岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

1 膝蹴り

2019年07月15日 15時39分00秒 | でっぱり/膝蹴り


膝蹴り


 ここ最近、私はイライラしている。
 何でかって?
 そんなの自分の女とうまくいってないからに決まってるだろ。
 つまらない事の意地の張り合いから、私と女は口論になり、今では一週間も会ってない。毎日、女のほうから電話が掛かってくるが、謝るとか、そんなんじゃない。いかに自分が正しい事を言っているのかを延々と熱く語ってくるのだ。
 ハッキリ言わしてもらうと、冗談じゃない。まだ、好きだという感情が残っているから、私はかろうじて我慢している部分がある。口論になるという時点で、お互いの考えや主張が食い違い、ぶつかり合っているという事だ。何で私が認められない考えをいちいち押しつけてくるのだろうか。考えれば考えるほど、イライラしてくるのである。
 一体、あやつは何を勘違いしているのだろう。日々、思う。
 私が、今は黙って聞いているだけだというのに、図に乗って、これでもかというぐらい、マシンガン攻撃を仕掛けてくるのだ。
 何が原因で、そんな口論に発展したかって?
 目玉焼きに、何をかけるかという些細な事からここまで発展したのだ。
 私は、目玉焼きにソースを掛ける派。え、そんなの聞いてないって?まあ、聞いときなさい。それじゃないと、話が先に進まないんだ。で、あやつは目玉焼きに醤油を掛ける派なのだ。
 別に何を掛けて食べてもいいと思う。それで犯罪になるという訳でもあるまいし、個人の自由だ。私はソースを掛けるのが好き。あやつは醤油を掛けるのが好きというだけな話である。
 それをあやつは何を勘違いしているのか知らんが、私を責め立ててくる。目玉焼きは醤油が当たり前で、ソースはおかしいと否定。私だって、自分の好きなように食いたいよ。こちらから醤油を否定してないんだせ?それを何故、そこまで言われなきゃあかんのよ?おかしいのは女のほうであって、私ではない。その辺は胸を張って言える訳ね。
 あと半熟状態で食べるのが正しいとまで抜かしてくる始末だ。そんなの十人十色でそれぞれ好みだってある。私はカチカチに黄身が固まるまで焼いたのが好きなんだ。それをあの女め……。
 話し合いというか、一方的な言い合いは、いつだって私が我慢している。言われている内はいい。ただ、それを強要されるとなると、話は別だ。
 ある日、あやつは、とうとう強硬手段に出た。
「料理を作ってあげるから、私のマンションに来て」などと甘い言葉を言いつつ、作ったのは目玉焼き。しかもその上に醤油をぶっかけた状態で出されたのだ。
「おい、俺はソースが好きだって言ってるだろ」
「何よ、私の作ったものが食べられないと言うの?」
「話をすり替えるな!しかもこれ、半熟じゃねえかよ」
「半熟のほうが頭の活性化を良くして、心身代謝だって活発にする効果があるのよ」
「嘘つくんじゃねえ」
「ええ、それは嘘だけど、半熟の黄身をチュルルって啜るぐらいのほうが男らしいわ」
「そんなもんに男もクソもねえだろが!」

「あるわよ!じゃあ、あなたは卵ご飯、食べないの?」
「年に十五回ぐらい食うかな」
「ほら、見なさいよ」
「何がほらだ。関係ないだろ」
「あなたはどれだけ矛盾しているか分かる?そもそも卵ご飯は生卵をぶっかけ食べるでしょ。しかも醤油をかけて」
「ああ、それが何だよ?」
「何で卵ご飯に醤油を当たり前のようにかけるのに、目玉焼きだとソースなの?それって矛盾しまくりじゃない」
「いいじゃねえかよ、そんなこたー!」
