万葉の歌碑を訪ねて
歌碑の設置場所/福岡県太宰府市大字大佐野字野口807-128
太宰府メモリアルパーク 太宰府の丘展望台
万葉集/巻5-794 作者/山上憶良(やまのうえのおくら)
大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国に 泣く子なす 慕(した)ひ来まして 息(いき)だにも いまだ休めず 年月(としつき)も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間(あひだ)に うちなびき 臥(こや)しぬれ 言はむ術(すべ) 為(せ)む術(すべ)知らに 石木(いはき)をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば 形(かたち)はあらむを うらめしき 妹(いも)の命(みこと)の 吾(あれ)をばも 如何(いか)にせよとか 鳰鳥(にほどり)の 二人並び居(ゐ) 語らひし 心(こころ)背(そむ)きて 家ざかりいます
【意味】大君の遠い政府(大宰府のこと)だからと、筑紫の国に、泣く子どものようにだだをこねて慕ってついておいでになり、一息つくほどにも休めず、年月も経っていないのに、心にも少しも思わないうちに、ぐったりと横になってしわれた。どう言っていいのか、どうしたらいいのか分からずに、庭石や木に尋ねて心を晴らそうとしても、それもできない。あのまま奈良の家にいたならば元気な姿であっただろうに、私を置いて逝ってしまった恨めしい妻は、私にどうせよというのか。鳰鳥のように二人並んで語らいをしたその誓いに背いて、家を離れて遠くに行ってしまわれた。
※神亀5年(728年)7月21日、筑前守の山上憶良が、妻の大伴郎女を亡くした大伴旅人に奉った歌で、百日の供養の頃の作歌とされます。
写真下 歌碑の全景
写真下 歌碑の解説案内板 (長歌のため、文字が多く写真では読めません。)
万葉の歌碑とは
万葉集の歌を刻みつけた碑が「万葉歌碑」です。 多くの人々に親しまれた万葉の歌を石に刻み、その歌を作った歌人を讃(たた)え、その歌が後の世に残ることを願っているのです。
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