
2024/11/28 thu
前回の章
小説家になろうというサイトの管理人が、二月になってようやく俺の記事を書いた。
諸事情により紹介が遅れた?
何を抜かしているんだ、コイツは……。
【お便りコーナー】第3回:山雨 乃兎先生 | 小説家になろうグループ公式ブログ
よく見ると、自費出版作家山嵐乃兎まで、何か偉そうにコメントしているぞ?
一緒に見られるのは嫌だな。
二チャンネルでも書かれていたが、俺が初めてここで賞を取ったのにお祭り騒ぎしないのは、確かに気持ち悪い。
もういいや、こんなサイト……。
俺は慌てて小説家になろうで載せておいた作品をすべて消去した。
もうちょっとで大日本印刷の仕事が始まる。
高周波やエアーコンセラーのリーズ代は残っている。
不本意だが、自分で失敗して作った借金みたいなものなのだ。
俺は昼近くまで部屋に籠もり、小説の執筆をしていた。
さすがに腹は減る。
この頃叔母さんのピーちゃんに頭を下げ、食事だけはもらう事にした。
自身のプライドなど空腹に比べたら、屁のツッパリにもならないという事だ。
金がすべてとは思わないが、ある程度の金が無いと人間は生きていけない。
勢いだけで物事を進めた結果が、現状なのである。
早く仕事をして金を稼ぎたかった。
現実の様々な問題が、悩みとなって頭の中を混乱させる。
こうなると執筆どころではなかった。
腹も減ったので昼食を取りに下へ降りると、「ねえ、智ちゃん。またお父さんがおじいちゃんに向かって今朝、どうのこうのって文句言っているのよ」と、パートの伊藤久子が話し掛けてきた。
「……!」
昨日あれほど忠告したのに、親父の野郎め……。
居間へ行くと、おじいちゃんが疲れきった表情でぼんやりと椅子に座っている。
「おじいちゃん、また親父が何か文句言ってきたの?」
出来る限り優しく話し掛けた。
「いや、そんな事ないよ」
もうおじいちゃんも九十歳。
まるでボケてはいない。
しかし年を取ったせいか、争いやイザコザが嫌なのだ。
だから俺にわざと嘘をついている。
「そう……」
おじいちゃんの気持ちを汲んであげないと。
俺は笑顔で答え、横に座る。
ちょうど伯母さんのピーちゃんがソーメンを茹でて持ってきた。
親父と加藤を除いた家族の昼食が始まる。
「おまえはもっと就職活動してきなよ」
「今度のところは働ける申請の許可が降りるまで一週間ぐらいだし、今はそれを待っている期間なだけだよ」
「そんな事言っているから、おまえは駄目なんだよ。働いてから言いな」
相変わらずの毒舌ぶり。
ピーちゃんのこの言い方で、今まで俺はどれほど傷ついたか分からない。
毎日毎日顔を合わす度に、小言。
食い過ぎでも飲み過ぎでもないのに、口の両端にできた荒れ。
俺の顔は、そのストレスにより荒れていた。
ここ最近ピーちゃんの小言が始まると、俺は反論せず、すぐその場から消えるようにしている。
何故ならば、ピーちゃんは自分の意見が絶対。
人の話などまるで聞く耳を持たないからだ。
黙って話を聞いていると、先ほどパートの伊藤久子が言った親父の話になっていた。
親父がおじいちゃんに当たる。
するとおじいちゃんはピーちゃんに愚痴をこぼす。
そしてピーちゃんは分かっていないだろうが、俺に当たる。
いつもこの悪循環。
少しは黙っていられないのだろうか?
