俺の精液が、むつきの顔を伝ってゆっくり流れ落ちた。今日二度目のセックスを済ませたばかりだ。
「もー、顔に出さないでよー。目に入ったりすると痛いんだからね」
「はは、悪い、悪い。おまえの体は最高だ。もう俺もクタクタだよ」
むつきは一生懸命ティッシュで顔に掛けられた俺の精液をぬぐっていた。俺は服を取り、着替え始める。むつきも拭きとったようで、キャミソールを身につけていた。
「じゃあ、またな」
「ありがとうね」
むつきが俺に顔を近づけてきた。むつきの視線は真っ直ぐ俺の瞳を見ながら、徐々に迫ってくる。俺の唇に、むつきの唇が触れた。さっき二度目の射精を済ませたばかりなのに、また興奮してくる。
「これ以上、俺をあおるなよ」
「ふーん、私とキスするの、そんなに嫌なんだ?」
「…たく、もう今日はそろそろ帰るよ」
「ねぇ、あなた仕事は何をしている人なの? 私、名前も何も知らないし……」
むつきの言葉にドキッとする。この女とはできればプライベートでも会いたいが、勝男にだけはこの関係を知られたくない。何も言える訳がなかった。
「全部ノーコメント。秘密だ」
「何よ、ケチ」
「じゃあな」
俺は店をあとにする。
しかし、時が経てば、また性欲に負けて、むつきを抱きに来てしまうのだろう。
店を出て細い道を曲がり、さくら通りに出る。歩いていると、ポン引きが俺に近付いてきた。
「おにーさん、いい店あるよー。抜き? 本番?」
無視して歩く。そのまま歩いていると、不意に後ろから肩をつかまれた。さすがにここまでしつこいとムカついてくる。
「おいっ、おまえしつけんだよっ! 人の肩に気安く…、あれ? か、勝男っ!」
振り向くと俺の肩をつかんだのは、勝男だった。いきなり俺が振り向いて怒鳴りだしたので、驚いた表情をしている。
「ひ、酷いなー。ぼ、僕の前を靖史が歩いていたから、お、驚かせようと思って肩をつかんだら、い、いきなり怒鳴ってくるんだもんなー」
「悪かったな、さっきポン引きがしつこくてさー、てっきりポン引きが肩つかんできたのかと思ってな」
俺がむつきのいる店から出てきたところで、勝男にバッタリ出くわさなくて良かった。ホッと胸を撫で下ろす。こいつだけには知られたくない。
「こ、こんな時間にどこ行ってたの?」
「あ、ああ…、腹減ってさー、その辺のラーメン屋行ってきたとこだよ。正月だからさすがに閉まってる店が多いよな」
咄嗟に出た嘘。
今の状態で勝男と話していると、いつボロが出るか分からない。早めに新宿プリンスホテルに戻ったほうが良さそうだ。
「そ、そうなんだ。ぼ、僕も昨日入った新人と今、ご、ご飯食べてきてさー」
「勝男、わりー。今、猛烈にクソしたいから俺、ホテル戻るわ。またな……」
自分でもすごい嘘だと思うが、この際なりふり構っていられない。
「あ、そ、そうなんだ。じゃ、じゃあまた連絡するよ」
「ああ、悪いな。俺はダッシュでホテルのトイレに行ってくるよ。じゃあな」
俺は全力で走り、その場を去った。西武新宿駅前の通りまで来ると、ゆっくり歩き出す。
「ハァー、ハァー……」
久しぶりにこんなに走った。息を整えるのに苦労する。
正月でまだ寒いのに、こんな場所で大汗かいているのも俺ぐらいのものだろう。ハンカチを取り出して汗をぬぐった。
多少、息が整ってからプリンスホテルのロビーに入る。本当勝男にバレないで良かった……。
靖史の奴、本当にクソが漏れそうで限界ギリギリだったのだろう。
できれば今日もむつきが来るかどうか、あのマンションで待っていたいが、昨日はほとんど寝てないから僕も限界だ……。
鳴戸にも会いたくないし、今日はカプセルホテルに行ってすぐに寝よう。
靖史にバッタリ会うのがもう少し早ければ、赤崎とも会わせる事ができたんだけどな。本当にちょっとしたすれ違いだ。ひょっとして二人は、鳴戸経由の知り合いって可能性がある。もしそうならお互いビックリするだろうな。
今日仕事行っても赤崎には何も聞かず、いきなり靖史と今度会わせてみよう。
行きつけのカプセルホテルに行き、チェックインする。今日はさすがに風呂にも行かず、自分の寝場所に行き、倒れ込むようにして横になった。
あの喫茶店の太った女め。後頭部を触ったぐらいで引っ叩く事ないじゃないか。できればあのレジにいた可愛い二人組の女のでっぱりも触ってみたかった。
でっぱりについて色々考えている内に、睡魔が襲ってきていつの間にか寝てしまった。
部屋に帰ってすぐにシャワーを浴び、汗を洗い落とす。
俺とむつきと勝男の不思議な三角関係。
勝男はむつきを追いかけ、俺はむつきを抱き、むつきは金だけを求める。
考えるととても複雑だ。
勝男はまるでピエロだが、あいつの持つ純真さを見てしまうと、俺はこれ以上何も言えなくなってしまう。勝男の事だから自分のすべてをぶつけて玉砕しないと、絶対に納得いかないはずだ。
むつきを忘れられず、今もひきずる勝男。
そこまで虜にしときながら消えたむつき。
それを知っていながらむつきを抱く俺……。
熱い温度のシャワーが俺の汚れをすべて流れ落としてくれるような気がした。体にジンジンくるような高熱の温度が心地良い。
金はまだまだある。
むつきを見て抱きたいと思い、欲望のままに抱いた。
もう一つの欲望の矛先である赤崎……。
何とかしてきっかけを作れないものだろうか?
