岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

6 新宿クレッシェンド

2019年07月06日 17時39分00秒 | 新宿クレッシェンド

 

 

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 鳴戸が出て行くと、あれだけ重苦しかった部屋の空気が、どこかに行ってしまったように感じる。
「やっと行きましたね…、鳴戸さん。あの人といると、緊張するでしょう、赤崎さん」
「…そうですね。なかなかああいうオーラっていうんですか。気迫というか、今まで見たことない人ですよね」
「絶対に内緒ですよ」
「えっ……」
「さっきの金ですよ。昨日忙しかったし、俺は店長じゃないですか。多少だったら誤魔化せるんですよ。バレたら殺されても、おかしくないですけどね」
 さっきの一万は、店の売り上げから抜いた金だったのか……。
 しばらく呆然とする。なり行きとはいえ、俺はその金を受け取ってしまったのだ。岩崎は口止め料代わりに俺に渡した。知らない間に、後戻りが出来なくなったようなものだ。
 しかし俺なんて、この業界へ入ったばかりの素人に過ぎない。わざわざ俺に渡さないでも、自分で黙って懐に入れとけば、絶対に分からないはず……。
 自分の利益が減るだけなのに、何故、俺に……。
 岩崎の思考が理解出来なかった。素直に聞いてみよう。まだ仕事二日目の俺には、理解出来ないことばかりが多過ぎた。
「い、岩崎さん…。何故、俺に分け前をくれたんですか……」
「信用されてるからですよ」
 岩崎はニコリともせずに、真面目な顔をして言った。
「信用?俺に一体、何の信用があると言うんですか?」
「赤崎さんはこの業界にまったく染まっていない。まあ赤崎さんの性格もありますけど、ちゃんと親元に住んでる。簡単に言うと、この街に来る人間とは、種類がちょっと違うんです。もちろんいい意味でですけどね。昨日の山下の話、聞いたでしょう。ああいうことする奴が腐るほどいるんですよ。この街…。まー、山下のやり方は、別に置いといたとしても、この街ではよくあることなんですよ。日常茶飯事なんです。オーナーサイドからしたら、使う従業員は安心出来る方がいいに決まってるじゃないですか。身元もハッキリして、真面目で頑張るようなタイプが…。だから、赤崎さんは信用されているんです」
「でも、それと金を渡すことと、どういう関係があるんですか……」
「俺がこの場にいない時とか、水野さんにしても鳴戸さんにしても絶対に赤崎さんに色々聞いてくるはずです」
「え、何をですか?例えばどんな……」
「何かあいつは不自然なことしてないかとか、色々な聞き方をしてくるはずです」
「別に変なこと言わないですよ」
「今、自分が金渡していなかったらどうします。悪意はまるでなくても、ひょっとしたら自分にとって致命的なことがばれるかもしれない。事前に自分から、ちょこっとだけでも言っておきたかっただけなんです。俺を裏切らないで下さいね、赤崎さん」
 この状況で裏切れる訳がない。
 一見、質問しているようで岩崎は、イエス以外の選択肢を一切与えなかった。一瞬の早業で俺を丸め込んだのだ。
 再度、街で見かけた山下の姿を思い出した。鳥肌が立つ。
 絶対にあんな目に遭いたくない。
 そうだ、岩崎にさっき見かけた山下のことを話すべきか……。
 岩崎は捻じ曲がった感覚ではあるが、俺を味方に引き入れようとしているのだけは分かっている。もう、後戻り出来ないところに来ていた。
 言うべきだ。このような形で金をもらうのは理想ではない。普通に働き、評価された上で金をもらいたいものだと……。
 しかし、綺麗事を通したいが、それを通せるほど、現実的に今の俺は満たされていない。要は金がないのだ。ただ、岩崎の言い分をすべて聞いても、ちょっと引っかかるところはあった。
 口止め料代わりで、一万という金額は不自然だ。俺はこの仕事に関して、何も知らない素人だし、実際に岩崎がどうやって店から金を抜いているのかすら、まったく分からない。
 黙っていれば、自分だけおいしい思いが出来るのに、わざわざ自分から悪事をバラした。
 それ以外の細かいところは、気にしても意味の無いことだ。考えても分からないのだから……。
 とりあえず俺は、山下のことを話しておくことにした。情けないが、今は岩崎に媚びるしかない。
「分かりました。俺も岩崎さんを絶対に裏切らないですよ。そう言えば、さっき買い物の帰りにさくら通りで、山下さんらしき人を見かけましたよ」
「えっ、…で、どうしたんです」
「人違いだったら嫌なので、じっくり確認しましたけど、右腕にギブスをしてましたね。左足も引きずりながら歩いていました」
 俺が簡潔に話すと、岩崎の顔はさすがに青ざめていた。しばらく沈黙が続く。
「そうですか…。実は、赤崎さんが買い物行ってる途中、店に知り合いから電話あって、おまえのとこの従業員、随分と酷くやられたなー。抜きか何かバレたのかって教えてくれたんですよ」
「鳴戸さんです…、か…、ね……?」
「おそらく…。いや、それしかないですよ。くれぐれもバレないよううまく頼みますよ、赤崎さん」
「は…、はあ……」
 これで早くも俺は、歌舞伎町の住人として、仲間入りしたのであろうか……。
 俺は少なくとも、プラスアルファーの金をもらえるようになったということだけは確かだ。
 その代わり、何か大事にしていたものを失ったような気がする。
 ある一線を越えるとは、こういうことをいうのだろう。俺も結局のところ、薄汚れていた。自分を少し嫌いになった。「金がない」と言っていた母親の台詞を思い出す。
「そんな心配そうな顔しないで下さい。今まで通り普通にしてればいいんです。大丈夫ですよ。大丈夫です」
 岩崎は俺に、今日、一万円をくれた。彼は今日だけで、どのくらいの金額を店から抜いたのだろうか。まったく想像もつかなかった。
 家に帰り、布団に潜る。さくら通りで見かけた山下の姿が、頭から離れなかった。
 岩崎がどのようにして金を抜いたのか、術は分からなかった。
 分かっていること、それは俺が岩崎と秘密を共有するようになり、共犯になったという事実だけなのだ。
 そして、もしそれがバレたら、とんでもない目に遭う。
 岩崎は俺を歌舞伎町に染まってない人間と言った。
 だが、今日で何パーセントくらい染まったのだろう。手探り状態で始まった俺の歌舞伎町の物語……。
 どのような終焉を向かえるのか。
 ここでは、喧嘩が強いなど何の意味も無い。
 もっと頭を働かせろ。
 もっと考えろ。
 そして、油断はするな……。

