岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

新宿コンチェルト02

2022年04月25日 21時39分40秒 | 新宿コンチェルト/とれいん

 百合子はそのまま俺の家に泊まり、翌朝早くになって会社へ出掛けた。まだ眠かったが、俺も早速動かないといけない。
 ホームページ作成について、近所の和菓子屋を営む榊さんに協力を仰ぐ事にした。この人はパソコンのスキルがあるので、一緒にやるなら心強い。電話を掛けてみる。
「おう、龍一か。どうした?」
「実は歌舞伎町で今度、ヘルスをする事になったんですね。それで店のホームページを作るようなんですが、榊さんの力も借りたいなあと」
「へえ、面白そうだな。これから配達とかあるから、夕方ぐらいになったら顔を出しに来いよ」
「分かりました」
 こっちの滑り出しは順調そうだ。坂本も一週間以内に改装が終わるって言っていたし、すぐ給料が発生するだろう。そういえば若松はその間、何をしているんだ? あいつ、弟がオーナーだからって、アグラを掻いているだけなんじゃ……。
 まあ人の事なんて、どうだっていいか。まずは店の立ち上げに対し、自分がやらなきゃいけない事をやろう。商売柄、どうしても不安を抱かせてしまう。だからこそ百合子を一刻も早く安心させられるように動かなきゃ。


 まずやる事の整理だ。ホームページ作成に、パソコンを一台用意する。他の誰もパソコンを扱えないので店がオープンしたら、俺だけでそれらをすべてこなさないといけない。パソコンをやった事がない人間は、簡単に物事を言う。自分ではまるでできないくせに。それらも念頭に入れながら準備を進めないと、後々大変だ。
 風俗で働くという意識でなく、一つの店をオープンさせ成功させるプロジェクトとして割り切れば、冷静かつ迅速に物事を進める事ができるだろう。成功した暁に待っているのは多額の報酬。サラリーマンでは稼げないような金を再び手にして、俺は百合子と生まれてくる子供の為に……。
 夕方になってから榊さんの店にお邪魔する。
 まずホームページを作ると具体的に言っても、どのようなものを作りたいのか? そういったデザインなどを決めるのはすべて俺の役目である。ドメインも契約しておいたので、早速仕事の話を進めた。
「なあ、龍一。俺の同級生で袴田っているだろ?」
「ええ」
「あいつも色々な仕事をしてきたから、こういった作業にはとても詳しい。だからあいつも仲間に入れないか?」
「う~ん……」
 単純に作成料としてもらった二十万を十万ずつ山分けしようと思っていた俺は、もう一人加わる事で報酬が三分の一になってしまう為、即答を避ける。
「おまえは新宿、俺も家業があるし、いざって時の為にももう一人いたほうがいいと思うんだよな」
「分かりました。袴田さんにも協力を仰ぎましょう」
 こうして榊さんの同級生、袴田も入れる形になり、俺は二十万の金を三等分した。
「では先に報酬を渡しておきます。均等に一人、六万五千円ずつで……」
「おい、龍一。おまえがもってきた仕事だぞ? おまえが十、俺たちで五ずつでいいよ」
「いえ、こういうのって差をつけず、均等にしておいたほうがいいと思うんで」
「…たく…。ほんとおまえのそういうところは親父さんそっくりだな」
「あんな奴と…、一緒にしないで下さい……」
「悪かったな」
「いえ……」
「とりあえず残った五千円ぐらいおまえが受け取っておけよ、な?」
「ありがとうございます。では、俺が七万っていう事で受け取っておきます」
 親父にそっくりだ。よく地元の人間からはそう言われる事が多々あった。顔の作りが似ているのはしょうがない。同じ遺伝子の元で生まれてきたのだから。しかしあの親父と生き方や性格が似ていると言われるのだけは嫌だった。
 おじいちゃんが一代で築き上げた店と地位にしがみつき、ただその財産を自由に使って遊び呆ける男。自分で生んだ子供を教育などまったく無視し、異性にモテるのをいい気になって浮気のし放題。学校の養育費など払いもせず、すべておじいちゃん任せ。それでいて俺ら三兄弟を育ててくれた育ての親である妹のユーちゃんには理不尽な暴力を振るう。
 様々な人間を見てきたが、腐った人間という意味合いで俺の親父はトップレベルに入る。
 ヒステリックだった母親は虐待を繰り返し、俺が小学二年生の冬、家を出て行った。幼き俺の左まぶた上に二つの傷跡を残し、身勝手に出て行った母親に対し、常に憎しみの対象でしかなかった。俺が小説を書き始めるまでは……。
 新宿歌舞伎町のいかがわしいビルの地下でひっそりと書いた処女作『新宿クレッシェンド』。あれは自身が受けた虐待の記憶だけを主人公にプレゼントした作品。完成させたあと、不思議と心の中にあったモヤモヤが少しスッキリしたような気がした。おそらく俺は、自身を作品に投影する事で、過去の傷を浄化させられる事実に気がついたのだろう。
 今になって分かる。メチャクチャだった母親だが、親父がもっと親身になって接していたら、あんな風にならなかったんじゃないのかと……。
 別に母親を許した訳じゃない。今後の俺の人生とはまるで無縁、無関係になっただけ。だからこそ、『お袋』という表現を使わず、今日まで『母親』という表現に未だ拘っているのだ。
 すべては過ぎ去った過去の話。俺は百合子と我が子の為にも、幸せで明るい未来を築いていかなければならない。
 オーナーたちの意向で店名は『ガールズコレクション』と決まっていた。現時点で分かっている情報は元裏ビデオ屋の『フィッシュ』の場所というぐらい。なので店の住所や電話番号、そして簡易な地図などを作成した。近くにヌード劇場の『TSミュージック』があるのは非常に分かりやすい。それに区役所の真裏に位置するので、客も場所が分からないという事はないだろう。
 他の風俗店のホームページを見ながら、どの店のが見やすいかなどを検討していく。
 俺、榊、袴田の三人はホームページの型を作り、あとは料金システムや働く女の写真さえ揃えば完成というところまで持っていった。この作業で三日間。あと四日の内に店で使うパソコンを用意すれば俺の仕事はとりあえず終わる。