今の俺は、完全な変態だ。自覚もしている。
それでも勝男の前では、兄貴っぽく接していたいという気持ちがあった。
むつきの前では、男でいたいという気持ちがある。
赤崎の前では奉仕したいという、どちらかと言えば女性よりの気持ちを持っている。
自分でも考えている事が混乱していて訳が分からない。
いつまでこのホテルの一室にいるのだろうか? 金などアッという間に目減りし、なくなってしまう。
また何かしらやって金を稼がねばならない。
今の俺の武器はあそこのソファーの上にあるダンボールの中身。正確に数えてはないが、二千万円は現時点できっている。
そろそろ自分の今後を真面目に考えてもいい。
金があれば、色々と勝負できる。
金を使って金をさらに産み出す事ができる。
金があるからと調子に乗って遊んでいるだけでは、金はすぐに逃げて行く。
もう俺は充分に休養し、ゆっくりした。
そろそろ動き出すのもいいだろう。
カプセルで寝て仕事に行き、またカプセルに泊まる。
そんな生活を何日繰り返したのだろう。
靖史がくれたお金には手をつけていなかった。毎日、日銭がもらえる仕事だから、カプセルに泊まり、食事しても、日当の半分ぐらいで済んでしまう。
むつきを抱いて以来、女は抱いていない。まあ、僕みたいな奴を相手してくれる子なんていないから、風俗にでも行かない限り、セックスなんてできない。
風俗にも人肌のぬくもりを求めて行きたいが、むつきの事を思い出すと急激に性欲はなくなる。他の女じゃ、僕は満足できない。
今の僕は孤独だった。
店にいる時だけが楽しいと思う。周りに人がいるからだ。
以前なら靖史と共同で住んでいたので、寂しさはなかった。
むつきと過ごした一日の時間。彼女は僕に、女の良さと幸せというものを教えてくれた。
今は、むつきちゃんも靖史もいない。
でも店で赤崎という人間と出会った。また何かしらのうねりが起きるかもしれない。赤崎はそんな感覚を持たせてくれる不思議なオーラを持っているような気がした。
考えてみると僕と靖史と赤崎は、何かしらで繋がっているのかもしれない。
幼馴染の僕と靖史。
同じ店で働く先輩と後輩関係の僕と赤崎。
前に同じ店で働いていた可能性のある靖史と赤崎。
靖史と赤崎を繋げているパイプは、あの鳴戸だった。今度二人の関係を聞いてみたい。何かしらの繋がりがきっとあると、僕は睨んでいる。
昨日寝てなかったから、さすがに今日はよく眠れた。
色々考え事をしていたのに、時計を見るとまだ夜の八時。仕事の時間まであと二時間。ゆっくり時間を掛けてジャグジーに入ろう。
今日の昼間に靖史とバッタリあったが、ロクに話せなかったので、仕事明けにでも連絡してみよう。
最近昼と夜の区別がまるでつかなくなっている。常に酒を飲み、眠くなったら寝るだけの生活。目を覚ますと夜の九時だった。
昼間ベッドに横になっていて、そのまま眠ってしまったのか。
テーブルの上に置いてあるボトルを眺め、その中からグレンリベット十八年を手に取る。十二年よりグレードの高いスコッチシングルモルトウイスキーだ。
ボトルを開け、ストレートグラスにそのまま注ぐ。明日辺り、勝男が仕事終わったぐらいの時間に連絡してみるか。
今日さくら通りで勝男にバッタリ会って、逃げるようにしてしまった事に良心が痛んだ。もっと平然としていれば良かったのかもな。
窓際に立ち、夜の歌舞伎町の風景を眺める。相変わらず汚いネオンだ。
俺もついこの間までは、このネオンの中で働いていた。
せっかくこのホテルに泊まっているのだから、上の『シャトレーヌ』にでも顔を出しに行くか。グラスに入っているグレンリベット十八年を一気に飲み干した。
エレベーターで二十五階に行き、進行方向を左に曲がると『シャトレーヌ』だ。ホテルマンの江島が俺に気がつき、笑顔で近寄ってくる。俺も笑顔で応対した。
「部屋の居心地はどうですか?」
「江島さんのおかげですっかり気に入ってしまい、ホテル住まいにしようかと真剣に検討しているところですよ」
「アハハ、またまたご冗談を…。今日はお一人ですか?」
「たまには自分も一人で飲みたい時ってありますよ」
笑顔を続けるのは結構疲れる。
「では今日はカウンターにします?」
「どこでも構いませんよ。都合いいようにして下さい」
江島がアテントして、カウンター席へ案内される。この間、ボトルキープしてあったグレンリベット十二年が目の前に置かれた。
江島が気を利かせたのか、フルーツの盛り合わせが運ばれてくる。
「すいません、毎度毎度、気を使っていただいて……」
「いやー、問題ないですよ。お酒のほう、飲み方はどうします?」
「もちろんスト…、いや、やっぱり今日はロックにして下さい」
江島はそのままカウンターに入り、ロックグラスに丸い氷を入れる。
「いいですよ。普通のカチ割った氷で、丸のやつ、作るの大変ですから」
「お客さまに出す為に作っているのですから、気にしないで下さい。すべてのお客さまに出している訳ではないですから」
とりあえず彼の行為に甘える事にした。江島は満面の笑みで俺を見ている。
「そうそう、岩崎さん。そういえばダークネス、まだ営業しないんですよ」