 暗闇の中を歩く俺。
 ここはどこだろう。
 かなり遠くに微かな光が見える。俺はその光に向かって歩き出した。
 どのぐらい歩いただろうか。なかなか光のある場所まで辿り着かない。歩きながら考える。俺はそこまで行って何をしようというのだ。何も分からない。
 それでも自然と光に向かって、ただ歩いていく。
 ぼんやりした光の中に、ブランコみたいなものが見える。ブランコには、嫌な思い出しかなかった。
 その場に立ち止まって、おぼろげに見えるブランコを見つめる。
 どこからか音楽が聴こえてきた。聴き覚えのある曲。確かこの音は…、ドビュッシーのアラベスク第一番……。
 クラシックの中でも好きな部類に入る曲だ。
 聴いていると癒されていく。非常に心地良い気分になる。目を閉じ、曲に聴き入る。
 この曲は、泉から電話が掛かってきた時の着信メロディにもしていた。この間、ふられたばかりの泉のことを考えるとイライラしてくる。まだ、未練でも残っているというのだろうか。
 アラベスク第一番は、悲しい音色で流れ続ける。何かが変だ。よく聴くと、さっきから同じフレーズばかり流れている。
 それにここは、一体、どこなんだ?
 目を開いて辺りを見渡すと、いつの間にか自分の部屋になっていた。
 あの暗闇は一体…、ただの夢だったのか……。
 おぼろげに見えたブランコ。嫌な思い出が蘇る。
 アラベスクの曲とブランコ……。
 俺の心の奥底に封印した記憶、夢となって何かを教えたかったのか。

