの名ある。
・・・ここまでが、ほぼ正確な系譜で、以後は複雑に系譜が入り乱れる。

樹堂さんより
保科正利が、長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走ったという説。
保科正利の系譜についても、例えば、
①保科太郎光利の子の丹後守正知の子とする説(『高井郡誌』)、
②源光利の子とする説(『蕗原拾葉』)、などがある。
  次代の保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見え、
その父を正利とするもの(『蕗原拾葉』)のほか、
正利の別名を正尚としたり、上記とは別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする(『百家系図稿』巻6、保科系図)。
なお、この荒川氏は三河の伊奈熊蔵忠次の家につながるという系譜所伝があって、易氏は忠次の六代の祖といわれる。

この、複雑な乱流の根底には、不明な系譜の部分を、無理に繋ごうとした跡が見受けられる。あるいは、不明な部分を独断偏見で想像して正当化したと見られる所がある。それも、相当時を過ぎた後に。
上高井郡誌・・大正2.3年制作
蕗原拾葉 (ふきはらしょうよう)中村元恒(1778-1851)
百家系図稿 巻6、保科系図 明治前半期の系譜学者鈴木真年 全21巻
この中で、明治の学者鈴木真年は、無理な系譜と無茶な正当化を極力排除した、学者的態度で作ったとされ、その客観的な系譜は冷静で、評価されていいと思う。

別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする(『百家系図稿』巻6、保科系図)。
自分の一貫した作業(保科家のルーツをもとめて、正則以前)は、今に思えば、この学者鈴木真年の説の、裏付け作業の様にも思える。

別系の・・・
保科家の藤沢黒河内の考査・・
穂科(保科)権八以来、藤沢黒河内に保科の名前が登場するのは、南北朝期からである。

結城合戦(1440年)は足利持氏の残党と結城氏が室町幕府に対立して起こした合戦である。この戦いに、信濃武士は守護小笠原を総大将として参加しており、その中に、伊那武士として、「保科」の名前がある。記載の順序は、飯島、大島、片桐、藤島、小井テ、宮田、山寺、保科、小田切、三穂・・・として、不思議なことに、保科を除き、他は地名をほぼ特定できることから、そこの領主豪族であることが推定できるが、保科は異質であり、地名を見いだせない。

大徳王寺の戦いのあと、1347年、宗良親王は楠正行や、興良親王と狩野介貞の安倍城に入り、ここで6ヶ月の戦いの後、再び信濃に帰ることになり、白州松原(北杜市白州)をすぎて信濃に入る時、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。甲斐 松原諏訪神社(北杜市)征東将軍宗良親王
白須松原は南北朝時代、宗良親遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよって山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」白州町教育委員会 
この頃になると、諏訪下社領隣接の白州(北杜市)近辺も宗良親王の安全地帯では無かったことが表現されている。厳密に言えば、諏訪頼継・保科氏と大草・大河原の香坂氏ぐらいが宮方として信頼のおける味方となっていた、と考えて良い。入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬を支配していたのが保科氏であったと思われる。

これより遡って1339年 大徳王寺の戦いがあった。北条得宗家の遺子北条時行を盟主として、諏訪上社の嫡男の諏訪頼継が助けて、幕府(小笠原家)と戦った。やがて、傷兵を多くし、兵糧に窮して、開城したとある。地元の長谷誌の筆者は、この「開城」の表現に注目している。まず守護小笠原貞宗は、度々京都に赴き、天皇家に弓馬の礼法を教授している。後醍醐天皇もその皇子たちも教え子であり、恩敬の念を抱いていた。その為か、北条残党に対しては強く出て、純粋宮方には戦いを仕掛けなかった。小笠原の拠点松尾から10里弱で、小笠原家臣の片桐氏とは隣接する大草大河原の香坂家には手を出してない謎はここにありそうだ。大徳王寺が落城とか陥落とかの表現でなく「開城」の表現になり、諏訪頼継が諏訪上社に戻り、北条時行が脱出出来た理由を想像すると、和解とか妥協とかの意味が浮かんでくる。事実大徳王寺があった長谷溝口に、松尾小笠原家の子の氏長入り、溝口氏長を名乗り、子孫の長友まで続いた。溝口長友が松尾小笠原が存亡の危機にあったとき松尾に戻ったが、後を継いだのは保科正俊の次男の正慶であり、溝口正慶(武田と敵対し孤島で処刑)と名乗った。大徳王寺の戦いのあと、諏訪上社は松尾小笠原家と同盟関係になっている。

