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所在地 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202

2009-11-07 11:24:10 | 図書館
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中尊寺

中尊寺

金色堂覆堂
位置 北緯39度0分6.31秒
東経141度6分8.14秒
山号 関山(かんざん)
宗派 天台宗
寺格 東北大本山
本尊 阿弥陀如来(国宝)
創建年 (伝)嘉祥3年(850年)
開基 (伝)円仁(慈覚大師)
札所等 奥州三十三観音番外札所
文化財 金色堂、金色堂堂内諸像及び天蓋他(国宝)
金色堂旧覆堂他(重要文化財)
特別史跡
表・話・編・歴
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州観音札所番外。山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来。開山は寺伝では円仁(慈覚大師)とされるが、実質的な開祖は藤原清衡である。

奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂(こんじきどう)をはじめ、多くの文化財を有する。1979年(昭和54年)5月22日、「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定された。

2001年に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載された。2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定した。

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中尊寺金色堂
目次 [非表示]
1 歴史
1.1 草創伝承
1.2 藤原清衡と中尊寺
1.3 落慶供養願文
1.4 寺号
1.5 中世以降
2 伽藍
3 文化財
3.1 国宝
3.2 重要文化財
4 拝観について
5 注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク


歴史 [編集]
草創伝承 [編集]
寺伝によると、嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのがはじまりとされ、その後貞観元年(859年)清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。しかし、円仁開山のことは、確かな史料や発掘調査の結果からは裏付けられず、実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られる。

藤原清衡と中尊寺 [編集]
奥州藤原氏の初代、藤原清衡は前九年の役のさなかの天喜4年(1056年)に生まれた。清衡の家系は藤原秀郷の流れを汲むという。清衡が7歳の時、彼の父藤原経清は、安倍氏に味方したかどで斬殺された。清衡の母は安倍氏の出であったが、夫経清が殺害された後、安倍氏とは敵対関係にあった清原家の清原武貞と再婚。清衡は清原武貞の養子として「清原清衡」を名乗ることになる。つまり、清衡は前九年の役で滅亡した安倍氏の血を引くとともに、後三年の役で滅びた清原家の養子でもあった。清衡の兄弟には兄・真衡(清原武貞と先妻の子)と、弟・家衡(清衡の母と清原武貞の間に生まれた子)がいた。真衡は弟の清衡・家衡とは対立していた。真衡の死後、彼が支配していた奥州の奥六郡[1]は、清衡と異父弟・家衡に3郡ずつ与えられたが、これが元となって今度は清衡と家衡の間に争いが生じた。清衡は源義家の助力を得て戦いに勝利し、清原氏は滅亡した。この一連の内紛を「後三年の役」と称する。この合戦のさなか、清衡は館に火を放たれ、妻と子を失っている。その後、清衡は現在の岩手県にほぼ相当する奥州奥六郡を支配下に収め、父の姓である「藤原」を名乗って「藤原清衡」と称するようになる。清衡は寛治3年(1089年)には陸奥押領使に任命され、嘉保4年(1094年)頃には居館を江刺郡豊田館(とよたのたち、奥州市江刺区)から、中尊寺のある平泉に移している。このように、藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた。壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている[2]。

清衡が平泉にて中尊寺の中興(事実上の創建)に着手したのは長治2年(1105年)、50歳の時であった[3]。この時建てられた堂宇は「最初院」または「多宝寺」と称され、『法華経』「見宝塔品」に登場する多宝如来と釈迦如来を本尊とするものであったが、その建築形式等の詳細は不明である。

現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年(1124年)と判明する。この堂は清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体(ミイラ)が安置されている。

平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみである。

落慶供養願文 [編集]
中尊寺に関わる重要史料の1つに「中尊寺落慶供養願文」と称されるものがある[4]。これは藤原清衡が天治3年(1126年)3月24日付けで、鎮護国家のために大伽藍一区を建立供養する趣旨と、その伽藍の概要とを記したものである。なお、願文の原本は伝わらず、現存するものは、延元元年(1336年)頃北畠顕家筆と、嘉暦4年(1329年)藤原輔方筆の写本である。かつての通説では、この願文が中尊寺一山の落慶供養を表すものと解釈されていた。しかし、この願文の本文中には「中尊寺」という寺号が使われていないこと、願文中に列挙されている「三間四面檜皮葺堂」などの建物跡が現在の中尊寺境内に見当たらないこと、願文中に出てくる建物、橋、池などはむしろ同じ平泉にある毛越寺の旧伽藍とよく一致することなどから、この願文は毛越寺の建立供養に関わるものとする説が中川成夫によって提唱され、複数の研究者によって支持されている[5]。また、この文書は天治3年3月24日付けであるが、天治3年は1月22日に改元して大治となっていることから、この願文は改元以前に作られた案文であると推定されている。

