岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

新宿コンチェルト11

2022年04月25日 22時00分36秒 | 新宿コンチェルト/とれいん

 十二月二十八日 火曜日
 携帯の着信音が聞こえ、目が覚める。誰からだろう? 画面を見ると西武新宿からの電話だった。
「もしもし」
「もしもし、朝早くにすみません。西武新宿駅長の間壁です」
「え、間壁さんですか? お久しぶりです」
 時計を見ると、朝の八時半だった。何かあったのだろうか? ひょっとして昨日本川越駅の助役、小谷野との話がもう伝わったのか?
「どうかしたんですか?」

「ええ、うちの峰が神威さんにぜひ謝罪したいと言うので、神威さんのお時間の都合をお聞きしたいと思いまして」
 心の中にあった何かのつかえが、間壁さんのひと言でスーッと溶けていくのが分かる。
「今日も仕事なんで、えーと…、そうですねー。夜の八時過ぎ頃には西武新宿の駅に行けると思います」
「いえ、峰が神威さんの自宅に直接行って謝罪したいと申してますので」
「大丈夫ですよ。そこまで気を遣って頂かなくても…。仕事でどっちにみち、新宿には行きますから。帰りにでも寄りますよ」
「分かりました。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ…。間壁さん、すみませんでした」
「神威さん……」
「はい?」
 ちょっとした沈黙が流れる。真壁さんは何かを言い辛そうにしているみたいだ。
「どうしたんですか、間壁さん……」
「み、峰は…、峰は私たちの仲間なんです。許してあげて下さい……」
 間壁さんの熱い感情の籠もった言葉が私の胸に突き刺さる。思わずグッときてしまった。
「ありがとうございます。もちろんです。あんなちっぽけな事で大袈裟にでかくして、皆さんにご迷惑を掛けて、こちらこそすみませんでした」
「とんでもないですよ。失礼な真似をしたのはこちらなんですから」
「間壁さん、本当にありがとうございました。さっきの間壁さんの言葉…、グッときましたよ」
「ありがとうございます」
「何、言ってんですか。八時過ぎ頃に行きますから。わざわざすみませんでした」
「よろしくお願いします」
 電話を切ってからタバコに火を点け一服する。
 仲間か……。
 それはそうだ。峰も間壁さんや村西さんにしてみれば仲間なのだ。大事に思い、心配するのは当たり前だ。色々あったが笑顔ですぐに解決できるよう話し合いに臨もう。
 携帯を見直すと、メールが一件届いていた。百合子からだった。
《おはよう。龍が納得のいくように解決するのなら良かったね。西武新宿の件が昨日でいい方向に進んだんでしょ? そのあとで食事行こうって私の事を気に掛けてくれる余裕があるぐらいだもんね。仕事終わって、西武の件が解決したら連絡ちょうだいね。 百合子》
 百合子とも些細な事から喧嘩になり、子供までおろさせて散々嫌な思いをさせてしまった。こんな俺に、よく今でもついてきてくれるものだ。感謝してもしきれない。様々な思いを込めてメールを打った。
《おはよー。たかだか座席を巡るトラブルから色々な事が今まであったな。本当におまえには辛い思いさせて悪かったと反省している。これからもよろしくな。とりあえず今日、仕事が終わってから西武新宿駅に寄って、駅長の峰と話し合う事になった。向こうが今朝俺に謝罪したいと連絡あったんだ。みんなが笑顔でいられるような解決を俺は望んでる。だから今日で西武の件はハッピーエンドにする。そのあとで一緒にうまいものでも食おう。あの子もこれで少しは喜んでくれるかな…。勝手な言い分だけどな。俺はあの子の事をずっと想って背負っていくよ。 神威龍一》
 送信するとすぐにパソコンの前に座る。昨日も帰ってから『とれいん』の続きを書いた。今のこの現状をすぐ文字で表現したくて堪らなかった。
 すらすら進む文章。一刻も早く現在の状況に追いつきたかった。
 出勤するギリギリの時間まで小説を書く事に没頭した。この作品に自分の魂を込めたい。読んでいてリアルに頭の中で映像化されるような、そんな作品を作りたい。昨日の駐車禁止の事とかも書いてやろう。
 自分の中で歯止めが利かなくなっている。許されるなら仕事も休んで小説を書く事に集中したかった。
