家に帰り、服を脱ぎ捨てて風呂に入る。さっき電車の中で思い出した暴力シーン。気持ちはスッとするが、いつも後悔の連続だ。
まず金が手に入らない。後々面倒なことになることが多い。俺が殴った相手は俺を憎み、いつどういう形で報復があってもおかしくない。まー、あんなザコがきたところでどうってことはないが……。
それより今日出会った鳴戸。
ああいうタイプは初めて見た。威圧的な話し方といい、恐怖を感じる。どんな理不尽なことを言われても、多分俺は、以前のように怒ることも、感情を剥き出しにすることも出来ないだろう。
いや、その場で殴り倒すことだけだったら出来る。
ただ、その後の報復を考えると、どうなるのか想像がつかないぐらい恐ろしい……。
所詮、俺の喧嘩の腕などその程度のもの。腕力だけじゃ通じないのが暴力の世界。
うまく言い表せないが、鳴戸はそんな空気を身にまとっている気がする。そんな男の下で明日からまた、俺は働くのだ。朝、仕事に行く前に弟に言った台詞を口にしてみる。
「心配するな、何とかなるさ……」
どんな状況にも動じない強い心を持たねばならない。そして絶対に騙されないことだ。出し抜かれたら、あの街では終わりだと思え。何とかなるには警戒して自分の立ち位置を常に把握しておかなければならないと感じる。
これからどうなって行くのか……。
現状では何も分からない。急に寒気が走る。湯船に漬かって体が温まっているはずなのに、腕を見ると鳥肌が立っていた。
翌日仕事に行くと、ダークネスの店の中は、六名ほどの客がテーブルに座ってゲームをしていた。
ホスト風の三人組、どう見ても四十は過ぎていそうな厚化粧の飲み屋風の女、自分と同じ年くらいのカップル。
誰も一言も話さないで、一心不乱にテーブルの画面を見ながら、黙々とゲームをしている。俺が店に入ってきても、客は誰も振り向かないどころか、気付いた様子もない。
ちょっと異様な雰囲気だ。従業員は岩崎、新堂、田中……。
鈴木を除けば昨日と変わらないメンバーだ。
「おはようございます」
「おはようございます。赤崎さん、今日はお客さんいるから頑張ってもらいますよ」
岩崎が、笑顔で話しかけてくる。
「もちろんです。色々と不手際はあるかもしれませんが、頑張りますのでよろしくお願いします」
「そろそろ上がるかな。じゃーね、お疲れ。赤崎、頑張れよ」
「お疲れ様です」
入れ替わるように、新堂と田中が挨拶して部屋から出て行く。
「はい、お疲れ様でした」
俺は挨拶を済ませてから、仕事について一通りの説明を岩崎から受ける。
「まだ慣れてないし、今日はIN(イン)を教えますね。簡単ですから。これ、台にクレジット入れる時に使うINキーです。持ってて下さい」
「INキーですか」
「ええ、INをする鍵だからINキー。みんな、そう言ってます」
「なるほど」
ポーカーゲームを始めるに当たって、客は最初に金を払ってクレジットを入れてもらう。レートは一円なので、だいたいの客は千円から二千円を店員に渡し、店員はその分のクレジットをINキーを使って機械に入れるのだ。この行為を業界用語でINと言う。
来店して最初にINを入れる時のみ、初回サービスというものがある。どの店でもやっていることらしいが、伝票を出して客に名前を書いてもらい、その代わりに二千から三千分のクレジットをプラスして客にサービスするのだ。
これによって客の名前…、偽名かもしれないが、来店数もチェック出来る。
ずるい奴は早い時間、遅い時間と二回来店して、違う名前を書くのもいるらしい。そうすれば、初回サービスが一日で二回入るからだ。
「ちょっとせこくないですか?」
「金持ってない奴の浅知恵ですよ。自分たちの時間帯と、新堂さんたちの時間帯に来て、違う名前書かれたら、さすがに分からないですからね」
「そんなことやって、何がしたいんですかね?」
「とりあえず初回サービスの簡単な説明しますね」
そう言って岩崎はまた説明を続けた。
ダークネスの初回サービスポイントは三千。客は初回二千円を払い、クレジットはこのサービスをプラスして五千スタートとなる。
ここからゲームは開始となるが、一回プレイすると、マックスで百ベットかかる。マックスつまり満タンでゲームしたとすると、一ゲーム百円だから、役が一度も出ないと、五十回のプレイで初回入れたクレジットは無くなる。
その後の客のINの入れ方は自由らしい。ただ初回サービスというものが入ってるので、最初のクレジットが溶けて、そのまま客が帰るのだけはお断りする。業界の常識としては在り得ないことであるらしい。
「岩崎さん、何故、初回のみで帰っては駄目なんでしょうか?」
素朴な疑問を岩崎に言う。
ここは、いうならば賭博場だ。例えばパチンコに行って、二千円だけカードを買い、パチンコをして、玉が無くなり帰ろうとしても、何もおかしいことはない。だが、ポーカー屋はそれでは駄目という。一体、何故なのだろうか?
