岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

新宿コンチェルト01

2022年04月25日 21時34分59秒 | 新宿コンチェルト/とれいん

2010年11月23日~
原稿用紙?枚

『新宿コンチェルト』
 クレッシェンド第7弾、2010年11月23日より執筆開始


 過去から逃げちゃいけない
 業を背負ってまで、俺はまだこうして生きている

 ギネス?
 そんなものより前に、俺はこの作品を書かなきゃいけない

 


 二千三年…。思えば本当に色々な事があったものだ。
 裏稼業に身を置きながら安定した日々を送っていた俺だが、長年続いたゲーム屋『ワールド』の崩壊により、新たな職探しとなった。ワールドの常連客だった北方の誘いで、奴の組織に入ったはいいが、ゲーム屋『グランド』と裏ビデオ屋『マロン』をうまく使いまわしにさせられ、いいように利用されてきた。
 俺が中学生時代から付き合いのある先輩の最上さんが、パソコンを教えてくれてから、自身のスキルは急激に幅が出るようになった。すべて手書きで計算をしていた裏稼業の組織に自分のパソコンを持ち込み、データを取るようになってからは、飛躍的に売上が上がる。月に約二千万円の差が出た。つまりそれだけ売上をくすねて懐に入れる従業員が多かった訳である。
 北方の組織で地位を得た俺は、全体的な運営を任せられるようになった。
 オーナーである北方は、月の半分以上を海外旅行に行くようになり、俺の忙しさはかなり増える。しかし給料は変わらず。いいように利用されてフラストネーションが溜まる日々を送っていた。
 杜撰で傍若無人なオーナーの下で働きながらいると、ある日刑事がやってくる。俺のピアノ発表会二日前の出来事だった。とうとう警察に捕まる。そう観念したが、人のいい刑事はそんな俺を何故か見逃してくれた。
 そんな状況でものん気に麻雀を打つ北方に怒った俺。奴は金にものを言わせ、ヤクザ者に俺の命を消せと号令を出した。ビビりながらも知り合いの親分のところへ行き、自分の言い分を説明し、自身の信念をハッキリ伝える。人のいい親分は認めてくれたのか、笑顔で応じてくれ、俺を消そうと動くヤクザ者は誰もいなかった。
 そこへやって来たピアノ発表会。これまでの人生で一番求愛した女性、大崎秋奈の為にと臨んでみたものの、無事ドビュッシー作曲『月の光』を弾き終わっても彼女の姿は会場に見えなかった。見事にフラれた訳だ。
 歌舞伎町の新たな組織からスカウトを受けた俺は、またそこで自身の地位を徐々に築き上げていく。そして百合子という女性と知り合い、付き合う事になる。
 そんな最中数百名の逮捕者が出た新宿歌舞伎町浄化作戦。本当に色々な事が起きるなあと誕生を迎えた次の日、この俺、神威龍一もドジを踏んでしまい、留置所で臭い飯を食うハメになる。裏ビデオ屋『らせん』の名義人である松本を出頭させ全責任を負わせる形で警察の調書を作った俺は、見事不起訴を勝ち取った。組織も俺の言う通りに動いてくれたので、うまい具合に事を進める事ができたのだ。罰金刑として五十万の罰金で済んだが、もちろんこれは組織のほうで用意してくれる。出てきた俺に待っていたのは三名のオーナーが合わせて出した七十五万の金。
 留置所から釈放され百合子を抱いた日。彼女はこんな俺に対し、「中へ出してほしい」と言ってきた。しばらく考えたが、こいつとならきっと…。そう感じた俺は、百合子の中へ精子をぶちまける。きっと暖かい家庭を作りたかったのだろう。
 パンパンに膨らんだ金を彼女の百合子と日々贅沢をし、気ままな生活を送った。好きな時に好きなものを食べ、欲しいものは我慢せずに買い漁る日々。
 当たり前だがそんな生活を送っていれば、金は次第に目減りしていく。そろそろ何か仕事をしないと。
 そんな風に思っていたところ、村川から電話があった。何でもパクられない商売をするから力を貸してほしいと言われる。浄化作戦により『フィッシュ』を最初にやられた村川は、他のオーナーよりも人一倍警戒心が強い男だ。
「何ですか、パクられない商売って」
「まだ言えない。とりあえず今度打ち合わせするから歌舞伎町に来てくれ」
 意味深な村川の台詞。どうせ毎日のように遊んでいるだけだし、話ぐらいは聞いてもいいか。
「どこでやるのかぐらいは教えて下さい」
「東通りの『フィッシュ』があっただろ? そこで商売をしようと思っているんだ」
 そこの名義人浜松が謳った事により、『フィッシュ』は空家賃を払う状態が続いていた。理想を言えばまた新しい名義人を迎え、また裏ビデオ屋を始められればいいのだが、彼が警察に捕まり事情を謳った事で、同じ商売ができないでいる。いつまでも高い家賃だけ払っている訳にいかないといったところか。
「明日の夕方、フィッシュの前に来てくれ」
「分かりました」
 百合子へ歌舞伎町で新しい仕事を始めるかもしれないと説明すると、彼女は表情を曇らせた。また俺が警察に捕まってしまうかもしれないという不安からだろう。
「安心しろって。詳しくは知らないが、今度はパクられる事がない仕事らしいから」
「だって龍一は前も『俺は絶対に捕まらない』って豪語しながら捕まるし、捕まっても『俺はすぐ出てくる』なんて言いながら、一ヶ月も出てこなかったじゃない」
「しょうがないだろう。起訴される訳にはいかないし、あの時は中で俺も必死だったんだ。それに一ヶ月も入っていない。正確には二十二日間だ」
「ほとんど一緒でしょ、そんなの」
「心配掛けたのは悪く思っているって」
「もう…、ああいうの嫌だからね」
「分かってるって」
「それとね……」
 急に真面目な表情に変わる百合子。
「何だ?」
「生理が来ない」
 そうと言われ、しばらく俺は彼女の顔をジッと見つめた。
 こんな俺に子供がとうとう……。
「……」
「龍一……」
「そうか…、産んでくれ」
「……」
 百合子は俺の胸元に飛び込み、そのまま顔を埋めながら泣き出した。