 俺が生きてきた事の証。格闘技やプロレスの世界では中途半端なままだった。今でもリングに上がりたいという悔いが残っている。
 だから、せめてこの『とれいん』だけは、満足に悔いの残らぬよう完成させたい。この世に神威龍一という男が生きていたという爪跡を残しておきたい衝動に駆られる。
 キーボードを打つ指に、全身系を集中させて文字を打ち込んでいく。
 自分の犯した過ちを生涯忘れずに刻み込むように……。

 気がつけば、もう電車に乗らないといけない時間まで小説を書いていた。ここまで熱中したなんて、レスラーを目指してガンガンとトレーニングしていた時以来だ。あの時は体力的にだが、今は精神的に疲れを感じる。でも、その疲れさえも妙に心地良かった。
 今日で西武新宿の件も決着がつく。そう思うと疲れも吹き飛んでいく。
 着替えを終えて、外に出る。
「おぉ……」
 思わず外の景色を見て声を出してしまう。
 白い雪がしんしんと降っていた。
 今年の初雪……。師走の最後でなんて……。
 まるで俺を応援してくれているかのようだった。
 今まで雪が降って、こうまで感動できた事があっただろうか? 次の日には溶けて道路もベチャベチャになるので、雪が降るとウザいという感覚しかなかった。
 だが、その雪さえも今の俺を祝福してくれるように感じる。
 明らかに良い意味での追い風が吹いている。心の中でそれを確信した。
「ロマンチック過ぎるだろ……」
 天を仰ぎ見る。神様がどこかで見て、このタイミングで降らせてくれたのかな?
 心の奥底に沈殿していた深い悲しみが、喉元まで出てくる。雪を見ながら俺は泣いていた。馬鹿、泣くのはまだ早い。まだ終わりじゃないんだ。しっかりしろ。
 一歩一歩、雪を噛み締めるようにゆっくり歩く。珍しく辺り一体は一面の銀世界だった。
「よし、今日で終わりにしてやるぞ」
 俺は本川越駅までの道程を歩きながら、そっと呟いてみた。

 落ち着かない気分で時間が経つのを願った。仕事が終われば、帰りに西武新宿駅に寄る事になっている。
 外の見張りをしているはずの大山が、いつものように店に顔を出す。
「うー、寒いっすよ~。外で見張りなんてしてられないっす。神威さん、温かいコーヒー下さいよ」
「まったくおまえは……」
 こいつの店に警察が入ったらどうするつもりなんだ。まあ、他人のゲーム屋なので口うるさく言ったところ意味ないか。笑いながらコーヒーを淹れてやる。
 早く時間経たないかな……。
「龍さん、どうしたんですか? そわそわして」
「以前、電車の件でトラブルがあったって話した事あったろ?」
「ええ」
「今日、仕事終わってから駅に寄るんだ」
「何か仕掛けるんですか?」
「違うよ。今日、雪が降ったけど、こっちの件は雪解けだ」
「向こうから頭下げて来たんですか?」
「うーん、まあ結構力技使ったけどな」
「何したんですか?」
 携帯電話を取り出して、先日の峰との会話を撮った映像を大山に見せる。
「すごい言い合いですね」
「ああ、俺がうまい具合に隠し撮りしたからな。これ持って、他の駅員を脅したんだ」
「過激ですねー、やる事が……」
「まーな。でもやってる事はエグイけど、俺の主張は正当なもんだ。別に間違っちゃいない。あまりにも何の反応もないから、強引に行動しただけだよ」
「しょうがないですよね、その状況じゃ。あ、そういえばこの間、浄化作戦の事を話してたじゃないですか?」
「ああ、それで?」
「龍さんの知り合いで執行猶予になった人たちって、今はどうしてるんです?」
「うーん、普通に働いている奴もいれば、どこに行ったのか分からない奴もいる。どっちにしても歌舞伎町も寂しくなったもんだよ」
「何で歌舞伎町ばっかり、やり玉にあげるんですかね?」
「前も言ったように国民に格好つける為の正義を語ったパフォーマンスだろ。テレビで見てるだけの奴らには、歌舞伎町は怖い街だって認識があるだろ?」
「はい。自分の友達なんかもボラれるから怖いって、みんな言いますよ」
「そんなのは街に立ってるポン引き連中に、ついて行くからだよ。見ず知らずの人間の言う事を鵜呑みにして、スケベ心を剥き出しにしてるほうも責任はあるって」
「はぁ、奥が深いですね」
「全然深くないよ。自業自得だ。頭の中がエッチな事ばかり考えてるから、足元をすくわれる。簡単に言えばポコチンおっ立てている連中はもっと頭にも血液を回せって事だ」
「自業自得かー……」