「武家沿革図」という所領地図がある。ここに正平より元中年間まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった、と記している。1346年から1427年までのことである。もとより藤沢黒河内は諏訪神社の神領の荘園であった。この黒河内を割譲して、諏訪上社は、荘官の保科氏ともども宗良親王に付与したのではないか、と思っている。この期間は宗良の子尹良親王が信濃に在住したときまで続いた。そのように考えると、以後も辻褄が合ってくる。場所は、溝口か市野瀬あたり、溝口の方が可能性が高い。領主としてあった小笠原系溝口氏とは敵対関係ではなく、荘官は代官の意味でもあったのだろう。あくまで仮定の想像であるが。
この間、諏訪円忠の働きもあり、小笠原家とも共存関係が続き、文明の内訌あたりまで、穏やかに過ぎ、やがて信濃は諏訪家の内訌と小笠原家の内訌と重なって早期戦国の時代へ突入していく。

諏訪高遠家の祖は、高遠(諏訪)信員(高遠貞信ともいう)であるという。大徳王寺城の戦いで北条時行を助けた諏訪大祝頼継の長男である。信員のあと、高遠氏は義海・太源・悦山と続くが、いずれも法名でありそれぞれの事蹟も不明である。高遠氏の名は継宗の頃から歴史に登場してくる。1482年高遠継宗は高遠氏に代官として仕えていた保科貞親と荘園経営をめぐって対立した。大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。
上記の文章もかなり不思議だ。高遠城主の高遠宗継と対抗しうる勢力を持った保科貞親は何処の領主としても見えていない。特定領地を持たないで勢力があるのだとすれば、黒河内内の小豪族の上に位置する荘官=代官と見るのが極めて自然な理解だろうと思う。保科貞親に味方した顔ぶれをみると、更に納得がいく。大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。継宗は笠原氏らの支援を得て、千野氏・藤沢氏らの支援を得る保科氏と戦ったが高遠氏の劣勢に終わった。以後も保科氏との対立は続き、保科方は府中小笠原氏らの支援を得て高遠氏の属城である山田城を攻撃したが、双方決定的な勝敗はつかなかった。高遠宗継は戦国大名として登場し、同族といえ、諏訪家も領下に納め、勢力拡大を夢見たのであろう。保科貞親は途中で宗継に同心して戦いは保科優先のまま終結する。代官の立場はそのまま継続されたとみていい。高遠宗継は最大10万石まで領土を拡大したという。
この時代背景は次の様である。この争いに諏訪惣領の政満が、諏訪大祝継満と盟約関係にあった高遠継宗に兵を向けたことから、惣領家と大祝家 との対立は決定的なものとなった。(1483)一月、大祝継満は惣領政満父子を居館に招いて殺害し、惣領家の所領を奪って千沢城に立て籠った。これに対し、 矢崎・千野・小坂・福島・神長官らの各氏は反発して千沢城を襲撃した。このため、大祝継満側では多数の犠牲者を出し、継満は高遠継宗を頼って逃れた。翌年五月、松尾小笠原の援助を受けた大祝継満は、 高遠継宗・知久・笠原ら伊那勢を率いて諏訪郡に侵入し、片山城に籠城したが、小笠原長朝に攻められて退去した。二男頼満が上社大祝職に就き、諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。高遠継宗は混乱状態の続く諏訪郡に侵攻し、鞍懸に陣を構え て有賀勢と対峙して、竜ケ崎に城を築き、上伊那郡北部にも進出して 支城を築き支配領域の拡大を図っている。
宗継の後を継いだには満継であった。そして満継の時代に高遠家の所領は2万石になった。8万石の所領が減った計算になる。このことについて「赤羽記」は次のように記している。「頼次(継)の親に至って悉く無礼にありけり、然故(しかるゆえに)諸士疎(うと)んじて果(はて)、皆我々に成(各が自分勝手になり)、是故勢大に衰ヘ(この為に勢力が衰え)漸(ようやく・だんだんと)ニ万石余と成云々」と記され、無礼な行動が多く、諸士から疎んじられ、勢力も衰えて二万石ほどになったというのである。これによれば、満継は父継宗とは違って優れた武将とはいえなかった。高遠満継に何があったのだろうか。愚かな武将とか優れた武将ではなかった、と言う評価の前に想像してみたい。満継の時代背景は、諏訪下社と府中小笠原家との連盟による巻き返しの抗争がある。諏訪家の内訌と小笠原家の内訌の入り乱れた抗争である。内訌とは、同族同士の下克上を伴う内乱抗争を意味とする。諏訪上社は松尾小笠原と盟を組み、一方諏訪下社は府中(松本)小笠原と連盟し、抗争をする。高遠家は当初より上社・松尾小笠原の側の主力であったが、徐々に敗れ、その所領を失ってゆく。この過程に高遠満継はあり、最後に旧領の藤沢黒河内のみが残り、所領が2万石まで減ってしまった。後世に歴史家は、これを文明の内訌と呼んだ。
この頃、代官の保科家でも異変が起こっていたと見てよい。保科貞親のあと保科家は嫡流は文明の内訌で戦死したか、あるいは嫡流が無く高遠家を支えきれなくなっていた。