 最も信頼できる先輩の最上さんに、自分の子供ができたかもしれないと伝える。
「結婚はどうするの?」
 最上さんはごく当たり前の事を聞いてきた。
「考えなきゃいけないですよね……」
 こんな俺が父親になって家庭を持つ。
 現状を考えるとこのままじゃいけない。言いようのない焦りを感じている。
 現在無職の三十三歳。
 留置所を出てからは、ほとんど毎日のように誰かしらと会っていた。中には仕事とまるで無関係なのに、他のビデオ屋のオーナーが出所祝いをしてくれた事もある。そんな状況で一ヶ月ほどの時間を過ごしてきた。
 漠然と時間を過ごす内に目減りしていく金。百合子との間に子供ができるかもしれないのだ。何かしら始めないといけないだろう。
 真面目にサラリーマンでもするか……。
 俺が今さら何の仕事を? ゲーム屋時代は月に多い時で二百万円ほどの金を稼いできた。満足できるのか、サラリーマンをして? 普通の仕事など過去、腐るほど色々してきたじゃないか。
 自衛隊から始まり、探偵、広告代理行、大和プロレス時代を経て、ホテルマン。
 それで散々懲りたはずだろ? そういった場所に、俺の居場所などないという事を……。
 歌舞伎町という繁華街へ渡り、水を得た魚のように生き生きして時間を過ごせてきたのだ。まだこれからだって俺はあの街で生きていきたい。
 これから生まれてくる我が子の為にも、俺は金を稼がなきゃいけないのだ。
 村川たちの新しい仕事の打ち合わせに向かう。
 仕事先は新宿。住んでいるところは川越。通勤手段は電車を利用する。
 川越から新宿まで行く場合、詳しく言えば三つの通勤パターンがある。
 東武東上線の川越駅から池袋駅まで行き、山手線に乗り換えて新宿。
 もう一つは埼京線を使って川越駅から新宿。
 最後に西武新宿線の本川越駅から西武新宿駅までという方法だ。
 時間的に早く行きたいのなら東上線を使って行くのが一番早いだろう。乗換えという非常に面倒臭いものがあるが……。
 俺は楽に通勤したいので西武新宿線をいつも利用していた。利点をあげると、まず職場に一番近いのが西武新宿駅だという事。乗り換えなしの一本で電車が到着する事。西武新宿線において、本川越駅と西武新宿駅は両方とも終点の駅なので、必ず座って行ける事。そしてなによりも別途に費用は掛かるが、小江戸号という指定席の特急で、タバコを吸いながらゆっくり通勤できる点が一番の理由で俺は西武新宿線を利用していた。
 今、話に出た小江戸号だが、俺はずっと好んでこの特急を毎日のように使っていた。初めて歌舞伎町に来た時に働いたゲーム屋『ダークネス』の時からだ。この電車があるから数年も川越から新宿までの距離を苦痛に感じずやってこれたと言っても過言ではない。
 片道で特急料金四百十円の小江戸号は月に換算すると、いい金額を使っている計算になる。それでも精神的なリラックスを兼ね、自腹でお金を払い小江戸号に乗って通勤した。
 小江戸号は四十三分の時間で、俺を新宿まで運んでくれる。電車の両端にはジュースの自動販売機にトイレも設置されていて、ちょっとした小旅行に行くような錯覚を感じさせてくれる。車両は全部で七車両。真ん中の四号車が喫煙になっていて、残りの車両はすべて禁煙だった。
 これだけ同じ電車に乗っていると様々な出来事がある。俺は窓の外の景色をボーっと眺めながら、昔を思い浮かべた。