「まあ、話を元に戻すと歌舞伎町はそこまで怖い街じゃないだろ? でも国が攻撃すれば、世間的な見方は正義の行動に映る。あれだけテレビで派手にやれば、歌舞伎町を知らない人間が見たら、嫌でも悪い者退治をしてるとしかとれないようにうまく番組を作ってる。やり方が汚い」
「言われてみればそうですね」
「ああ、俺々詐欺とかのほうがよっぽど問題あるだろ? 最近ニュースでようやく話題になっているけど」
「ええ、あれは最悪ですよ。人間のクズのやる事です」
「ああ、人の弱みにつけ込んで、金を騙し取ろうとしてんだからな。でも法律上での罪はというと、裏ビデオ売ってる奴も、俺々詐欺も同じ執行猶予三年から四年だぜ。おかしいじゃん。歌舞伎町のやってる商売で多くは確かに違法かもしれないけど、それを実際に求める客がいる。需要と供給が成り立っているのにさ。誰にも迷惑を掛けてないだろ? 何故なら歌舞伎町はみんなが欲望を金で満たしにくる歓楽街だからだ。そのぐらいあっていいじゃねえかよ、歌舞伎町なんだから。性欲でいっぱいになった人間が、自分の金で好きな事をしに遊びに来てるんだから」
「その通りですね。自分も好きだから裏DVDを買うんです。好きだからヘルスに行くんです」
 別にそんな事までムキなって話さなくてもいいのに…。俺はそう思ったが、心の中で思うだけに留めておく。
 もう数分すれば夜の八時になるところだった。

 あれだけ降っていた雪はさすがにやんでいだ。今日でケリをつけないと……。
 帰り支度を始める。これから峰との話し合いが待っている。向こうは謝罪したいと言ってはきたが、実際は峰自身の気持ちが一番肝心なのだ。状況次第では今日じゃ済ませられない可能性もある。しっかりその辺は自分自身見極めないといけない。
 すべてはこれからの為に……。
 みんなで笑い合えるように……。
 会社を出て、西武新宿駅へと向かう。珍しくあれだけ積もった雪もたくさんの人によって踏まれ、道路の隅にちょっと残っているぐらいだ。西武の赤レンガの壁が見えてくる。二階の改札口へ向かうエスカレータの前まで来ると、軽く深呼吸をした。
 頭の中で簡単に今までの事を思い出し、整理してみる。小江戸号で起きた座席を巡る小さなトラブルから、もう今日で二十八日の火曜日になる。あんな小さな出来事からだらだらと時間だけが過ぎていった。
 子供をおろした事。
 組織から抜けられなくなった事。
 できる事ならもう、ここですべて終わりにしたい。まずは発端になったこの事から片付ける。
 ゆっくりとエスカレータに右足を乗せる。エスカレータは私を乗せて静かに二階へ登っていく。
 駅構内は人がたくさんいる。忘年会の帰りなのか、真っ赤な顔をしてブツブツ言っている酔っ払いや人前も気にせず抱き合ってるカップル。公衆電話で泣き叫びながら話している変な女。こうして見ていると本当に日本は平和だというのがしみじみ分かる。
 改札のところまで歩いていくと、峰の姿が見えた。峰は俺の姿を確認すると、軽く会釈をして駅員待機室のドアを開けて待っている。
「どうぞ、お入り下さい」
 ワザと睨みつけるように峰を見てから黙って中へ入る。折りたたみ椅子が用意してあったので何も言わず勝手に腰掛けた。他の駅員の視線が俺に注目しているのが分かる。
「神威さん。本当にちゃんとした謝罪もできず、申し訳なかったです」
「何で急に態度、変わっってんですか? 俺は散々あれだけ言ってきたはずですよ」
 意地悪な言い方をあえてした。今まで溜まり積もったものを抑え切れなかった。おろした子供の事や抜けられない組織の事、そしてこの間の駐車禁止の件なども、峰にすべて怒りをひっくるめてぶつけてやりたかった。
「あの時、偉そうな口利いてたじゃないですか? もう謝罪は済んだみたいな言い方で…。今さら自分の主張を変えないで下さいよ」
「いえ、そのような言い方はしてないです。神威さんにご迷惑掛けたのは事実ですし、不愉快な思いをさせ、大変申し訳なかったと思ってます」
「だってあなたは俺に公衆の面前で赤っ恥かかせたじゃないですか?」
 何を言ってんだ、俺は? 自分で吐く言葉の一つ一つが見苦しい。
「いえ、そのようなつもりでは……」
「前にも言ったでしょ。そんなつもりじゃなくても周囲はみんなそう見るって」
 自覚しているのに何故かとまらない……。
「申し訳ありません」
「冗談じゃないですよ。その後の対応だって酷いもんじゃないですか。それに何ですか、昨日のあの対応は?」