「へー、そうなんですか。よっぽど自分や他の従業員が、抜けたの、大きかったみたいですね。まああんなオーナーじゃ、これからもその繰り返しでしょうけどね」
「上って、その辺をまったく理解しないじゃないですか。本来、現場あっての店なんですけどね」
「もう自分は関係ないからあんな店別にいいですけどね。勝手に開けて、勝手に閉めればいいんですよ、あんな店は……」
グラスを見つめながら、俺は赤崎の事を考えていた。
今日も無事、何事もなく仕事を終える。
常連客の姿もチラホラ見え始め、みんな正月気分のせいかニコニコしていた。僕が私服に着替えているところに、赤崎が話し掛けてくる。
「勝男さん、昨日の喫茶店ウケましたよね。帰る時、勝男さんがあの太った女の後頭部をいきなり触ったのを思い出すと、吹き出しますよ」
「あ、あれは別にワザとじゃないんだよ。あっ、そ、そうそう赤崎君さー……」
鳴戸との事を聞いてみよう。靖史との関連があるかもしれないし。
「はい、どうかしましたか?」
「な、鳴戸って男と以前、セ、セントラル通りで一緒にいたでしょ?」
赤崎の顔が一瞬にして豹変した。僕の口から、まさか鳴戸という名前が出るとは思ってもいなかっただろう。
「鳴戸さんが、ど、どうかしたんですか? まさか、勝男さん知り合いなんですか?」
「ち、違うよ…。あ、あんなおっかないのなんて、し、知り合いじゃないよ」
「何で自分と鳴戸さんが、セントラルにいたのを知っているんですか?」
赤崎は、僕に妙な警戒心を持ち始めたようだ。何か誤解している。
「ご、誤解だよ。な、仲良くはないけど、な、鳴戸の事は知っていて僕があの日セ、セントラル通りをたまたま歩いていたら、あ、赤崎君が鳴戸と一緒にいたの見たんだ。な、鳴戸がいたので気付いたら、だ、誰か横にいたって感じでね。も、もちろん赤崎くんの事はその時は知らないよ。さ、最初に店で赤崎君と会った時、ど、どこかで見た事あるようなって感じたけど、き、昨日、喫茶店出て、わ、別れてから思い出したんだよ。へ、変な事、聞いてごめんね」
赤崎は、僕の話を真剣に耳を傾け、すべて聞き終わると安堵の表情に変わった。確かに鳴戸の名前をいきなり出されたら、僕だって嫌だ。
「鳴戸さんは、勝男さんも知っているかもしれませんが、以前自分が働いていた店のオーナーなんです。もう一人オーナーがいて、共同経営のダークネスって店なんですけど…。色々あって嫌気さして、一ヶ月くらいで辞めてしまったんです。でもその日にバッタリ鳴戸さんとセントラル通りで会ってしまい、喫茶店に連れて行かれ、もう一度店に戻れって言われてたんです」
やはり赤崎は、鳴戸の店で以前働いていたのか。それなら時期もかぶるし、靖史の事を知っていたっておかしくない。
この間、僕が鳴戸と赤崎をセントラル通りで見た時が辞めた日なら、靖史が鳴戸に店の金を抜いてバレ、制裁を加えられた時と、ほとんど時間がかぶっている。
赤崎はひょっとしたら、靖史への制裁を目の前にして嫌になり、ダークネスを辞めたんじゃないだろうか?
靖史にこの現状を教えたら、絶対にビックリするだろう。
「自分は何故か二人のオーナーに、妙に買われていて変に信頼されてたみたいです。勝手に信頼されるのは、いい迷惑でしたけどね。最近電話で聞いたんですけど、自分以外のみんなも、一気に店を辞めてしまったみたいです」
何となく鳴戸や、もう一人のオーナーの気持ちが分かるような気がした。
赤崎という男は、信頼感というか、素直な真っ直ぐさと形容したらいいのだろうか。どっちにしてもオーナーに買われるというのが分かる。この歌舞伎町という街で、赤崎みたいなタイプは珍しかった。実直というのだろうか。この男からそういうオーラが出ているのを感じる。
「あ、あのさー、赤崎君。ぼ、僕の知り合いもね、ダ、ダークネスで働いていたんだ」
「えっ、誰ですか? 名前は……」
「う、うーんとね、い、岩崎靖史って言うんだけど」
赤崎は一瞬だけホッとしたような表情を見せ、そのあとすぐに暗い表情になった。
「無事なんですか?」
「えっ?」
彼の言っている意味が分からない。
「岩崎さんは今、無事に生きてるんですか? あの時、鳴戸さんは生きてるとは言っていましたが…。携帯に連絡しても繋がらないし……」
その言い方で間違いなく赤崎は、靖史が鳴戸に制裁を加えられた時、現場にいたのが分かった。
幼馴染の靖史と赤崎が繋がっているのが分かり、何だか僕は嬉しく思う。
赤崎は、靖史が鳴戸にやられたのを心配している。早いとこ元気だというのを教えてあげないと……。
「げ、元気だよ。あ、安心してよ。こ、今度、よ、良かったら三人で会おうか。」
「え、会うとしたら、当然勝男さんも来るんですよね?」
ちょっと変な感じの答え方をするなと違和感を覚えた。僕がいると言いづらい話を靖史と二人だけでしたいのかもしれない。
「い、いや僕が邪魔なら二人で色々話したら? や、靖史のほうには僕から言っておくからさ。そ、そのほうがいいでしょ?」
「いえ、あ…、あのー…。できたら勝男さんも一緒に来てくれたほうがいいです。いや、絶対に一緒に来て下さい」
赤崎の言動は靖史の事になってから、少しおかしい。表情も何だか複雑な険しい表情になっている。僕が一緒のほうがいいとは何故だろうか?