「良くないわよ。考えてみて。私とあなたが結婚したとしてね。二人の間に子供が生まれる。だけど、その子供が妙で下品な食べ癖ついていたら、それはあなたのせいよ?」
「ふざけんじゃねえよ」
「冷静になってよ。DNAってもんがあってね。それは受け継がれるのよ?」
「それとソースと、何の関係があるってんだよ!」
「あるわよ。卵ご飯を食べるくせに、目玉焼きはソース。しかも生で食べるくせに、半熟は嫌だって矛盾しまくりでしょ?」
「いいじゃねえかよ、何だって!」
「そういうあなたのいい加減な部分、私は好きじゃないし、非常に不愉快になるのよ」
「おまえさー…。一体、俺たち、付き合って何年になるんだよ?」
「もうじき二年半かな?」
「それをね…。目玉焼きに何をかけるかで、こんな口論。おかしいと思わないのか?」
「不正は正さないと駄目なのよ」
「何が不正だよ!いつ俺が、おまえが目玉焼きに醤油を掛けるのを否定した?」
「否定される筋合いはないわ。だって私の食べ方が正しいんだから」
「ふざけんじゃねえって!」
「そうやってすぐ怒ったりするから、頭の毛が薄くなってくるのよ」
「髪の毛と目玉焼きの何が関係あんだよ!」
「すぐそうやって怒鳴る。もう私、嫌…」
 この女、自分から部屋に呼んでおいてとんでもない奴だ。好き勝手言い、おまけに目に涙まで滲ませている始末である。もし、第三者がこの状態を見れば、悪者にされるのはいつだって男のほうだ。
「少し冷静になれよ」
「なれる訳ないでしょ!」
「帰るよ、俺は……」
「分かったわ。それがあなたのスタイルなのね」
「何だよ、スタイルって……」
「状況不利になると、逃げて知らんぷり」
「知らんぷりじゃないだろ?話し合いになってるじゃねえかよ!」
「でも敵前逃亡」
「何が敵だよ。おまえ、少し頭冷やしたほうがいいよ。とにかく俺は帰るから」
 まだ女は、背後からギャーギャー罵声を浴びせていたが、私は無視して部屋を出た。

 あやつの部屋から逃げるようにして帰ってから、三日後の話である。
 向こうから電話があり、別れたいと言ってきた。
 二年半も付き合って、目玉焼きにソースを掛けるという理由で別れるというのだろうか。いくらなんでもそれはおかしい。私は少し時間がほしいとだけ言って電話を切った。
 しばらく考えてみる。
 ひょっとして、あの女……。
 他に男が出来たから、難癖をつけて別れようとしているんじゃないか。
 いや、二年半付き合った女に対し、何、馬鹿な事を考えてんだ……。
 しかし、他に理由などあるのか?目玉焼きの件で、別れるような馬鹿なカップルなど、世界中、どこを探してもいないだろう。だとしたら、やはり別の原因しか考えられない。どっちにしても、私は別れるつもりはないのだ。何かしらの手段を使って、あやつを説得せねばなるまい。
 近くにある和菓子屋の醤油団子を買い、公園のベンチに腰掛ける。桜満開の状態を見ながら、私は焼き団子をむしゃぶった。
 花より団子というが、本当その通りである。花などいくら見たって、腹は膨れない。
 鼻先をつんと刺激する醤油の匂いが、私の食欲をより一層駆り立てる。何で団子はこんなにうまいのだろうか。
「ん……」
 気がつくと、すぐそばで私の団子をジッと見入る小学生の子供がいた。物欲しそうな目つきでジッと見ている。
 残りの団子は三本。別に一本ぐらいあげてもいいか……。
「おい僕、お団子食べたいのかい?」
「……」
 恥ずかしいのか照れているのか、小学生は返事もせず、黙ったままこちらを見ている。
「食べたいの?あげようか?」