 ある日、俺が川越に向かう帰りの小江戸号に乗っていると、年配の駅員に声を掛けられた。よく切符の点検の時に顔を合わせるので顔馴染みになり、挨拶ぐらいはする間柄になっていた駅員だった。
「お疲れさま」
「あ、どうもこんばんは。お疲れさまです」
「実はね、私も今年で定年なんですよ」
「そうなんですか、それはご苦労さまでした」
「お客さんとは毎日のように顔を合わせていたから、一言ぐらい挨拶しておきたくてね。やっぱり少し寂しいですね……」
「こんな自分にわざわざ気を使ってもらって、ありがとうございます」
「今度、ここが終わったら田無の駅前の自転車置き場で働く事が決まってるんです」
「あれー、それは大変ですね。頑張って下さい」
「ええ、お客さんも」
 会釈する程度の間柄でも、この駅員が定年退職すればその関係はなくなる。そう考えると俺も少し寂しい感じがした。お互いの名も知らず、ただ笑顔で挨拶を交わすだけの仲でも小さな信頼関係が生まれていたのかもしれない。
 小江戸号が止まる駅は本川越、狭山市、所沢、高田馬場、西武新宿の五つの駅になっている。所沢から高田馬場までは距離があるので三十分ぐらいはノンストップで走り続ける。
 ゲーム屋の『ワールド』時代、夜九時の小江戸号に乗って新宿へ通っていた。時間帯のせいか車内は常にガラガラ。いつも満席になる四号車でも座っている客はまばらだった。朝の通勤時とのギャップに驚きを感じたが、普通に考えてみれば当たり前の事である。たかだか通勤に片道四百十円プラスされるという金銭的なものもあるが、俺は通常の人と野生活が間逆な時間帯を過ごしていたのだ。夜は新宿へ、朝は川越へ。AMとPMが逆の状態で十年ほど毎日を送っていたのだから、ガラガラの電車は当たり前。
 だから車内にいながら警戒心は薄くなる。
 過去、新宿へ向かう上り電車でこんな事があった。
 所沢を出てから俺は喉の渇きを覚え、セカンドバックを座席に置いたまま自動販売機へジュースを買いに行く。バックの中には小説が三冊に手帳ぐらいしか入っていなかったので、もし盗まれたとしても大した被害はない。それに三十分も電車の中から逃げられないような状態で、盗む奴もいないだろうと。
 ジュースを買って席に戻ろうとすると、ドアの窓越しにサラリーマン風の中年が目に入る。俺は五号車と四号車の間の場所で立ち止まり、その男の様子をしばらく見ていた。何故そうしたかというと、その男は俺の座席のところで何かをしていたからである。
 窓越しで俺が様子を見ているのも気づかずに、その男はかなり慌てながら自分のアタッシュケースにセカンドバックごと捻じり込もうとしていた。小説が三冊も入ってパンパンに膨れているセカンドバックは、なかなかアタッシュケースに収まらない。見ていて滑稽だった。これだけガラ空きなのだから、どうせ盗みを働くならサッと俺のバックを盗って、別の車両でゆっくりとアタッシュケースに中身だけしまえば済む話だ。男がバックを捻じり込んだ瞬間を見計らい、俺は自動ドアを開く。突然の出来事に対応できない惨めな中年サラリーマン。こちらを見てポカンと呆気にとられていた。俺は眼光を鋭くして無言で相手を見据えているようにした。
「ち、違うんです。これは違うんです」
 その男は立ち上がり、必死に手を振りながら弁解しだした。
「何が?」
「わ、忘れ物かなと思って…。私はバックを電車出てから届けようと…。決して盗もうとした訳ではないんです……」
 そんな台詞が言い訳になるはずもないのに、男は必死に話している。俺がひと言、「じゃあ何故アタッシュケースの中に、わざわざバックを入れようとしてるんですか?」と言ってしまえばすべて無駄になってしまう言い訳を。黙って席に腰を下ろすと、男はかなりビクビクしながら腰を浮かす。
「じゃ、じゃあ失礼します」
 逃げようとした男の肩に手を掛けて、冷静にゆっくりと口を開いた。
「まあ、いいからここに座りな」
「いや、わ、私は……」
「いいから座りなって」
 強引に男を私の隣に座らせる。二人とも無言の状態で何もしないまま、電車は刻々と目的地に進んでいった。男の心理状況を考えると、何も話さないのが一番のプレッシャーになるだろう。
「次は高田馬場。次は高田馬場でございます」
 車内のアナウンスが聞こえた途端に、男は急に立ち上がった。
「あ、私、ここで降りないと……」
「いい加減、見苦しい行動はやめなよ。新宿までは付き合ってもらうからさ」
「いえ、私は……」
「おい、アタッシュケースの中に人のセカンドバックを入れたまま、勝手に何で高田馬場に降りようとするんだ? ひょっとしてどさくさに紛れて俺のバックを返さないつもりか? あまりふざけた事を抜かすなよ」
「す、すいません……」
 さすがに男は観念したのか首をうな垂れて下を向いている。静かにアタッシュケースから俺のバックを取り出すと恐る恐る渡してきた。電車が高田馬場に到着しても動こうとはしなかった。
「わ、私…、ど…、どうなるんですか?」
 震えながら話す男。
「駅員に報告は嫌か?」
「は、はい……」
 わざとそれに対して返事を返さなかった。自分のした事を懺悔させたかった。それに最初の誤魔化し方が癇に障ったのもあった。少し苛めておきたい。
 男はこれからどうなるのか不安で堪らないといった表情でソワソワし落ち着きがない。そうしている間に小江戸号は西武新宿駅へ到着する。
 相手の腕をつかみながら小江戸号を降りると、男は俺を見て小声で懇願してくる。
「お、お願いです。見逃して下さい」
「うるさい。黙ってついて来い」
 有無を言わさぬ俺の言い方に、男は黙るしかないようだ。一緒に歩いているこっちが恥ずかしくなってくるぐらい挙動不審だった。俺は改札の横の降りの階段に向かって歩き、駅のトイレに向かう。相手の腕をつかんだ状態でトイレの中に入ると、アンモニアの嫌な匂いが鼻をつく。周りには八人ほど男性が小便をしていた。
「いいか、グチグチと言っても仕方がないから簡単に済ませてやる」
「は、はい」
「文句はないよな?」
「……」
「それとも駅員に俺が報告してって形がいいか?」
「そ、それだけは…。お願いします。お願いします」
「ああ、分かってるよ。そんな事したら家族が困るだろ? 俺もそんな事をするつもりはないから安心しなよ。ただ、けじめはけじめだ。このまま何も無しじゃ済ませられない。拳一発で済ませてやる。歯を食いしばれ」
 小便をしていた人たちも、俺のかもしだす雰囲気が尋常じゃない事に気づいたのか、その場を黙って離れていった。
 人が出たのを確認すると、右の拳をギュッと握り締め、そのまま男の顔面に叩き込む。両手で顔を押さえながら、座り込む中年サラリーマンをしばらく眺めてから、俺は黙ってその場を離れる事にした。
 あれから四年ほど経つ。それまででその件について何かあったかというと、現在まで何事もない。
 暴力というものについて世間は否定的である。しかしこの件については相手が訴えない限り、私的には間違ってなかったと思う。
 盗みを駅員に報告して、そのサラリーマンの人生を壊したところで、俺には何もならないからだ。社会的に相手の生活をボロボロにしてスッとするよりは、まだ相手を殴るという形でスッとする方が自分自身いいと思った。悪い奴に制裁は必要だが、その家族まで巻き込む必要はない。
 この件で彼がこの先真っ当に生きてくれる可能性もある。それとも彼は今でも盗みを働いているのだろうか? どちらにしても俺にはどうでもいい事だった。
 過去を懐かしんでいる内に、小江戸号は西武新宿駅へ到着する。