連日に渡っての事なので、俺も徐々にイライラが溜まってくる。
おじいちゃんが席を立ち、居間から出て行ってしまう。
この気まずい空気の中にいるのが堪えられなかったのだ。
通用しないのは理解しているが、それでもつい口を挟んでしまう。
「だいたいいつも殴るほうが悪いって言ってるけどさ、言葉の暴力だってあるんだぜ?」
「それはおまえがちゃんとやってないからだ。言い方なんて関係ない。ちゃんと分かる人間は分かる」
「言い分は分かるけどさ、もう少し言い方ってもんをそっちも変えてみたら?」
「そんなの関係ない。おまえがちゃんとすればいいだけの事だ。借金だって何だって、全部おまえの責任だろ」
自分の意見や考えを絶対に変えないピーちゃん。
こんな事しか言えないのだろうか。
「そのぐらい分かってるよ! 別に金を出してくれなんて俺は、ひと言も言ってねえだろうが」
「そんなの当たり前だ」
「じゃあ、少しは黙れよ。整体だって失敗したくてしたんじゃねえんだよ」
「おまえがだらしないから、おまえの親父はおじいちゃんに当たるんだ」
「もういい加減にしてくれよ。じゃあ俺が親父に文句を言ってくれば、それでいいんだろ? もうグチグチ言うのはやめてくれよ!」
「そんな事したら、また智一郎に命令しやがってって、私やおじいちゃんに当たってくるだろ。自分で勝手に動いたってしないと、こっちに迷惑が掛かるんだ」
「ふざけんな! 原因を巻き起こしているのは親父だろうが? 何でいつも俺ばかりにしか言わない? 分かった。もういい。今、俺が親父に直接言ってくるわ」
「だいたいおまえはね……」
「もういいって! 黙れよ。あんたの言っている事は正論かもしれないけどさ。でも現実に何一つ解決しちゃいないだろうが? 支店の独立の件だって文句を言うだけで、ちゃんとやってきたのは俺と修叔父さんだ。言うとやるは違うんだよ」
感情を吐き出すと、飯も満足に食わず俺は席を立ち上がった。
本当にこんな毎日、もうたくさんだ……。
おばさんと話していると、頭がおかしくなりそうだ。
何故、俺はこんな風になった?
何故、俺がいつもこんな目に遭わなきゃいけない?
何故、俺は生まれた?
何故、親父は俺ら三兄弟を産んだ?
今までの憎悪が一気に噴き出した。
階段を一歩一歩ゆっくり上がる。
深呼吸して自身を落ち着かせようとするが、駄目だった。
二階の親父の部屋の前まで来る。
俺はドアを蹴飛ばし、中へ入った。
「何だ、貴様」
偉そうに俺を睨みつける親父。
横には加藤皐月がビックリした表情で俺を見ている。
「何でおじいちゃんに当たる? 何で文句があるなら直接俺に言ってこない?」
「うるせえ」
「昨日言ったよな? 今度言っている事が分からなかったら、頭を叩いて教育するって」
「ふざけた事を抜かしてんじゃねえ」
「ふざけてんのはどっちだよ?」
ギュッと拳を硬く握り締めた。
今まで俺は、親父を殴った事が一度もない。
どんなに無茶されても、一度だって手をあげなかった。
以前親父の首をへし折ろうとした時さえ、殴らなかったのだ。
自分で分かっていた。
一度でも殴ってしまったら、絶対にとまらなくなるのを……。
手を出す時は、下手すれば殺してしまう。
それほどの憎悪が昔から今までずっと溜まっていたのだ。
だから親父を殴っても、誰一人いい事などない。
分かっていたからやらなかったのだ。
「一体どうしたのよ、智ちゃん?」
加藤がキンキン声を出す。
「うるせえよ。あんたは少し黙ってろよ」
「いい? この家はね、本当にバラバラ。お父さんがこんなに頑張っているのに、誰も家族は協力しようとしない。そんなんで本当にいいの?」
「おい、何であんたにそんな事を言われなきゃいけない? いつからそんな偉そうな事を言える立場になったんだ? 家の人間誰一人、あんたなど認めちゃいないんだぜ?」
「そんな私をここから追い出したいなら、あなたたちのお母さんをもっと大事にして、ここから追い出さなきゃ良かったのよ」
「はあ? 何でそんな事、あんたに言われなきゃいけねえんだ? 何故お袋の話がここで出てくる?」
「そりゃそうよ。みんながもっと大事にすれば、お母さんだって出て行く必要なかったし、私もここには入れなかったわ。何でお母さんをかばってあげなかったの?」
左の傷が疼き出す。
「おい、これを見ろよ」
俺はゆっくりと過去お袋に虐待でつけられた傷跡を指差した。