 小学生は、声を出さず、一瞬だけ頭をコクと下げた。発泡スチロールの皿の上にある団子を目の前に差し出してあげる。
「あっ!」
 すると、小学生は三本しかない団子の内の二本を両手でつかみ、走って逃げ出した。
「このクソガキ!」
 女との事で神経が苛立っていた私は烈火の如く怒り、そのガキを追い駆けた。お腹の贅肉が一歩踏み込む度、ボヨンボヨン動き、私の走りを邪魔する。
「待ちやがれ!」
 なかなか縮まらない差。早くも私は息切れを起こしている。両手に団子を持ちながら走る小学生の後ろ姿を見ていると、苛立ちがどんどん増してきた。
「ど、どいつもこいつも俺を舐めやがって!」
 加速する怒り。怒りは、私を奮い立たせた。
 そうだ、私は怒りが足りなかったのだ。だから、色々な連中に舐められるのだ。あのクソガキも、せっかく私が親切心で団子をあげたのに…。
 怒りはすべてを凌駕する。
 やっとの思いで小学生の頭を鷲掴み、捕まえた。その時だった。
「あ、このガキ……」
 捕まった小学生は黙ったまま、手に持っていた団子を口に入れた。ろくに謝りもせず、お礼も言えず、何てガキなのだ。
「テメ、このクソガキ」
 無意識的に、私は小学生のケツ目掛け、膝蹴りをぶち込んでいた。
「う…、うわぁ~……」
 よほど痛かったのか、小学生は大声で泣き出した。自分が悪いくせに、怒られると泣きゃあいいと思ってる。ふざけたガキだ。
「あんな、何をしてんの!」
 背後から女性の声がする。振り向くと、黒縁メガネを掛けたおばさんが立って私を睨みつけていた。やばい、このままでは悪者にされる……。
「え…、いえ…、あの…、その……」
「今、この子を蹴ったでしょ?」
「してませんよ、そんな事……」
「私は見たのよ!」
「してませんて……」
「ねえ僕、今、この人が蹴ったんでしょ?」
 黒縁メガネのおばさんは、泣いている小学生に猫撫で声で話し掛ける。
 コクリと頷くガキ。
「ほら、見なさい。この子も蹴ったと言ってるじゃないの」
「し、知らねえよ……」
「シラを切る気?あなたみたいな危険人物、警察に突き出してやる」
「さっきからゴチャゴチャとうるせえよ、このやろ!」
 私は近づき、黒縁メガネの右腿に、膝蹴りをぶち込む。崩れ落ちるおばさん。
「わ、私にまで蹴ったわね……」
 まずい…。この場にいては絶対にまずい……。
 私は、猛ダッシュでこの場から逃げ出した。

 子供にも女にも、初めて膝蹴りしてしまった私。
 以前ならこんな事、どんなに頭に来てもしなかった行為である。ついカッとして、膝蹴りを入れたじゃ済まない。
 反省はしている。しかし、どこかでスッキリとしている自分もいた。人間的に間違っているのは分かっている。それでも今の正直な気持ちをいえば、自分の中のやるせなさを膝蹴りによって爆発させたのだ。気持ちがいい。
 元々喧嘩をするようなタイプでもない。暴力的な衝動など、一度もなかった私が、何故、こんな風に思っているのだろうか。
 よく知人に馬鹿にされ、職場でもからかわれる事もあった。そんな時、私はいつだって口を貝のように閉じ、我慢してきたのだ。
 親切心から出た行動を礼儀知らずのガキに舐められ、今まで抑えてきたのもが爆発してしまったのだろうか。
 あの膝蹴りをケツに食い込ませた瞬間。全身に何とも言いがたい痺れのようなものが駆け巡り、私はその気持ち良さに酔っていた。
 生涯初めても暴力が、膝蹴り……。
 そのあと文句を言ってきたババーにも、腿へお見舞いしてやった。あの感触も何とも言いがたいものがあった。こんなにも、私は暴力への衝動が飢えていたのか。
 鏡を見ると、私の口元はニヤリと斜めに吊り上がっていた。