 改札を出て階段を降りる。横には新宿プリンスホテルがあり、目の前には歌舞伎町の町並み。
 初めてこの場所へ来た時は、人の多さに圧倒され、コマ劇場すら分からなかった俺。今じゃ、大手を振ってこの街を歩くようになった。その変化の分だけ俺はこの街で時間を過ごし、また成長してきたのだ。
 海老を焼く店が多い事から『海老通り』と呼ばれる細い道を歩くと、一番街通りにぶつかる。それを靖国通りとは逆のコマ劇場の方向へ向かう。すぐ右手には四十四名の死傷者を出した一番街の大火事があったビルが見える。世間一般では大火事と報道されていたようだが、実際は爆破が元で始まったあの大惨事。何故爆破だったという事実をマスコミは報道しないのか不思議でしょうがない。俺が一番街通りのゲーム屋『ワールド』にいた頃、毎日数名の刑事が次々と店にやってきては、「この男を知らないか?」と一枚の写真を見せてきた。監視カメラに写った一人の中国人男性。幸い『ワールド』では外国人を一切入店させなかったので、この男とは無関係で済んだ。
 あの惨事から数年。未だ雑居ビルには何の商売も入らず、近々建物自体取り壊し予定だと聞く。
 ここで四十四人の命が亡くなったなんてなあ…。俺はビルの目の前で足を止めると、しばらく眺めた。
 コマ劇場が見えると左手に進む。少し行くと、右側にはレンガ造りのセントラル通り。その対面にはコマ劇場内にある『フライキッチン・峰』といううまくて安い良心的な店がある。待ち合わせ時刻は五時だから、まだ三十分ほど時間はあった。ちょっと顔を出していくか。
「あ、いらっしゃいませ。お兄さん、久しぶりね」
 もうここで働いて数年になるフィリピン人のお姉さんが俺に気付き、挨拶をしてくる。未だたどたどしい日本語の発音だが、会話する分にはまるで困らない。
「お久しぶりです。おばあさん、退院しましたか?」
 昔からいた峰のおばあさん。ずっと元気でやっていたが、ある日新宿駅のホームで自動販売機の人間とぶつかってしまい、階段から転げ落ち、足の骨を折ってからは入院生活が続く。そのピンチヒッターとして雇われたのがこのお姉さんだった。
「う~ん、おばあさん、『東京はもう怖い』って田舎に帰っちゃった」
「あらら…、そうだったんですか……」
 口癖が『みんな私の事を知っている』と言いながら、ご飯を漫画に出てくるような尋常じゃない盛り方をしたおばあさん。もう一度ぐらい顔を見たかったんだけどな。
「お兄さん、注文何する?」
「んー、じゃあカニクリームコロッケとメンチカツ。あ、それと……」
「上お新香?」
「よく覚えてますね」
「いっぱいお兄さん来てくれたね。私も覚えるよ」
 ここに来るのは約半年ぶりなのに…。歌舞伎町で行きつけの店を三つ上げろと言われたら、間違いなくこの峰も中に入るだろう。俺にとって特別な店の一つである。
 ご飯や味噌汁はお代わり自由。量もてんこ盛りなのに値段は千円以下の店なんて、そうそうない。ここへたくさんの人間を食べに連れてきて、十年近く経つ。
 他愛ない会話をしながら、今度この店に百合子を連れてこようと考えていた。でもあいつ少食だから、「こんな量の多い店嫌だ」って困った顔するかもな。