「パチンコにしても競馬にしても、いくら使ってもサービスなんて無いですよね?例えばパチンコ屋が最初に玉買って、これ初回サービスですって三千円分の玉を来る客来る客にやってたら商売にならないですよね。ゲーム屋はその初回サービスをやってるから、せめて初回分だけじゃなく、一万円ぐらい使う勝負はしてって下さいということなんですよ。それはゲーム屋のルールで、暗黙の了解といったとこです。もしくは常識というか……」
「うーん、そういうもんなんですか。確かにサービスもしているし、理屈的にはそうなりますよね」
「それでさっきの初回サービスを欲しいが為に、時間ずらして来る客ですけど……」
「ええ」
「うちだけじゃなく、他にもゲーム屋を色々回る奴って多いんですよ」
「そんなことして、何かメリットでもあるんですか?」
「ええ、もちろんあります。同じ五万円を使うにしても、うちだけでその五万を使うとしたらどうなります?INというか、クレジットに換算すると」
「えーと、初回サービスが三千入るから、五万三千になりますよね」
「余所の店も回れば、もっとクレジットが入るじゃないですか。初回だけだとこっちも注意します。でも、初回サービス分が無くなったあとで、三千円分INを入れて帰ろうする客には、こちらは何も言えません」
「そうですね」
「だから五千円ずつ勝負で十件の店を回れば、十件分の初回サービスがもらえるじゃないですか。クレジットに直すと、一件三千点だから全部で八万点になります」
「あ、そうですね。普通にやるよりは、勝つ確立は上がりますよね」
「でも、やる時はいつも五千円で出ると、すぐに持ち帰りじゃ、店はまだいいとしても、ずっとうちでやっている他の客は、気分良くないじゃないですか」
「何でです?」
「パチンコで考えると分かりやすいので、例え話で説明しますね」
「ええ」
「ずっと一つの台につっ込んでる客がいたとします。その人は毎日十万ぐらい負けていても、懲りずに毎日打ちに来ます。店側にしてみたら、いい客だと思いません?」
「いい客ですね」
「その人の横で、千円のパッキンカードを持った客が座ってすぐフィーバーしたとしますよ。単発でも確変でもいいですけど。玉が出終わると、すぐに換金して終了。赤崎さん、そのいい客はそれ見てどう思います?」
「うーん…、いい客の立場にしてみれば、確かにムカつきはすると思いますが、この場合は仕方ないんじゃないですか?」
「ええ、仕方がないです」
岩崎は一体、何を言いたいのだろうか。分からなくなってきた。
「でもそのせこいのが、いい客の目の届く範囲にいつも座ると仮定して、何回かはしょうがないですけど、負ける時は千円負けるとおしまいみたいな勝負の仕方見ていると、何だこいつはって思ってもしょうがないですよね」
「そうですね。でももし、そのせこいのが嫌なら台を変えるしかないんじゃないですか?それか我慢して打つか、もしくは別の店に行くしかないと思いますよ。あ……」
自分で言っていて、やっと分かった。パチンコなら問題はないのだ。パチンコなら……。
今の状況をこのダークネスで例えたら、とてもじゃないが話しにならない。規模が違うのだ。ゲーム屋とパチンコ屋とでは……。
そのせこい客一人のせいで、いい客が逃げたら店のダメージはとてもでかい。岩崎が俺の表情の変化を見て笑っていた。
「だからそういうのは何度か同じことしてたら、出入禁止にしないと駄目なんですよ」
「……ですね」
「腐ったみかんのせいで、いいみかんまで腐らせることはないですから」
なかなかいい表現だ。岩崎の話し方に好感を覚えた。
「でもせこい奴は、色々あの手この手って、せこいこと考えてくるんですよ」
「それで時間帯ずらして、初回サービスの伝票に名前を変えたりとかってなるんですね。他にも何かあるんですか?」
「友達と三人で来て友達に名前書いてもらったりとか、横で見ている彼女の名前を使ったりですね」
「はぁ、恥を捨てれば何でも有りなんですね」
「ま、実際に現場見てればゲーム屋が、どういうもんだかすぐ分かりますよ」
「……ですね。頑張ります」
「とりあえず、今日は客が帰ったら台の上を掃除して、ドリンク無くなってたら、聞いて出してあげる。キッチンに何でも揃ってますから。灰皿も二本溜まったらすぐ交換。それ以外は、客が入れてーとか言うから、千円出してきたらクレジットを千、二千円なら二千入れてあげて下さい」