「榊さん、俺、歌舞伎町で打ち合わせがあるんで、明日パソコンを買いに行くのお願いしてもいいですか? フォトショップを多様すると思うんで、CPUはできれば『ペンティアム4』の二・五ギガ以上。メモリーも最低五一二は必要です。ハードディスクは百以上。予算は二十万以内でお願いできますか?」
「龍一、それならよ。いっその事自作でパソコン作っちゃわないか?」
「自作でですか?」
「ああ、そうすれば自分仕様での一番いいものができるだろうし、価格だって安く済ませる事ができる」
「確かにそうですね」
「明日何時なら時間空いているんだ? おまえも一緒に行こうよ。それで相談しながら一緒にパソコンを作っちまおう」
「分かりました。では、打ち合わせ終わったら連絡入れますね」
 店用のパソコンについて榊のアイデア通り、店頭で売っているものよりも自家製でいいスペックのものを作る事に決めた。確かに諸々がセットで売られるパソコンよりも、自分でCPUやメモリーは高性能のものを使い、必要なアプリケーションソフトは自分たちで入れたほうが、格安でいいパソコンが作れる。
 百合子に仕事が着々と進む過程を説明すると、彼女はお腹を優しく撫でながらニコリと笑顔で頷く。
「順調に行けば、一週間で本当に店はオープンするだろう。立ち上げ時ってもんは、いつだって忙しいものさ。とりあえずホームページ作成料で俺の取り分が七万ある。電車賃やら色々付き合いがあるだろうから、三万は財布に入れておくけど、残りはおまえが管理してくれ」
「いいよ~、龍一。出てきた時だって三十万渡してきたでしょ?」
「馬鹿、そんなのいちいち気にすんなって」
「じゃあ、龍一とのデート代として取っておくからね」
「変な気を使うなって」
 こいつと温かい理想の家庭を作りたかった。
 生まれてくる子供にはたくさんの愛情を。
 そして一緒にいる百合子にもたくさんの笑顔を。
 狭く暗い穴の中で膝を抱えながら、そんなイメージが強い自身の幼少時代。だからこそ温かい家庭に対する欲望は人一倍強い。
 いつも母親の虐待に怯えながら日々を過ごし、操り人形だったあの頃。
 母親が出て行ったあと待っていたのは、親父の理不尽な暴力だった。
 勉強ができても強くならないと殺されちゃう。そんな想いが強く心に根付き、気付けば喧嘩は負け知らず。そしてより強さを求める為に大和プロレスの門を叩いた。
 肘さえ壊していなければ、本当ならあのリングの上で戦っていたはず……。
 それが今じゃ歌舞伎町でこんな事をしなければ生きていけないような生活を送っている。
 でも、それでいい。温かい家庭を築けるなら何だっていい。

 四日ぶりの歌舞伎町。滑り出しは順調である。
 あとは坂本がどの程度、店の改装を済ませているか? あと若松の動きは?
 西武新宿線小江戸号に乗り、景色を眺めながらそんな事を考えていた。自分のノートパソコンに作ったホームページのデータを入れ、今日はそれを四人のオーナーたちへ見せるつもりだった。
 オープンするまでに、まだまだ大事な事はある。肝心の店で働く風俗嬢は、どのぐらい集まったのか? そこが一番の肝である。どんなにいい宣伝をしても、いい女がいなきゃ、その店は崩壊するだけ。
 その点に関してはオーナー連中の人脈や、裏本を作っていた坂本のつてがあるので安心していた。
 今日の打ち合わせでは、働く女の子の写真を数枚持って帰りたい。その為自分のデジカメまで用意している。どんなに凝ってホームページを作っても、女の写真がないと味気ないものでしかない。
 歌舞伎町へ到着すると、また焼肉屋『伊幸伊』に集合する。
 俺はパソコンを開き、ホームページの型はこんな感じでできていると説明をしてみた。
「神威ちゃん、女の子の写真が全然ないじゃん」
「だからそれは実際に店の女の子の写真がないと、無理じゃないですか」
「これだけじゃいまいち分からないからさ、適当にネットにある女の写真使って作ってよ」
 坂本は平気で馬鹿げた事を抜かす。
「坂本さん…、勝手にそういった画像を使うと、著作権の侵害等で後々面倒臭い事になるんですよ?」
「大丈夫だよ。いちいちそんなもの見ないでしょ」
「そういう問題じゃないですよ。勝手に許可なく他人の写真なんて使える訳ないじゃないですか」
 案外この男っていい加減かもしれない。今後、少し用心しながら接したほうがいいな。
「バレなきゃ問題ないのに、固いなあ」
 じゃあ、バレたら誰が責任を取れるって言うのだ? よせって。あまりイライラするな。今は仕事の件でここへ来ているのだから。
「今日はこんな感じで進んでいますって言うのを俺は伝えたまでです。それよりも坂本さんや若松さんの進行具合はどんな感じなんですか?」
「とりあえず若松のお兄さんには、情報館の人間やレンタルルームと接触はしている」
「レンタルルームってどんな感じなんです?」
 若松の兄に尋ねてみる。
「よく風俗行くと簡易ルームあるでしょ? 狭い部屋に小さめのベッドがあって」
「ええ」
「あんな感じでシャワーもついて、部屋だけ時間で貸すって感じのところかな」
「値段はいくらぐらいなんです?」
「使う時間によっても料金は変わってくるけど、だいたい一時間だと二千円ぐらい」
「では、そういった料金も込みで、料金設定をしないといけないですね」
「そういうのはあとでいいじゃん」
「坂本さん…、料金決めないとホームページだってシステムの部分が書き込めないし、話にならないですよ。それに店で働く女の子の集まり具合はどうなってんです?」
「オーナーの若松さんの知り合いが一人、とりあえず決まったかな」
「そんなんでどうするんですか? 一週間でオープンさせるんじゃなかったんですか? うちらの給料だってオープンしないと入ってこないんですよ?」
「分かってるって。ほら、焼肉焼けているよ。せっかくご馳走になるんだから食べなって」
「……」
 目の前のビールを一口飲んでから、黙って肉を食べた。そんな俺たち従業員のやり取りを無言で眺めている四人のオーナーたち。
「坂本さん、店舗の改装はどんな感じですか?」
「店舗のほうなんだけどさあ。知り合いの奴がまだ動かなくてね」
「え? 何を言ってんですか? あと三日で一週間ですよ?」
「分かってるって! それまでに何とかすればいいんだろ」
「本当にお願いしますよ」
 この男と一緒に仕事をしていくなんて、本当に大丈夫なんだろうか? 感情的になってもしょうがない。一応一週間後にはオープン予定なのだ。いや、こんな状態でどうやってオープできる?
