岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

8 新宿クレッシェンド

2019年07月06日 17時43分00秒 | 新宿クレッシェンド

 

 

7 新宿クレッシェンド - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

12345678910111213帰り道に行きつけの喫茶店、アラチョンの看板が視界に入る。無性に腹が減っていた。大好物のハンバーグを思い出すと我慢できなくなった。アラチョンに自然...

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「自分をそういう風に見れる人は、そうはいませんよ。クズで結構じゃないですか。赤崎さんだって、この街に金を稼ぎにきたんでしょう。違いますか?」
「ですね……」
 岩崎が俺の肩に手を置く。目と目が合う。その視線は、裏切るなと語っていた。
「この街にいる時だけ限定で、クズになればいいじゃないですか」
「そうですね……」
 俺は無理に笑顔を作った。
 今のこの状況を自分から放棄することなど、出来やしないのは自覚している。今日だけで八万三千円の金が、俺の財布に増えただけのことだ。
 客が来たら接客しながらINを入れ、夜十時になると、遅番の新堂と田中が来る。俺は挨拶をして帰る。それが毎日続くだけの話だ。
 そもそも俺は金をそんなにもらったことがないから、あっても使い方がよく分からない。
 彼女がいたら、プレゼントを買ってやったり、雰囲気のある気取った店に連れていったりしただろう。
 泉はあれから何のリアクションもない。俺からも、行動は何も起していない。もし今、俺と逢ったら、泉は変わったと言ってくれるだろうか……。

「兄貴―、入っていい?」
 ドア越しに怜二の声がする。
「ああ、構わないぞ」
 怜二が部屋に入ってくる。顔はニヤニヤしている。
「最近、真面目に働いてるみたいじゃん。忙しい?」
「フッ…、真面目にか……」
 俺は歌舞伎町での現状を振り返って、おかしくなった。
「何だよ。何かおかしい?最近、兄貴ちょっと変だぜ。急に無口になって、どこ見てんのか分からないけど、一点をジッと見つめていたり……」
「気のせいだ」
「やばいことしてんじゃねーの」
「する訳ねーだろ」
「そういえば、彼女の泉さん、最近、見ないじゃん」
「もう別れたよ。関係無い女だ」
「そんなこと言うなよ。実は俺、昨日外でバッタリ会って、ちょっと話したんだよ」
「どこで?」
「駅前のデパートで。近頃兄貴が仕事始めて忙しいから会ってないけど、元気なのかとか色々聞いてたぜ。電話してみればって言ったけど、この間、喧嘩しちゃって、掛けづらいから今はいいんだって……」
 自分から別れを切り出しといて、勝手な女だ。終わったと思っている女に対し、まだこれだけイライラしている。確かに別れた時はどうでもいいと思っていたけど、まだ俺の中に泉という存在は、大きく残っているのかもしれない。
「じゃあ、ほっとけよ。本人がそう言ってんだから……」
「冷たいなー、兄貴は……」
「うるせー、それより、何か別の用があるんだろう?」
「ありゃ、お見通しか…。明日女とデートでさー、ちょっと金貸してほしいんだよね」
 財布をとって一万円札を五枚ほど抜く。そのまま無言で怜二に渡してやる。どうせ俺には使い道のない金だ。
「こんなにいいよ。一体、どうしたの?」
「普通に働いているだけさ。気にしないで使えよ。兄貴らしいこと、何もしてやってないしな。持ってけよ、怜二」
「ありがとう、本当にいいの?」
「しつこいな、いらないんなら返せ。必要ならとっとと、それ持って部屋に帰れ」
「ありがとな、兄貴」
 怜二はダッシュで俺の部屋から出て行く。現金な奴だ。
 それにしても泉の奴、一体、どういうつもりだ?
 気にはなるが、今は向こうが動き出すまで放っておくことにしよう。
 俺はあの街に行って金の欲望に負けた、薄汚れている男だ。いくら風呂に入って体を洗っても、絶対に落ちることのない汚れ。その汚れと引き換えに金をもらえるようになった。
 俺はどこまで堕ちていくのだろうか。
 とても大事にしていた俺のちっぽけなプライドは、あの街で金と引き換えに無くなった。
 布団に入り、目をつぶる。暗闇の中に愛が浮かび上がり、俺を見て泣きながら悲しそうな目を向けている。
 こっちは生きているんだよ。金を稼がなきゃ、クソなんだ。
 俺は、気付かないフリをするしかなかった……。