「すみませんでした」
 平謝りの峰。俺は携帯を取り出して峰の目の前に見せる。
「昨日のあの会話、実はこの携帯で一部始終撮っていたんです。気付いてました?」
「い、いえ……」
「出るとこ出ても、俺は全然構わないんですよ」
 卑怯な言い方だ。自分でもそう言ってて嫌だった。
「申し訳ありません」
「いくら謝られても……」
 心の中から深い悲しみがゆっくり上昇してくる。
「いえ、私には本当に心から神威さんに謝る事しかできません。本当に気を悪くさせてしまい、申し訳ありませんでした」
「……」
 これ以上つまらない台詞を吐くなよ。何故こんなに悲しくなる? あの子がもうやめろって、もっと格好よく生きろって教えてくれているんだ。
「すみません。ずっとあれから心の中で気持ちが悪かったです。何故もっと早く、このような機会を作れなかったのかと…。申し訳なかったです」
 何度も峰は平謝りして頭を下げる。見ていて誠意の感じとれる謝り方だった。下の駅員たちが見てる前で、駅長自身が自分より年下の俺に頭をひたすら下げる。立場を考えれば、恥ずかしくないはずがない。
「峰さん…、もういいですよ」
「本当に申し訳ありませんでした……」
 俺はもういいと言っても、必死に峰は謝っていた。こんな追い込んでどうするんだよ? もうこれ以上人を傷つけたって何もいい事なんてないんだ。みんなで笑い合えるように頑張るんじゃなかったのかよ……。
「峰さん。もう、いいですよ。ありがとうございます。どうか頭を上げて下さい」
「いえ、神威さんは私たち駅側が言えないような事まで、あの女性客に言ってくれました。本来なら感謝してもし足りないぐらいです。神威さんは非常に知識人です。それをこのような形にしてしまいまして…。私の配慮が足りなかったです」
「確かにあのメガネかけた馬鹿な女が一番の原因ですよね。一番騒ぎを巻き起こした張本人が場を荒らすだけ荒らして逃げた。見つけたら、あの女はぶち殺したいですよ」
「ま、まあ、それはそれで困りますけど……」
「とりあえず言ってみただけです。どっちにしてもあの女が元凶なんですから」
 もう嫌味は散々言った。もういいよな? 許してあげていいよな?
「そう言っていただけると……」
「ただ、そのあとの朝比奈さんと峰さんの対応が悪かったんですよ。今になって思えば、電車の発車する前で、色々と大変な部分があったのは分かります。実際にあの状況で駅側の立場にしたら、言いたい事ってあると思うんですよね」
「ええ、そう言っていただくとありがたいです。こちら側の言い分であの時の状況を説明しますと、あの女性は私が駆けつけた時点でテーブルを叩きながらかなり興奮してました。これじゃ話にならないなと判断して、神威さんに話をしたんです。あの時は慌てていたので、大変失礼な言い方になってしまったのは確かですが……」
 峰も緊急に連絡を受けて、情報の少ない状態であの場に来たのだ。あの時自分自身でこれじゃ俺がパッと見悪者にしか見えないって思ったぐらいだ。慌てても仕方がない。
「もういいですよ。自分も今までわざと意地悪い言い方をしてたと思いますし、ここまできて引くに引けない部分もありました。反省する部分は、こちらもあるんです。昨日、間壁さんから連絡あった時、峰さんを私たちの仲間なんですって、俺に素の感情を言ってくれました。ジーンときちゃいましたよ。じゃあ、俺のやってる事って何なんだって…。自分で正義というか間違ってない行動だと信じて動いてきましたけど、もう少し相手の気持ちを考えてやれても良かったんじゃないかって…。だから峰さんもこれ以上、謝らないで下さい。お互い笑顔で…、みんながこれで良かったと思えるように笑顔で今までの事、お互い水に流しちゃいませんか?」
 峰の表情が和らいでいくのが分かる。
 俺も体の中につかえていたものが、すべて流れ落ちたような気がする。
 色々あったがこれで良かったのだ。そう思わないと、おろした子に対して申し訳なさ過ぎる。
「ありがとうございます、神威さん」
「こちらこそ、ねちねちとすみませんでした」
 俺と峰は向かい合って、笑みをこぼした。そしてどちらから求める訳でもなく、自然と握手をしていた。
 一つ、やっとこれで終われた…。馬鹿、感傷に浸るな。涙なんてここで流せないだろ? 別の事を考えろ。
「じゃあ俺、そろそろ帰りますよ。小江戸号に乗って」