寺号 [編集]
「中尊寺」の寺号については、天治3年(1126年)の経蔵文書が初出ともいうが、この文書自体に疑義がもたれている。そのため、確実な資料としては、歌人・西行が康治年間(1142 - 44年)、この地を訪れて詠んだ歌の詞書(『異本山家集』所収)に「中尊と申所」云々とあるのが初出だとされている[6]。

「中尊」は「奥州の中心に位置する」の意と解釈されている。中尊寺貫主を務めた多田厚隆は、「中尊」とは『法華経』「序品」にある「人中尊」に由来するとした[7]。しかし、「人中の尊」という意味の語から「人」字を省いたのでは意味をなさないとして、これに反対する見解もある[8]。

中世以降 [編集]
文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされ、源頼朝の庇護を得て存続した。『吾妻鏡』に、当時の中尊寺から頼朝に提出された「寺塔已下注文」(じとういげのちゅうもん)という文書が引用されている。これは、時の権力者に提出する文書として、当時残っていた堂宇を書き出し報告したもので、当時の伽藍の実態にかかわる史料として信頼のおけるものとされている。これによれば、当時の中尊寺には金色堂のほかに、釈迦如来・多宝如来を安置した「多宝寺」、釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」、両界曼荼羅の諸仏の木像を安置した「両界堂」、高さ三丈の阿弥陀仏と丈六の九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂」(大長寿院)などがあったという。中尊寺には、建武4年(1337年)に大きな火災があり、金色堂を残してほぼ全焼してしまった。

近世の中尊寺は衰退し、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られる。近世を通じ、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われ、寛文5年(1665年)には東叡山寛永寺の末寺に組み込まれている。

1909年(明治42年)に本堂が再建。1950年に金色堂須弥壇に800年もの間、安置されていた藤原四代の遺体に対する学術調査が実施された。この結果、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に2代基衡、左壇(向かって右)に3代秀衡の遺体が安置され、右壇にはさらに4代泰衡の首級が納置されていることが判明した。1958年には天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。1962年より金色堂の解体修理が行われ、6年後の1968年に創建当時の輝きを戻すことになる。

現在は、泰衡の首級桶から発見された種子から発芽し、1998年に開花した蓮の花が「中尊寺ハス」として境内に植えられている(花弁が現在のものより少し細く、薄いのが特徴)。

伽藍 [編集]
陸羽街道(国道4号)から月見坂と呼ばれる参道を登った丘陵上に諸堂が点在する。山内には中尊寺本坊のほか、17か院の子院がある(大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)。

本堂
参道である月見坂を登った右手の中尊寺本坊内にある、中尊寺の本堂である。1909年(明治42年)の建築。
金色堂(解説は別項「中尊寺金色堂」参照)
讃衡蔵(さんこうぞう)
中尊寺ほか山内寺院の文化財を収蔵・展示する施設。1955年に開館したが、現在の建物は開山1,150年の2000年に新築されたもの。もと本坊本尊の木造阿弥陀如来坐像(重文、中尊寺蔵)、峰の薬師堂にあった木造薬師如来坐像(重文、願成就院蔵)、閼伽堂にあった木造薬師如来坐像(重文、金色院蔵)の3体の巨像をはじめ、多くの文化財を収蔵展示する。
金色堂旧覆堂(重文)
1962年、金色堂の解体修理工事が始まるまでの約500年間、金色堂を風雨から守ってきた堂で、1964年に100メートルほど北西の現在地に移築された。建築年代は室町時代中頃と推定される。
経蔵(重文)
金色堂の近くにある。国宝の一切経を納めていた建物で、一部平安時代の古材が使用されているが、建築年代は鎌倉末期と推定されている。内部には国宝の螺鈿八角須弥壇(実物は讃衡蔵へ移動)が置かれ、壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる文殊五尊像(重文)を安置していた。

白山神社能舞台白山神社能舞台(重文)
境内北方に位置する、中尊寺の鎮守・白山神社内に建つ。嘉永6年(1853年)に伊達藩によって再建されたもの。近世の能舞台遺構としては東日本唯一のものとされ、日本の芸能史上貴重な遺構として、2003年に重要文化財に指定されている
文化財 [編集]
国宝 [編集]
(金色院所有)