 今日はクリスマスイブだ。もちろん俺はこれから仕事に行く。
 去年は泉と一緒に過ごした。携帯の着信履歴を見る。着信歴は弟の怜二か、ダークネスの岩崎の名前だけがズラッと並んでいる。
 あの時の泉の着信履歴は、もう消えていた。
 店に近付いていくと、ダークネスの横にあるピンサロのメガネの店員が、相変わらず、客引きをしていた。俺に気付くと、ニコリとしてくる。
「おはようございます」
「おはようございます。朝から大変ですねー」
「いやー、参っちゃいましたよー」
「何かあったんですか?」
「ほらっ、いつもあるうちの看板、無いじゃないですか」
「そういえば……」
「さっき、歌舞伎町内を警察がトラック動員して、ちょっとでも道路にはみ出した看板をすべて片っ端から強制撤去ですよ。うちもこのザマです…。こっちがすぐどかしますからって言ってんのに、無視して看板を強引に撤去されました。十二月になると、警察もこういう訳分からないことする回数、多いんですよねー。今日イブなのに、見てくださいよ。この小さなツリー…。こんなんじゃ、看板代わりにも何もなりゃーしませんよ」
 よく見ると、昨日まで看板のあった場所に、五十センチくらいの小さいクリスマスツリーが、ポツンと寂しく置いてあった。看板の代わりとして置いたらしいが、メガネの店員は不服そうだった。
「酷いもんですねー」
「まぁ、看板一つで実際は二十万ぐらいしますからねー。溜まったもんじゃないですよ。お宅のは無事で良かったですけど……」
「そんなにするもんなんですか?看板て……」
「回転式とかになると、もっとしますよ」
「はー…、気を落とさず、頑張って下さいね」
「ありがとうございます…。あっ、いらっしゃい、いらっしゃい、花びら三回転、若い子ばっかりですよ。どうですかー」
 大変な仕事だ。メガネの店員は声色を切り替え、通行人に声を掛けている。
 この人は、俺がここに来た時から、いつもニコリとお辞儀してくれ、それだけで俺は、だいぶ救われたような感じがする。メガネの店員を見守りながら、階段を上がっていく。
「おー、コラッ、舐めてんのか!おいっ!」
 上から叫び声がする。見ると、ダークネスの店の外でチンピラっぽい男が、新堂の胸倉をつかみ、粋がっている。
「お客さん、冷静になって下さい。最初に初回のみのサービスはお断りですよって、散々言ったじゃないですか。それを初回フォーカード出て、叩いて五万のビンゴを取り、オリ無しで帰られたんじゃ、こっちも商売にならないですから……」
「うるせーよ、コラッ!じゃー、今から戻ってよー。いくらか使えばオメーらは気が済むんだな?」
「今さらそんな風に言っても、実際にお客さんは、オリ無しって帰ろうとしたから、私はこう注意してるんです」
「この野郎、俺は客だぞ。ふざけんじゃねーぞ、オラッ!」
 新堂が殴られて地面に倒れる。チンピラまがいの奴は、その上から無茶苦茶に蹴りを入れている。俺は慌てて飛び出した。
「何してんですか。よしましょうよ」
「何だ、テメーは?」
 そのチンピラはかなり逆上していて、俺にまで殴りかかってくる。
 いきなりきたので対応が間に合わず、一発いいのをもらってしまった。
 さすがにカチンとくる。
 こめかみの傷が疼き、幼い頃を思い出す。あの頃の痛みに比べたら、今の俺には蚊に刺されたようなもんだ。
 昔ほど、俺は無力ではない。冷静にチンピラを見据える。チンピラは調子に乗って更に殴りかかってきた。
「ふざけんな、このガキ」
 相手のパンチをかわして、膝へ垂直に前蹴りを入れる。
「ギャーッ……」
 チンピラは脚を押さえ、転げ回る。これでこいつは、しばらくまともに立てないだろう。俺はニヤリとしながら、倒れている新堂を抱え起こした。
「大丈夫ですか?新堂さん」
「いてて…、おまえ喧嘩…。相当場慣れしてんだな。ありがとな……」
「偶然ですよ、偶然。それよりこいつ、どうするんですか?」
「今ので店長か田中が、ケツモチに連絡入れてるだろうから、逃げないように見とけばいいよ」
「ケツモチ?何ですか、それは……?」
「おまえ、本当に何も知らないんだなー。どこのゲーム屋だって、普通の素人が、堂々とこんな商売してたら、ヤクザが黙ってないだろ?誰に断ってやってんだって……」