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそあの電車があって、本当に助かってるんですから。もう何年も利用してるんですよ。小江戸号があるからこそ、私は今まで新宿でずっとやってこれたんです。もちろんこれからも西武新宿線を利用させていただきますけどね」
「ありがとうございます。これからもより一層お客さま方が気分良く乗っていただけるように最善を努めます」
「頑張って下さい。あと間壁さんや福島さんによろしく言っておいて下さい。散々世話になって迷惑も掛けてしまったんで…。では、自分もそろそろ失礼しますね」
 俺は笑顔で答え、部屋から出ようとする。
「あ、神威さん……」
「はい?」
「まだ次の小江戸号まで時間があるので、ゆっくりしていったらどうですか?」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
 今までの確執がすべて解けた。百合子にこの瞬間を見せてやりたかった。
「神威さんてずいぶんと体も大きいですけど、昔、何かやってたんじゃないですか?」
 そう…、言われたとおりずいぶんと昔になってしまったのだ。もうあの頃の輝きは自分にはない。
 大和プロレスで精神や肉体を極限まで鍛え抜いた若き頃。戻りたくても、もう無理なのだ。できればリングにまた上がりたかった。もう一度、自分のテーマ曲にのって、観客のブーイングを浴びながら入場してみたかった。戦って前のめりに倒れるような生き方をしたかった。
「……」
「神威さん?」
「え、ええ…、本当に昔の話です」
「やっぱり何かやってらしたんでしょ?」
「ま、まあ……」
「格闘技じゃないですか?」
「ええ……」
「私、こう見えて実はプロレスが大好きなんですよ」
 峰駅長がプロレス好きだったとは……。
 一気に親近感が湧いてくる。峰さんになら過去の事を少しぐらい話してもいいだろう。
「実は俺…、チョモランマ大場社長が健在の時の大和プロレスにいたんです」
「えーっ!」
 顔を真っ赤にして興奮してくる峰駅長。落ち着きない素振りを見ていると、もはや西武新宿駅駅長という立場を完全に忘れているかのように見える。
「お世話になった師匠がヘラクレス大地さんです」
「うーん、大和かー…。大地、大好きだったんだよなー……」
 その大地さんも今はもうこの世にいない。俺だけお世話になり、恩も何も返せないまま先に逝かれてしまった。
 今の俺を見て、大地さんは喜んでくれるだろうか? いや、決して喜んでくれないだろう。生き方がこれまでブザマ過ぎる。
「俺なんかどうしょうもない問題児ですよ。プロレスでも格闘技でも……」
「神威さんの現役時代を見てみたかったなー」
 無理な話だ。俺の試合の記録は永久に潰されてしまっている。格闘技雑誌にすら写真を載る部分を揉み消されてしまった。現場で実際に試合を見てくれた人しか事実は知らない。
「できたら、一度でいいからまた戦いたいですね」
 俺の願望…、言い方を代えれば夢だった。夢とハッキリ言えるという事は、もう現実的な事ではなくなってしまったという事だ。この数年の間に自覚してしまったのだ。
 本当にリングに上がりたいと…、それが実現できると自負するなら、何故俺は今、あんな腐った店にいる。もう俺の戦いの時期は終わったのだ。中途半端なまま……。
「また頑張って下さいよ」
「難しいですよ。離れて何年も経っているんです。気力だけじゃ、あの世界通用しないですって」
「神威さんと話していると、不思議な迫力を感じるんです。気迫とでも言ったほうがいいのかもしれないですけど」
「自分自身が情けない真似しちゃうと、プロレスが舐められちゃうんですよ。勝手にそう自分が思ってるだけですけどね。もう大和とは関係ないですよ。自分なんて…。でも少しの時間だったかもしれないですけど、あそこで俺は育ててもらったんです。その精神は永久に消えません。今だって大和に恥をかかすような真似は絶対にできないんです。師匠の大地さんには結局、何の恩も返せないまま、先に逝かれてしまいました。だからこそ、自分の信念に恥じない生き方をまっとうしたいんです」
 俺は永久に自分自身に対して満足しない。したらその場で成長が止まるだけだ。
 大地さんに憧れ、早く横に並びたかった。でも俺は、しょせん俺の器しかないのだ。大地さんの器とは違うのである。