 キッチン峰を出るとちょうどいい時間帯になっていたので、俺は左方向へ向かって真っ直ぐ進む。世間一般でいう『歌舞伎町』とはこのエリアをだいたい指す。左右には風俗店や裏ビデオ屋、そして最近になって新しくでき始めた情報館などが並ぶ道。そこへ交差するようにセントラル通り、さくら通り、突き当りが東通りになる。
 通りに立つ無数のポン引きたち。通行人に手当たり次第声を掛けているが、俺が通ると何人かのポン引きは軽く頭を下げてきた。別に何の面倒も見ていないんだけどなあ。こちらも同じように軽く会釈をしながら歩く。
 さくら通りを過ぎ、突き当りの東通りを右へ曲がる。この通りは歌舞伎町の中でも寂れた感じがして人通りは少ない。位置的には新宿区役所のすぐ裏になるが、一本奥へ行くと急に雰囲気が変わるので、一般の慣れていない人々は敬遠したがるのだろう。
 右手に曲がってすぐ左へ曲がる道がある。そこを真っ直ぐ行って右へ曲がればすぐ区役所だ。その地点にゲーム屋時代の元部下である大山がボーっと立っていた。
「おい、大山」
「あ、神威さん!」
「式典中か?」
 式典とは、裏業界で見張りの意味がある。
「そうです。寒いのに嫌になっちゃいますよ」
「それはしょうがないだろ、仕事なんだから」
 大山は変形十字路の角にあるレートが十円のゲーム屋で現在働いている。入口はシャッターが閉められ、一見するとどこに店がという感じだが、警察の目がうるさい為、常連客のみを相手にこうしてひっそりと営業をしていた。一昔前、ここは『サン』というレトロな喫茶店で、接客態度のなっていない酷いウエイトレスがいたものだ。
「神威さん、こっち来るなら連絡して下さいよ」
「遊びで来たんじゃねえ。今日は仕事の話で来たんだ」
「え、また歌舞伎町で働くんすか?」
 嬉しそうな顔になる大山。こいつ、以前俺の下で働いている時、適当な行動をして怒りを買い、頭突きを食らいクビになったくせに、何故か不思議と懐いてくる。友達が少ないんじゃないかと疑ってしまう。
「まだ分からない。ビデオ屋じゃない事だけは確かだけど」
「決まったら教えて下さいよ。ちょくちょく顔を出しに行きますから」
「……」
 相変わらずこの男、式典の重要性を何一つ分かっちゃいない。警察がいつ動き出すか分からないから見張りを立てているのに、それを抜け出して遊びに来るなんてのん気な顔で言っているのである。先日俺がこの通りの先で捕まった瞬間を見ているはずなのに、まるで危機感がない。
「あれ、どうしたんすか、神威さん」
「真面目に仕事をしてろ」
 それだけ言うと、俺は元フィッシュの方向へ歩き出す。もう自分の部下ではないし、変に説教をしてもしょうがない。憎めない性格のせいか、いつも適当に振舞っていても何故か許されてしまう大山。今後自分の部下には絶対に置きたくない男である。
「決まったら教えて下さいね~」
 大山は無邪気に俺へ向かって両手を大きく振っていた。

 区役所裏の東通り沿いにあるヌード劇場のTSミュージックの前を通り過ぎる。ここではAV女優が多数来て、ストリップをする場所らしい。フィッシュの名義人だった浜松はエロビデオオタクでもあったので、以前そう詳しく教えてもらった事があった。
 すぐ先のT字路の角の店の前に村川の姿が見える。TSミュージックのメガネを掛け、スキンヘッドの太った従業員と立ち話をしているようだ。とても楽しそうにちょっかいを出し合っている。豆タンクのような小太り体系の二人がじゃれあっている姿は、傍から見ると非常に滑稽だった。
「村川さん」
 とりあえず声を掛けてみる。
「おう、神威。よく来たな」
「仕事の話って?」
「とりあえず『伊幸伊』に行こう。東海林さんたちも、おまえを待っているんだ」
「東海林さん?」
 思わぬ名前が出てビックリした。東海林という人物は、この辺の歌舞伎町一帯の大ボスである。主に裏ビデオ屋のオーナーたちが取り巻きになっていた。この村川も東海林グループの一員である。
「神威が来るって言ったら、みんな喜んでいたぞ」
「ちょ…、ちょっと待って下さいよ。俺はただ…、何の仕事をするのかって、まず聞きに来ただけですから」
 訳も分からない状況で仕事を引き受けるなんて冗談じゃない。こっちは百合子との間に子供が生まれるかもしれないのだ。もう警察に捕まるような仕事は真っ平ごめんである。
「だから伊幸伊で話すって。みんな、焼肉を食べないでおまえを待っていたんだぞ」
「分かりました……」
 これはとりあえず焼肉屋の伊幸伊まで行かないと済みそうもないな。
「よし、じゃあ行くぞ」
 いつも無愛想な村川が妙に機嫌がいい。まだ何の商売を始めるのかは分からないが、俺の能力が必須なのだろう。あの村川が俺に対し、「力を貸してほしい」と電話で言ってきたのだ。少し慎重に構えたほうがいいかもしれない。
 東通りを歌舞伎町二丁目方面に向かって歩いていく。ここから百メートル先に伊幸伊はあった。ゲーム屋『ワールド』時代、競馬で大勝ちした時は、よく部下たちにここの焼肉を奢ってやった思い出がある。
 途中、式典をしている大山の前を通る。暇を持て余している大山は、また俺に話し掛けてこようとしたので、手で静止してそのまま過ぎ去った。
 喫茶店『ルノアール』に差し掛かる。伊幸伊はその隣にあった。ガラス張りの中を覗くと、客層は相変わらずヤクザ者だらけだ。どうして筋者はここが好きなんだろう。東通りだけじゃなく、西武新宿駅前のルノアールもほとんどそうだ。ここを利用する客なんてヤクザか裏稼業の人間ぐらいしかいないんじゃないかって錯覚すらしそうである。
 身長百八十センチ、体重九十キロの俺と、漫画『ナニワ金融道』に登場する桑田そっくりな村川の二人に声を掛けてくるポン引きは誰もいなかった。