 確か暴行罪は、現行犯じゃないと問題ないはずである。気に食わなければ、どんどんこの膝をお見舞いしてやりたい。
 そんな馬鹿みたいな事を考えていると、電話が鳴った。女からだった。
「はい……」
「もう私たちね、一緒にはやっていけないと思うの」
 出だしから別れ話を切り出す女。ここは一歩引いて、冷静に対処しなければいけない。
「あのさ、こういうのって、電話で話をする問題じゃないと思うんだ」
「でも……」
「あのね、仮にも俺たちは二年半付き合ってきたんだよ?別れるにしてもさ、一度、会って話し合おうよ」
 私は途中で話を遮り、まず会う事を前提に話す。そうでないと、混乱するばかりである。
「分かった…。じゃあ、駅前の喫茶店で待ってるから……」
「随分、急だな」
「じゃあ、電話でいいでしょ」
「ちょっと待てって……」
「もう限界なの。別れたいの」
「落ち着けって!分かった。とにかく俺も、駅前の喫茶店へ向かうから」
 電話を切ってから、私は壁に膝蹴りをぶち込んだ。たかが、目玉焼きに何を掛けるかで何故、こんな風にならなきゃいけない。醤油をかけないで、ソースを掛けるから別れる?ふざげんなってんだ。
 私が何をした?
 ソースを掛けて目玉焼きを食うだけじゃねえか……。
 とりあえず女と喫茶店で会う約束をした。私は、急いで身支度を整え、駅の方向へ向かった。

 先ほどの小学生を追い駆けた時もそうだが、今も感じる。そろそろ食事調整をしつつ、腹の肉を落とさないといけない。
 中肉中背と呼ばれても仕方のない体格。ひょっとしたら、あやつは私の太り始めた体型が嫌で別れを切り出したのかもしれないな。そうなら、少し自覚せねばなるまい。私自身の食生活を……。
 駅前まで来ると、ガラス張りの喫茶店が見えてくる。もう女は来ているのだろうか。店内をチェックするが、まだ来てないようである。まあ、あとで文句も言われても困るので、先に入って待っておくか。
「いらっしゃいませー。どうぞ、お好きな席にお座り下さい」
 個人的にはカウンター席を好むが、あやつもこれから来る。仕方なしに窓際の開いている席についた。ここならあやつも、私の姿がすぐ目につくであろう。
 窓の外をボーっと眺めていると、先ほどのウエイトレスとは違った太目の女がやってきた。容姿云々をあれこれ言うのはあまり好きではないが、客商売なんだから、もう少し綺麗な子を使えばいいのにと思ってしまう。
 ドンッという豪快な音と共に、テーブルの上に水が置かれる。慎重さなど何もない無愛想な置き方に腹が立つ。テーブルの上では、当たり前のように水がこぼれていた。
「なにする?」
「はっ?」
「なにする?」
 この太目のウエイトレスは、私に向かってこれでも注文を聞いているつもりなのだろうか?信じられない接客態度。話し方も日本人ではないようだ。
「あのさ、ひょっとして注文を聞いてるの?」
「なにする?」
 こいつは、それ以外の言葉を知らないのか。こんな態度の悪い店員、初めてだ。
「まだ決まってないよ!決まったら、呼ぶから」
 ぶっきらぼうに言い放ち、ウエイトレスを追っ払う。とてもじゃないが、あんなのに注文などお願いしたくない。
 ぶっきらぼうに去っていく太目のウエイトレスを、俺は背後から睨みつけた。
 メニューをパラパラめくると、そこそこ食べ物もある。ちょうどお昼時、腹も減っていた。
「・ランチA ハンバーグセット 八百五十円 ・ランチB 生姜焼きセット 八百五十円 ・C ミートソースセット 七百円」
 ABC、三種類のランチメニュー。ハンバーグでも頼むとするか……。