 働く風俗嬢の確保。それに料金設定。それが決まらないと、店の広告や割引券すら作りようがない。これでは何の為に歌舞伎町まで来たのか意味が無くなってしまう。
「あと三日で店舗の改装。それに料金は最低でも決めて下さいね。あと女の子の確保も」
「分かってるって」
 面倒臭そうに答える坂本。一抹の不安を感じつつ、俺は歌舞伎町をあとにした。

 地元へ戻ると榊と共にパソコンショップを巡り歩く。自分が欲しいスペックのパソコンを店頭価格で購入するとなると、二十万円の予算をどうしてもオーバーをしてしまう。榊の言うように自作でパソコンを作るのがベストだと思った。
 CPUやメモリー、ハードディスク、マザーボード、そしてグラフィックボードなどを話し合いながら決め、値段を合計すると十五万以内に収まる。これならデジカメとプリンターも買えるな。
「榊さん、二万ぐらい余るんですけど、良かったら娘さんにせがまれているものとかってありますか?」
「ん、何で?」
「いや、忙しい中こうして付き合ってもらっているんで、経費の中で一緒にしちゃおうかなって」
「おまえのポッケに入れればいいじゃねえか」
「いえ、あくまでもこのパソコン費用の中でうまく誤魔化して納めたいので、残ったらオーナーに戻ってしまうだけです。それなら予定より安く済むので、榊さんの手間賃代わりにどうかなと」
 自分の家業と平行して、時間を作ってもらっているのだ。このぐらいしても罰は当たるまい。
「うーん、そっか。何だか悪いな」
「いえ、こちらこそ一緒に手伝ってもらって感謝していますから」
「実は上の娘が新しく出たPSPを欲しがっているんだよな」
「プレステーションポータブルってやつでしたっけ?」
「ああ」
「じゃあ、それも一緒に買って、領収書を一緒にしてしまえば問題ないですよ」
「龍一…、悪いなあ」
「いえいえ、気にしないで下さい。まだパソコンを組み立てるって仕事や、ホームページ作成の件も残っていますから」
 まず自分の仕事だけはキッチリしておこう。
 いい加減な坂本らと一緒に仕事をするって事は、たくさんの問題点が出てきそうだ。
 榊さんの家に向かい、パソコンの組み立てを始める。この辺になると俺はほとんどお手上げ状態なので、そっち方面に詳しい榊さんがいて非常に助かった。
「おい、龍一。ホームページの件だけどさ。店の女の写真は?」
「それがまだ集まっていないようなんですよね……」
「え、じゃああと三日でオープンなんて無理だろ?」
「…ですね……」
「早いところオーナー連中をせっついて何とかしなきゃなあ」
「そのつもりで話はしてきたんですが……」
 それでも今日歌舞伎町で話し合った事を思い出すと、不安でいっぱいになる。
 しかし、もう走り出してしまったのだ。今さら後戻りはできない。

 毎日のようにパソコンでデータを作り、着々と進行させていく内に一週間が過ぎた。
 坂本に任せた店舗も新しくなっているだろうし、若松が情報館の類はすべて抑えているはず。一日も早く店をオープンさせ、うまく成功させたいものだ。
 現時点で給料というものがまるで発生せず、電車賃すら出ない状況。できれば新宿へ行くのですら遠慮したい感じだ。
 あれから三日経つ。坂本もその間でやってくれているだろう。祈るような気持ちで小江戸号に乗り、近況を報告しに歌舞伎町へ向かう。
「……」
 目の前での進行具合を見て、思わず俺は固まった。想定していたのとはまったく逆の展開に、驚きを隠せない。
 一週間もあれば、すぐに店舗なんて綺麗にできると豪語した坂本。結局『フィッシュ』だった店舗は何一つ変わっていなかった。この一週間、こいつは何をしていんだ?