 アラベスクの曲はまだ流れ続けている。
 待てよ、俺の携帯から音が鳴っているのか?
 もう一度、目を開く。広がる景色は、見慣れた自分の部屋であった。どうやら夢を見ていたようである。
 夢と現実が、ごちゃ混ぜになっていた。携帯のメロディは鳴り続けている。
 ひょっとして……。
 着信画面を見ると、案の定、泉からだった。
 今さら何の用だってんだ……。
 色々と考えている内に、着信メロディは止んだ。
「けっ……」
 携帯を放り投げて、再び、布団に寝転がる。このまま眠りにつきたかったが、泉からの電話のせいで、いまいち落ち着かない。
 だいたいあいつは、一体、何のつもりなんだ。苛立ちが募るばかりだった。
「もうっ、隼人なんか知らないから……」
 泉に言われた台詞を思い出す。
 ふざけやがって……。
 突如、また携帯が鳴りだした。着信メロディは同じくアラベスク。
 泉からだった…。今度は慌てて携帯を手に取る。ガツンと言ってやらないと、気が済みそうもない。
「何の用だ?」
「隼人…、あの時、言いたいことだけ言って、あの場から逃げちゃって…。私、ちょっと卑怯だったよね」
「だから何だ?」
「えっ……」
「だから何だってんだよ。それでどうしたいんだ?また、俺に抱かれたいのか?冗談じゃねー。もう、とっくに女は間に合ってんだよ。今さら話すことなんか、何もねーんだよ、ボケッ」
 怒鳴りつけて、電話を切った。再度、メロディが鳴る。悲しそうなアラベスクの音色……。
 俺は放っておいた。
 何度も何度も携帯は鳴り、アラベスクの美しい音色だけが、無情に鳴り響く。女は間に合っている…、とっさに出た嘘だった。
 一体、今の俺に、どんな女がいるってんだ。年齢的に、性欲は充分にある。女とセックスするのは嫌いではない。
 きっと泉はヨリを戻したがって電話をした。いや、そんなものは俺の自惚れかもしれない。こんな薄汚れた環境にいる男など、相手にしない方が泉の為だ。
 おかしい……。
 あいつとのことは、もうとっくに割り切ったはずだ。
 それなのに自分自身、非常に混乱している。色々考えるのは、今の職場だけで沢山だ。
 あんな女、相手にするな……。
 気付くと、部屋の中は煙草の煙で真っ白になっていた。ちょっと寒いが、換気をしようと窓を開ける。外は、結構強めの雨が降っていた。
「んっ……」
 外の電信柱の影に、人が立っているのか…。目を凝らして凝視する。
 あれは…、泉か……。
 傘も差さずにずぶ濡れになって、俺の方を見ている……。
 俺は窓を閉め、すぐ部屋の明かりを消し、真っ暗にした。
 確かに人影は、泉だった……。
「あの馬鹿が……」
 頭から布団を被り、目をつぶる。
 混乱していた。頭がおかしくなりそうだった。
 いつ頃から泉は、あの場所にいたのだろうか?
 俺は、こんな逃げ方をして、無様じゃないのか?
 自問自答してみるが、答えは返ってこない……。
 どれくらいの時間が経ったのだろうか。外の音で、雨はまだ強い降り方をしているのが分かる。
 泉は、まだ俺の部屋を見ているのだろうか?確認すら出来ない。
 一体俺は何から、逃げているのだろう?答えは相変わらず出ない。
 この落ち着きの無さから開放されたい。
 いや、本当の答えは分かっている。どうすればいいのかは……。
 時計を見る。夜の十一時を過ぎていた。
 こんなところで、布団を被っている場合ではないのだ。一刻も早く外へ出て、泉のところへ行かなければ、答えは出ないのだ。布団を投げ捨て、手早くスーツを着る。
「兄貴、バタバタしてどうしたの」
 ドア越しに怜二が声を掛けてくる。今の俺には答えられる余裕が無い。コートを掴みながらドアを開けると、怜二が不思議そうな顔で立っていた。
「どけよ、ボケッ!」
 怜二を押しのけて玄関まで走る。靴を履いたところで、遠くから声が聞こえた。
「いきなり何しやがんだよ。馬鹿野郎!」
 あとで謝ればいい。怜二には悪いが、今は構っている暇などない。玄関を飛び出して、ずぶ濡れになりながら、俺は泉が立っていた場所辺りまで、懸命に走っていた。