「そうですねー」
「毎月のミカジメ料を払って、こういう時や他の組が嫌がらせに来た時、守ってもらうんだよ。この街はほとんどそうだよ。でも客は一般人だから、なるべくそういうところは見せないようにしてるだけなんだ。普通どこも客に対してのサービスには、気を使って営業するもんだけどな。それでも、こういうのがいるだろ?」
 新堂はあごを動かして、倒れているチンピラを指す。
「ふ、ふざけんな。きょ、今日のところは帰ってやるからどけよ」
 チンピラはよろけながらも何とか立ち上がり、睨みつけてくる。ケツモチという言葉を聞いてから、顔が真っ青になっている。これ以上いくら粋がっても意味がない。
「どけよ」
 俺は近づいて、もう片方の膝の皿を蹴飛ばしてやる。再び転がるチンピラ。
「大人しくしとけ」
「おまえも無茶すんなー……」
「正当防衛みたいなもんですよ」
「正当防衛ねぇ……」
「どっちにしても俺らは、こいつを見張っていればいいんですよね?」
「とりあえず、こいつ逃がすと、こっちにとばっちりが回ってくるからな」
 チンピラは脚を押さえて呻いている。その時、階段から人が上がってくる気配があり、俺と新堂は自然と会話をやめて、階段の方へ視線を走らせた。階段の影からケツモチらしき、見るからに暴力的な雰囲気をまとった二人が現れる。
 二人は、静かに辺りの様子を伺い、新堂を見た。ただならぬオーラだ。俺たちとは住んでいる世界が、全然違う気がした。
「こいつか……」
 新堂はピーンと背筋を真っ直ぐ伸ばして、とても緊張している。チンピラが来店した様子から、外に出て自分が殴られるまでを身振り手ぶりを加えて詳しく説明している。ケツモチの一人が何かを言う度に、新堂は愛想笑いをしながら頷く。
 話が済むとケツモチは、チンピラの両脇をかかえ、どこかへと連れて行った。チンピラは散々喚いて抵抗していたが、腹にパンチをもらうと大人しくなった。素直にケツモチの指示に従い、階段を降り、俺たちの視界から消えていった。
「一発もらったろ?大丈夫か?」
 新堂は、ケツモチがその場からいなくなると、俺に声を掛けてきた。
「まったく問題ないですよ。新堂さんこそ、お怪我ありませんか?」
「痛いけど、まー、この業界長いし、慣れたもんさ。でもあそこで普通、膝に蹴り入れるような事を瞬間で出来るって、一体、今までどんな場数、踏んできたんだ?」
「大袈裟ですね、別に何もしてないですよ。普通に喧嘩ぐらいはしましたけど……」
「ふーん、とりあえず、おまえには喧嘩売らないようにするよ」
「ところであいつは連れてかれましたけど、これからどうなるんですか?」
「そんなことまで俺は分かんないよ。あんなドケンチャン」
「ドケンチャン?さっきの奴の名前ですか?」
「違うよ。最初の新規サービスってあるだろ?」
「ええ」
「それが無くなって帰ろうとする奴をケンチャンって言うんだよ」
「……?」
「例えばうちは違うけど、よその店だと新規でサービス入れるのに、サービス券っていうのを持ってないと、サービス三千点が入らなかったりするんだ。そのサービス券の券だけ使って帰るセコイ奴だから、ケンチャンマンって、この業界では言うんだよ」
「じゃー、ドケンチャンってことは……」
「毎回来てて、初回サービスと、あと千円くらいやったとしても、そんな奴に限ってたまたま一気を取ったりするんだ。そういう奴にビンゴで五万なんてとられたら、店はどうなるよ?」
「確かに……」
 この店に入りたての頃、岩崎が色々教えてくれた説明の中で、新堂も同じようなことを言っていた。あの時はケンチャンという言い方までは、聞いていなかったが……。
「それ以外にも、他のお客さんにだって迷惑だろ?そういう馬鹿は、さらにドが付いて、ドケンチャンって言われるんだよ」
「そりゃ、そうですよね。他の客がビンゴでリーチまで叩いて、一生懸命めくっているのを急にケンチャンに横取りされたら、何だこいつってなりますよね」
「それですぐに帰られたら、営業妨害もいいところだよ。だからああいう馬鹿はさっきので、どうにかなっちまえばいいんだよ」
 想像はしないようにしておいた。どうせ想像したところで、俺たちには分からない世界に連れていかれたのだから、考えるだけ時間の無駄だ。