「これをやられたのは幼稚園の時か、それとも小一の時か。そんな正確には覚えちゃいねえ…。ただ何でやられたのかは分かっている。八つ当たりでだ。お袋は当時、俺に八つ当たる事しかできなかったんだ。俺がまだ五、六歳の時だぞ? その時、親父はどうしてた? あんたと一緒に遊んでいたんだろうが! そんな俺に、あんたはお袋を大切にとか言うのか? こんな事をされながらも笑顔でずっと我慢しろって言うのか? 何度死にそうになったと思う? どれだけ毎日怯えながら暮らしてきたと思う? 誰が助けてくれた? 誰も助けちゃくれねえから、こんなになったんだろうが! それでもかばわないといけないのか?」
感情が爆発する。
「何で可愛い子供を置いていったか、それをもうちょっと考えてみたら?」
「あんた、自分で何を言っているのか分かって言っているのか?」
「智ちゃんの小さい時の写真見たけど、大事そうにされているじゃない」
「あのな、写真を撮る時だけいい顔すれば、それでいいのか? 俺はアクセサリー代わりにされていただけだ。お袋の都合いいようにな。好きな時に笑う事さえ禁じられてな」
「でもお母さんを恨んじゃいけない」
「もう恨んでいねえよ。小説書いて、お袋の件はいつの間にか浄化できたよ。そんな事よりさ、お袋どうのこうの言うなら親父に言えば?」
「お父さんだって寂しかったのよ」
この女とはまるで話にならない。
「じゃあ寂しかったら子供の面倒も見ず、浮気して家の金を盗んで遊んでいればいいんですか?」
「それは色々外のつき合いもあるからしょうがないのよ」
「加藤さん…、あんた、頭がおかしいんじゃないのか?」
「加藤さんじゃねえだろ! メイさんだ」
横から親父が口を挟んでくる。
加藤皐月。
皐月は五月。
五月は英語でメイ。
加藤はメイさんという言い方を気に入っているらしく、仲のいい人間にはそう呼ばせている。
「うるせえよ。勝手に黙って籍を入れて、家の中をこれだけゴチャゴチャにしやがって」
「いいか? 人間と言うのはだな。三務だ」
「何だ、その三務って?」
「三大責務の事だ」
「じゃあ、その三大責務とやらを言ってみろ」
「労働、教育、納税だ」
邪魔な従業員たちを追い出し、社長になってから自分の為に働いているだけの親父。
それまでは家の金を好き放題使い込み、勝手にしたい事だけをしてきた。
俺や弟の学費など一銭も出さず、飲み仲間には大盤振る舞いで酒や食い物をご馳走している大馬鹿野郎。
大学へ進学する気が無かったのも、どうせおじいちゃんに金を出させる腹づもりだからだ。
俺が整体を開業した時も、一年間、一度も顔さえ見せなかった。
必死に頼み込んだ時も、「おまえの為にならねえ」と吐き捨て、そのあと近所の焼鳥屋で飲み仲間と楽しそうに酒を飲んでいた。
「おい、よくおまえがそんな言葉を言えたものだな? 教育? じゃあ聞くが、親父の言う教育ってのは、俺が小学校、いやもっと小さい頃から何も面倒も見ず遊び歩き、そこにいる加藤さんと浮気しているのが教育か? それに近所の主婦、そしてうち働ていたパートに手を出し、俺が高校三年生の時、三人で乗り込んでくるのが教育なんだな?」
「当たりめえだ!」
完全な親父の開き直り。
親父は罵倒し続けた。
駄目だ……。
本当に話し合いにならない。
これ以上話していると、本当に殺したくなってしまう……。
俺は勢いよくドアを叩きつけるように閉め、自分の部屋へ戻った。
心というものが実在するならば、俺の心は鋭利な刃物によって小さな傷が毎日のように増えている。
新宿歌舞伎町の裏稼業ゲーム屋時代を懐かしく感じた。
自由でたくさんの金も稼ぎ、好きなように遊び回っていたあの頃。
ワールドワン末期、番頭の佐々木さんと共謀して抜いた店の金。
月にしてみたら二百万円は超えていたはず。
それを俺は何も気にせず、毎日湯水のように無駄に遊んで消費してしまったのだ。
秋葉原時代の金に溺れ勘違いした馬鹿な山下と、そう大差ない。
家のクリーニングの仕事を辞めた弟の貴彦は、都内に一人暮らしをしながらイタリアンの個人店のところで仕事をいるらしい。
一人暮らしというよりは、彼女でダンサーのあみっこも付いて行ったようなので、同棲しながら働いている。
相当厳しいらしく愚痴をこぼしに実家へよく顔を出す。
俺の顔を見ると決まって自分が今働いている店の凄さを鼻に掛けてきた。
「兄貴はさ、浅草ビューホテルとかって言ってたけどさ、俺の今いるところは年商一億のオーナーシェフがやる小洒落たイタリアンだからね」
ホテル業界のほうが断然年商も上だと思うが、得意げに話す馬鹿な貴彦にはそのまま言わせておいた。