 新宿歌舞伎町で働き始めてから、一週間が過ぎた。
 物事に夢中になれると、流れる時間が、とても早く感じる。
 気付けばたった一週間働いただけなのに、俺の財布には十万以上の金が入っていた。
 あれから、岩崎とはなかなかいい感じの呼吸で、うまくコンビが組めていると思う。
 岩崎は、毎日五千円から、多い時は二万円くらいの臨時収入を作り、俺に手渡してくれた。
 日払いの一万二千円と食事代の千円。
 平均してみると、一日分で、二万三千円くらい稼いでいる計算になる。
 今まで色々な仕事をしてきたが、こんな楽な仕事はない。それにもかかわらずこれだけの金額をくれる仕事は他になかった。
 歌舞伎町といういかがわしい街の裏稼業。普通に仕事をして稼ぎたかったが、金の魅力には逆らえない。自分の持っているプライドや信念を簡単に捻じ曲げてしまう魔力があった。
 今のところ、そういう風に生きていく以外、他にいい術が見つからない。
 このまま金を貯めることに専念した方が、自分の為にもなるだろう。
 今は岩崎という人間に寄生して金を稼ぐ、蛆虫のような生き方しか出来ないのだ。悔しいが、それが俺の現実だ。
 初仕事から十日後、初めての休みをもらえた。
 サラリーマンをやっている訳ではないから、休みが無くても我慢出来た。しかし、いざ休みをもらえるとなると、やはり素直に嬉しかった。
 あの雨の日、外に立っていた泉を思い出す。
 走ってその場所まで行ったが、すでに泉の姿はなかった。
 直接電話して確認でもすれば、済む問題なのは分かっていた。
 何度か携帯を持ち、泉の電話番号を画面に出したはいいが、発信ボタンを押すことは出来なかった。
 実際のところ、泉の言葉を聞くのが怖いだけなのかもしれない。泉からの電話はあの日以来、まったく無い。
 あいつは金もなく職もない俺に、愛想を尽かして去っていった女なのだ。今は違う。財布を見てみた。
 金は以前よりある。
 汚い金かもしれないが、この金を使えば、どこへ行っても笑顔で俺を迎えてくれる。
 泉に対する後ろめたさが頭から離れないが、休みの日ぐらいは自分を癒したかった。
 後ろめたさ?
 何故、俺はあんな女にそんなものを感じているのだ?
 もう関係ないんだ。
 あの時、割り切ったはずだろうが……。
 せっかくの休みの日だというのに、何をしたらいいのか分からない俺は、自然と新宿に、向かっていた。人間の欲望と本音が渦巻く新宿歌舞伎町が、いつの間にか自分を癒す場所になっていたのかもしれない。
 孤独は辛い。だから人は金を使って誰かに構ってもらう。あそこなら、寂しさを紛らわせようと、金で割り切って癒してくれる女がいる。
 新宿に着くと、何の目的もなく歌舞伎町を彷徨いだした。
 まだ夕方だからか、客引きの姿もチラホラしか見えない。
 日頃いると、ウザイだけなのが、あまりにも見かけないと、淋しいと思うのはおかしな感情だろうか。
 いや、彼らだって、自分の生活があるのだ。本当はやりたくないけど、しょうがなくやっている人だっているだろう。
 真面目に生きているから偉いという訳ではないと、俺は思う。
 でも、今の俺にはそういうことを主張するよりも、淋しさでポッカリ空いた穴を埋めたい気分だった。
 気を張り詰めているだけじゃ駄目だ。誰かに癒してほしい。
 セントラル通りを歩いていると、一つの看板に自然と目が向いた。
「痴漢してる最中を覗くスリル…、日頃出来ない欲望を満たせ。ナイトスコープ 当ビル地下一階 入場料、たったの千円!」
 泉に去られてから、誰ともセックスをしていなかった。
 正確には、やらせてくれる女がいないだけの話なのだが……。
 誰でもいい。癒してもらいたかった。
 歌舞伎町での生活は、知らず知らずのうちに、俺の心を傷つけていたのだろうか。今の俺には分からない。
 俺も男だから、スケベなことに興味はある。さっきのナイトスコープという名の看板が目に焼きついて離れなかった。
 あそこへ行ってみたいという衝動に駆られる。
《行けよ。行ってスッキリさせろよ》
 何かが、俺の心の中で命令する。
《男は元々そういう生き物なんだよ。我慢するな。淋しかったら行け。行ってスッキリしてこい。何だ、怖いのか?》
 心の中で、その何者かは叫び続ける。
「うるせーな。行きゃーいいんだろ。行ってやるよ」
 俺は一人なのに、心の中の何者かに向かって声をあげていた。通行人は不思議そうに俺を振り返る。
 人々の視線が恥ずかしかったが、気にしてもしょうがない。俺は構わずナイトスコープという名の風俗店らしき店の階段を下りていく。
 一瞬だけ泉の顔が頭にちらついた。