 先ほどの太ったのがまた来たら不愉快である。私は、別のウエイトレスが近くを通るのを待った。
 テーブルの上に置かれた水を啜る。あの太ったのが持ってきたのかと思うと、水さえまずく感じた。おっ、別の子が近くに来たぞ。今だ……。
「すいませ~ん」
「はい、少々お待ち下さい。ミンミンちゃ~ん、お願いします」
 ちょうど他の客に呼び止められたのか、その子は他テーブルの注文を聞いていた。ミンミンちゃん…。その言い方で何となく嫌な予感がした。
「ぐっ……」
 再びやってきた太目のウエイトレス。ずんずん足音を立てて、こちらに向かってくるような感じがした。
「なにする?」
 ミンミンという呼び名からも、おそらく日本人ではないのだろう。留学生として我が日本にやってきたから、日本語もたどたどしいだけかもしれない。こんな事で腹を立てても仕方がない。
「ハンバーグセットもらえる?アイスティーで」
「なに?」
 この野郎…。いや、一応女だから女郎か?いくら何でもこの対応はないだろう。
「ハンバーグだよ!ハンバーグ!ちゃんと言ってんじゃねえか!」
 つい、怒鳴りつける。他の客の視線が、私に突き刺さるのが分かった。
「Aかー、Bかー、Cかー」
「何だと、この野郎!」
「Aかー、Bかー、Cかー」
「ハンバーグだって言ってんだろ!」
「Aかー、Bかー、Cかー」
 太ったのは、狂ったように、ABCを繰り返している。こいつは一体、何なんだ?仮にもこの店で働くウエイトレスなんじゃないのか?何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんだ?
「ハンバーグセットだって、何度も言ってんじゃねえかよ!」
「Aかー、Bかー、Cかー」
 太っちょも譲らない。客に対し、舐めた対応しやがって……。
 思わず立ち上がる私。その時、太っちょは、メニューを指差しながら、もう一度言った。
「Aかー、Bかー、Cかー」
「……!」
 ひょっとしてこの太っちょは、悪気があって言っている訳じゃないのでは…。彼女の指す、Aとはハンバーグで、Bは生姜焼きセットの事を言っているのか?
 私は恐る恐る「A……」とだけ言った。
「あい」
 それが通じたのか、彼女は短い返事をして行ってしまった。

 自分からこの喫茶店へ呼び出しておいて、三十分ほど遅れで女は来た。まだ、ランチAのハンバーグセットは来ていない。
 女は特に謝るという訳でもなく、無言で私の対面の席へ腰掛ける。
「何か頼んだの?」
「その前にさ、かなり来るの遅かったじゃん」
「別に何時になんて、一度も約束してないわ」
「最近、おまえ変だぞ?」
「分かったのよ。水と油で、お互い交じり合う事なんてないっていうのをね」
「俺たち、どのぐらい付き合ってきたと思ってんだよ?」
「時間なんて関係ないわ。問題なのは、それぞれを共有できるかどうかよ」
「今までうまくやってきたじゃねえかよ」
「だってあなた、ソースでしょ?」
「そのぐらい何だよ?おまえだって、醤油じゃねえかよ」
「ほら、すぐに私をそうやって責める……」
「別に責めてる訳じゃねえって。それを言うなら、おまえだって……」
「ね?堂々巡りでしょ?」
 その時、テーブルに手が伸びて、勢いよく水が置かれた。さっきと同じように、水がコップから溢れ出る。
 見上げると、例の太っちょウエイトレスが、黙って引き上げるところだった。
「な、何よ。今の子……」
「あ、ああ…。さっきもそうだけど、ああいう子なんだよ」
「ふ~ん……」
 そう言って女は、意地悪そうに微笑む。
「何がおかしい?」
「あなた、ああいのうのが好みなのね…」と、馬鹿にした笑いをする女。