「入れてー」
ホスト風の客が声を出す。見ると前を向いたまま右手で千円札を二枚ヒラヒラさせている。何だ、このクソガキが…。でけえ態度しやがって……。
「ほら、赤崎さんお願いします」
「あ、は、はい……」
ムカついているどころじゃなかった。今は仕事中なのだ。岩崎に急かされて客の二千円を受け取り、クレジットを二千入れる。画面を見ているとキングのフォーカードが揃う。画面が赤く点滅しだす。
「はい、五卓さん、キングのフォーカードです」
岩崎が大きい声でそういうと、正面の壁に歩いて行き、マグネットの板の五と書いてある枠に赤いマグネットをつける。他のホスト風の二人が台に集まる。
「キングのフォーカード?ヒモは…、Aか」
「B…、いやSじゃねーの。自信無いならテイクしちゃえばー」
「叩くしかねーじゃん。うーん…、七出ねーかな…。六千の三倍で一万八千」
「ビックだよ、ビック叩いちゃえよ」
ホスト風の三人組は色々話し合っているみたいだ。会話の内容を聞いて理解出来るのは、フォーカードをダブルアップして、BかSのどっちを叩くか、相談しているといった感じだ。見ていて非常にうざい光景である。
パーラーラー……。
機械がダブルアップで外れた時の音を出した。
「うわー、だからビックって言ったじゃん。絶対にビックだったよ。しかもビンゴだったじゃん。五万だよ、五万」
「しょうがねーだろー。うるせーよ」
三人組は、好き勝手に言い合っていた。
「入れて下さい」
七卓のカップルの男が呼んでいる。一万円札を出している。
「三本お願いします」
「はい」
クレジットを三千入れ、七千円を客に返す。男の口調は冷静だが、表情はやや強張っているようにも見える。
「あっ君、突っ込みすぎよー。もう辞めたらー」
「うるせーよ、てめーは…。黙ってろよ」
あっ君と呼ばれた男は、横で座っている彼女らしき女に怒鳴りだす。
「何よ、まったく…、ふんっ……」
男は女の様子を一切気にせず、一心にゲームに集中している。俺は無言で台の上の灰皿を取り替える。グラスを見ると空だった。
「よろしかったら何か、ドリンクお持ちしますか?」
「あっ、すいません。じゃあ、コーラをお願いします」
キッチンに入り、グラスにコーラを注ぐ。音を立てないよう静かに七卓のテーブルに置く。男は画面に目をやったまま、無言でお辞儀する。
たったそれだけの行為に好感を覚える。不思議なものだ。でもこれが、お互い暗黙の気遣いというものなのかもしれない。
「店員さーん、私にもちょうだい。私ねー、えーとねー、暖かいコーヒーがいい。うーんと甘くてクリームたっぷり入ったやつがいいなー」
「かしこまりました。失礼します」
俺は軽く笑顔を作り、彼女の空いたグラスを下げる。キッチンに行ってコーヒーを淹れる。砂糖を三杯、ポーションクリームを二つ入れ、ゆっくりと混ぜ合わせる。少し砂糖を入れ過ぎかと感じたが、別に自分の女って訳じゃないし、彼女がそれで虫歯や肥満になろうが知ったことじゃない。作り終えて先ほどと同じよう、音を立てずにテーブルに置いた。
「ありがとうー」
「いえいえ、とんでもないですよ」
「あ、おいしー」
女はすごく嬉しそうだ。見ていてこっちも、つい、微笑んでしまうような笑顔を作っていた。さっきコーヒーを作った時に思ったことを思い出すと、作り直してあげれば良かったなと反省する。こんないい子を肥満にはしたくない。あとはINする客はいないか、後ろに下がってさり気なく観察する。
「なかなかいい感じですよ、赤崎さん。この仕事、本当に初めてなんですか。それとも何か以前に、サービス業でもやってたんですか?」
岩崎がとても嬉しそうな表情で近付いてくる。
確かに以前、配膳の仕事でホテルや結婚式場でサービスを学んだことがある。いくら初めてとはいえ、この店の中の客六人分の接客は簡単なものだった。
式場では来場する客ですらマナーを問われる。そこで働く従業員に対しては、さらに周りの見る目は厳しい。きちんとした接客が出来て当たり前。粗相をするとつけこまれてしまう世界だ。何をするにも神経過敏になる。
それに比べればずいぶん楽な仕事に思える。そのことを岩崎に説明するのは面倒だったので、誤魔化しておくことにした。