 新堂と俺は、店の中へ向かった。
 客が帰っても遅番の新堂と田中は、珍しく店に残り、色々話しをしていた。
 岩崎が気をきかせてくれたのか、食事休憩として一緒に外で食べてくればいいじゃないですかと、勧めてくれる。
 新堂と田中にも、三人で一緒にランチでも食わないかと誘われたので、俺は快く承諾した。
 店の近くを探し、コマ劇場の中の定食屋に入る。
 楕円形のカウンターテーブルのみで席が成り立っている店で、しわくちゃなおばあさんがカウンターの中に立っていた。何だか味がある店だ。
 メニューを見ると、フライ関係の品が多かったが、一番端にハンバーグと書いてあるのを発見する。俺は迷わずにハンバーグ定食を注文した。
「やっぱ、ハンバーグは最高ですよね。男のロマンを感じません?」
「は?何でいきなり男のロマンな訳……」
 新堂は不思議そうな顔で、俺を見る。田中も似たような顔つきをしていた。
「分かりませんか、この感覚が……」
 俺が悲しそうな表情で言うと、新堂は困った顔をする。
「ハンバーグについてはよく分かんないけど、ここのお新香は絶品だぜ。今日は俺が奢るから、食べてみな」
「ええ、いただきます」
 新堂に勧められたお新香を食べてみると、本当においしかった。俺は田舎というものはないが、これがおふくろの味というものなんだろうなと、勝手に思うほどおいしかった。
 おばあさんがご飯のお代わりはどうかいと、手を伸ばしてくる。俺は頭を下げてお願いする。
 新堂もお代わりを要求すると、おばあさんはこれでもかと、ご飯を盛りだす。ご飯を盛りつけるのが私の生き甲斐さと言わんばかりに、しゃもじを豪快に動かす。新堂がそれを見て、慌てて静止に入った。
「おばあさん。俺、そんな食えませんよ。そのぐらいで……」
「何、言ってんのさ。若いんだから、もっと食べなさいよ」
 新堂の言い分は一切通じず、どんどんご飯は増えていく。まるで親の敵のように、しゃもじにご飯を乗せている。すごいおばあさんだ……。
 漫画に出てきそうな超山盛りのご飯を片手に、困った顔をする新堂。俺と田中は、その光景を見て吹き出してしまった。やっとの思いで、新堂はご飯を食べ終えると苦しそうにしている。
「そういやー、赤崎君はこの業界初めてなんだよね?」
「はい。歌舞伎町って面白いとこですよね。俺、まだ来て間もないけど気に入ってますよ。思ったより怖いところじゃなかったですしね」
 おばあさんが口を挟んでくる。
「ここはいいところだよ。あたしはずっとこの街にいて、色々見てきてるからね」
「へー、そうなんですか」
「あんた、あたしいくつに見える?」
「えっ、うーんと七十ぐらいですか?」
「あたしゃー、八十二だよ。八十二。どうだい、元気なもんだろ。みんな、あたしのことは知ってるんだよ。この街に長くいるどんな奴だって、みんな、あたしを知ってるよ」
 すごい自信だ。まさに豪の者と呼ぶに相応しい、豪快なおばあさんだ。
 こういう一つ一つの風景が、歌舞伎町という街を形成していくのであろう。
 店を出ると、新堂はきつそうに腹を押さえ、「あのババー」と怒っていた。二人は、岩崎に挨拶してから帰ると言うので、三人で一旦、ダークネスに戻ることにした。

