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誰も知らない、ものがたり。

巡りの星 33



 その涙は、彼の悲惨な事故の現実を慰めるにはあまりにも非力で、無責任なものにさえ思えた。

 彼の苦悩の表情に見たのは、生きる者と死んだ者との間ある、どこまでも絶望的に越えがたい壁だった。

 昨日まで、あたり前のようにそばにいた人。いっしょにご飯を食べて、家事を分担して、時にはお酒を飲んで、テレビを見ながら笑ったり。夜は寝て。また、朝起きて、互いにおはようと言う。何日も繰り返しながら、特別な季節のイベントをいっしょに過ごして、つらいときは励まし合って。時には、けんかもして。
 そんな毎日を乗り越えて、結婚をして結ばれた人。
 愛し合って、これからの何十年を、いっしょに過ごそうと誓い合った人。
 その人が、突然この世から消えてしまった。お腹に宿した、新しい我が子の命と共に。

 そして、ひとり残された彼。幸せな未来まるごと、全部を津波のように襲いかかる孤独感に、飲み込まれていく絶望・・・。

 暮れなずむ夕陽のつくる影が、今は死の世界へと引きずり込む何か別物の闇の塊に見える。

 不意に、私の流した一筋の涙も、自分の今ここにいるという感覚も、自分が、自分であるという確信も、その全てが、彼の心にぽっかりと空いた深い虚空の穴の闇の中に吸い込まれてしまうような、避けがたい重力のようなものを感じた。
 
 私は思わず息を呑み、その重力と対峙した。


 それは「恐れ」であった。


 そのことを、私の心が認識した時、耐えがたい耳鳴りが頭の中に響き渡る!
 キィーン!という高周波の音が、どくん、どくんと早まった鼓動と重なり、身体が鎖に支配されたかのように動けなくなる。 
 わたしはとっさに目を瞑り、自分の異変を彼に悟られないよう、座っているベンチの端を力を込めて握った。その手は微かに震えていた。
 

 「・・・つまらない話をして悪かったね。じゃ、俺はもう行くよ」

 私の異変に気づくことなく、その場を後にしようと彼が立ちかけたその時、私の直感が最大限の警鐘を心の中に鳴らした。
 
 
 —このまま、彼を行かせてはだめだ!


 それは、確信にも似た思いだった。このまま、何も言わず、彼と別れてしまったら、何かが、いや、この世界が、永遠に壊れてしまう、そんな気がした。
 すべてのつながりがほどけて、バラバラになってしまうように。
 あるいは、風船に小さな穴があいて、一瞬にして破裂してしまうように。

 何もかもが、この世界が、失われてしまう。 

 それでも、動けない私の身体。声も、胸の辺りでかき消されてしまうような、強い束縛感。
 孤独が全身を蝕み、体温がどんどん奪われていくような恐怖。

 わずかに空けた瞳の先に、屋上の出入り口に向かって、とぼとぼと歩く彼の揺れる背中が見える。
 

 —だめだ、だめだ!このままでは、だめなんだ!



 絶望の闇に飲まれそうになった、その時、もう駄目かと思った私の心の中に、一粒の光が灯った。
 夏の日の夜、夢に見たあの日の、おばあちゃんの声が、聞こえた気がした。

 それは、私の心と身体を縛る、鎖を断ち切る力となった。

 気づいたら、私は目を見開き、ベンチから立ち上がり、拳を握りしめ、彼の背中に向かって叫んでいた。
 自分でも信じられないくらい、腹の底から声が出た。


 「待ってください!!」


 その声は、屋上の張り詰めた空気を切り裂くように、彼へと届いた。
 突然の大きな声に驚き、彼は肩をビクッと震わせ、立ち止まり、こちらを振り向いた。


・・・つづく。
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