「好みな訳ねえだろが!」
「だって理解力あるじゃない、あの子には」
「理解力とかそういうんじゃなくてね…」
「私には、ちょっとした事で、いつもプリプリ怒る」
「だってさ…。あの子は、う~ん…、何て言うのかなぁ~……」
 先ほどの酷い接客状況を、何て説明すればいいのだろう。元々ああいう事が当たり前と思っている子なのだ。それをうまく女に説明したかったが、何ともうまい言葉が見つからずにいた。
「ほら、全然、対応が違うじゃないの!」
「まあ、とにかくさ。腹減ってんだろ?何か頼もうよ、な?」
「ふん……」
 女はメニューをひったくるように手に持つ。ジロジロ真剣に眺めているようなので、口出しはやめておこう。
「なにする?」
「うぉっ……」
 太っちょが、いつの間にか後ろにそびえ立っていた。
 メニューを眺めていた彼女の目つきが険しくなる。
「まだ、決まってないわよ!あんたね~、それが客に対する接客態度なの?」
「まあまあ……」
 慌てて止めに入る私。先ほどのやり取りをまたリフレインさせて、店内中の客に注目を浴びるのは避けたい。
「何をあんたは、こんな女をかばってるのよ?」
「いや、別段、かばっている訳ではなくてね…」
「ふん、何が別段よ…。難しい言葉使って、私を見下してるつもり?」
「そんなんじゃなくてさ…。とりあえず落ち着こうよ、な?」
「ただでさえお腹減ってイライラしてるのよ、私は!それをこんなところに呼び出されてさ。冗談じゃないわよ、まったく……」
 ここへ呼び出したのは、そっちのほうじゃないかと言いたいところだが、これ以上、居心地悪くなりたくなかった。
「まあまあ、じゃあさ、とりあえず早く出てくるランチメニューでも頼んじゃおうよ」
「何よ!ランチメニューなんて、三種類しかないじゃない。こんなもんで私を誤魔化そうったってねー……」
「誤魔化してないって…。とりあえず何か頼もうよ?それから話をしよう」
「ふん…。私は生姜焼きでいいわ」
 女は、少しばかり落ち着きを取り戻したようだ。メニューをパタンと閉じ、私に手渡してきた。
「なにする?」
 ゲッ…。太っちょウエイトレスが、また訳分からない事を言い出す。女の目つきが、再び険しくなるのを私は見逃さなかった。
「生姜焼きって言ってんでしょ!あんた、耳ないの?」
「Aかー、Bかー、Cかー」
「生姜焼きよ!生姜焼き!」
「Aかー、Bかー、Cかー」
「もう~!あんた、喧嘩売ってんの?」
「まあまあ…。お姉さん、『B』。『B』の生姜焼き。OK?」
「あい」
 私の言葉が通じたのか、太っちょは下がっていった。
 恐る恐る振り返ると、女は私に対し、恨みの籠もった目つきで睨んでいた。

「あんたね~…。何をあんなデブ女と、意思疎通図ってんのよ?」
 再び二人の状態になると、女は怒鳴りつけてきた。一応、喫茶店の中にいるので、注目を浴びるのは避けたいのだが。
「別にそんな事ないって……」
 やけに絡んでくるな、こやつ。少しばかりイライラが溜まってきたぞ。
「私はあの態度に怒ったのよ。何が『生姜焼き、OK?』よ」
「あの場は、ああしないと駄目だろうが」
「何がああしないとよ?」
「あの子は多分だけど、日本人じゃなく中国人か何かで、日本語分からないんだよ。だからABCで注文しないと理解しないんだよ。さっき俺が注文した時も同じだったからさ」
「何がABCよ!」
「だから、Aはハンバーグ。Bは生姜焼き。Cがミートソースでしょ?あの太ったのは、日本語分からないから、ABCって聞くんでしょ」
「じゃあ何?私がもし、ランチ以外を頼んだらどうするのよ?」
「そこまでは知らんよ。結局、俺もおまえも、ランチを頼んだじゃないか」