 さきほどの件で、どうやら俺は一目を置かれたようだ。
 店では完全にヒーロー扱いだった。バラバラに見えたダークネスの従業員が、今は一体感を出している。
 あれだけ無愛想だった新堂が、俺に向かって笑いながら話し掛けてきたのは素直に嬉しく思う。これで店の人間全員から、やっと仲間に見られたような感じだ。
 岩崎は「あの日、赤崎さんをここに入れて良かったでしょう?」と、自分の事のように自慢げに誇っていた。歌舞伎町のこんな小さな一軒の店でも、和気藹々と出来ることがある。
 皮肉なことにイブの日、男だけで生まれた奇妙な一体感。金が絡まなくても、今日のことは同じぐらい、むしろそれ以上の価値があるんだとハッキリ言いたかった。たまには俺の暴力も役に立つことがある……。
 もちろん、時と場合によってだけど……。
 俺の頭の中の辞書に、新たな教訓が生まれた瞬間だった。

 気分はとてもウキウキしていた。
 仕事が終わり歌舞伎町の街並みを歩いていると、性の欲望が出てくる。そういえば、一ヶ月ほど女を抱いてない。ここで働き始めてから今、俺は五十万くらいの金を持っている。
 もうちょっと節約しながら貯めれば八十万はあったと思う。
 以前、行ったナイトスコープという風俗店の嫌な思い出が蘇る。あの店はどうなったのだろう。駅への道を遠回りしてナイトスコープのあった方向に歩を進める。
 途中、客引きが近付いてきた。相変わらずこういう時は、とてもウザい。無視をしても、ずっと俺の横に付きまとってくる。
「社長―。一人寂しくどうしたんですか?」
「……」
「お一人じゃ、寂しいでしょ?」
「うるさい」
「つれないじゃないですかー。いいとこあるんですよ。社長」
「ほっといてくれ」
「お安くしときますから……」
「うるせーよ、さっきから黙ってりゃ、この野郎!しつこいんだよ」
 カップルの幸せそうな顔を散々見てきて、苛立っていたのかもしれないが、それを差し引いてもこの客引きはウザ過ぎる。
「何だよ、チェッ……」
「おい、テメーから声掛けといて、何だ?その言い草は……」
「え、すいません」
 客引きは逃げるように引き下がる。何人かのカップルが俺を見ていたが、全然気にならない。この街に来た当初は、客引き一人にもビビッてたのにな……。
 セントラル通りを歩いていると、前にあったナイトスコープの看板が見つからなかった。
「あれっ?」
 店が無い。同じ場所には、別の名前の風俗店が構えてあった。
「淫乱人妻勢揃い!うっふん人妻倶楽部」
 よりによって、うっふんはないだろう。うっふんは……。
 このネーミングを考えた奴のセンスを疑ってしまう。ここも時間の問題だろう。冷静に考えてみれば、あんな接客をする店が、この街でずっと通用するほど、歌舞伎町は甘くない。ナイトスコープの看板や店すら無いのなら、もう潰れてしまったのだろう。
 あの太めで生意気な女は、どうなったのだろう?
 知ったところで、俺にとっては別にどうでもいいことだが……。
 イブのせいか、通行人はカップルが多い。この状況で一人寂しく風俗に行くのは、さすがにちょっと気が引ける。
 あの雨の日、すぐ泉のところへ行けば、こんな寂しい日を向かえずに済んだだろう。イブなのに泉からの連絡はない。
 何組いるか分からないカップルに嫉妬心を抱きながらも、家に真っ直ぐ帰ることにする。俺の後ろ姿は哀愁を漂わせていると指差されながら、カップルの笑いのネタにされるのもごめんこうむりたい。