 どんなに時間が掛かっても、自分らしさを出しながら少しずつ近づけばいい。
 峰さんや他の駅員に、あの件から解決までの間に子供をおろした事は言うまい。あれは俺の責任なのだ。自分が不甲斐なかったばかりに……。
「神威さんの現役時代の写真、サインして私に下さいよ」
「写真なんて何もないですよ。当時は鍛えて体をでかくする事で精一杯だったんです。今思えば写真ぐらいたくさん撮っておけばよかったなって感じますけどね。今は別の形で頑張っていくだけです」
「なんだ残念だな…。でも別の形って……」
「以前、小説書いてるって言ったじゃないですか?」
「ええ」
「伊達や酔狂じゃなく、ちゃんとコツコツ書いてんですよ」
「それは信じてますよ」
「内容を西武の中傷って事じゃなく、読んだみんなが良かったと思えるような作品にしているんです。だから峰さんとも絶対に最後はこうならないといけなかったんです」
「え、私?」
「ええ、ハッピーエンドとして終わらないと。もちろんちゃんと峰さんも、名前を変えて登場してますよ。大物悪役キャラとして」
「悪役ですか……」
「しょうがないじゃないですか。駅員の視点じゃなく、乗客側の視点から自分勝手に書いているのですから」
「はぁ……」
「人間って現実もそうなんですけど、誰か一人の敵というか悪者を作り上げて、一致団結させるような傾向ってあるんですよね。今回の件でやってきた事を自分自身振り返ると、峰さん一人に標準を絞って最後まで攻撃してたじゃないですか」
「ま、まあ…、そうですね」
「とりあえず小説の中で、峰さんは始めはかなり悪者、ラストシーンで初めていい人だったという感じで書かせてもらいますよ」
「まいっちゃうな……」
「あ、そろそろ小江戸号の時間だ。峰さん、俺、行きますね」
「どうぞ。本当にすみませんでした、神威さん」
「何、言ってんですか。もういいですよ」
 俺と峰駅長はまた自然とガッチリ握手をした。
 一礼して小江戸号へと向かう。疲れが溜まっているはずなのに足取りは軽かった。席に座ると、早速百合子にメールを打つ事にした。一番最初に彼女へこの事を伝えたくてしょうがなかった。
《百合子、ようやく西武新宿の件、片付いたぞ。おまえに本当に色々と迷惑掛けてしまったな。でも今日、たった今、言った通りにハッピーエンドにしたぞ。これであの子も少しは喜んでくれるかな? 俺はあの子に自分の生き方を…、俺の背中をずっと見せ続けるよ。良かったら、百合子にはずっと俺のそばで見ていてほしい。明日、俺が帰ったら食事でも行こうか? 色々話したい事がたくさんあるんだ。 神威龍一》
 メールを送信すると、タバコに火をつけゆっくり煙を吐き出した。
 さて、残るは『ガールズコレクション』のみか……。

 朝起きると、携帯電話に百合子からのメールが届いていた。昨日は家に帰ってからすぐに寝てしまったようだ。
《良かったね。昨日は初雪も降って、ちょうど小説のほうも良い仕上がりになりそうだね。完成するの楽しみにしています。ずっと長引いてた西武の事、うまく終わって良かった。明日ご飯食べる時、色々話聞かせてね。 百合子》
 メールを読んでいると、自然に笑みがこぼれる。
 これで今回は良かったのだろうか? 正直なところ、俺には何も分からない。
 振り返ると、どうしてもおろしてしまった子供の事を思い出してしまう。
 百合子との仲が戻ったとはいえ、失ったものまでは永遠に戻ってこないのだ。
 この感情は一生付きまとってくるのだろう。
 一つの業を背負った。
 ハッピーエンドと百合子にメールはしたが、俺自身は違うのだ。関わっていく人たちをハッピーエンドによりすべく動かないといけない。
 俺は生きていく限り、失敗しても反省して、常に自分自身を昇華していかなければならないのだから……。

『ガールズコレクション』の仕事を終えて、いつものように小江戸号で川越に向かう。
 駅に到着すると、百合子が笑顔で待っている。俺たちはレストランで食事をして部屋に戻る。
「龍、西武の件が解決できて、本当に良かったね」
「ああ、でも犠牲になった事が多過ぎるよ……」
「うん、そうだね……」
 お互いそれっきり会話が止まってしまった。二人とも思っている事はきっと同じだろう。
「今さらだけど、本当にごめんな、百合子……」
「龍だけの責任じゃないよ。それにあの時は二人とも余裕がなかったし、仕方がない事だったんだよ。二度と同じ事を繰り返しちゃいけないけど……」