生意気だと殴りつけ、おじいちゃんを騒動で困らせたくなかったからだろう。
たまに岩上整体の患者から電話が入る。
色々なところへ行っても全然駄目だから、また何とか診てもらえないかという内容が多い。
高周波や診察ベッドはそのままあるのだ。
あと問題は場所だけ。
家の敷地内で、昔は住み込み従業員用の建物があった。
しかし親父が社長就任で住み込みの人たちはみんな辞めてしまい、現在は誰も住んでいない。
去年辺りからその建物を取り壊し、新しい建物に造り変えたばかり。
一階は貸店舗にするようだ。
俺はそこにベッドや高周波を置いて、臨時的に岩上整体を復活させたいとおじいちゃんへ伝える。
食事中にそれを話したが、叔母さんのピーちゃんが「駄目だ」と一括で終わった。
少しして弟の貴彦が家に戻ってきた。
何でも働いていたイタリアンが厳し過ぎて辞めて戻ってきたのだ。
調理師免許も取らずに途中頓挫した訳である。
あれだけ俺のホテル生活を卑下した貴彦。
コイツにはプライドが無いのだなと思う。
ピーちゃんが駄目だと岩上整体を反対した訳が、後日分かった。
その空き店舗で、貴彦が家賃無料でレストランかカフェをオープンするらしい。
貴彦とあみっこの間に、妊娠が発覚。
背に腹は代えられない状態なのは理解できる。
ただ、長男の俺が弾かれ、三男の末っ子のわがままが通る家。
「智ちゃんは岩上家の長男なんだからね」
よく近所の人々には言われるが、俺など虐げられたお飾りだけの長男。
この家で俺は、希望など持ってはいけないのだ。
流れに沿って今はただ無心に働こう。
薄暗く狭い通路をひたすら歩いている。
その先に光はまったく見えてこない。
狭山市での大日本印刷の仕事が始まる。
かなり広い敷地。
敷地内には野球をできるグランドまで配備されている。
目印を決めて歩かないと、迷子になるような広さだった。
白い割烹着のようなものを着させられ、白いゴム付きのキャップも頭へ被る。
靴は支給された白い長靴。
建物内へ入る前、通路と部屋の手前にドア付きの消毒室があった。
そこでボタンを押し四方八方から消毒を浴びる。
ここまでしないと内部へ入れない徹底ぶりには驚いた。
凸版印刷と印刷業界を二分する大日本印刷。
工場内を歩くと、至る所に見た事ある商品の印刷物がある。
カラムーチョ、ポテトチップス、かっぱえびせん、カール……。
まだ印刷段階であるが、日頃よく目に触れる商品があちこちで刷られていくのは斬新だった。
タバコのセブンスターやマイルドセブンも、こういうところで印刷しているのか……。
初日は工場内見学及び説明。
インクを扱う為の研修で終わる。
帰り際、工場長でもあり大日本印刷の課長から呼び止められる。
「岩上さん、ちょっといいですか?」
会議室のようなところへ通され、俺は椅子に座らせられた。
しばらく課長は、俺の簡単にまとめられた履歴書のような資料に目を通している。
俺は先程見た一斗缶に入った様々なインクの倉庫を思い出していた。
処女作『新宿クレッシェンド』を書き上げ、品川春美へどうしても本という形で渡したかった俺は、パソコンのプリンターを使い、一ヶ月で十一万円分のインクを買い、腐るほど色々な印刷方法を試した。
当時のプリンターは七色。
黒以外に六色もあったが、大日本印刷では基本色のインクは三色だけだった。
製造メーカーの種類数は多いが、どのメーカーもその三色が基本。
マゼンダ、シアン、イエローの三色。
確かに俺が使っていたプリンターは七色と謳ってはいたが、マゼンダ、シアン、イエロー以外の色は、ブラック、ライトシアン、ライトマゼンダ、ライトイエローと基本の色をちょっと変化させたものだ。
黒字印刷をする際も、プリンターは黒のインクだけを使っているのではなく、他のカラーインクも少しずつ混ぜながら刷っていると聞いた事がある。
ここでの仕事は、俺にとって何かしら得るものがあるかもしれない。
「岩上さんの経歴見させて頂きました」
課長が話し掛けてくる。
「何か凄いですよね? 全日本プロレスに、浅草ビューホテルでバーテンダー。歌舞伎町での裏稼業…。一部上場のSFCGでサラリーマンのあとは整体を開業。その最中に小説で賞を取って本を発売。そのあと総合格闘技? 凄い経歴ですよね」
「お恥ずかしながら、バラバラな事をやっていましたね……」
内心ピアノが抜けているよと思ったが、さすがに口には出せなかった。
「いや、うちの工場でこんな人いないですよ」
え、ひょっとして褒められているの?