 ひっそりと家に帰った。弟の怜二は彼女と出かけているのか、姿が見えない。
 きっと、この間あげた五万で、彼女に色々と振舞って格好をつけているのだろう。要領の良さは天才的な奴だ。
「俺に感謝しろよ」
 怜二に向けて話すように独り言を言ってみた。さすがに惨めだ。
 俺から泉に電話してみるか、少し考える。
 あいつはあの大雨の中、ずっと傘も差さず、俺の部屋の前で、ずぶ濡れになって立っていた。その前に電話も掛けてきた。
 泉の誠意を感じられずにはいられない。
 俺は感情的になって聞く耳すら持たなかったけど……。
 何度も何度も掛けてきたけど、俺は無視した。
 怜二の奴がバッタリ道で会い、泉が俺のことを気に掛けていたと言う。
 俺はどうなんだ?
 こうして考えている時点で、本当は泉のことが、気になってしょうがないのだ。でも事の発端は、あいつが言いたいことを言って、俺の前から消えたことだ。簡単に許す訳にはいかない。
 簡単に許す……。
 俺はヨリを戻そうとしているのか?
 同じようなことを繰り返し考えて、気が付けば、二時間ほどの時間が過ぎた。
 時計の針は十一時を回っている。あと、一時間もしないでイブは終わり、クリスマスの聖なる夜がやってくる。
 そう思うと、自然と指は携帯を操りだし、泉の番号を押していた。
 プルルル……
 プルルル…プッ……
「はい……」
 何を話せばいいんだろう…。電話を掛けたはいいが、言葉が出ない。
「久しぶりだな」
「う…、うん……」
「元気か?」
「う…、うん。…いや、ううん…、全然元気じゃない。ごめん…、私、また隼人に嘘ついちゃったね……」
「何がだ?」
「ううん…、なんでもない…。全然、たいしたことじゃないから……」
「迷惑みたいだったな…。切るよ。悪かった……」
「……」
「じゃーな……」
「…待ってよ……」
「……」
 俺は言葉に詰まる。今になって電話したことが、格好悪く感じたのかもしれない。
「何でいつも…、いつも勝手に…、すぐに決め付けるの?」
「別に俺は相手の反応を察知して、気を使ってるだけだ」
 単なる誤魔化しの嘘だった。やっぱりこいつの前では格好をつけていたい。
「そんなの全然気を使ってるなんて言わないよ……」
「なら、俺のアンテナが故障したみたいだな」
「何でいつもそうやって、逃げるの?」
「別に逃げている訳じゃない」
「私にはもっと素直に気持ちを…、感情をぶつけてくれたっていいじゃない……」
「……」
「何か言ってよ。何か話してよ」
「悪かった、切るよ……」
「待ってよ。じゃー、何故、私に電話してきたの?」
「……」
「確かに私…、あの時、隼人をすごい傷つけちゃった…。だから…、だから、ずっと気になってたの!」
「それであの時、電話してきたのか?」
「そうよ…。すごい気になって…、何しても隼人のこと、思い出しちゃって……」
「もう俺はおまえが知っている頃の俺じゃないんだ」
 泉の言葉が嬉しかった。それでも俺は、素直に感情を出すことが出来ない大馬鹿だ。
「あ…、新しい彼女でも出来たの?」
「違う。そんなくだらないことじゃない……」
「……」
「何を黙ってんだ」
「…良かった…、良かったー……」
 泉の泣き声が受話器を通して聞こえる。
 俺は卑怯な男だ。自分が言い辛い言葉にはオブラートをかけ、すべて泉から言わせている。
 体が何故か震える……。
 俺は、泉のことがまだ好きなんだ。
 自分の感情に気付き、ちょっと楽になったような気がした。恥ずかしさも覚える。とりあえず、何か話し掛けてやらないと……。
「何故、大雨の時、外にいたんだ?」
 そんな野暮なことを聞いて、俺はどうしたいんだ。泉のすすり泣きが、携帯というフィルターを通し、俺の耳に聞こえてくる。
「あ、あんな言い方して私、あの場から逃げたでしょ……?」
「あんな?」
「隼人なんか知らないって……」
「ああ…、で?」