 伊幸伊へ到着すると、「二階にいますよ」とすぐ従業員が声を掛けてきた。村川や東海林はこの焼肉屋の常連なのだろう。狭い木の階段を上がり二階へ向かう。
「おう、ようこそ、神威ちゃん」
 大ボスの東海林が俺たちの姿に気付くと、すぐ声を掛けてくる。何度か顔を見た事があるぐらいで、こうして話し掛けられるのは初めての事だった。
「はじめまして」
「何だよ、堅苦しいなあ。君の噂は村川や高山から聞いていた。まあそこへ座りなよ」
 その辺のヤクザ者より貫禄がある東海林は外見とは打って変わったような優しい声を出す。周りに座っている面子を見てみた。
「……」
 ビデオ屋『マロン』時代、裏本の業者として出入りしていた坂本が分かるぐらいで、あとは誰も知らない。とりあえず東海林に言われた通り腰掛ける。
「神威はビールでいいか?」
「は、はあ……」
 本当ならスコッチウイスキー・シングルモルト・スペイサイド地方のグレンリベット十二年が飲みたいところだが、焼肉屋にあるはずがない。グラスに注がれたビールを持ちながら全員で乾杯をした。
「村川さん…、一体どんな商売をするんですか? そろそろ教えて下さいよ」
 目の前の焼けた肉を箸で引っくり返しながら村川へ話し掛ける。
「ヘルスだ」
「え、ヘルスって……」
 フィッシュの跡地で風俗をするには狭過ぎないか? あそこ、確か五坪もなかったはずじゃ。
「あの場所を受付にして、デリヘルをするんだ」
「デリヘルってデリバリーヘルスですか?」
「ああ、そうだ」
 確かにあの狭い店舗でも、受付ぐらいなら問題ないだろう。他の場所でヘルス嬢の待機場所の確保と、客とプレイするのはホテルを使えばやれない事もない。
「ゲーム屋っていいもんですよね。風俗みたいに女のオマンコで飯を食ってんじゃなく、鉄火場で飯を食ってんだから」
 この街で始めて働いたゲーム屋のオーナーである鳴戸の台詞を思い出す。あの時俺は、鳴戸の言葉に共感を覚え、自分の立ち位置を納得させていた。
 今まで風俗には散々行ったが、自分がそこで働くとなると話は別だ。従業員が主役でなく、女たちが主役の職業に対し、どこか軽蔑する自分がいる。
「村川さん…、せっかく誘ってもらって申し訳ないんですが……」
 丁重に申し出を断ろうとすると、村川が説得に来た。
「神威君には別に店舗で働いてもらうつもりはない。君はパソコンが得意だろう? だから風俗のホームページ作成や、売り上げの計算、広告などのデザイン全般を受け持ってもらいたいんだ」
「……」
 先輩の最上さんが週二回つきっきりの徹夜で教えてくれて授かったパソコンのスキル。小説を書くようになったのも、プログラマーの最上さんを抜ける部分が欲しかったから。だからこそ俺はフォトショップでデザインをするようになり、ワードを使って小説を書き始めた。
 村川の誘いは、パソコンを使って仕事をしたかった俺の心を揺さぶる。
 別に俺が風俗で働くのではなく、運営に関わるだけ……。
 必死にそう自分を納得させようとしていた。
 この風俗店を運営するに当たって、オーナーは村川だけでなく、四人のオーナーが分割して出資するとの事。大ボスの東海林も、他の三人のオーナー同様中立な立場で加わっているようだ。
 俺も含め集めたスタッフは全部で三名。一人は『マロン』時代、裏本を作り、それを卸していた業者の坂本。もう一人は四人のオーナーの一人、若松の兄だった。
「神威ちゃんの噂は今まで色々聞いていたし、神威ちゃんが一緒にやってくれたらとても助かるんだよね」
 坂本が人の良さそうな笑顔で話し掛けてくる。確かに女と関わる訳じゃないし、好きなパソコンをいじっての仕事なら、そんな悪い話じゃないかもしれない。坂本が陣営にいるなら、有名なAV女優などを店に取り込める可能性だってあるし、様々なアイデアを企画に練り込めるかもな。仕事的には面白くなるだろう。
 一つ不思議に思ったのが、若松である。弟が出資するオーナーの一人ではあるが、その兄が店で働く。もし弟の龍也や龍彦が金を持っていて、いくら金を出すと言ったところで、俺は絶対に断るだろう。兄としてのプライドがあるからだ。
「一緒にやろうよ、神威ちゃん」
 村川はこの状況を狙い、俺が陣営に加わるのをはなっから計算していた。だが他に宛のない俺は、これを断ってどこで仕事をする? また新人から始め、一から積み重ねなら、歓迎されたほうがいいはず。
 それに、俺は百合子とこれから生まれる子供の為にも、金を稼がなきゃいけない。サラリーマンをやって細々した生活を送りたいのか? 違う…。やり甲斐のある裏家業で、またのし上がって金をつかみたいのだ。
「分かりました」
 俺が静かに頷くと、四人のオーナーと坂本、若松は大きな拍手をして喜ぶ。うん、きっとこの判断は間違いじゃない。