「坂本さん、何も変わっちゃいないじゃないですか」
「いやー、まいったよ。知り合いのマレーシア人の『ゴウ』って奴に金を渡して頼んだんだけどさ。パチンコに入り浸って何も仕事しないんだよね」
「はあ? そんなのすぐやらせればいいじゃないですか」
 おまえがその男に勝手に頼んだんじゃないか。そう言いたいのをグッと堪える。
「それがさ、昼間だと笹倉連合の幹部が東通りにいつもいるでしょ」
「それが何の関係あるんですか?」
「いや、ゴウの奴、借金あってさ、あそこから。だから顔を合わせられないんだよね」
 まるで焦点のズレた事を淡々と話す坂本。そのいい加減なマレーシア人にお願いしたのはおまえだろうとつっ込みたくなる。
「もうこっちは女の子の写真があれば、すぐにでもホームページ完成するんですよ。店用のパソコンだって用意できたし、あとは店舗だけじゃないですか」
「神威ちゃんもさ、たまには歌舞伎町に来て手伝ってよ」
「はあ? だから俺は俺の引き受けた仕事をちゃんとやってるじゃないですか」
「パソコンの事なんてこっちは分からないからさ」
 だから俺が引き受けたんだろうが……。
「あと女の子の写真ないんですか?」
「う~ん、まだ揃ってなくてね」
「じゃあこの一週間、何をしてたんですか?」
「だからゴウの奴がさ……」
「一刻も早くお願いしますよ」
 言い訳ばかりの坂本にうんざりしながらも、諭すようにお願いした。
 本当にこんな奴と組んで大丈夫なのか? 早くから感じた不安が確信に変わりだす。
 それから毎日のように打ち合わせと称し、歌舞伎町へ呼ばれたが、店舗の改装はほとんど進んでいない。
 無駄に過ぎていく日々。
 さすがにオーナーの一人である村川へ文句を言った。風俗を一週間で始めると言いながら、俺は一円も給料をもらっていないのだ。それに歌舞伎町へ来る電車賃だって往復で特急料金を含めると、二千円ぐらいになる。
「まあ店舗の事は坂本に任せたからなあ。給料が欲しかったら、一日も早くオープンさせてくれよ」
 村川はうまく責任転換するので話にならなかった。

 二週間もあれば余裕でオープンできると踏んだ『ガールズコレクション』。それが未だ改装工事さえ済んでいない現実。『フィッシュ』の間取りなど四坪ぐらいの狭さなので、業者に頼めば二日もあれば終わるはず。坂本のグダグダ感には嫌気が差してくる。そんな状態であっという間に一ヶ月が過ぎた。
 普段は大人しい百合子も、俺のしている行動を責めるようになる。当たり前だ。今、彼女の体内には俺たちの子供が育っているのだ。それを何の収入もなく、毎日のように電車賃だけ自腹で消えていく。将来に対し、不安になるのも無理はない。
 無責任な坂本は「俺が一番可哀相だよ。こうやって神威ちゃんには会う度嫌味を言われるし、ゴウの奴は『もっと金をくれ』って仕事もしないしさ」と訳の分からない事を言っている。
 もう辞めよう。こんな状態で何が生まれるのだろう? そう思った俺は、村川に辞める決意を伝えた。
「おいおい、おまえが抜けたらどうするんだよ?」
「だって給料は出ない。坂本さんはあんな調子でこれ以上何をしろって言うんですか?」
「しょうがないだろう。あいつが頼んだって外人がいい加減な奴なんだから」
「それと俺の給料が出ない事とはまったく関係ないじゃないですか。毎日こうして歌舞伎町まで出てくるのだって金は掛かるし、話なんてほとんど進展しないじゃないですか」
「分かった分かった…。とりあえず五万円やるから。坂本とかに言うなよ」
「いえ、そういう問題じゃなくて……」
「おまえが抜けたら話しにならないだろうが。いいから取っておけ」
 強引に五万円の金を渡す村川。一ヶ月準備で駆けずり回り、たった五万の金しかもらえないなんて冗談じゃない。電車賃だけで数万掛かっているのだ。
 焦りと苛立ちは、必然的に坂本へ向かう。
 会う度坂本には店内改装を早く済ませるよう文句を言った。
「もし坂本さんがゴウって奴に何も言えないなら、俺が直接会って話します。もう金を受け取ったんでしょ? パチンコに使ったとかそういうのはそいつの勝手ですから。訳の分からない事を抜かすなら、事と次第によっては力づくでも動いてもらいます」
「だから深夜になるとちょっとずつやってるじゃん。俺だって一緒にやってんだよ」
「じゃあ何でこんな一ヶ月も掛かっているんです? どこがプロ顔負けなんですか? いい加減にして下さいよ。あとデジタルカメラもパソコン代金の中から工面して買っておきましたから、女の子の写真も撮って置いて下さい。じゃないとホームページが意味ないですから」
「分かったから……」
 坂本のずさんさには呆れるばかりだ。

 意味のない打ち合わせを終え、時計を見ると夜の十一時を回っていた。
 遅くなるのは予め予想していたので、夜の九時に西武新宿駅に行き、前もって小江戸号の特急券を買っておく。自動券売機でなく駅の特急券売り場で買うと、通常の切符よりも三倍ぐらい大きな切符になる。小江戸号は朝の通勤時間の上りと、夕方からの下りの時間帯は混雑する時間で切符も売れ切れる事が多かった。特に喫煙車両の四号車はほぼ乗る直前に行くと、席がなくなっているのが現状だ。帰りの時間を予測して前もって買っておく。それだけで四号車の窓際の席が取れ、ゆっくりタバコを吸いながら帰れるのだから、俺はよく事前に大きな切符を購入する事が多かった。
 改札を通ると左手には小江戸号の切符を求めて、券売機の前にたくさんの人が並んでいる。無常にも電光掲示板に表示されるあと何席という数字は、並んでいる人たちに対して蜘蛛の糸を垂らしているようにも見えた。その情景を見る度、前もって購入しておいて良かったと思う。
 真っ直ぐに小江戸号に向かって歩き、切符を取り出して見せると、担当の駅員が薄めのハンコを押す。西武新宿からの乗車口は、各先頭の一号車からか七号車のみであった。俺は一号車から乗り込み、真ん中にある四号車へと向かう。ここまではいつもの日常と何ら変わりはなかった。
 俺の切符は『2A』。こちらから四号車に向かって右側の窓際の席だ。
 四号車まで辿り着いて自分の席に座ろうとすると、俺の席に女性の荷物が置いてあった。持ち主の女性は近くにいない様子だ。
 多分トイレかジュースを買いに行く時に席を間違えて置いたのだろうと思い、荷物を隣の席『2B』に移動しようと思った。手さげの部分をつかもうとして、慌てて思い留まる。もし最悪の場合、「勝手に荷物を触った」とか「セクハラだ」と騒ぐ馬鹿もいる。バックのところに切符が二枚さしてあったが、よく見てみたら小江戸号の四号車『2B』切符と、通常の乗車券だった。