「ま、まー、ぼ、僕もぜひって言うなら構わないけど……」
僕がそう答えると、赤崎は気が抜けたような表情になった。
「はい、よろしくお願いします。あ、そういえば何で鳴戸さん知っているんですか?」
「き、君が喫茶店から出たあとで、な、鳴戸に殴られたんだ」
「えっ? 何でまた……」
「昨日、喫茶店であの店員の後頭部を僕が触ったでしょ?」
「はぁ…、それとこれと何の関係があるんですか?」
赤崎の表情は驚いたり、不思議がったりバラエティーにめまぐるしくコロコロ変わる。
「そ、その時と同じように鳴戸の後頭部を触ってしまったんだよ。そ、そしたらいきなり殴られたんだ。あ、当たり前と言えば、あ、当たり前の事だけどね」
「何でまた?」
「う、後ろ姿を見ていて急に気になり出したんだ。じ、自分でもしょうがないんだよ。き、昨日の喫茶店でも別に笑いとった訳じゃなくて、く、癖なんだよ。ちょ、ちょっといい?あ、赤崎君の後ろ触らせてもらえるかな?」
「えっ? ま、まぁ、構わないですけど……」
赤崎はそう言って後ろを向けてくる。僕は右手で、でっぱりを触ってみた。こんなにでっぱりをゆっくりと普通に触れるなんて幸せを感じる。
彼のでっぱり具合は、ごく普通のでっぱりだった。それでも僕はいつもより多めに、でっぱりの感触を確かめる。
「あのー、まだですか?」
「あ、ご、ごめんごめん……」
慌てて僕はでっぱりから手を離す。赤崎はこちらに振り返り不審そうな目を向けてきた。
「まあ確かにいきなりこんな事したら、鳴戸さんならすぐ殴ると思います。何でこんな事するんですか? 癖とか言ってましたけど……」
「で、でっぱり具合が気になるんだ」
「でっぱり具合?」
「に、人間の後頭部の今、ぼ、僕が触ったところ辺りにちょっとだけ、で、でっぱっているところがあるでしょ?」
赤崎は、自分の後頭部に手を回して確認している。
「はぁ……」
「な、鳴戸のでっぱりは、い、今までで一番すごかったんだ。や、靖史に話を聞いてて、ぜ、絶対に確認してみたかったんだよ」
「それで何が一番すごかったんですか?」
赤崎も僕のでっぱりの話にちょっと興味を持ちだしてきた様子だ。
「で、でっぱり具合だよ。な、鳴戸のでっぱり具合は尋常じゃなかった。で、でっぱりがある人間は人を裏切ったり、だ、騙したりしやすいんだ」
もう一度、赤崎は自分のでっぱりを触って確認している。この話を聞いて自分はどうなのか気になるのだろう。
「あ、赤崎君は全然問題ないよ。ふ、普通の人よりも出てないから安心して、大丈夫」
「そうなんですか…。よく分からないけど、とりあえず良かったです。勝男さんまだ着替え終わってないですよ。着替えないんですか?」
自分の状況を見ると、仕事用のズボンを下まで下ろしたままパンツ一丁で、でっぱりについて語っていた。
すぐに着替え始める。小銭を取り出すと、ポケットから一枚の名刺が床に落ちた。
ん、何の名刺だったっけ?。
赤崎が名刺を拾ってくれる。
「あれー、勝男さん。ヘルスとかよく行かれるんですか?」
「へっ?」
彼が何を言っているのか理解できない。僕は名刺を見てみた。
【性感ヘルス モーニングぬきっ子 モモ】
確かむつきと新宿プリンスホテルに泊まった時に、床に落ちていた名刺だ。ホテルのフロントに返そうとして、忘れてそのままだったっけ。
「い、いや、ち、違うんだ。ホ、ホテルに泊まったら床に落ちていたんだよ」
疑惑の眼差しを赤崎は向けてきた。
「どこでですか?」
「えっ?」
「どこのホテルでですか?」
「し、新宿プリンスホテルだよ」
「あのですね勝男さん…。ホテルはチェックアウトしたあとに、ハウスキーパーがちゃんと掃除するもんです。客が貴重品を忘れたりした時に、部屋になかったらホテルの信用問題になりますからね。それを床に落ちてたって、誤魔化すなんて水臭いですよ」
頭に衝撃が走った。
確かにあの時の事を思い出すと、むつきが部屋を出て行ったあと、あの名刺を見つけたのだ。何か床に落ちていたら、掃除の時点で拾われている。
「……」
部屋を出て行く前に、むつきが落としたと考えるほうが自然だろう。
今まではマンションで待つ以外、彼女に対する手掛かりが思いつかなかった。
むつきちゃんが風俗嬢……。
充分に考えられる線だ。
何故もっと早くこの事に、気がつかなかったのだろう。
「…という事は…、こ、ここのヘルスに、む、むつきちゃんが……」
「一体どうしたんですか、勝男さん。何か失礼な事言いましたか?」
むつきに会えるかもしれない。今すぐにこの場所に行って確かめないと……。
赤崎は、心配そうに僕を見ている。
「勝男さーん。どうしたんですか?怒ったんですか?」
「ご、ごめん。今、そ、それどころじゃないんだ。さ、先急ぐからごめんね。そ、それからほんと、あ、ありがとーっ!」
「へっ? か、勝男さーん。どこ行くんですか?」
キョトンとした赤崎を置いて、僕は猛ダッシュで店を出た。
部屋に着くなり、むつきが話し掛けてくる。
「ほんと毎日よくお金続くわね。私的には来てくれて嬉しいけどさ」
今後の事や、勝男とむつきの事を考えていて、最終的には赤崎の事まで想い出してまう俺。
赤崎と会える手立てがない事にイライラを感じ、結局またむつきの体を抱きにこのヘルスへ来ている。赤崎への想いが叶わない分、むつきの体に溺れていた。そんな現実逃避を繰り返している。
このままじゃ、無駄に金が目減りしていくだけだ。
服を脱ぎながら、横目でむつきの裸体を見る。相変わらず抜群のプロポーション。外見にどれだけ努力して、今のプロポーションを持続しているのか。
顔も綺麗だが、むつきはそれに甘んじず全身に目を行き届かせ、自分の魅力をひたすら磨いている。
「何、私の体をさっきからジロジロ見ているのよ。散々見て、そろそろ私の体にも飽きがきてるんでしょ?」