課長は笑顔で一人勝手に頷きながら、俺を絶賛している。
「うーん…、そうだなあ…。ねえ、岩上さん」
「は、はい」
「ちょっとね、工場のライン生産率を上げる為に新しい部署…、まあ部署と言ってもそこまで大きくないんだけど、実験的に試してもらいたい事あるのね。明日から一人その道のベテランつけるからさ。工場のライン仕事とかじゃなく、そっちをやってもらえないかな?」
課長の話す内容のほとんどが理解できなかった。
ただ俺にとって、ちょっとしたチャンスを与えてくれようとするのだけは分かる。
「私がどの程度貴社のお役に立てるか分かりませんが、課長が仰る通り頑張りたいと思います」
「良かった…。うん、これで生産率上げられるぞ」
こんな形で、俺の大日本印刷初日は終わった。
翌日、課長の言っていた新しい実験的な仕事が始まる。
部署と言っていたが、俺と指導する大日本印刷の職員が一人だけ。
やる事は一日何ラインにも予定を組んで印刷する商品の元になる仕事。
例えばカラムーチョなら、この会社のマゼンダを透明度何パーセントまで溶解液を使ってインクを調整する。
商品の基本となるベースのインクを数種類、予定表を見ながら予め俺が作って置く訳だ。
大日本印刷は三つの班に分かれ、二十四時間絶え間なく機械は動く。
各班シフト制でA班が朝九時から夜の九時まで働くと、翌日は二十四時間空いた夜の九時から朝の九時までの十二時間を出る。
一日休んだらまた朝の九時からと、各班このシフトを延々と行う。
タバコの一服や水分補給は、消毒をする部屋を通り抜けた先の休憩室で必ずする。
工場内では髪の毛一本落ちないよう細心の注意を払いながらの仕事となるのだ。
予定表を見ながら各商品の印刷をしていく訳だが、ラインを流す前に各班の班長はその商品に対して使うインクの調合を行って微調整してから始まる。
その部分を俺が担当し、ライン作業を円滑にする事で生産性が良くなるらしい。
予定表を見る。
湖池屋ポテトチップスの海苔塩。
基本カラーはイエロー。
会社はどこのインクを使い、透明度六十八パーセントなど様々な情報が羅列していた。
始めは職員も横に付きながら、やり方を教えてもらう。
まず倉庫へ行き、台車へ使うインクの一斗缶をそれぞれ乗せる。
これらの透明度は溶剤と呼ばれる液体で薄めていく訳だが、溶剤だけで四種類あり、このインクではトルエンを使用などキチンと配分まで記入してあった。
溶剤置き場は、ガソリンスタンドにあるようなガンタイプのタンクがあり、アルミホイルの缶へ、それぞれの溶剤を適量自分で注ぐ。
一昔前の不良がシンナーを吸っていた時代。
こういった溶剤を使い、シンナーとして吸っていた訳である。
俺はシンナーなど興味も無いが、仕事で嫌というほど入ってしまう。
なので、シンナーで酔わないよう溶剤置き場ではある程度の時間の注意が必要だ。
その辺は個人差があるので、自分で判断し酔ってきたマズいなと感じたら、一旦その場を離れ、新鮮な空気を吸いに行く。
それだけ溶剤というのは劇薬でもある。
この手の作業で一番怖いのが、慣れであった。
この程度日常でこなしているのだからという慢心が、大きな事故を呼ぶ事もある。
俺が手掛ける仕事は彩色の仕事と呼ばれ、予定表の商品に使う主なインクの調合がメイン。
彩色機という顕微鏡のようなものを使い、透明度等を計る。
目標数値へ近付くまで、俺は何度もインクの調合をしなければならない。
この仕事の難点が、指先が真っ黒になり、爪の中までインクが染み込んでしまう事だった。
数日後、指導してくれた職員は自分の持ち場へ戻り、俺一人となる。
だが翌日から部下二人をつけてくれた。
三十歳のメガネを掛けた石川と、若干チャラチャラした落ち着きのない二十二歳の浅野。
この二人も同じ派遣会社からだった。
俺は自分は教わったように彩色の仕事を教え、二人の仕事ぶりをチェックする。