この頃、京は応仁の乱の末期で足利義視は西軍の総大将で府中(松本)の守護小笠原清宗を、時の将軍足利義尚は東軍の大将で、松尾の小笠原家長を支持していた。小笠原家の内訌は、応仁の乱の代理戦争でもある。将軍義尚から松尾小笠原を救援するために派遣された荒川易氏は次男の易正を保科家に入れる。また長男の易次を高遠家に入れて、諏訪の下社攻略の為、諏訪の大熊城(あるいは小熊城)を守らせる。この戦いで荒川易次は戦死した可能性が強い。荒川易氏の次男の易正は保科を継ぎ、高遠満継を保ち、諏訪上社と松尾小笠原との関係を復活強固にし、満継の子の高遠頼継に繋いだ。この保科易正のことを、世間では神助易正と呼んだという。神助とは天佑神助とも呼ばれ、天佑も神助もほぼ同じ意味である。すなわち、天の助け、神の助けの意味で、不可能と思われた高遠家の復活に貢献したと理解していいのかもしれない。そして、高遠頼継は保科正則と保科正俊が家老となって続き、かっての勢力を持ち直していく。保科正則、正俊が藤沢谷の御堂垣外に住むようになるのは、どうも高遠家継の家老になって以後の様である。

また、川田保科家が、坂城村上一族に圧迫され、一部の保科族は村上家臣に降り、一部の保科族は藤沢黒河内に流れたのも高遠満継の時代前後のようである。彼を保科正利と呼び、やがて系譜が消え、保科正則となった。たぶん、高遠家の代官か家老の保科氏への合流であろう。

1545年、武田と対峙した福与城の戦いの中に、藤沢方を応援した小笠原信定(鈴岡)の家臣団、下伊那・中伊那の旗本衆のなかに、保科弾正があります。・・・小平物語
1548年、藤沢頼継が保科因幡(保科一族)に、保科旧領の藤沢御堂垣外200貫(換算式(1貫=5石)で、1000石)を安堵。・・・御判物古書の写し(守谷文書)
1552年、戦功により、保科筑前(正俊)は武田信玄より旧領に加えて、宮田700石、諏訪沢底500石を与えられています。
上記の流れは、藤沢家の対武田信玄との戦いの中で、保科因幡は、藤沢親の福与城の戦いの時は、小笠原信定の軍に中伊那衆として援軍します。この時の保科因幡と正俊の関係は定かではありません。しかし、高遠の所領を失ったとき、何処かに逃れ、3年後に又旧領を回復しています。1545年以降に、保科正俊が、主人を替え、武田信玄の家臣になったのは明確ですから、中伊那にも所領があったことが推測されます。正俊の次男が溝口正慶で、正慶処分の後、信玄は旧領の半分ぐらいを遺族に残したとあるので、中伊那の保科は溝口であろうと推測されます。後に信玄より加増された土地は溝口近在の宮田であり、藤沢御堂垣外近在の沢底であることを考えると、辻褄が合う。

平成になった今、長谷の溝口あたりに、保科を名乗る後裔があれば確信が強まるのだが。


以上は、幾つかの事実を繋ぎ、時代背景を鑑み、想像を走らせた仮説の物語である。がしかし、合理性整合性はあると思っている。

反省;以前宗良親王の子の尹良親王の浪合記のことを書いた。尹良親王の生誕や年齢から浪合記は誤りで、尹良が井伊谷で生まれているはずがないと書いた。この間違いの根拠は正しいのだが、大いなる勘違いは、井伊谷での尹良生誕は各種事実から正しくて、実は浪合合戦で死んだのは、尹良では無いというのが結論である。そうでなければ、奥三河や奥遠州に残る尹良伝承も事実無根となってしまう。
浪合合戦で死んだのは守良親王という説があるという。まだ事実検証はしてない。

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