「ずっと考えてたんだ、隼人の事ばかり…。一人になると、隼人が傍にいて当たり前だった事がそうじゃなくなっている事に気付いてね…。何で私、あんなきつい言い方をしちゃったんだろう…。これからどうしたらいいんだろう…。ずっとそんな事ばかり考えちゃって、部屋に籠もっていたの…。何となく窓を開けたら雨が振っていて、私の心と同じだなって…。気付いたら隼人の家の近くにいたんだ……。あんな酷い事を言った私が、今さら何をしてんだろう…。馬鹿じゃないのって、ずっと自分を責めても……」
「おい!落ち着けよ、泉…。俺は今、新宿に行ってるんだ。もちろん働きにね。明日も仕事だ。今度、俺…、時間作るからゆっくり逢おう。逢って、色々話そう。なっ?」
 あの時の雨に打たれた泉の姿を思い出す。もっと俺が早く駆けつけてやれば良かったんだ……。
「…うん、ほんとごめんね…、ごめんね」
「謝ることなんて何もないさ。俺の配慮が足りなかったんだ」
「こんな時に堅苦しい言葉なんて言わないでよ」
「ああ、分かったよ、悪かった」
「隼人、私のこと、どう思っているの?」
「え…?そりゃー…、まぁ…、分かんじゃねーかよ……」
「何よ、その言い方は…、ちゃんと言って!」
 さっきまで泣いていた奴が、もうこんな強気な口調になっている。この問い詰め方は半分苛めだ。これだから女って奴は……。
 俺は今まで付き合ってきた女に「愛している」と言ったことが一度もなかった。もちろん恥ずかしいというのもあるが、そんな簡単には言えない言葉だ。
 何故なら、「愛している」という言葉の中には、亡くなった妹の愛という字が入っている。愛に対しての罪悪感からか、未だにそのことにこだわって簡単に「愛している」と、言えないでいた。
「いや、まあー、そのー……」
 バタンッ……。
 その時、下で玄関の開く音が派手に鳴る。怜二だろうか。階段を駆け上がる音がして、俺の部屋の方へ足音が近付いてくる。間違いなく怜二だ。俺にとって大事な電話をしている時に、本当邪魔する奴だ……。
「おーい、兄貴―。ちょっと聞いてくれよー。なー」
 怜二は俺の部屋のドア越しに興奮した声で話し掛けてくる。タイミング悪過ぎだ。前門の虎、後門の狼とはこのことを言うのだろう。
「泉、弟の怜二が今、部屋の前に来てんだ…。ま、またな……」
「ちょ…、ちょっと何がまたなのよ!」
「それじゃ、また電話する。なっ……」
「隼人―、なんなのよ!だいたいあなたは……」
 ブツッ……。
 泉が何か言おうとしているのも構わずに、電話を切った。あとが怖い……。
 泉とヨリを戻したとしても、俺はまたあいつの尻に敷かれそうだ。
 そう次のことを思えるのは、また二人の距離が、それだけ近付いた証拠だろう。これでとりあえず、前門の虎はクリア出来た。
「兄貴―、鍵開けてくれよ。ちょっと俺の話し聞いてくれよー」
「何だよ?」
「聞いてくれよ。あの女、二股かけてやがってよー。とにかく部屋入れてくれよー」
「俺は明日も仕事で、これから寝るんだ。また今度な」
「アニキー……」
「うるせー、クソしてとっとと寝ろ」
「何だよ、冷てーなー。じゃー、いいよ」
 怜二はいじけて自分の部屋に戻ったみたいだ。
 泉のことが気になって、今は怜二の愚痴を聞ける余裕はない。暇な時にでも俺から声を掛けてやればいいだろう。
 携帯からドビュッシーのアラベスク第一番が鳴りだす。泉から着信があった時の音だ。出たところで、どうせさっきの言葉を追及してくるだけだ。俺はバイブに切り替え、放っておくことにする。
 明日も朝から仕事だ。備えて早めに寝ることにしよう。
 今日は目をつぶっても、愛の姿は浮かんでこなかった。

 

 

9 新宿クレッシェンド - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

12345678910111213家を出て新宿へ向かう。クリスマスのせいか町並みは華やかになっている。昨日と変わらない数のカップルが、イチャイチャしながら街を歩いていた。昨日の電...

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