 店の中に入ると、薄暗い異様な空気が体にまとわりついてくる。
 心臓の鼓動は、明らかに早くなっていた。
 一歩一歩階段を下りるたびに、妙な期待感が俺の心を支配していく。下に着くと、受付があり、従業員が暇そうに鼻くそをほじっていた。
 大丈夫か、ここ……。
「あっ、いらっしゃいませ。当店のご利用は、初めてですか?」
 入口でどうしようか迷っている俺に気付いた従業員が、歩み寄ってきた。
「は…、はい」
「では、入場料千円頂きます。先を進み、十二番と書かれているカーテンを開けて、中に入ってお待ち下さい。はいー、一名様入りまーす」
 有無を言わさぬ話し口調。
 ドクドク…、心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。この従業員に心臓の音が聞こえそうで恥ずかしかった。俺は千円をさっさと払い、奥へと進む。
 ひと一人、ようやく通れそうな狭い通路を歩いていく。
 通路の両サイドは真っ白なカーテンで仕切ってあり、カーテン越しに、卑猥な女の声が聞こえてくる。
 体中の毛穴を意識して開かないと、息が詰まりそうだった。
 十二と書かれた札のあるカーテンがあったので、ちょっと様子を見て、少し躊躇ってからカーテンを開く。
 中は小さなベッドが置かれただけのシンプルな部屋だった。人のいる気配はまったく無い。ベッドに腰を下ろし、煙草に火をつける。
 一体、これの、どこが覗きなのだろうか……。
 大きな部屋をカーテンで何ヵ所かに区切っただけの、とてもシンプルな作りの風俗店。表の看板に書いてあったイメージとは少し食い違う。
 辺りをいくら見回しても、覗き見が出来るような穴はどこにも無さそうだ。
 今まで風俗というものに来たことがなかった。金で女を買うというイメ―ジがあったし、どこかで風俗嬢という存在を小馬鹿にしていたフシもある。
 だが、俺は今、その軽蔑していた風俗店に来ている。
 以前感じた感覚は、単純に自分に金が無い後ろめたさの誤魔化しに過ぎなかったのだ。
 俺は過去、四人の女を抱いたことがある。ただ、誰にも言えないことがあった。
 一度もいったことがないのだ。
 女からは、「何でよ」と、よく責められたものだ。
 自分でも、原因がまるで分からないのだから、答えようがない。泉との仲がおかしくなり始めたのも、このせいだと思う。いや、それは自惚れ過ぎか……。
 このような場所に来れば、この悩みも、何とかしてくれるのではないか。淡い期待が、心の片隅にあったのかもしれない。
「お待ちどうさまー……」
 カーテンが開き、風俗嬢が部屋に入ってくる。
 見た感じ、俺よりちょっと年上の二十代後半。髪型はポニーテールで、顔は普通よりもちょっと落ちるなといったところか。体型はポッチャリというより、明らかに太めだな……。
 泉と似ている点は、髪型だけだった。
 果たして、この女で俺はいけるのか?
 そう思うと、非常に緊張してくる。
 女の手が、俺の股間に伸びてきた。
「いらっしゃい、初めて?」
「は…、はい」
「そう、ここがどういう店だか分かってるの」
「えっ、俺、風俗自体来るの初めてで……」
「みんな、最初は誰でもそんなもんよ」
「そんなもんですか……」
「あんた、いくら持ってるの」
「はっ?」
「金よ。いくら持ってきたかって聞いてんの」
 随分、高飛車な態度だ。
 苛立つものの、俺はビビッていた。この状況において、店の背後に潜む、暴力的なものを勝手に想像し、畏縮している。
 確か財布の中に十万は入っていたはずだ。
 でも、正直に言ってはいけない気がする。別のポケットの中に、バラで一万四千円は入っていたはずだ。危険を察知した警報が、ずっと体のどこかから鳴っている。
「い、一万四千です……」
