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誰も知らない、ものがたり。

巡りの星 32



 「・・・」
 私は、あまりのことに、今度こそ何の言葉も出すことが出来なかった。 
 ただ、下を向き、ぽつりぽつりと話す男の顔を見つめるほか無かった。
 男の話によると、交通事故で亡くした奥さんは去年籍を入れたばかりの人で、普段はあまり使うことのない駅の近くの交差点の横断歩道を渡る際に、事故に遭ったらしい。
 高齢者の男の運転するクルマが、横断歩道を渡る歩行者の列に、ブレーキ無しで突っ込んだ。
 そして、男は警察署からの連絡で事故を知る。その時はすでに心肺停止の状態だった。

 事故はニュースにも大きく取り上げられ、私の記憶にも新しい、凄惨で沈鬱な救いのない事故だった。
 事故を起こした高齢者のクルマでは、昨今、搭載が義務づけられている自動ブレーキが作動しなかった。正確には、作動しないように機能が意図的に切られていた。『警報音などがいちいちうるさくて運転に集中できないからオフにしていた』という加害者の証言が報道され、報道番組の各キャスターや有識者、市井のネット民の大勢から大変な怒りを買った、あの事故だ。
 ずっと前の事故の際に問題となった、被害者のプライバシー保護の観点から、犠牲者の名前等の詳しい情報は報道されなかった。

 私は、つらい身の上話をしてくれる男の声に一生懸命に耳を傾けているうち、自身の胸が苦しくなり、思わず空を見上げた。
 さっきまで茜色だった空には徐々に深い藍色の幕が降り、地平線と一部の雲に残る夕陽の色とのコントラストで、どこか幽玄な雰囲気を醸し出していた。生と死の世界、この世とあの世が、混ざり合ったかのような錯覚を覚える。

 「なんで、その日に限って、普段は行かないその場所に行ってたんだろうって、最初は判らなかった」
 男も、同じように瞳を空に向けた。

 「でも、事故の連絡をもらった時、警察から、妻が持っていた“母子手帳”で身元がわかったと聞いて、気づいてしまった・・・」

 男は、そこで話をつまらせた。
 私は、視線を男の顔に戻し、その先の話を待った。

 「・・・妻は、夫婦ではじめて授かる子を、妊娠してたんだ。事故のあった交差点の近くの産婦人科で受診していた事が後から判った」
 私は、男が一度に二重の絶望を味わったことを知った。
 
 「事故があった日の朝、仕事で家から出る時、妻に言われたんだ。『今日、帰ってきたら重大発表があります』って。でも、妻は何も話さずに逝ってしまった。・・・俺はたった数秒の間に起きた事故で、妻と子の命と、家族で普通に暮らす未来を、全て亡くしてしまったんだ」

 努めて静かに話す男の声には、強い怒りが込められていた。
 無理もないことだった。 
 自分だったら、気が狂ってしまうかもしれない。
 私には当然、妻も子もまだいない。でも、数々の出会いの中から奇跡的に結ばれた人を一生の伴侶として得て、子供も授かりこれからというタイミングで、ひとりの他人の無責任で危険な運転行為に、その全てを永遠に失ってしまう男の気持ちは、深く底の知れない絶望の穴蔵に突き落とされてしまったようなものではないか。
 
 「そして、俺は怒りに取り憑かれてしまったんだ」
 男の声は、低く、とても静かだった。

 「はらわたが煮えくりかえって、気が狂いそうになりながら、毎日、加害者を憎むことしか出来ない。その周りの人間も、なぜ高齢者の奴の運転免許を止りあげなかったのかと」
 目を閉じた男のまぶたは、小さく震えて見えた。

 男がもう一度まぶたを開けてこちらを観た時には、最初に挨拶を交わしたときの、あの疲れ切った瞳に戻っていた。
 「それから、会社でも感情の抑えが効かなくなって、後輩のちょっとしたミスでも許せなくなって、つい怒鳴り散らしちゃうんだ」
 私は黙ってうつむいた。
 
 「でも、俺が怒鳴れば怒鳴るほど、奥さんを亡くしたから無理もないって目で見られて、周りに同情されちゃうんだよ」
  
 沈痛な面持ちで話を聞くしかできなかった私の気持ちを思ってか、男はまた少しおどけるように両手を広げて肩をすくめて見せた。

 「かっこ悪いだろ?」
 男は、顔をわざとしかめるようにして、苦笑いの表情を作った。 

 自らを滑稽な姿として振る舞うそのポーズは、恐らく、彼をギリギリの所で正気に保たせている、彼の周りの人間に対する、元来の優しさの表れのように思えた。

 日が落ちかけた藍色の空と街並を背景に、静かに語り、動く彼のシルエットを観ながら、私の目から、一筋の涙が出て、頬を伝った。あたりが暗くなってきているし、彼には見えなければいいな。そう思いながら。涙を拭うそぶりは見せないようにした。


・・・つづく


 
 

 
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