「神威ちゃん、好きなもん注文しなよ」
「ありがとうございます」
 大ボスの東海林は上機嫌で酒を飲んでいる。
「坂本」
「はい」
「最初の準備金でいくらぐらい必要なんだ?」
「そうですね、店の改装費や神威ちゃんにホームページとか作ってもらわなきゃいけないんで、二百もあれば……」
「分かった。よし、みんな…、五十ずつだ」
 東海林の言葉で他の三人のオーナーは五十万円ずつを出し、テーブルの上に置かれる。続いて東海林も分厚い財布から五十万円を取り出し、テーブルの上に置いた。目の前に置かれた二百万の金。
「店の店長は坂本だ。神威に若松さんのお兄さん…、二人は坂本とうまく協力して頑張ってほしい」
 そう言いながら、村川は二百万の札束を坂本へ手渡す。
 裏ビデオ屋という打ち出の小槌を持つ四人のオーナーたちにとって、五十万という金額はそう痛くもないのだろう。普通の会社と違い、裏稼業は金の流れが早い。これが吉と出るか、凶と出るかは俺らスタッフ次第になるのだ。
 店舗はすでに用意されている。中を受付用に改装し、風俗嬢用の待機室と客とのプレイルームの確保、さらにホームページや宣伝などをやれば、すぐにでもオープンできるだろう。
 三人の従業員である俺たちは、それぞれの役割分担を決める事にした。
 俺はパソコン関係全般。そしてチラシや割引券などのデザイン全般。
 坂本は店で働く女を集める事と、『フィッシュ』の店内改装。
 若松は最近でき始めた情報館やレンタルルームなどへの打ち合わせ。
「神威ちゃん、ホームページって作るのにいくらぐらい掛かるの?」
「そうですね…、俺一人じゃ大変なんで、その筋に詳しい人間にも協力を仰ぎます」
「俺、パソコンまったくやらないから、そういうの分からないんだよね。ぶっちゃけいくらぐらい必要なの?」
「タダで協力って訳にはいきませんし、特殊技術なんで二十万円は用意してほしいです」
「二十万? そんな掛かるもんなの?」
「なら、業者にホームページ作成を依頼して下さいよ。おそらくその三倍は最低でも取られますよ、現状の価格だと」
「分かったよ…。じゃあ、神威ちゃんに二十万渡しとくから」
 坂本は札束を二十枚数え、一万円札を目の前においてくる。
 とりあえずホームページ作成に当たって詳しい人間…。先輩の最上さんに協力を仰ぎたいところだけど、あの人本当に忙しいからなあ。自分以外にあと一人は最低でも確保したい。すぐ連絡が取れて、俺よりもそっち方面で詳しい人間となると……。
 近所の榊さんならどうだろうか? 帰ったら早速お願いしてみよう。
「あと坂本さん…、店用のパソコンももちろん用意してくれますよね?」
「え、だって、そんなのは神威ちゃんのパソコンを持ってくればいいじゃない。『マロン』の時もよく自分のを持ってきていたでしょ?」
「……」
 裏稼業の人間は無知が多いと言うか、苦労というものをまるで知らない奴が多い。
 あの時使っていたノートパソコンでさえ、二十三万円の金を自分で出して買ったものなのだ。警察に捕まり、ノートパソコンは当然没収。釈放される際帰ってきたが、あれ以来ノートは調子悪くなり、新しいパソコンを買おうか検討中なのである。
 さすがにもう仕事で自分のを使用する事には懲りていた。良かれと思ってやった行為が、結局はうまく利用される現実なのだ。
 店専用のパソコンを用意させないと、また自分が貧乏くじを引くだけ。もしも坂本が首を縦に振らぬなら、この仕事自体俺は辞めたほうがいいだろう。
「坂本さん…、それを本気で言っているのなら、俺はこの件から手を引きます」
「ちょっとちょっと…、何で急にそうなるのよ?」
「パソコンがいくらするか知っていますか? それに何故自分のパソコンを店用にしなきゃいけないんですか?」
「ん、いや…、まあ、そうだけどさ」
「ホームページの更新だって、入店してくる女の子の写真のデータ管理、さらに割引券やチラシのデザインとか、どうするんですか? 業者に一回ずつ頼みますか? その都度デザイン料やら色々金が掛かりますよ。その時になってあとで泣きつかれても嫌だから、最初にこう言っているんです」
「分かったよ…。じゃあ、店用のパソコン代でいくら掛かるの?」
「その前に、割引券とかのデザインも俺がやるんですよね?」
「うん、そのつもり」
「では、フォトショップを使うんで、それ相当のスペックを持ったパソコンを用意したいと思います」
「だからいくら?」
「そうですね…、必要なアプリケーションソフトは、俺が入れておきますから、二十万は欲しいです」
「え~、そんなに~?」
「……。じゃあ、この話はなかった事にして下さい。別の人に頼んでみれば、俺が言っている事分かりますよ」
 席を立ち上がると、慌てて村川が止めに入る。
「おい、ちょっと待てって、神威」
「だって坂本さんと話をしていると、話にならないじゃないですか? 何の為に二百万円の準備金を用意したんです? 全部坂本さんが担当する店の改装費ででしたら、俺自身用はないじゃないですか」
「おまえの話し方は横文字ばかりで、分からない言葉が多過ぎるからだ」
「……」
 これでも充分分かりやすく説明したつもりなんだけどなあ。
「もっと分かり易く言え」
「…と言うと?」
「例えば業者に発注するのと、おまえに頼むんじゃ、どのぐらい違うのかとかよ」
「色々な業者がいるのでハッキリとは言えませんが、まずホームページ作成を業者に頼むと、安いところで五十万以上します。それが相場です。あと広告や割引家のデザインを業者に頼むと、別途でデザイン料が取られます」
「それはそうだろうなあ。…で、おまえがデザインできるのか?」
「できるから言っているんです。無駄な経費を使わないようにする為にも」
「それで店用のパソコンが欲しいって訳か」
「ええ、自分が言っている事っておかしいですか?」
「いや、おかしくない。じゃあ、そのパソコンに二十万円も掛かるって言うのか?」
「本当ならもっと掛かりますよ。デザインをする為に必要なソフトは、自分が無料で入れるってさっき説明したんです」
「デザインに必要なソフト? 何だ、そりゃ?」
 パソコンに触れた事のない人間に対し、説明する行為がここまで厄介だったとは……。
「例えばフォトショップです」
「何だ、そりゃ?」
「分かり易く言えば、プロのデザイナーが使用するパソコンのソフトです」
「う~ん……」
「例えばファミコンありますよね?」
「ああ」
「ファミコンだけ買っても、ソフトがないとゲームできないじゃないですか?」
「まあ、そりゃそうだ」
「パソコンも一緒だと思って下さい。頭のいい赤ん坊ですが、こっちがこうして欲しいって指令を出さないと動かないんです」
「そうなんだ? …で、そのフォト何とかっていくらぐらいするんだ?」
「普通にメーカーから買えば、十万以上します。そういったものは自分で無料でパソコンに入れるからって説明したつもりですが」
「なるほどな。おい、坂本。神威にもう二十万渡してやれ」
「はあ……」
 いまいち納得のいかない表情の坂本。ここまで説明しても分からないなんて、思ったよりも馬鹿かもしれないな。
 ホームページ作成料の二十万と、店内用のパソコンを作るのに二十万。合計で四十万円を受け取る。残りの百六十万円は店内改装する坂本が預かった。
「いいか? おまえらの給料は店をオープンしてからじゃないと発生しないからな。どのぐらい期間が掛かるんだ?」
「自分のほうは一週間もあれば、店の改装ができます」
 坂本が一週間。なら、こっちはホームページの型だけでも二、三日で作っておくか。
「神威は?」
「坂本さんが終わる頃には形だけでもすぐに作っておきますよ。今日帰ったら早速明日にでも動くつもりですし」
「そうか、分かった。坂本のほうが大丈夫なんだろうな?」
「任せて下さい。プロ顔負けの腕を持っている奴が知り合いにいるんです」
 坂本は自信満々に言った。
 一から店作りというのも面白いかもしれないな。