 とりあえずこの場は何もせずに相手の女性を待っていればいいかと判断する。俺は通路を通る客の邪魔にならないように立って待つ事にした。相手が戻ってきたら荷物をどかしてもらえば済む話なのだから……。

 三分ほど時間が経ち、白のハーフコートを着た茶色の髪のメガネを掛けた女性が席に戻ってきた。その女性は俺にまったく気づかない様子で黙って『2B」席に座り、荷物をどかそうとする気配は微塵も感じられない。俺は少しムッとしながら女性に言葉を掛ける事にする。
「おい、姉ちゃん。荷物どかしてくれ。じゃないと座れねえよ」
 言い方は少し乱暴だと思ったが、相手の態度を見ていたら、これぐらいでちょうどいい気もした。どっちにしてもこれで相手が、俺の座席から荷物をどかしてくれればいい話なのである。しかし予想に反してメガネの女はキッとこっちを睨みつけてきた。
「はあ? あんた何言ってんの? ここは二つとも私の席だから」
 訳分からない返答に思わず面食らってしまったが、ここは毅然としないといけない。自分の切符を相手に見せながら話し出す。
「なあ、よく聞いてくれよ。俺の切符はこの席なんだよ。見ればわかるだろ。Aになってんだろ? 分かったらサッサと荷物をどけてくれ」
「あのねー…、私はここの切符と隣の席は子供料金の切符だけど、ちゃんと買ってんの。ゆっくり座って行きたいしね。それで隣の席の切符は無くしちゃったけど、駅員さんがいいって言ったの。だからここは私の席なの。分かった?」
 切符を無くしたけど座っていいなんてそんな事、果たして西武の駅員が言うだろうか? 十年近くずっと小江戸号に乗ってきたから、そんな台詞は信じられない。
「じゃあ、俺の席はどうなってんだよ。この席の切符を都合よく無くしたって言ってるだけだろ? そうじゃないと何故、俺の切符がこの席になるんだ? いいか? 切符を持ってるのは俺なんだから、そこの荷物どけな」
「何時に切符買ったんだよ!」
 切符の大きさを見れば一目瞭然だった。小さい券売機はすぐ発車する事前の切符しか買えない為、俺の買った切符のほうがどう考えたって先に購入しているはずだ。
「時間を言ったところで、おまえが恥をかくだけなんだぞ。そんな事どうだっていいから、とっとと荷物をどかせよ」
「じゃあ、駅員呼べよ。駅員呼んで来いよ!」
 まるで話にならない。そう判断した俺は駅員を捜す事にした。
 回りを見渡すと場内の客がほとんどこちらに注目している。外で電車を待っている人たちも注目していた。いい赤っ恥だ。
「おい、早く駅員呼んで来いよ!」
「……。おまえ…、誰に口利いてんだ? 自分が抜かした台詞、忘れんなよ」
「いいから呼んで来いよっ!」
 メガネの女はさらに大声で叫んでいる。周りの迷惑も考えられない本当にただの馬鹿な女だ。
 文句を言いながらも、図々しく座席に座っているメガネの女。反対に俺は立った状態で話している。さらに男と女の図式。はたから見れば、俺が悪者にしか見えないだろう。
 相手にせず電車の外を見ると、駅員が歩いていた。場内の客はともかく外にいる人たちでさえこちらに注目しているのに、何でこの駅員は気づきもしないんだ?
 俺は四号車と三号車の間のデッキに行き、窓を叩いて駅員を気づかせようとした。そこで駅員はようやく気づき、こちらを不思議そうに見る。
「すぐに来てくれ」
 俺が声を出しても電車の外にいる向こうには聞こえてない様子なので、さらに大きい声を出しながらジェスチャーも加えアピールした。

 駅員の姿が見えるまで俺はデッキで待ち、一緒にメガネの女のところへ向かった。駅員が直接言えば、あの女も言う事を聞くだろう。
「駅員さん、言いましたよね?」
 四号車に着くなり女は喚きだした。こいつには社会的常識というものがないのか? 女は興奮しながら捲くし立てている。俺は駅員にまず切符を見せて確認してもらう事が先決だと思い、話の途中で口を挟む。
「すみません、ちょっとこれ見て下さい。ここは俺の席ですよね?」
「駅員さん! 私にいいって言いましたよね?」
 勢いが止まらない馬鹿な女。後々の事も考えると、駅員の確認は大事な要素になってくる。まずは女を制さないといけない。
「お姉さん、ちょっと待って。落ち着けって。駅員さん、この切符はこの席でしょ?」
「は、はい、そうですね」
 駅員が私の切符を確認した途端、女はまたすごい剣幕で喚きだした。
「ちょっと駅員さんがいいって言ったんでしょ? ここ二つとも私の席でしょ?」
 その剣幕に押されたのか、駅員は座っている女の目線に合わせるように腰を下ろしだす。困った顔をしながらオロオロとしていた。
「ええ、おっしゃいました。はい…。はい、そうですね。大変申し訳ありません」
「おい駅員さん、何考えてるんだよ。この席を何とかしてくれって、さっきから言ってるじゃん。何の為に呼んだんだって」
 何故この状況でまず女に謝るのか理解できなかった。これじゃ他の乗客には俺一人が悪者に見えてしまう。駅員は俺の胸辺りに手を出して静かに制しだした。
「落着いて下さい、お客さん」
 ひと言だけそう言うと、その駅員はまた女のほうに向いて座りペコペコしていた。一瞬カッとなったが、ここで怒っても仕方ない。座って女の対応をしている駅員は通路を塞いだ形になっている。そこへ乗客が通り掛かっても、駅員はまったく気づかない様子だった。
「ええ、すいません。はい……」
「おい、駅員さんよ、どうでもいいけど、後ろ通してやんなよ。客がさっきから通れないで困ってるよ」
「あ、はい。すいません」
 駅員が立ち上がり客を通している間、メガネの女は俺に向かって勝ち誇ったように怒鳴りだす。
「あんた、一体何時に買ったんだよ。言ってみろよ」
 自分の目つきが険しくなるのを感じる。俺は間違っているのか? どこかに自分の落ち度がある? いくら考えても見当たらない。
「時間を言ったら、おまえが公衆の面前で恥をかくんだぞ」
「何時だって言ってんだよ。言えよ!」
「えー、お客さまは何時に切符をお買い上げになったんですか?」
 駅員までメモ帳を片手に、切符を購入した時間を聞こうとしてくる。何でこんな簡単な問題をここまでこじらせてしまうのだろうか。どんどんイライラが増してきた。
「買ったのは九時。俺は窓際に座りたいから、ちゃんと前もって買ってるんだよ」
「はい、九時ですね」
「そんなのいちいち確認しなくたって切符の大きさ見れば、すぐに分るだろ?」
 メモ帳に九時とわざわざ書く駅員。買った時間が分かったところで何をしたいんだ? 公衆の面前でここまで恥をかかされた俺に対し、どう責任をとってくれるというのだろうか?