中尊寺金色堂(解説は別項「中尊寺金色堂」参照)
金色堂堂内諸像及び天蓋 31躯、3面
金色堂堂内具(木造礼盤 1基、螺鈿平塵案 3基、磬架 1基、金銅幡頭 3枚、金銅華鬘(迦陵頻伽文)6枚、附 孔雀文磬 1面)
(大長寿院所有)

紺紙金字一切経2,739巻(附 漆塗箱275合)
「中尊寺経」と通称される一切経には、初代清衡の発願になる「紺紙金銀交写経」(1行おきに金字と銀字で書写した経)と秀衡発願(寺伝では基衡発願)の「紺紙金字経」がある。前者は近世初頭にその大部分が寺外に流出し、中尊寺に残る金銀字経は15巻のみである。中尊寺旧蔵の金銀字経は、高野山金剛峯寺に4,296巻が所蔵され国宝に指定されているほか、大阪・観心寺、同・瀧安寺等にも分蔵されている。中尊寺所蔵の2,739巻のうち2,724巻は金字経である。各巻の見返し(巻頭部分)に金泥で描かれた絵は、平安時代の絵画資料としても貴重なものである。
螺鈿八角須弥壇
紺紙著色金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図 10幀(とう)
中尊寺経蔵堂内具(木造礼盤 1基、螺鈿平塵案 1基、磬架 1基、螺鈿平塵燈台 1基、附 孔雀文磬 1面)
(地蔵院所有)

孔雀文磬
(用語説明)

礼盤(らいばん)-導師の坐る台座。
平塵(へいじん)-漆工技法の一種。漆塗りの面にヤスリでおろした荒めの金粉をまばらに蒔き付け、装飾としたもの。平安時代以前に多く用いられた。
案-(あん)「つくえ」とも読む。仏事に使用する仏具などを置く台。
磬(けい)-「へ」の字形の金属板で、導師の脇に吊るし、叩いて音を出す。「磬架」はこれを吊るすためのもの。)
重要文化財 [編集]
(中尊寺他17箇院所有)

木造一字金輪坐像
「一字金輪仏頂尊」とも言い、密教の修法の1つである「一字金輪法」の本尊として絵画に表わされることは比較的多いが、彫像としては稀有な例である。図像的には金剛界大日如来像と似るが、日輪を表わす円形の光背を負う点と、頭上に「五智宝冠」という五智如来の姿を刻んだ大ぶりの冠を戴く点が特色である。白く塗られた面相および肢体が肉感的なことから「人肌の大日」「生身の大日」の別称がある。正面から見ると普通の丸彫り像のように見えるが、背面を全く造らない、特異な構造の像である。平安時代後期の作。秘仏で、通常公開されないが、開山1,150年記念の2000年に不動堂にて公開されたことがある。
(中尊寺所有)

能面延命冠者
木造阿弥陀如来坐像
(金色院所有)

金色堂覆堂
木造薬師如来坐像
金銀装舎利壇
金色堂須弥壇内納置棺及副葬品 一括
(大長寿院所有)

中尊寺経蔵
木造騎獅文殊菩薩及脇侍像5躯(経蔵安置)
中尊寺建立供養願文 北畠顕家筆
(金色院・大長寿院共有)

中尊寺文書68通・陸奥国骨寺村(ほんでらむら)絵図2幅 
(観音院所有)

木造千手観音立像
(瑠璃光院所有)

木造大日如来坐像
(金剛院所有)

木造大日如来坐像
(願成就院所有)

願成就院宝塔(石造)
木造薬師如来坐像
(円乗院所有)

金銅釈迦如来像御正躰
(地蔵院所有)

金銅千手観音像御正躰
椿彫木彩漆笈
蓮華唐草文蒔絵大壇
(釈尊院所有)

釈尊院五輪塔(石造)
(白山神社所有)