「それはそうだけど……」
 私たちカップルは、一体、何でこんな口論を展開しているのだろう。一度、頭を冷静にさせ整理させよう。
 まず、私らは、卵焼きに何をかけるかで喧嘩になった。いや、一方的に女がソース派の私にイチャモンをつけてきたのだ。
 しかも何をかけるのかから、半熟かどうかまでの醜い論争になり、挙句の果てに別れるとか抜かす始末。
 仕方ないので、説得させようと外で会う約束をして、今、ここにいるのだ。
 あの太っちょウエイトレスのおかげで、また大喧嘩になる一歩手前である。こやつが、店員の対応の悪さに怒るのも無理はない。
 女は、これ以上、文句を言っても仕方がないと思ったのか、無口になった。
「ん、待てよ……」
「どうしたの?」
「いや、考えてみたらさ、俺がここに来て三十分は経つんだよ」
「それで?」
「来た時にハンバーグセット頼んだのに、そういえば、まだ来ないなあと思ってね」
「確かに遅いわね。高級レストランなら分かるけど、喫茶店なら作り置きぐらいしてあるはずだものね。ランチメニューにもなってんだし」
「だろ?」
「あの太ったの、あんたの注文を忘れてんじゃないの?」
「確かに可能性的には大だな……」
「店員、呼べば?」
「ああ、ちょっとー!店員さ~ん!」
 私の呼び声に反応したのは、太っちょウエイトレスだった。出来れば別の子が良かったのだが…。
「なに」
 まるで教科書を棒読みするような発音で、聞いてくる太っちょ。女は、イライラして、太っちょを見ていた。
「ハンバーグ、まだ来ないの?」
「ん?」
「『ん』じゃねえって。ハンバーグ、まだかよ?」
「Aかー、Bかー、Cかー」
「あーはいはい…。Aね、A!」
「まて」
 短く言い残し、太っちょは去っていく。本当にここは金をとってゆっくりする喫茶店なのだろうか。人手不足とはいえ、よくもあんなのを雇ったものである。普通なら怒り出すのに、どこか吹き出したくなるような感覚もあった。
「本当すごい子を雇っているのね……」
 さすがにこやつも、私の言いたかった事を肌で実感したようだ。
「まあ、ある意味、あんなのがいるっていうのを見れたのは貴重だよ。わざとでなく、あれは地でやっているから、すごい」
「うん、私も今度、ユッコとかに教えてあげたいもん。ここの喫茶店にすごい子がいるって…。口で言ったんじゃ誰も信じないだろうしね」
 そういえば、女の機嫌がいつの間にか直っているような気がする。ここに来た時は、別れるつもりで怖い顔をしていたが、今では心なしか口元に笑みさえ浮かべていた。
 これはあの太っちょウエイトレスのおかげなのかもしれない。
 雨振って地固まるというが、この場合、太っちょ来て仲戻るといったところであろうか。私は太っちょに、ちょっとした感謝を覚えた。

 三十分前に頼んだハンバーグよりも先に、女の生姜焼きセットが運ばれてきた。
 先ほど、太っちょのウエイトレスに言ったので、忘れられている訳ではないと思うが、これは一体どういう事なんだ。
 女は、よほど腹が減っていたのか、「いただきまーす」と言いながらバクバク食べだした。見ていると、こっちまで腹が減ってくる。一口ぐらい、生姜焼き食べたいなあ…。
 そんな私などお構いなしに、こやつは舌鼓を打ちながら食べる事に集中していた。
 軽く腹の音が鳴る。イライラが増してきた。
「な、なぁ……」
「何よ?」
「う、うまそうじゃん。生姜焼き……」
「うん、そこそこいけるわよ」