「お客さまは……」
 メガネの女に駅員が声を掛けた時だった。年配の駅員が四号車に現れる。
 やっと話の分かる駅員が来てくれたか。ひと言メガネの女に荷物をどかすよう言ってくれればいいだけの話なのだ。
「お客さま……」
 俺にも聞こえないぐらいの小声で、年配の駅員は女に話し掛けた。馬鹿な女はどんどん興奮して手がつけられなくなっている。座席についている備え付けのテーブルまで手で引っ叩いている状態だ。
「おい、駅員さん。どうでもいいけど、早く荷物をどかさせてくれ」
 年配の駅員はメガネを掛けていて、ガラスの奥から鋭い視線を俺に投げかけてくる。
「お客さん…。これ以上、電車を遅らせる訳には行きませんから」
「何だと……」
 年配の駅員の言葉が信じられなかった。今の言い分じゃ、俺が揉めて電車を遅らせている事になる。このままじゃ小江戸号の乗客全員に逆恨みされてしまう。体中が熱くなった。俺が電車を遅らせていると言うのか……。
「あなたのせいで、この電車は十五分も遅れているんです。落ち着いて下さい」
「ふざけんなっ! 誰がこんなちっぽけな事で電車を遅らせろと言った? 周りの客に迷惑だろ。サッサと発車させろ。ふざけんな!」
 年上の人に対する言葉使いではないのは百も承知だった。今は客としての立場、自分自身間違ってないという理念を持ちたい。後ろで馬鹿な女がギャーギャー騒いでいる。
「こんな馬鹿な女、放っておいて早く発車させろ!」
 これだけ怒鳴っても、駅員は女の事を気に掛けていたのでさらに続けた。
「早く行けって! こんなのほっとけよ!」
 強引に駅員二人を俺の前に行かせ、入り口の一号車に向かって歩き出した。
 女の声が背後で聞こえたが、気にせず駅員二人を後ろからせっつきながら通路を進む。三号車、二号車、一号車を通りながら他の客たちの視線が突き刺さるのを感じる。一号車を越えて一番端のデッキに着くと、二人の駅員は何も言わずに電車の外へ出てしまう。
 ひと言文句を言いたかったが、これ以上電車を遅らせるのも嫌だったので、そのままデッキで立ちながら待っていた。
 坂本の馬鹿が適当な事ばかりやっているから、こんな不運に巻き込まれるんだ。誕生日の翌日警察にパクられ、仕事をしても給料は入ってこない。挙句の果てに、変な女には絡まれる。本当に三十三歳になってから、ロクな事がない。
『車両点検があった為、電車が遅れてしまいました。まことに申し訳ありません。只今より電車が発車します』
 嘘の車内アナウンスが鳴り響き、ようやく小江戸号は静かに発車した。

 今日仕事終わって帰ったら、百合子と食事に行く約束をしていた。ひょっとしたらいつもより帰るのが長引くかもしれない。ひと言連絡を入れておこう。俺は携帯電話を取り出して、一号車のデッキで電話を掛けた。
「もしもし、俺だ。ちょっと小江戸号の中でトラブルがあってさ…。うん、大丈夫だよ。問題ない。こっちには何の非もない事だから…。ああ、本川越駅に着いたら少し話し合いしようと思ってる。ああ…。だから今日は遅くなるかもしれないから寝ちゃいなよ。明日詳しく話すよ。うん、お休み……」
 電話を切ったぐらいにちょうど高田馬場に止まる。電車が出ると場内アナウンスがかかる。西武新宿を出発してから時間にすると六、七分ほど待っている事になる。
 あの駅員二人は中で何をしてるんだ? そう思うと無性にイライラしてくる。
 車掌室のドアを乱暴に叩くとドアがすぐに開いた。出てきたのは先ほどの駅員二人とは別の若い駅員だった。
「あれ、あの二人はどうしたの?」
「新宿駅にいますけど……」
 あいつら、あれだけ場を乱しといてあのまま駅に残っただと?
「何考えてんだよ。俺は十年この電車に乗ってるけど、こんな失礼な真似は初めてされたよ。俺のどこに落ち度があるってんだ? ふざけやがって…。ま、あなたにこんな事言っても筋違いだけどな」
「すみません…、アナウンスだけさせてもらってもよろしいですか?」
「全然構わないですよ」
「ありがとうございます」
 車掌はそう言うと車掌室に入り、車内アナウンスを始めた。終わると申し訳なさそうな表情で出てきて頭を下げてくる。
「あの駅員は何考えてんだ? 公衆の面前で赤っ恥かかしといて」
「いえ、お客さまのおっしゃる通りです。私も話を聞きましたけどお客さまは間違っておりません。あの女性の乗客とうちの駅員の応対が明らかに悪いです。お客さまはあの座席の切符を持ってらっしゃるのですから、当然の行動だと思います。本当に申し訳ありませんでした」
 初めてまともな感覚の駅員に出会えた。熱くなっていた頭の中が徐々に冷静になってくる。これで落ち着いて話ができそうだ。
「いえ、駅員さんが謝る事じゃないから…。あなたのおかげで冷静になる事ができた。ただあの馬鹿な女とさっきの駅員二人は絶対に許せない。自分たちで騒ぎをよりデカくして客に罪をなすりつけ、電車が動くと駅に逃げてしまう。そんな都合いい事ってありますか? 俺はそんな真似されて黙って見ているほどお人好しじゃないですから」
「ええ、お客さまの気持ちはとても分かります」
「そうでしょう、駅員さん」
「え、駅員じゃなくて、車掌なんですけど」
「ああ悪かったね。車掌さんはあの二人の駅員の名前分からないか?」
「すみません。今の段階ではまだハッキリとは分からないです。私も本川越に着いたら呼ばれているので、色々と状況を話さなければなりません」
 考えてみたらこの車掌さんも犠牲者なのだ。この人に罪はない。俺もこのままこの件をうやみやにする訳にはいかない。悪いのはあの女と駅員二人なのだから。
「車掌さんは本川越に着いたら呼ばれているんですね?」
「はい」
「では、その場に俺も一緒に行かせて下さい。駅員の名前だって知りたいですし…。この件に関して俺は引かないし、逃げるつもりもありませんから」
「はい、分かりました」
「それに車掌さんがこの件で責任問われるのはおかしいから、俺は車掌さんを守りたいんです」