「そうだよな……」
 百合子に腕枕をして、寝る体勢に入る。真っ白な天井を見つめながら、色々頭の中で考えた。
 一時間ぐらい経っただろうか。百合子はいつの間にか寝てしまっている。俺は右手で、百合子のお腹にそっと手を当てた。もう当然の事ながらお腹は出てない。ここに俺と百合子の子供が確かにいたのだ。ここですくすくと成長していたのだ。それを俺は……。
「ごめん…、本当にごめんね……」
 俺は声を殺して泣いた。
 俺の頭に百合子の手が触れてくる。とても優しい感触だった。
「そんなに自分を責めないで、龍…。絶対にあの子も龍の事、笑顔で見てくれているよ」
「……」
 俺は大声を上げて思い切り泣いた。

 翌朝百合子は家に帰り、俺は仕事へ向かう。昨日、大泣きしたせいか目が充血していた。明日まで働けば、ようやく休みになり久しぶりにゆっくりできる。小説『とれいん』をたっぷりと書く時間が作れそうだ。
 店でも俺は、暇な事を幸いに黙々と小説を書き進めた。
 作品の中は間壁さんや福島さんとの話し合いのシーンまで書けている。最初から読み直してみると確かに事実通りなのだが、何故か釈然としない。読んでいてリアルな事はリアルなのだが、何かが足りないような気がする。
 何度も読み返していく内に、何が足りないのかが分かった。しかし足りない部分は俺一人で決めても駄目だ。携帯電話を取り出し、俺はメールを打ち始めた。
《百合子、仕事中にごめんな。答えてほしい事がある。俺たちの間にできた子。『とれいん』に子供をおろした事まで入れようと思う。できれば今、書いているこの小説はあの子に捧げたい。何も分からないまま、俺たちのエゴで命を消されてしまった。せめて形に残るように、俺が書いた作品ではあるが、あの子の事を形として残してあげたいんだ。でもその事を書くのに、百合子の意見も聞きたい。その事で、少しでも百合子が辛かったり、嫌な気持ちになるのなら、俺はそれについて一切書かない。でも俺の意見に少しでも賛成してくれるなら、ちゃんと書いてあげたい。よく考えて返事をほしい。自分の気持ちに素直に、正直に言ってほしい。突然こんなメール送ってごめんな。 神威龍一》
 作業をしながら刻々と時間は過ぎていった。
 さっきメールを送ってから三時間は経つ。でも百合子からのメールは届いてなかった。ずっと悩んで迷っているのだろう。俺も残酷な事をしてしまっている。ちゃんと逢ってから話すべきだったのか……。
 仕事が全然手につかなかった。
 果たして『とれいん』にあの子の事を入れて、俺はどうしたいのか。座席を巡る騒動の話に、あの子を入れて何になると言うのだろう? 西武鉄道の人間もこの作品を何人か目にするのだ。百合子も複雑な心境だろう。
 でも、ここまで魂を込めて書いた『とれいん』を単なる読み物にしたくはなかった。自分たちの事を暴露しながらも、簡単に子供をおろす馬鹿な連中や、これからの人たちに対するアンチテーゼとなるような作品にしたい。
 アンチテーゼ…、その言葉のちゃんとした意味合いを調べてみる。自分がよく理解していないのに、その言葉を使っても説得性がない。三省堂のデイリー新語辞典で調べると、こう書かれていた。
 はんていりつ【反定立】。ヘーゲルの弁証法で,出発点である定立が発展の過程で否定され、全く新しい段階として現れた状態。また,定立の命題を否定する命題。反措定。反対命題。アンチテーゼ。反立。(ドイツ) Antithese。
 これだけじゃよくは分からない。でももういい。俺は簡単に命を粗末にするなと文章を書く事で訴えたいのだろう。確かにみんなそれぞれ生活状況や環境など違う事だらけだ。それでも子供を産むという事は誰でも変わらないはずだ。

 夕方、百合子から一通のメールがようやく届く。今まで自分の気持ちを整理して考えていたのだろう。辛い事を思い出させ、可哀相な事をさせた。それでも俺の信念が可哀相と思う気持ちを上回った。だから自分の気持ちをメールにして送ったのだ。
《了解です。反省とともに作品の中に残してあげたいという事ならOKです。辛いと言えば辛いけど、あとは龍に任せます。忘れ去られるより、ずっと良いよね……。 百合子》
 何度も百合子からのメールを読み直した。
 これで俺はまた一つ何かを背負った気がする。
 今はこの『とれいん』を焦ってでなく、ちゃんと一字一字魂を込めて執筆するのが俺の使命だ。
