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誰も知らない、ものがたり。

巡りの星 34



 驚き振り向いた彼と目があった時、私は思わず駆け出していた。
 彼にどうしても伝えたいと思った。
 今の私は、死という恐怖の鎖に縛られてはいない。
 その理由を、伝えたいと思った。

 彼の顔は、もう目の前にあった。
 私は立ち止まり、自分より少しだけ背が高い彼と向き合い、疲れが隠せない精気の欠けた瞳を見つめながら話しかけた。

 「あ、あの・・・!」

 「・・・何、どうかしたの?」
 彼は突然大声を出して駆け寄ってきた私に明らかに戸惑っていた。
 構わずに私は続ける。

 「奥さんは、きっと、そばであなたのことを見てると思うんです!」

 「・・・」
 彼は、表情も身体を少しも動かさず、ただ、黙っている。
 
 「い、今も、すぐそばで!」 

 疲れた瞳の視線を少しだけ下に落として、彼は小さくため息をついたようだった。
 そして、乾いた喉からようやく絞り出したような掠れ声で、小さくつぶやいた。
 「・・・ああ、ありがとう」
 しかし、その声は日が落ちかけ暗くなる周りの空気の中に消え入るような、心のないものだった。

 「本当に、本当に、そう思うんです!」
 必死になって言う私を、逆にたしなめるように小さく頷きながら、彼は目を瞑る。
 少しして再び目を開けたそこには、変わらず疲れきった瞳がそのままにあった。
 そして、彼は私に向かってぽつりぽつりと話し出す。

 「・・・ああ、そうだな。友人も、同僚も、皆そういって、慰めてくれたよ」 
 そう言って私の目を見る彼の瞳には、いま目の前にいるはずの私の姿ですら、映っていないのではないか、そう思わせるほど空虚で、感情をもたぬ機械のようでもあった。
 私は、そのすぐ目の前にある彼の瞳に、まるでとりつくことができない距離を感じ、再び言葉を呑み込んだ。

 そして、彼は乾ききった唇をわずかばかりに開いて言う。
 「・・・本当のことを言うと、それ、聞きたくないんだ・・・」
 
 1本の小さなとげが私の胸にチクリと刺さる。

 「だって・・・いないじゃない・・・どこにもさ」
 抑揚のない声、動かない瞳。彼との間に、見えない分厚いガラスがあるような錯覚さえ覚える。

 「何度も、何度も、あいつのこと、夢に見たよ。でも、目が覚めると、やっぱりいないんだよ」
 彼は再び下を向いて言った。
 「そばにいるって?・・・どこにだよ。俺には、見えないよ・・・!」
 
 私は、ガラスの向こうに、すぐ側にいるのに決して届くことのない彼に、懸命に伝えようとする思いにとらわれて、願うように声を出す。
 「いいえ、本当にいるんです!お願いです、わかってください!!」

 
 「わかってください、だと?」
 それまで死んだようだった彼の目が、突如激しく揺れ動いた。

 次の瞬間、彼の両手が私の襟元をつかみ、目一杯の力で上に絞り上げる。

 「じゃあ、お前に俺の気持ちがわかるのかよ!!」

 それまで抑えていたものが、固い怒りの感情が、私の顔面にぶつけられるのが判った。

 「くそじじいのクルマが猛スピードでぶつかって壊されたあいつは、もう二度と動かないものになっちまったんだよ!」

 襟元の彼の手に、抗いようのない強い圧迫感を感じながら、それでも私は懸命に、怒りに縛られた彼の目を、その中に燃える青い炎を感じながら、祈るように見つめづけた。

 そのまま見つめていても、激しく揺れていた彼の目のなかの青い炎は決して消えなかった。
 しかし、それでも彼は目を瞑り、自らの息を殺すように、怒りを押さえつけるようにふるえる息を吐き、手の力を緩めた。 
 
 襟元を締め付ける力に耐えるようにしていた私は、その力から解放されたとたん、バランスを崩して思わず後ろに尻餅をついた。


 「・・・すまない・・・」
 彼は、下を向きながら、ようやくのことで声を出す。

 その場にへたり込みながら、私はそれでも言わなければならないと思った。
 決して届けることができない人たちの声を、彼に届けなければならないと思った。


 「・・・僕、小さい頃亡くなったおばあちゃんが言ってた言葉、ずっと信じてるんです」
 彼はうつむいたまま、動かなかった。でも、構わずに続けた。
 
 「おばあちゃんは、死んだら、僕をそばで見守るって、言ってたんです。・・・それ、本当なんだって、小さい頃から、今もずっと、信じてるんです・・・」
 それは、自分にずっと言い聞かせてきた言葉だった。
 父親も時折、息子である自分に向かってそう言った。まるで、おばあちゃんからたくされた遺言を私に伝えようとするように。

 「見てるおばあちゃんを悲しませないように、昔みたいに頭なでて褒めてもらいたくて、ずるいことしないで、頑張ろうって、やってきたんです」
 恥ずかしくて、親にも、友達にも決して言えなかったこと。自分の中だけにしまって、大切にしまってきたこと。
 恐らく他人からしたら、とっても些細で、他愛もない家族との思い出。

 それでも、今、大切な人を失い、絶望の縁で怒りの炎に焼かれる彼には、言わなければならないと思った。

 「だから、バイトで店長にこっぴどく怒られても、たまに厳しいこというおばあちゃんみたいに、自分のために怒ってくれてるのかもって、思うようになれたんです」
 目に涙がこみ上げる。
 