この女がそんな事を本心で言ってないぐらいは分かる。自分の魅力に絶対的な自信があるからこそ、言える台詞だ。
「今、いくつになるんだ?」
「ノーコメント」
「連続でここに来てるんだ。それぐらい教えたっていいだろう」
「女に歳を聞くなんて失礼よ」
むつきはプリプリと怒ったフリをする。
「俺はおまえにここで会った時からそうだ。今さら、失礼だなんて言われる筋合いはない。今、何歳なんだよ」
むつきは形のいい胸を俺の腕に押し当ててくる。感触が心地よい。
「じゃー、自分の歳ぐらい先に言いなさいよ。私があなたの事、聞いたっていつも何も言わないじゃない。そんなのズルイよ」
「二十三だ」
「えっ、ウッソー。同じ歳だったんだ? へー、もっと年上かと思ってい…、んっ……」
うるさいむつきの口を俺の口で塞ぐ。最初は抵抗していたが、むつきは舌を徐々に俺の舌に絡めてきた。
そのまま押し倒し、むつきの形のいい胸をワシ掴みにする。むつきは両手で俺の肩をつかんで距離を置く。
「もー! シャワーも浴びてないのに、いきなりせっかち過ぎるよー」
「おまえがうるさいからだ。俺はお前とここにお喋りをしに来ている訳じゃない」
「嫌な奴」
「シャワーに行くんだろ? 早く立てよ」
むつきが睨みながら立ち上がり、バスタオルで豊満な胸を隠す。
俺の手を取りシャワー室に着くと、むつきはバスタオルを取り、見事な裸体を俺に晒しだす。シャワーの蛇口を捻り、温度を確認してからシャワーを俺に掛けてくる。
「調度いい?」
「ああ」
ひと通り俺の体を洗い終わると、むつきは俺の局部を口にくわえてきた。上からその光景を見下ろすと、むつきの頭が上下に激しく動いているのが見える。俺はむつきの頭を両手でつかむ。むつきの舌が蛇のようにまとわりつき、快感が下半身に集中して俺は我慢できず、口の中に射精した。
むつきはシャワーで顔を洗い、何度もうがいをして口をゆすいでいる。
「私の勝ちなのだ」
むつきは大袈裟にガッツポーズをした。
「うるせー、早く部屋行くぞ」
「そんな言い方したって、私の口でいってしまった事実は誤魔化せないよーん」
今回はむつきに主導権を握られたようだ。むつきはバスタオルで俺の体を丁寧に拭く。バスタオルをお互い体に巻き着けると、むつきは手を差し伸べてくる。俺は屈辱感を少しばかり感じながら、無言でむつきの手を握った。
「エッヘヘー」
「引っ叩くぞ、この野郎」
「私は女だから野郎じゃないもーん」
今日は完全にこの女のペースだ……。
むつきに手を引かれながら、再び部屋に戻った。
店の前に立って、ポケットから名刺を取り出してみる。店の看板と名刺を何度も交互に見比べた。
「モ、モーニングぬきっ子…、こ、ここだ」
ここにむつきが働いているのかと思うと、心臓がドキドキしてくる。それと同時に複雑な心境だった。
やっぱり自分の好きな子が、風俗店で働いているのを想像するのはいいもんじゃない。
果たしてむつきと、この名刺に書いているモモは同一人物なのだろうか?。
期待と不安が入り混じる。
むつきに会いたいけど、できればここでは会いたくない……。
でも今僕はここに、むつきがいるかどうか確認する為に来ている。
複雑な心境。自分の中の矛盾と葛藤。
最初に自分が満たしたい事、それはむつきに会うという事だった。
確かめて人違いだったら、また方法を考えればいい……。
「いらっしゃいませ。当店のご利用は初めてですか?」
僕が店に入ると、ひ弱そうな細い体のメガネを掛けた店員が出てくる。
「モ、モモさんっていますか?」
「はい、ご出勤されてます。モモさん御指名でよろしいですか?」
「あ、あのー…。しゃ、写真とかありますか?」
店員が不審そうな表情になる。何とか言い訳を考えないと。
「あ、あのですね…。以前、喫茶店でバッタリ会って、名刺をもらったんです」
持っている名刺を店員に見せる。店員の表情が柔らかくなった。
「こ、今度来てねと言われて来たけど、しゃ、写真見てみないと本当にその子じゃないと、い、意味ないじゃないですか?」
風俗の店員は営業スマイルになり、僕に優しく話し掛けてくる。
「そうだったんですか、それは失礼しました。写真はこちらになります」
店員に案内され、待合室へと移動する。
受付けから薄い壁を一枚隔てた隣の小さな待合室に案内されると、ポラロイドカメラで撮影した色々な風俗嬢の写真が、木の板に無造作に貼られていた。
端から見てみると、一枚のポラロイド写真に目が止まる。僕はその写真を見て、全身に電撃が走るような衝撃を受けた。
涙が出そうになるが、こんな場所で泣く訳にはいかない。
「では、こちらのモモさん御指名でよろしいしょうか?」
「は、はい……」
それだけ言うのがやっとだった。
やっと会えるんだ。
むつきに、やっと会える……。
「実はですね、お客さま…。モモさん只今ご指名が入ってまして、待ち時間があと三十分ほど掛かってしまうのですが、それでもよろしいでしょうか?」
ハンマーで頭を殴られたような感じがする。非常な現実を思い知らされた。今、むつきは別の男といやらしい行為をしているのだ……。
それでも僕は、むつきの顔が見たい。
「あ、あのー、お客さま…。他の子でしたら、すぐに御案内できますが」
「い、いえ…、モ、モモさん指名でお願いします」
「はい、かしこまりました。お時間のほうは何分になさいますか?」
「と、とりあえず、ご、五十分でお願いします」
「かしこまりました。では初回の入会金二千円と、指名料二千円はモモさんの名刺、お持ちになってるのでサービス致します。お客さまは五十分なので一万三千円で、合わせて一万五千円になります」
僕は財布から一万円札を二枚取り出し、店員に手渡す。
待合室にあるソファーに腰掛けた状態で、むつきの写真をしばらく見つめた。
源氏名はモモ……。
写真の中のモモは、こちらを向いて嬉しそうな笑顔をしている。
果たして僕の行動はこれで本当に良かったのだろうか?