 それだけ言うと、女は会話をやめ、再び食べる事だけに集中した。このアマ、何が「いけるわよ」だ。こっちは飯が来ないでイライラしたんだよ。ちょっとぐらい「あんた、食べてみる?」という返答を期待した私が馬鹿だった。怒りを爆発させたかったが、そんな事ぐらいで怒ると、また女は別れ話を切り出すだろう。
 店員を呼ぼうと振り返ると、あの太っちょウエイトレスが、何かを持って歩いてくるところだった。
 私は食い入るように太っちょの持つ皿に目が行く。
 白い湯気が見える。そして鉄板が見える。そう多分あれは、私の注文したハンバーグだ。太っちょの一歩一歩が物凄く遅く感じた。はよ、持ってこいや、ボケが…。
 ようやくテーブルにハンバーグが置かれる。太っちょが無造作にドンと置くので、つけ合わせのポテトが二つほど勢いで飛び出し、テーブルの上に落ちた。
「あ……」
「ごめん」
 何事もなかったように太っちょは、そのポテト二本を手で拾い、皿に戻して行ってしまう。
 私も女もその様子を黙って見ていたが、しばらくして女が吹き出した。
「すごいわね、あの子。今、手で落ちたポテトつかんで戻したでしょ」
「あ、ああ……」
 これからそのハンバーグを私が食うのか。そう思うと、このポテトを弾きたかった。
「あら、目玉焼きもついてるんだね」
 頼んだAのハンバーグセットには、ジュージューと音を立てる鉄板の上に、いんげんが五本、ポテトが四本、そしてメインのデミグラスソースがたっぷり掛かったハンバーグの上に目玉焼きが乗っていた。
 この場合、デミグラスソースがあるので、私は目玉焼きに何も掛けるつもりはない。
 私がフォークを持った時だった。女が、醤油を手に取る姿が視界に映る。
「おい、何すんだよ?」
「目玉焼きはやっぱ醤油でしょ」
「待てよ!そんな事したらハンバーグに醤油が掛かるだろ!やめろよ!」
「いいからいいから…。一度、あんたは目玉焼きを醤油で食べてみればいいのよ。もう病みつきになるわよ」
「ふざけんじゃねえって!」
 嫌がる私に構わず、女は目玉焼きの上に醤油を掛けようとした。思わず払いのける手。醤油の入ったビンが宙を舞い、床に落ちた。辺り一面、醤油の匂いで充満する。
「あんた、何をしてんのよ?」
「ふざけんじゃねえよ。デミグラスソースの上に醤油なんてぶっ掛けられて溜まるかよ!」
「いつもあんたはそう…。何事もチャレンジせずに、すぐ投げやりになる。そこが溜まらなく私は嫌なのよ!」
「おまえな~、どんだけ自分が無茶苦茶言ってっか分かるか?」
「強情なのはあんたのほうでしょうが!」
「自分で頼んだんだから、好きなように食わせろよ!」
「ほんっとあんたとは、もう、やってられないわ!」
「おまえな~……」
 自分から喧嘩を売るような事をしておいて、別れたい方向へ持っていく、何て勝手な女なのだ。
「私、もう帰るわ。これ以上、あんたの顔を見てたくないから」
「おい、待てよ!」
 私の制止など聞かず、女は席を立ち、料金も払わず喫茶店を出て行った。薄情な女だ。このままでは気が治まらない。料理に手をつけないのはもったいないので、私は、乱暴にフォークでハンバーグを千切り、口に放り込んだ。
 うまい……。
 思ったよりもハンバーグはうまかった。後ろ髪を引かれる思いだが、今はあの女のあとを追い駆けるのが先決である。
 床には、醤油が辺り一面に広がっていた。この店の客全員が私を見ている。恥ずかしい思いもあったが、今は怒りのほうが勝っていた。怒りは羞恥心よりも強いのである。
 伝票を持って、レジへ行く。何故かおどおどしているウエイトレスに、金を払い、私は喫茶店をあとにした。

 

 

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