 「でも、おばあちゃんはもう声で思いを伝えることが、できないんです」
 
 「だから、だから・・・僕が、信じないといけないんです・・・!」
 私の頬を涙が伝い、声が震えた。
 彼は、目を開け、私を見た。

 彼に見下ろされながら、私はいつのまにかすすり泣いていた。
  
 屋上に夕陽がつくる二人の影はもう無かった。
 代わりに、屋上に灯った弱々しい照明の光が二人をわずかに照らしていた。
 太陽が地平線の向こうに隠れ、宵の暗い藍色の空が頭上に広がり、おぼろげに月が浮かんでいる。
 建物の窓やネオンサインの光が灯り、夜のはじまりを街が迎えているようだった。

 彼は、黙っていた。
 あたりが暗く、その表情は判らない。

 しばらくの沈黙がつづく。
 やはり、届かないのかもしれない。

 他人の自分が何を言ったところで、無駄なことであり、この分厚いガラスの向こうには、どうやったって届かないのかもしれない。

 事故や災害で身近な大切な人を亡くした人の気持ちは、自分には判らないのかもしれない。 

 その人たちにとっては、自分が信じたおばあちゃんの言葉も、信念も、何もかもが、わずかな風に吹かれて飛んでいってしまうような、儚くてちっぽけな、何の意味も無いことなのかもしれない。

 人は、いずれ、死の恐怖や、絶望に無情にも呑み込まれていく定めなのかもしれない。

 その先には何もない、音も、光もない、ただの闇でしかないのかもしれない。

 闇は何もうつさない。周りをみても、どこまでも深く、闇に囚われてしまう。


 でも、だからこそ、闇の中に光を生み出せるのは、自分の心でしかない。



 「・・・わかった」
 小さな声で、彼は言った。

 「いや、俺には、きっと君が言いたいことの意味の半分も、正直わからないと思う」
 彼の目が見えた。青い炎は、消えていた。 

 「・・・でも、君のその思いまで、俺は否定する権利はない。・・・すまなかった」
 彼は決まりが悪そうに、小さく頭を下げる。

 「わざわざ、赤の他人の俺に、君の思いを伝えてくれて・・・ありがとな」

 そう言って、私から背を向け、今度こそ、彼が屋上から去ろうとしたその時だった。

 風にのって、聞こえてきたのか、頭の中に言葉が響いた。

 『りん』
 
 女の人の声に思えたが、はっきりとは判らない声だった。でも、耳ではなく、頭の前の上の方にはっきりとその声は“聞こえて”きた。

 「・・・りん?」

 私は意味も判らず、その言葉を思わず声に出した。

 
 すると、屋上の出入り口に向かって、歩き出そうとしていた彼の背中がぴくりと動いた。
 そして、そのまま固まるように、足を止めた。

 「・・・いま、何て?」
 少し顔をこちらに向けて言った彼の言葉は、少し震えて思えた。
 
 「・・・あ、えっと、なんか今、突然『りん』って、・・・聞こえたんです」

 「・・・りん・・・?」
 彼の目が、見開いた。
 その瞬間、突然、彼が膝から崩れ落ちてその場にうずくまってしまった。

 「・・・え!?だ、大丈夫ですか?」
 突然のことに、今度は私が驚き、声を掛けた。

 しかし、彼は答えなかった。
 そのかわりに、声にならない声で、忍び泣く声が聞こえてきた。
 事情が飲み込めず、そのまま彼の姿を見つめていると、彼は震える声を絞り出して言った。

 「・・・りん、りんは・・・、あいつと決めた名前なんだ・・・!」

 「奥さんと・・・ですか?」

 激しくうなずく彼。

 「・・・誰の、名前なんですか?」

 「・・・もしも、子供ができて、もしも、女の子だったら・・・、りんに、りんにしようってぇ、・・・あいつと決めたんだぁ・・・!!」

 そこまでいうと、ついにせきを切ったように、彼は吼えるようむせび泣いた。 

 ——『りん』
 それは、彼が生前の奥さんと二人で決めた子供の名前だった。
 声にならない声で、届けられたのだ。
 決して届けられないはずの、分厚いガラスの向こう側から。
 思いが越えて、届けられたのだ。
 
 「女の子だったんだな・・・!おれ、リンの父親になったんだなぁ・・・!だとしたら、だとしたらさあ・・・!俺、こんな情けない姿見られてさあ、恥ずかしいよぉ・・・!・・・あう、ああっ!ごめん、ごめんよぉ!!」
 
 彼は必死に謝り続けた。

 しばらく泣いた後、彼は聞いてきた。

 「そばにいてくれてるって、信じていいのか?」


 私は、直接それには、答えなかった。
 その代わりに、聞いてみた。

 「・・・奥さんは、奥さんは何て言ってると、思いますか?」
 
 崩れて泣き続ける彼は、腕で顔を隠しながら、必死に頷いてみせた。

 「し、信じてくれって、きっと、言ってるよ・・・!あ、ありがとう、ありがとう!!うああ!ああ・・・!」

 私も、ただ、頷くだけだった。

 ふと見上げると、夜空にいくつかの星が見えていた。

 その時、ふと、過去に生きたたくさんの人々がこの街を、自分たちを、今も見てくれているような気がした。
 だだそこにいて、静かに佇む、星となって。


・・・つづく
 

 
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