真面目な石川は飲み込みが早く、三日ほどで仕事を一人で任せられるくらいになった。
浅野は要領が悪く、何度も同じミスをする。
その度細かく指導するが、いまいち成果が出ない。
原因は浅野のやる気だった。
彼の成長にゴーサインが出たら、俺たち三名は各班へ配属され、インクの彩色をしていく。
始めは親切に指導していた俺も、多少荒く教えないと浅野は駄目だと判断。
手厳しい指導へ変えた。
俺に怒られるのが嫌な浅野は、ようやくある程度の時間を掛け一人前になる。
俺はA班。
石川はB班。
浅野はC班へと配属された。
これからは各班の引継ぎ時しか、顔を合わさなくなる。
一緒に仕事をした最後の日。
帰りのバスで石川はバックから『新宿クレッシェンド』を取り出す。
「岩上さん、本にサインしてもらえませんか?」
「お安い御用だ。あっ!」
サイン中にバスが揺れ、本に書いている途中ミミズのようになってしまう。
俺は謝罪し、家に残っていた新品の本と交換してあげた。
仕事終了時、必ずやる事があった。
それは手にこびり付いたインクを丹念に落とす事である。
石鹼やたわしを使ってゴシゴシした程度では、まったく落ちる気配が無い。
なのでトルエンなどの溶剤に指先を入れ、こびり付いたインクを歯ブラシなどで何度も擦る。
劇薬のトルエンは、指にいい訳が無いのだが、他に汚れを落とす方法が無いので仕方なかった。
まだ寒い季節の中、溶剤の影響で指先がひび割れる事もある。
その状態で溶剤へ浸かるものなら、激しい痛みも伴う。
必然的に爪は深爪になる。
そのほうが手の汚れを落とすには、便利だからという理由で。
とにかく予定表を見ながら、どんどんインクの調合をしていくのが、俺の部署の役目だった。
一日目早番、二日目二十四時間空いたあとの遅番、三日目がキッチリ二十四時間の休み。
このローテーションを永遠と繰り返す。
指先のひび割れが酷くあまりにも痛い為、人と会う約束以外の時は、この汚れた手のままでもいいかなと思う事もあった。
そんな俺には、協会の神父の妻である宮下望とのメールやチャットのやり取りだけは、毎日欠かさずしていた。
吹けば飛んでしまうような儚さを持った望。
いけない事と知りながら、お互いを思いやるやり取りは止まらなかった。
望が俺の休みの予定を聞いてくる。
今の大日本印刷のシフトを伝えた。
次の休みなら望の都合がつくという事で、新宿周辺で待ち合わせをする。
会った瞬間何も言わずホテルへ向かい、お互いを貪り合う。
俺は品川春美の結婚のダメージを癒すように。
望は何の為に、俺と何度も逢瀬を?
抱かれる度に大胆になっていく望。
これまでにない快感を覚え、性欲の渦に飲み込まれたかのようだった。
一通り求め合うと、決まって望は俺の小説の話題をしてくる。
『新宿クレッシェンド』も好きだが、『忌み嫌われし子』のようなサスペンスホラーも、色々考えさせられて良かったと感想を述べた。
百合子から散々罵倒され、出版社サイマリンガルのグランプリでは酷い扱いを受けた作品。
しかし今、傍にいる望の一言が、すべてを帳消しにするほど癒してくれる。
「あ、あとね…。智さんの作品で……」
そこまで話すと望は両手で口を押さえ笑いを堪えた。
「ん、俺の作品がどうかしたの?」
「パ…、パパンとママン…。駄目だ、おかしい……」
しばらく一人で思い出すかのように笑う望。
彼女は『パパンとママン』がかなりお気に入りのようだった。
岩上整体時に二章まで書いて、そのまま頓挫した作品。
望が読みたいなら、最優先に執筆をまた開始しよう。
自身の書いた作品の感想を目の前で話してくれる現状。
それはとても心地良く夢のようだった。
以来、望と逢瀬を楽しむ時は、必要以上に痛くても溶剤の中へ指を入れ丹念に洗う。
割れた傷口に激痛が走る。
しかし望との快楽の前に、俺はいくらでも我慢できた。