「そんなことないですよ。ただ、岩崎さんの教え方がうまいだけです。まだ、全然、役に立ってませんし……」
「何、言ってんですか。でもまー、この調子で頼みますよ」
「そういえば、よくお客さんがBとかSって言ってますけど、あれは……」
「BはビックのB。SはスモールのSですよ。ダブルアップの画面の時に七より大きいと思えば、Bを叩くし、七より小さいと思えばSを叩けばいいということです」
「へー、勉強になります」
ホスト風の三人組があれから一万円ほど使って何も出ないと諦めて帰っていく。その日の稼ぎを全部摩ってしまったという表情だ。背中にどよんとした哀愁が漂う。俺は心の中で合掌した。小声で岩崎に話しかける。
「あのカップル、どのぐらい使ってるんですか。さっき彼女と揉めてましたけど……」
「うーん、十万ぐらいかな…。来た当初は調子良かったけど、徐々にズッポリとハマッてる最中って感じですね。まー、本人が望んでやってるからこちらとしても止めようがないし、しょうがないことなんですけどね。でも、綺麗に遊んでるから大したもんですよ」
正に正論だ。よくパチンコ屋で台をガンガン叩いたり、落ち着きなくなったりしている客を見かけることがあるが、確かにあれはハタから見ていて非常に格好悪いものだ。
いくら使って負けようと、自分で望んでやっていることなのだ。店員が、もっとやって下さいとお願いしている訳でもない。
二時間ほど経つと、カップルの二人連れも諦めた様子らしく、無言で寂しく帰っていく。
「あ、ありがとうございました」
カップルの男は、俺を一瞬睨むと、静かに階段を降りていった。何故、睨まれんだろうか?
岩崎が小声で話しかけてくる。
「赤崎さん、客の帰る時にありがとうございましたは駄目ですよ。散々負けたあと、そう言われると、いかにも店にハメられたって感じじゃないですか。帰るときは、どうもすいません、お疲れ様ですって感じで言って下さい。お願いします。まあ、最初に言ってなかった自分がいけないんですけどね」
「すいません。以後、気を付けます」
客に、ありがとうを言ってはいけない商売というのも珍しいものだ。
「最初だからしょうがないですよ。あっ、そろそろまた、ドリンクとかの買い出し行ってもらえますか。ゆっくり行ってきて構わないですから。お腹減ってたら、食事してきてもいいですよ」
店の中は、四十過ぎてそうな厚化粧の飲み屋風の女が一人残っていて、黙々とゲームに没頭している。そのゲームの音だけがひっそりと店内にこだましていた。
ビルを出ると、ピンサロのメガネ店員が相変わらず客の呼び込みをしていた。ピンサロ…、ピンクサロンを略してピンサロなんだろうか。俺に気付くと、いつものようにお辞儀してくる。
「大変ですね。最近寒いですし……」
「いえいえ、しょうがないですよ。これが私の仕事ですし……」
「頑張ってくださいね」
「いえいえ、ありがとうございます」
通常の挨拶程度のどこにでもありそうな会話だが、歌舞伎町という場所を考えると、面白い会話にも思えてくるから不思議だ。
買い物を終えると、真っ直ぐに店へ歩を進める。岩崎はゆっくり飯を食ってきていいとは言ってくれたが、まだ二日目だ。真面目に真っ直ぐ帰ろう。夜に比べて昼の歌舞伎町の人通りは少ない。
ふと、人混みの中で歩いている一人の人間に視線が定まる。
もしかして、あれは山下か……。
ジッと見てみる。見間違いじゃない。あれは、店の金を持ち逃げしたと言われている山下だ。
どうするか……。
岩崎に報告…、いや、彼をチクるような真似は出来ない。
とりあえず、様子を伺うことにする。すぐにおかしなことに気付く。
山下は左足を引きずるようにしながら歩いていた。痛々しそうに、人混みの中を必死に掻き分けながら進んでいる。右腕には痛々しそうにギブスがつけられ、すれ違う何人かの通行人はビックリした顔で山下を振り返っていた。
あのあと、鳴戸に見つかったのだろうか……。
俺にはそれ以外思いつかなかった。見なかったことにしよう。このことに首を突っ込まない方がいい。本能的にそう感じた。
徐々に彼との距離が近づく。山下とすれ違うが、向こうは俺に気付く様子もなく、必死に痛みを堪えて歩いている。声を掛けずに黙って後ろ姿を見つめた。
しばらくすると、山下の姿は人混みの中に消えていく。
三十分ほどでダークネスに戻ると、客は誰もいなくなっていた。岩崎は正面の壁にあるマグネットのボード板に、様々な色のマグネットを適当に付けていた。