「えっ、あんたそれしか持って来ないで、ここに来たの?」
「はぁ……」
 女はしばらく考え込み、俺が話し掛けようとすると、今、話し掛けないでというジェスチャーで遮る。滅茶苦茶不安になってきた。鼓動が、さらに早くなる。
「しょうがないわね。それ全部出しなさい」
「えっ……」
「持ってきた一万四千円、全部、出しなさいって言ってんの」
 凄いことを言う女だと思ったが、その迫力に逆らえず、素直にポケットから金を出す。女は、俺の手から金をひったくるように奪い取った。
「本当は話にならないんだけど、まー…、しょうがないわね。…いいわ。寝なさい。手でしてあげるから…。何してんのよ。早くサッサと寝なさいよ」
 言われたまま、ベッドへ横になる。
 そんな自分が、とても情けなかった。入ってきた時の興奮や期待など、とっくにどこかへと行ってしまっている。
「何してんのよ。サッサとズボンとパンツ脱いで、出しなさいよ」
 ズボンを脱ぐ。この状況下で、俺のあそこはこれでもかというぐらい、小さく萎縮している。さすがにパンツは、脱ぐのを躊躇ってしまう。
 途端に女の手が伸びてきて、あっという間にパンツを剥ぎ取られた。女の手が俺のあそこに触れ、指がまとわりついてくる。でも、全然気持ち良さを感じることは出来ない。
「何、緊張してんの?もっとリラックスしなさいよ。ほら、力抜いて……」
 女の手は小刻みに上下に動き出す。しかし一向に俺のあそこは勃起する気配すらない。何をしてんだろう。こんな情けない格好で……。
 俺は、女の手を振り払った。
「何すんのよ」
「帰る」
「え?」
「もう帰るからいい」
「何それ?気取ってるつもりなの?あんた馬鹿じゃないの」
「黙れ、面グジャグジャにしてやんぞ。あんまり男を舐めんじゃねえ。どけよ!この馬鹿女が…。ぶち殺すぞ。ムカつくんだよ、テメーの態度はよー!」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 女は呆気に取られ呆然としている。
 俺は手早く身支度を整え、無言で部屋をあとにする。
 店を出るまで恐怖がずっと付きまとってくるようだった。色々な想像が頭の中を駆け巡る。いつ、カーテンが開いて、ヤクザが出てくるんじゃないかと震えながら歩いた。嫌なイメージしか湧いてこない。行きに通った通路をそのまま走る。
 受付を過ぎ、階段を駆け上がると、やっと店の外に出られた。辺りはすっかり夜になっている。安堵と共にドッと汗が全身から吹き出す。
 何をするでもなく、歌舞伎町の中を何周も歩いた。そうすることで風俗店に行った事実を無くしたかったのかもしれない。
《臆病者、とっとと帰れよ》
 心の中の何者かが、俺に話し掛けてくる。
「黙れ」
《何だ、いきなり強気になって、情けない野郎だ》
「黙れ!」
 何も考えたくなかった。きっと俺は疲れているんだ。休みの日なのにこんな目に遭うなんて大馬鹿野郎だ。まだ財布の中にある十万の使い道すら分からない。酷く自虐的な気分になる。
 泉の悲しそうな顔が思い浮かぶ。まだあいつに未練でもあるのか……。
 俺は何も変わっちゃいない……。
 電車に乗り、地元に向かう。窓に写る俺の顔。情けない面だ。負け犬の顔だ。何も考えたくない……。

 

 

7 新宿クレッシェンド - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

12345678910111213帰り道に行きつけの喫茶店、アラチョンの看板が視界に入る。無性に腹が減っていた。大好物のハンバーグを思い出すと我慢できなくなった。アラチョンに自然...

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