「い、いえ…、そんな……」
「もし車掌さんが始末書とか書かされるんでしたら、俺が絶対に止めさせます」
 明確な強い意志を持って相手に伝える。自分の理を通したかった。
「車掌さんは俺に対して冷静に対処してもらって、これでも感謝してるんです。俺が怒っているのは、馬鹿な女とあの二人の駅員だけですから」
「分かりました」
「それとあの女の首根っこつかんで、ここに連れて来ていいですか?」
「お客さま、それは困ります。お気持ちは分かりますが、他のお客さまのご迷惑になります。ここは私の顔に免じて許してもらえないでしょうか」
 自分に責任がないのに、低姿勢で礼儀正しく謝れる車掌。ここはこの人の顔を立てたかった。胸についてる名札を見ると『石川』と書いてある。
「石川さん…、で、いいんですよね?」
「はい」
「分かりました。ここは石川さんの顔を立てます」
「ありがとうございます。あ、お客さま。ずっとデッキでお立ちになってられますのも失礼なので、私が空いている席を探してきます。少々お待ちになってもらえますか?」
「いいですよ、そこまで気を使ってもらわなくても。どこが空いてるかぐらい自分も分かりますから。そのぐらい自分で探せますよ。車掌さんの誠意はよく分かったので、もう車掌室に戻って運転に専念して下さい」
「すみません。ただ、四号車はできたら控えてもらえますか?」
「それは無理ですよ。タバコ吸いたくてこの電車乗ってんですから。こっちが悪い事した訳じゃないし…。大丈夫ですよ。車掌さんと約束したから、あの女と揉めたりしないって約束しますよ。その辺は安心して下さい」
 石川さんは少しの間、考え込んでから俺のほうを見て頷いた。
「分かりました。それでは私は車掌室に戻らせていただきます。本当にすいませんでした。ご迷惑をお掛けしてしまい」
「とんでもないです。これ俺のプライベート用の名刺なので」
「すみません。受け取っていいんですか?」
「当たり前じゃないですか。逃げるつもりはないって言ったはずです。俺もそろそろ席に座りますよ」
 車掌と別れて四号車に向かう事にした。通路を歩いている最中に車内アナウンスが鳴る。まもなく小江戸号は所沢駅に到着しようとしていた。

 三号車まで歩いていると所沢で降りる乗客が列を作って通路まで並んでいた。俺は少し距離をあけて待つ事にする。
 所沢駅に着くと、乗客の半分ぐらいが次々に降りていた。さっきまで満席状態だった席はガラガラになっている。
「……」
 四号車に入ると本来の俺の席『2A』の横『2B』にメガネの女はしれっとして座っていた。
 通路を挟んだ反対側の『2C』、『2D』席がちょうど空いているので、俺はその席へ座る事にする。ゆっくりと腰掛けから女を見た。
「おい、ねえちゃん……」
 俺の言葉に反応してメガネの女はこちらを振り向く。
「いいか? 俺はこの件に関して絶対に逃げないからな。あんたもあれだけの事を言ったんだ。絶対に逃げるなよ? 俺はとことん行くところまでいってやるからな。この切符が俺の手元にあるという事は、誰がどう見たって俺の席なんだよ」
「あのー……」
 迫力押されたのか、不意に女は俺の右腕に手を重ねてきた。ゾワッと鳥肌が立つ。俺は女の気安く乗せた手を振り払う。
「気持ち悪いから、気安く触らないでくれ。別件としてセクハラで訴えてもいいんだからな。頼むから絶対俺の腕に触らないでくれ」
「ほんとおかしいですよね、この会社って」
 まるで言い訳にもなってない答えが返ってくる。本当にこの女は頭がおかしいんじゃないか?
「いいかい? あなたが切符を買ったという事実。できれば俺は信じてあげたい。本当に買ったのかもしれない。本当に切符を無くしたのかもしれない」
「ほんとに買ったんです。さっきはお兄さんが最初にキツイ言い方をしたから、私もついカッとなっちゃって…。切符だってほんとに落としてしまったんですよ」
 人の話をまるで聞かず自分の言い分だけを話す頭の悪い女。とりあえず相手の言い分はちゃんと聞いてやろう。俺の言いたい事はそれからでいい。
「うん、それで?」
「それでさっきの駅員さんに無くしたけどいいって聞いたら、ちゃんといいですよって言ったんです。だから私はいいと思ったまでで…。これで今回みたいなこういうトラブルが今までで三回もあるんですよ。参りますよ。ほんとにこの会社っておかしいですよね? そう思いませんか?」
「俺から言わせてもらえばね、まずあなたが何回もトラブル起こそうが、俺にはそんな事まったく関係ない、どうでもいい話なんだ。駅員が切符なくしても大丈夫と言ったのかもしれない。ただ、俺はあなたより早い時間にこの席の切符をすでに買っている。その時点でこの席は俺の席なんだよ。あなたが切符をなくそうが何しようが、俺には何も関係ないんだ。もしあなたの話を信じるとしたら、券売機のコンピューターが狂っているとしか、言いようがないよね?」
「私、ちゃんと買いました。この席は子供用の切符ですけど」
「そう…。できれば信じてあげたいよ。でもそれはさっきから何度も言っているでしょ? ただ、それだと矛盾が発生するんだよ。切符を持っているけど席を座れない俺が悪いのか、それとも切符を買ったけど無くしてしまい、駅員がいいと言っただけで席を譲らないあなたが正しいのか。この件は逃げないで、俺はとことん出るところへ出て話そうと言ってるんだよ。あれだけ自分の主義というか、簡単に言えばあれだけの事を俺にしたんだ。そのぐらいの覚悟は、もちろんあるよな?」
「だからー…、それはこの会社がおかしいからなんですよ」
 これだけ言っても分からないとは、なんて物分りの悪い女だ。それともワザと分からないフリをしているのだろうか? 何でも駅のせいにすれば済むとでも思っているのか。