このような形で再会するのは本位ではない。でもこれからあと三十分ほどで、あのむつきに会える。そう思うと、胸が高鳴った。
「はい、お客さま、五千円のお返しになりますね。では少々お待ちになって下さい」
待合室の本棚に置いてある週刊誌を適当に手に取り、パラパラ読み出す。むつきの事で頭がいっぱいで、ただ本をペラペラめくるという作業をしているだけだった。本をめくり終わっても、週刊誌の内容に何が書いてあったかすら全然覚えてない。
今頃むつきは、他の客の相手をしているんだろうか。想像すると気が狂いそうになってしまう。
何か別の事を考えよう……。
ゆっくり時間を掛けて腰を動かす。むつきの体は最高だ。
「ねぇ、そろそろいかないと…、アッ…、時間になっちゃうよ。あんっ……」
「ハァハァ…、延長すればいい事だ。ハァ、くだらない事、いちいち聞くな」
「じゃー受付に…、アッ、連絡しないと……」
「分かったよ…。ハァハァ……」
俺はむつきの体から一時的に離れた。むつきは部屋にある内線電話の受話器を手に取り、受付けに連絡をとる。俺はむつきの形のいい胸が揺れるのを見つめた。
「すいませーん。お客さん延長なんですけど…、えっ…、次、入っちゃってんですか? はぁ、はい…、はい、分かりましたー。了解でーす」
むつきは受話器を置くと、俺のほうへ振り向く。申し訳なさそうな顔をしていた。さっきの受付けに掛けた電話の内容を聞いていれば、延長が無理な事ぐらいは想像がつく。
「ごめんねー。次、指名が入ってるから、延長は無理だってー……」
「仕方ないだろう。今日のところは帰るとするよ」
「ほんとごめんねー……」
むつきが俺の右肩に頭を乗せてくる。いい匂いがした。自然と頭を撫でてやる。タバコを取り出し口にくわえると、火をすぐに点けてきた。
「これ吸ったら行くよ」
「まだ時間、十分ぐらいは残ってるよ」
「じゃあ、ゆっくり吸うよ」
天井に向かってゆっくりと煙を吐き出し、煙の流れを目で追う。煙はだんだんと薄くなり、やがて消えていく。無意味な行為を何度も繰り返し、煙を天井に向かって吐いては、また煙が消えていくまで見つめる。
「シャワーは浴びなくていいの?」
「帰ってから浴びるからいい」
「住んでいるのはこの近くなの?」
「ああ、ホテル暮らしだ」
つい答えてしまう俺。
「え、あんたってほんと何をしている人なの? ホテル暮らししてる人なんて初めて見たよ。仕事は何をしてんの?」
むつきは目を丸くして驚いている。失敗した。金の匂いには敏感な女だ。俺に興味を持ち出している。
「それ以上はノーコメントだ。何も言わない」
「教えてくれたらプライベートで私の体を抱けるかもしれないよ? こんな狭いところじゃなくて、ちゃんとした広いベッドの上で」
「……」
強烈な誘惑。この女にこんな事を言われ、心が揺らがない男などいるのだろうか。
「あなたには何だか興味が沸くの」
じっと真剣な目で俺を見つめるむつき。確かにこんなところじゃなく、もっとちゃんとした場所で会ってみたい女だ。
「……」
この女に、今泊まっている部屋の番号を教えようかな? きっと金さえ払えば必ず来てくれるだろう。こいつと一緒にどこかで暮らすっていうのも悪くないかもしれない……。
馬鹿か、俺は……。勝男はどうなる? あいつがこの女に惚れているのを知って、こそこそハイエナのように抱く俺。それだけでも充分勝男を裏切っているのに、さらに裏切ろうというのか。あいつだけが昔から信用できて今後も一緒に付き合っていける奴だったんじゃないのか……。
女と友情。俺がこんな事を考えるのもおかしいが、むつきと勝男を天秤に掛ければ答えは明白だった。むつきは魅力的だ。こういう女と一緒だったら、きっと本当に毎日が楽しいだろう。
俺は確かにクズ野郎だ。だからこそ勝男の存在が貴重だし、あいつのおかげでかろうじて人としていられるような気がする。これ以上裏切ってはいけない。
勝男は俺を裏切らない……。
むつきは簡単に俺を裏切る……。
彼女は黙って俺の行動を見ていた。ヘルスの個室の中で俺とむつきは不思議と会話もせず、お互い黙ったまま残りの時間を過ごした。
むつきと別れる際、後ろ髪を引かれる思いだったが振り切り外へ出る。
これでいい。これ以上腐りたくない。
そういえば勝男はもう仕事終わっているかな? 何故か無性にあいつの声が聞きたかった。
表を歩きながら勝男の携帯に電話を入れてみる。数回鳴らしたが、勝男は出なかった。店で誰か遅刻して、あいつ、人がいいから残業しているのかもしれないな。またあとで掛け直せばいいか。
非常に時間が経つのが遅く感じる。こんなに遅く感じたのは、今までで初めてかもしれない。
何冊の週刊誌や雑誌を手に取っただろう。
そろそろ呼ばれる時間が来る。
もうじきむつきに会える……。
僕がいきなり客としてこの店に来たら、彼女はどんな顔をするのだろうか。反応を考えると怖かった。
このまま会えずにまた悩む。その状態で仕事をし、毎日を意味もなく過ごしていくのは嫌だった。ここまで来たんだ。もう腹をくくるしかない。
「お客さま、大変お待たせ致しました。ご案内致します」
ひ弱そうな細い体のメガネを掛けた店員が呼んでいる。僕は立ち上がり店員のあとをついていく。膝がガクガク小刻みに震えていた。
待合室から出て、少し歩くと、通路に下品なカーテンがひかれている。店員がカーテンに手を掛けた。
「はい、お待たせしました、モモさんでーす」
声と同時に店員はカーテンをひく。
「……!」
僕の目の前に一人の女が立っている。
目の前で現れたモモという源氏名の女。間違いなくむつきだった。
動揺を抑えるのにひと苦労だ。
むつきの顔をジッと見る。
やっと会えた……。
「か…、勝男……。ど、どうしてここに……」
「……」
何か言おうとしても、何も頭の中に言葉が浮かばない。むつきちゃんの顔だけをジッと見ていた。
横で店員が、不思議そうな顔をしている。
「何かありましたか、モモさん?」
「ううん、何でもない。知り合いだったので、ちょこっとビックリしただけ」
彼女も、いきなり僕の出現に動揺しているようだった。
「とりあえず部屋に行こう……」
お互い無言で暗く細い通路を進み、九番と書いてある部屋に入る。
むつきはベッドに腰掛け、僕を見つめた。
僕はどうしていいか分からずに、その場で固まっているだけだ。
突然、僕の携帯が鳴り出す。
バネ仕掛けのように体を動かし、携帯を手にとる。着信は靖史からだった。でも今はそれどこじゃない、バイブに切り替え、そのまま携帯を放っておいた。
「出ないでいいの? あんたの携帯ってほんとよく鳴るわね?」
「う、うん……」
「そんなとこ立ってないで、座りなさいよ」
彼女に言われるまま、ベッドに腰を下ろす。何も言わず、モモの名刺を見せた。
「何よ、どこでそれを手に入れたの? 私を笑いに来たの? 風俗嬢だからってどうせ小馬鹿にしてるんでしょ? 何とか言いなさいよ」
「な、何も馬鹿にしてないよ……」
「じゃあ、何しに来たのよ?」
むつきが僕を睨んでいる。
その視線に耐え切れずにうつむいてしまう。
涙が溢れ出そうになるのが分かる。むつきだけには泣き顔を見られたくなかった。
ベッドに涙の滴が一滴落ちる。
何の為の涙なのだろう?