 誰に何と言われてもいい。『とれいん』……。これは俺と百合子…、そしてあの子だけの作品なのだ。
 二千四年も、気がつけばもう明日で終わり。
 思えばとんでもない年だった。
 今年のスタートはあの北方のいる裏ビデオ屋の『マロン』。そこで俺は『新宿クレッシェンド』という処女作を書き、小説という世界に足を踏み入れた。
 ピアノ発表会。そして秋奈にふられた。
 ずさんな店に警察が来たが見逃してくれた。そして北方との確執。ヤクザに命を狙われそうになった。
『マロン』を辞めた俺は、三人のオーナーが雇う形で裏ビデオの組織に入る。そして統括という立場で歌舞伎町浄化作戦に立ち向かい、捕まった。
 巣鴨の留置所生活。
 東海林を始めとする四人のオーナーによる『ガールズコレクション』の発足。
 二ヶ月間給料が出ない状況時に起きた西武鉄道の一件。
 百合子との言い合いにより、子供をおろした事。
 組織を抜けられなくなった事。
 本当にこの一年は色々な事があり過ぎた……。
 俺はずっとテーマを持って頑張り、そして生き続けよう。百合子と共に……。

 帰りの西武新宿駅の改札を抜けると、向こうから一人の駅員が歩いてくる。どこかで見た事あるような…。助役の福島さんだった。この人にはありがとうございますといった感謝の念がある。あの時、俺に対して深々と頭を下げてくれた事が、ずいぶんと昔の事のようだった。
 一昨日、峰さんとの話し合いで解決した事は福島さん、知っているのだろうか。俺は近づいて話し掛けた。
「福島さん」
 いきなり苗字で呼び掛けられて、福島さんは不思議そうにこちらを振り向く。でも俺の顔を見るなり、すぐ笑顔になった。
「先日はどうも」
「峰さんとの一件、聞きましたか?」
「ええ、聞きました。聞きました! 本当に良かったです。ありがとうございます」
「何、言ってんですか。福島さんや間壁さんとかのおかげですよ。本川越だと駅長の村西さんに助役の小谷野さん。みんながちゃんと冷静に親身になって対処してくれたからじゃないですか。ますます俺、西武新宿が好きになりました」
「そう言っていただけると、本当になんて言っていいのやら…。ありがとうございます」
「これで本当にスッキリできました。お騒がさせさせて、すみませんでした」
「いえいえ、こちらこそ」
「じゃあ、あの小江戸号乗って帰るので、そろそろ行きますね」
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
「失礼します」
 心から笑顔で会話ができた。俺は向きを変えてゆっくり歩き出す。小江戸号の入口まで来た時、背後から声が聞こえる。
「神威さーん……」
 振り向くと福島さんが走って近づいてくる。
「ハァ、ハァ……」
「大丈夫ですか? どうしたんです?」
「…、ハァ…、……」
 福島さんは片手に缶コーヒーを持っている。ひょっとしてわざわざこれを渡す為に?
「ま、まだ…、ハァ…、寒いでしょう。ハァ、ハァ…。良かったら飲んで下さい」
 俺はその缶コーヒーを素直に受け取り、頭を深く下げた。
「すみません。ありがとうございます。何か気を遣わせてしまって……」
「良かったら、飲んで下さい」
「ありがとうございます。俺、メチャクチャ嬉しいです」
 俺は改心の笑顔でお礼を述べた。福島さんも満足そうに頷いてくれる。

 小江戸号に乗って俺は川越に向かう。たまたま今日の座席はメガネの女と揉めた因縁の『A2』だった。
 でも当然の事ながら、俺の座席に女物の荷物はない。あれは十年に一度もないような事が偶然起きただけなのだ。あんな事二度とごめんだ。
 福島さんからもらった缶コーヒーのタブを開ける。
 電車の外の景色を眺めてみた。何度も見た風景。何も変わりはない。俺自身は今回の件で、いい方向に変われたのだろうか? いや、それは周りの人間が判断する事だろう。
 おろしてしまった子供に対して、俺は踏ん張って今現在を生きていかねばいけない。
 いつか師匠の大地さんに追いついて、横に並ぶことができるだろうか? これだけは方法が何も分からない。ただ俺なりに考えて、懸命に足掻くしかないのだ。
 コーヒーを一口飲むと胃袋に暖かいものが流れ込む。
 福島さんからもらったコーヒーは、少しほろ苦かった。

 
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