「おい、お姉さん…、分からないみたいだからハッキリ言ってやるよ。俺はな…、おまえにムカついてんだよ。おまえが言った事、全然俺には関係の無い事ばっかりだ。あんたも引けないんだろ? あれだけの事を偉そうに抜かしたんだろ? だったら今さら引くなよ。俺は出るとこ出て決着つけようって言ってるんだよ。あれだけの事を俺に対して言ったんだ。そのぐらいの覚悟はあるよな? 今さら逃げるなよ。裁判になってあんたの証言が通用するか、俺の証言が正しいのか。どっちが正しいか白黒をハッキリさせよう。多分、あんたには名誉棄損。同じく西武新宿の駅員に対しても名誉棄損の対象になる。それと西武は小さい事かもしれないが、契約詐欺も該当するだろうな」
「ええ、私もこの事は駅に文句言います。ほんとにおかしいですからね。そう思いませんか? まったく失礼な話ですよね」
 そう言いながら、女はまたしても私の腕に手を乗せようとした。これだけの騒ぎになっても、自分の女の色気ごときで誤魔化されると思っているのか? だとしたら本当に馬鹿だ。こいつに合う言葉は…。すぐに出てこないけど、ようするに己の身の程を知れって感じだ。
「頼むからいちいち触ろうとしないで、本当にお願いだからさ」
「でも私は切符を…、この席は子供用の切符ですけど確かに買ったんです。」
 頭が悪過ぎる。何回も同じ事ばかり言ってもどうにもならないというのに…。言い方を変えて言ってやろう。
「分かった。とりあえず切符を買ったのは信じるとしよう。ようするにあなたの座ってる席は四百十円の通常の切符。俺が座るはずだった席のところは、お金をケチって子供用の切符をちゃんと買いました。そういう事でしょ?」
「だからそうだって言ってるじゃない」
「ああ、それは信じるよ。だがな…、社会的な良識、または常識を言っておくよ」
「はあ?」
「いいか? この時間帯は放っておいたって、いつも満席になるぐらい混んでいるんだ。小江戸号は全部で七車両。でもタバコが吸える車両は、この四号車一車両のみ。だからタバコを吸いたくても四号車の切符が売り切れて、我慢して乗っている人もたくさんいるんだ。それをあなたはゆっくり座っていきたいという理由だけで、子供用の…、もっと簡単に言えば、セコい半額料金で二席とろうとした。誰がそんな事してる? そんなやつを見たの、あんたが初めてだよ。みんながみんなさ、あんたみたいな事したら、小江戸号はどうなるよ。話にならないだろ? そのぐらい社会の一般常識だからちゃんと覚えておきな。分かったか?」
「わ、私…、子供はちゃんといますから」
 めげないというか、馬鹿というか…。今、俺が話した言葉をちゃんと認識しているのだろうか? こんな脳みそを持った女は絶対に子供を産んじゃいけないと感じた。
「あんたのお子さんって、まだ小さいだろ?」
「ええ、小学生です。今日は連れてないだけで、いつもは横にいますから」
 よくも抜け抜けシャーシャーと…。本当に親って自覚があるのかと問いたいぐらいだ。
「いいか? 今度は教育について語ろう。こんなタバコの煙がモクモクなっている四号車に、よく小学生の自分の子を座らせられるな? 子供の体にとって良くないぐらいは分かるだろ? だから世の中、変なガキが多くなったって言われるんだよ」
「それは私と子供の問題だから関係ありません」
「確かに俺には関係ない話だ。ただな、その子供が大きくなって俺の前であんたみたいに偉そうな事を抜かしてきたら、遠慮なくギャフンと言わせるからな」
 ここまでマシンガンのように喋ると、さすがにメガネの女は黙ってしまった。それにしてもこの女はあれだけい俺に失礼な事をしときながら、まだひと言も謝っていない。こんなもんで許す訳にはいかない。
「おい、姉ちゃん」
「な、何ですか?」
「世の中の男が弱くなったって言われてるけどな……」
 俺は胸を張りながら相手の目を見て、力強く話した。
「ここにな…、目の前に強い男がいるんだよ。分かったか? 今日は本川越まで付き合えよ? とことん話し合ってやるから。タクシー代だって出してやるから安心しなよ」
 車内アナウンスが鳴り出す。もうじき狭山市駅に到着だ。
 女は放送を聞いて立ち上がる。
「おい、どこに行くんだよ?」
「私はここで降りますから」
「何だよ、あれだけほざいて逃げんのか?」
「逃げる訳じゃありません。降りたら駅でちゃんとこの事について文句言います」
「うまい言い草だな。まあいい、逃げたいのならサッサと逃げな。もし本当に駅へ文句を言うのなら、自分の氏名、電話番号、住所をハッキリ言っておきな」
「ええ、そうします」
「期待しないで待ってるよ。それができなきゃ二度とこの電車に乗るな!」
「駅員に私はちゃんと言いますから」
「おい」
 俺は自分の顔を指差しながら、相手を見る。
「最後によーく覚えておきな。俺って人間はどうですかって、川越でも新宿でも行って、聞いてみな。ああ、あの人はこういう人ですって、みんな口揃えて同じ事言うからよ。俺はおまえみたいにコソコソ生きてねえんだよ!」
 女は無言だった。小江戸号が狭山市駅に着くと同時に、逃げるように降りてしまう。
 果たしてあの女は、ちゃんと連絡先を言うだろうか? 絶対に言わないだろう。ああいうタイプは自分が悪いと分かっていても、とりあえず騒げば何とかなると思っているはず。
 過去に三回もこういうトラブルがあったとあの女は言った。俺以外の二回のトラブルはこうやって騒いでやり過ごしてきたのかもしれない。確かにあんな女と関わるのは非常に疲れるし面倒だ。だから馬鹿は相手にしたくないといった感じで無視して自分から引いたのかもしれない。
 しかし今回ばかりは相手が悪かったなとあの女に言いたい。
 俺のした事は、少しぐらい男としての面目躍如になったのか? そればかりは周りが評価する事だから、俺には分からない。
 そんなくだらない事を考えている内に、小江戸号は最終地点の本川越駅に到着しようとしていた。

 
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