やっと会えたという嬉しさからなのか、会うなり罵声を浴びせられた悲しさからなのか。
いや、違う……。
むつきにとって、僕の存在などまったく必要とされていない事を感じたからだ。目の前の景色が、涙によって次第にぼやけていく。
「黙ってないで、何か話しなさいよ」
「あ、あ……」
「何よ、男でしょ? ハッキリと言いなさいよ」
「会いたかったんだ!」
「……」
「き、君にずっと逢いたくて…、い、色々考えてて…。さ、最初に会ったマンションにも行ったし……」
我ながら情けない台詞だ。話しだすと、涙が止まらなかった。
「た、たった…、い、一日だったかもしれないけど、ぼ、僕には君が、い、今までで…、さ、最高の、お、女で…、ホ、ホテルで、む、むつきちゃんが出てった時に、こ、この名刺が落ちてて…、ど、どんな形でもいいから…、あ、会いたくて、ず、ずっと悩んだけど、ぼ、僕には、や、やっぱり君が…、だ、大好きで……」
むつきちゃんが手で僕の口を塞ぐ。見ると、むつきは下を向いていた。
「もういいよ…。うん、もう言わなくていい……」
とても寂しそうな顔をしている。でも声は、とても優しい声だった。
「む、むつきちゃん……」
「本当に馬鹿で、ドジで、お人好しで、トロくて、お金も無くて、いつも話す時、どもっちゃって、見た目も全然格好良くなくて……」
むつきの言葉が、ズバズバと心に突き刺さる。どうなってもよかった。
涙も気付けば止まっている。本当の事だから、何も言い返せない。
むつきが言っている事は、全部僕に当てはまっているのだから……。
心がコマ切れに切り裂かれていく。
こうなるように僕自身が、心の奥底で望んでいたのかもしれない。
「本当あなたみたいなダサい奴と、最初に出会って恋に落ちてたら……。私の人生も……。わ、私の人生も、少しはマシになってかもしれないね……」
「えっ!」
むつきちゃんは上を向いたまま、僕に構わず話を続ける。
「私だって好きでこんなところで働いている訳じゃないの…。私は今、二十三歳…。十六歳の時に高校中退してさ…。中途半端だったんだ、私…。歳を誤魔化してキャバクラで働いてさ。でもね、お店ではずっとナンバーワンだったんだよ。みんな私の事可愛い、綺麗だって言ってくれて、欲しい物だってちょっと甘えれば、すぐ手に入った…。十七歳の時、男から見ても格好いいなって言われる奴と知り合って意気投合して同棲しだしてね。当然、親にも勘当されたわ…。でも私は構わず彼に夢中になって尽くして貢いだわ。馬鹿な女だって言われるかもしれないけど、それでも私は幸せだったし、満足だった。十八歳の時、その彼の子を妊娠して……。私ね…、こう見えても四歳の可愛い娘がいるんだ…。子供を生んだって、彼は籍を全然入れてくれなくて、してくれた事と言ったら結局、三千万の借金を私に押し付けて…、娘を残してさ…。気が付いたら私と娘の前から消えちゃった…。もう借金の追い込みが凄くて、私、娘にご飯も満足に食べさせてあげられなかったんだ。私は今まで、中途半端にチャランポランに生きてきちゃったから、女のクセに料理も、全然作れない…。三年前、実家に頼り、親に頭下げに行ったんだ。でも私って勘当されているでしょ?」
むつきは淡々と自分の事を語り続けている。
「……」
「おまえみたいな奴に子育ては無理だ。娘だけは面倒見るって、取り上げられちゃって…。家から放り出されちゃった……。それから何回も連絡して、会うだけでもいいからってお願いしても、結局一度も会わせてもらえなかった…。そんな私は、風俗でお金を稼ぐしかなかった…。金、金って汚い女かもしれないけど…、それでも早く借金を返して、娘の顔だって見たかった。一日でも早くあの子と一緒に暮らしたいんだ…。電話してもすぐに切られてしまい、娘の声すら聞けないし…。最初は三千万だったけど凄い利息がついちゃって、なかなか借金も減らないし…。勝男に会った時のお金見て、ずるいけどあのダンボールのお金があれば、一気に借金返せるかなって思っちゃったんだ。私は娘に会いたい一心で、何て言われようとお金を稼ぐしかないの! 私は女だから、それを武器にするしかなかった…。やっぱり私は最低な女だけど、それでもお腹を痛めた子だから、せめて一緒にいたいんだ…。私、娘が一歳の時から顔すら見てないんだもん…。でも…、そのせいで勝男の事、随分と傷つけちゃったんだよね? ごめんなさい…。ほんとにごめんね…。いくら謝ったって駄目だよね……」
むつきちゃんは話し終わっても、ずっと上を向いたままだった。
僕の目から大粒の涙が大粒のように流れ落ちる。何て声を掛けていいか、何も考えつかない。
「……」
いつだって僕は、格好悪いキャラクターだ。
「私にできる…、勝男にしてあげられる事って言ったら、この体ぐらいしかない…。勝男の好きにしていいよ……」
無意識に僕の右手が動いた。
パシンッ!