 帰りの電車に乗る前に百合子へ連絡を入れた。彼女は本川越駅まで迎えに来るというので、到着時刻を教える。
 気の早い百合子は赤ちゃんの雑誌を色々買い込んでは俺に見せてきた。
 子供か…。百合子のお腹を見つめる。見た目には何も分からない。でも、この中で着々と育つ生命。俺が留置所へ入っていた時もずっと待っていたんだ。たくさん金を稼いで、こいつには楽をさせてやらないといけない。
 早速家に帰ると俺は様々なアイデアを思いつき、メモに書き写す。百合子はそんな俺を不思議そうに眺め、「今日の仕事の話はどうだったの?」と聞いてくる。
「村川さんの言っていた新しい仕事って、風俗らしいんだ」
「え、そうなの……」
 百合子に新しい仕事の話をすると、表情を曇らせた。
「どうしたんだ? もう警察にパクられる仕事じゃないんだぞ」
「それはいいんだけど…、色々な子と接触するんでしょ……」
 内容が風俗だったのでヤキモチ焼きの彼女にとっては堪えられないのだろう。
「別に俺が店舗にいて、女の子と接する訳じゃないんだ。あくまでもパソコンとかそっちのほうを担当するだけだからさ」
「お店の女の子とは関係がないって事?」
「ああ、もちろん。ただ、ホームページで写真を載せる時だけ接触する機会はあるかもしれない。そのぐらいはしょうがないだろ?」
「う~ん…、まあね……」
 いまいち気が乗らない百合子。俺は利点を説明する事にした。
「考えてみなって。パソコンで仕事をするって事はだね、店が安定すれば家からでも仕事ができるって事になる。店を成功させればいい金だって入ってくるだろうし、おまえと一緒にいられる時間ももっと作れる。だから安心しろ」
「ちょっとの辛抱って事?」
「ああ、最初だけだよ。色々動かなきゃいけないのは」
「うん」
 半ば強引に説得するように言うと、百合子は何か言いたそうな顔をしながらも頷いた。
「それとも俺が年下に扱き使われながら、真面目にコツコツとサラリーマンをしたほうが良かったか?」
「ううん…、龍一にはそういうの似合わないし、もっと自由に色々頑張ってもらいたい」
「だろ?」
「へへ」
「百合子、お腹は?」
「まだ食べてない」
「じゃあ、どこか食いに行こうよ」
「そうだね」
「何が食べたい?」
「寒いから温かいラーメンがいいなあ」
「じゃあ、十八番だな」
「うん」
 俺たちは川越市役所近くにある抜群にうまいラーメン屋『十八番』へと向かった。

 
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