白山神社能舞台
拝観について [編集]
4/1~11/10 8:00~17:00 11/11~3/31 8:30~16:30
拝観料 金色堂・讃衡蔵共通で800円
注 [編集]
^ 胆沢郡、江刺郡、和賀郡、稗貫郡、紫波郡、岩手郡を指す
^ たとえば須藤、岩佐『中尊寺と毛越寺』pp5 - 7。
^ 建武元年(1334年)の「中尊寺大衆訴状」による。
^ 中尊寺落慶供養願文
^ 須藤、岩佐、pp25 - 50。
^ 須藤、岩佐、pp14 - 15。
^ 佐々木邦世『平泉中尊寺』(吉川弘文館、1999)所収。
^ 須藤、岩佐、pp15。
参考文献 [編集]
井上靖、佐和隆研監修、井上靖、多田厚隆、佐々木那世『古寺巡礼東国1 中尊寺』、淡交社、1982
須藤弘敏、岩佐光晴『中尊寺と毛越寺』(日本の古寺美術19)、保育社、1989
『週刊朝日百科 日本の国宝』98号(中尊寺ほか)、朝日新聞社、1999
『週刊 古寺をゆく4 中尊寺』(小学館ウィークリーブック)、小学館、2001
『日本歴史地名大系 岩手県の地名』、平凡社
『角川日本地名大辞典 岩手県』、角川書店
『国史大辞典』、吉川弘文館
関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、中尊寺に関連するマルチメディアがあります。日本の寺院一覧
日本の特別史跡一覧
北海道・東北の史跡一覧
Category:日本の寺の画像
今東光
外部リンク [編集]
中尊寺ホームページ
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B0%8A%E5%AF%BA」より作成
カテゴリ: 日本の国宝 (建造物) | 日本の国宝 (書跡・典籍・古文書) | 特別史跡 | 日本の仏教遺跡 | 岩手県にある国指定の史跡 | 岩手県の重要文化財 | 岩手県の寺 | 天台宗 | 奥州藤原氏 | 平泉町

最終更新 2009年10月19日 (月)







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【出典:サンデー毎日臨時増刊2008-10-11 毎日新聞社・大学通信 p79】
【テレビ・NHK】150 【●●●大学】38 【●●●●大学】18 【●●大学】16京都大学9一橋大学5上智大学5国際基督教大学4中央大学4立教大学4東京外国語大学3 横浜国立大学3 学習院大学3
法政大学3 同志社大学3 立命館大学3 茨城大学2 東京藝術大学2 広島大学2 九州大学2 芝浦工業大学2 多摩美術大学2 東京理科大学2 日本大学2 関西学院大学2 福岡大学2
【テレビ テレビ東京】21[大学院]【●●●大学】1 上智大学1[大学]【●●●●大学】5 【●●●大学】4 中央大学2 ICU2 産能大学1 上智大1 神戸大1 法政大1 日大1 名古屋大1

【新聞・毎日新聞社】45 ①【●●●大学】11②同志社大学3 ③大阪大学2 ③「●●●●大学」2③上智大学2③立命館大学2③関西大学2
【新聞・朝日新聞社】約90 ①【●●●大学】16 ②【●●●●大学】6③【●●大学】5④法政大学4⑤筑波大学3⑤神戸大学3⑦北海道大学2⑦一橋大学2⑦九州大学2⑦中央大学2⑦明治大学2
⑦同志社大学2⑦関西学院大学2
【新聞・讀賣新聞社】109 ①【●●●大学】18②【●●大学】8②京都大学8④「●●●●大学」7⑤九州大学5⑥上智大学5⑦同志社大学3
⑦立命館大学3⑨大阪大学2⑨成蹊大学2⑨中央大学2⑨関西大学2
【新聞・日本経済新聞社】【●●大学】6 京都大学1 東北大学1 九州大学1 筑波大学1 一橋大学1 神戸大学1 ●●●大学16 ●●●●大学4 上智大学2 明治大学3 中央大学2 立教大学1 
法政大学2 南山大学1 同志社大学2 立命館大学2 関西大学1 【出典・・大学進学・就活進路図鑑2010 P024】

【通信社・共同通信社】31 【●●●大学】8 【●●大学】4 東京外国語大学2 北海道大学2 【●●●●大学】2 神戸大学1 同志社大学1 中央大学1 上智大学1 (秋期採用分は含まず)】
【通信社・時事通信社】40 【●●●大学】8 上智大学4 【●●●●大学】4 ●●大学2【出典:P95】

【食品・味の素】95 【●●大学】12 「●●●大学」9 「●●●●大学」6 京都大学4 東北大学4 一橋大学3 大阪大学3 北海道大学3 【出典:P135】
【食品・キリンビール】95 【●●●大学】15「●●大学」9一橋大学7京都大学5【●●●●大学】5 九州大学4 関西学院大学3 大阪大学3 北海道大学3 東北大学3 名古屋大学3 立教大学3

【出典:就職四季報】2010版(出会える、わかる 6000社 P161東洋経済971246 2008年11月27日発行】+【就職四季報女子版】