生まれて初めて女の子を平手とはいえ、殴ってしまった。
「む、む……」
声がうまく出ない。
僕は自分の顔面めがけて思いっきりパンチで殴った。気が治まらずに二発、三発と思い切り殴った。痛みで気が遠くなりそうだった。鼻血が出てくるのが分かる……。
「叩いてしまい、ごめん…。生まれて初めて女の子を殴ってしまった。ぼ、僕が……」
もう一発自分の顔面にパンチを入れた。
「……」
今だけは、どもりながら話をしたくなかった。自分のパンチは痛かった。でもこれで、どもらずにしゃべれる……。
むつきちゃんは下を向き、肩を震わせていた。
深呼吸をしようとしても、鼻血のせいでうまく呼吸ができない。僕は大きく口を開け、辺りの空気をゆっくり吸い込んだ。
「僕がむつきちゃんをそんな状態なのに抱きたいって思っていると、本当にそう思って言っているのか! 馬鹿にするなよ! 僕は君がそんな状態なのに、何にも言ってやる事すらできない情けない男だよ! でもね、むつきちゃんの悲しみをちょっとは理解しているつもりなんだ! お願いだから、自分をそんな粗末にしないでよ。僕は君が大好きなんだ。そんな君を見るのは絶対に嫌だ。笑顔のほうが絶対に似合う。借金、あとどれくらいか分からないけど、僕の貯金百七十万くらいあるから使いなよ。色々事情を聞いちゃって、こんな事言うのも変だけどさ。それでも僕は、君が好きだから…。できればずっと君と一緒にいたい…。それに力になりたいんだ!」
どもらずに、こんなにハッキリと話せたのは生まれて初めてだった。
気がつけば、むつきは僕をジッと見ていた。意思の強い目。でも、その目の中に天使のような優しい光が宿っている。
「あ、ありがとう…。すごく嬉しい…。ほんとに嬉しい……」
「た、大変かもしれないけどさー、ぼ、僕と一緒に……」
話している最中に、むつきちゃんが僕の鼻血をぬぐってくれる。それから顔を近付け、優しくキスをしてくれた。
全身が痺れるようなソフトなキスだった。
しばらくその状態でいたが、やがてむつきちゃんから離れた。
顔をゆっくりと見上げる。彼女の綺麗な顔に、僕の薄汚い鼻血がついていた。
「む、むつきちゃん、か、顔に僕の鼻血が……」
「ありがとう。元気出たよ」
ニッコリと微笑んでいるむつき……。
まるで天使が微笑んでいるように見える。
「む、むつきちゃん……」
「勝男の気持ち、本当に嬉しい。でもね…、私は甘えちゃいけないんだ……」
「ぼ、僕がいいって言ってるんだから、き、気にしないで大丈夫だよ」
嘘偽りのない本心だった。
自分が言った台詞で、これから大変な苦労が待ち受けているのも承知の上だった。でもむつきがそばにいてくれるなら、いつだって僕はきっと頑張れる。
「私がね…、自分でしちゃった事なの。だからね、自分でケリをつけないといけないの。もうちょっと勝男には、早く出会いたかったな…。でもね…、娘の事が私には第一にどうしたって考えてしまうの。今は勝男もそう言ってくれるけど、そういうのって絶対に堪えられないものなの……」
「ぼ、僕は絶対に堪えてみせる!」
むつきちゃんは優しく首を横に振る。目を閉じながら……。
「言ったでしょ? 私は娘の事を第一に考えるって…。本当にあなたは優しくて、暖かくて…、私を包み込んでくれた。勝男に会えて幸せって、今はハッキリ言えるよ。私なんかよりも…、もっと大事な、ううん…、もっと素敵な子がこれから絶対に現れるよ」
僕は納得できなかった。むつきちゃんの言っている意味が理解できない。
「ぼ、僕は君が…、き、君がいいんだ……」
「私はこんな女だけど、これでも母親なんだ…。最低の母親かもしれないけど、あの子の事しか考えられないの…。最初に風俗という職業に入った時は、お客さんのおチンチンをどうしても抵抗があって、口に入れられなくてね…。毎日毎日仕事終わってから泣いてたな…。でもね、あの子の事を考えると、母親だから強くならないとって思って…、お金の為に割り切って、その内この環境に慣れてきて…。ハッキリ言って、今の私なんて自分でも大嫌いだよ。でもあの子と出来る限り早く、私と一緒に暮らせるようにって思うと、何でも平気になるの。女は母親になると強くなるって言うでしょ? あれ、ほんとなんだよ」
涙が止まらなかった。僕はベッドに突っ伏して思い切り泣いた。
僕の頭をむつきちゃんが優しく撫でてくれる。
とても心地良かった……。
自分が小さいの頃、よく母親にこうやって撫でられたっけ。
子供の頃に返ったような気がした。
「あなたは他人の事を思いやって涙を流せる人。優しくて、素晴らしい人なんだから…。これからだって、絶対に頑張っていけるよ…。私が保証する」
泣きっ面のまま、顔をあげた。
むつきちゃんは力こぶを作ってガッツポーズを取り、優しそうな笑顔で僕を見ている。僕とは居場所が違い過ぎるのを痛感した。
もうちょっと、自分に力があったら……。
自分に対して、とても悔しかった。
「ひ、一つ、聞きたい事があるんだ」
「なーに?」
「も、もしもだよ。む、むつきちゃんが子供産んでなかったら、母親じゃなかったら…。ぼ、僕と付き合ってくれたかい?」
むつきちゃんは意地悪そうに笑うと、真剣に僕を見つめてくる。
「人生にね…。もしもは…、ないの……」
「そ、そんなのは分かってる。で、でも聞きたいんだ。ぼ、僕が入り込む隙間がないのは分かった…。だ、だからその言葉を聞いて、こ、今後の生きる糧にしたい!」
「馬鹿っ…、私みたいな女にそんな事、言わせないで…。今の私には、勝男と出会えて良かったとしか…、言えないんだ…。ごめんね」
「じゅ、充分だよ。ありがとう。これ……」
僕はモモと名前の入った名刺をむつきに手渡した。
彼女と僕を繋いでいた一枚の名刺。
もうこれで、彼女に会う事はないだろうと本能的に感じていた。
自分自身にケジメをつけないと駄目なんだ。
本当に大好きだったむつきと、終止符を打つ事になるなんて……。
悲しみと清々しい気持ちが、頭の中でグチャグチャに入り混じる。
「ほ、ほんとに…、ありがと…う……」
ヘルスのプレイ時間が来るまで、僕はモーニングぬきっ子の中にあるモモの部屋で、思い切り泣いた…。
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