「お疲れ様です。岩崎さん、何してるんですか?」
「やー、どうも。もっとゆっくりしてても良かったのに…。これはですね、ボードと言ってどこの卓に何が出たか、例えば四卓でフォーカードが出たら赤、一気が出たら黄色をこのボードの四って書いてある下の枠に付けるんです」
「先程のお客さんは、もう帰られたんですか」
「負けて自分にブツブツ言いながら帰りましたよ。負けは四万ぐらいですね。まー、昨日の夜中からずっとテケテケでやっていたから、結構遊べてたと思うし、問題ないですよ」
「テケテケって……」
「ああ、そう言えば、赤崎さん。まだ、何も分からないですよね。テケテケってよく客によってテイクしたり、ダブルアップしたりするじゃないですか?」
「ええ」
「ダブルアップで叩いて外すのが嫌で、毎回毎回テイクばっかりして、ちまちまゲームをする客もいるんですよ。そういう奴をテケテケって言うんです」
「そうなんですか」
そういうものなのかな。この業界分からないことだらけだから、よく理解していかないといけない。
先ほどの山下の姿が頭の中に蘇る。それに昨日、急にクビを切られた鈴木。いつ何時も、油断は出来ない。慎重に、クールにやっていかないと……。
「……で、岩崎さんは、今、そのボードに何してんですか」
「いや、あまりボードがついてないと、この店出ないなーって、客が来て思うじゃないですか。だからこうしてマグネットを付けて偽造してんですよ。うちだけじゃなくてどこの店でもやってることですけどね」
「確かにそうですね。何か手伝うことありますか」
「もうだいぶ付けたので、大丈夫ですよ。それより赤崎さん、これ……」
岩崎はいきなり一万円を俺に差し出してきた。一体、何の金だろうか……。
不思議そうな顔をしていると、突然入り口のチャイムが鳴る。
「早く、早くポケットに入れて……」
岩崎は焦りながらそう言うとドアを開けにいった。俺は訳も分からずに受け取った一万円をズボンのポケットに捻り込む。
モニターを見ると、あの恐ろしい鳴戸と水野の顔が映っていた。
意味不明の一万円。何でこんなものを……。
心臓がいつもより三倍は早く動いているような気がする。
落ち着け、落ち着け……。
「おはようございます」
「おはよう。どうですか、今日は……」
鳴戸の甲高い声が俺の神経を刺激する。相変わらず、異様な殺気を身にまとっていた。さっきの一万円のことについては、きっと何も知らないふりをした方がいいのであろう。あの岩崎の慌てぶりを見た感じでは……。
「ええ、昨日の夜は忙しかったです。全体のINが遅番だけで三百超えましたから。上がりが昨日は…、二十八ですね」
「その調子で頼みますよ。赤崎君も入った事ですし、いい感じになってきたじゃないですか。水野さんも、昨日の二十、用意してくれましたしね。ほら、岩崎。これ金庫に入れときなさい。これでもう問題ないですよね。ねー、水野さん」
「あ…、そっ…、そうだね……」
鳴戸は機嫌がいい。対照的に水野はとても暗い。胡散臭そうなというより、リストラされ、家族に言えず、公園辺りでくすぶっている親父ような表情をしていた。よほど自腹で二十万埋めたのが痛かったと見える。
オーナーでありながら、本当に金が無いのだろう。哀れな感じがして、ちょっと同情してしまう。
「赤崎君、だいぶ慣れましたかー」
鳴戸が俺を見る。顔は笑っているが、目は笑っていない。まるで、俺を観察するような感じだ。
「はい、お蔭様で…。これからもよろしくお願いします」
落ち着け。自分に言い聞かせる。さっきの一万円のことは、絶対に表情に出してはいけない。演技しろ。いや、演技じゃない。演じた役柄になりきれ。
「そーか…、うんうん……」
鳴戸の口調はとても穏やかで優しい。それなのに何故か、素直にそう思えない。どこか裏のあるというか、何て表現したらいいのだろうか。
油断するな。頭のどこかで警告音が鳴る。
「じゃあ、今日は帰るからよろしくな。行きましょう、水野さん。頼みますよ、岩崎に、赤崎君」
「あ…、ああ……」
「はいっ、お疲れ様でした」
俺と岩崎の声が、同時に重なり合う。申し合わせた訳でもないのに、もし、カラオケに行ったら、いいデュエットが出来そうだ。俺には暇でもカラオケに行って歌うという趣味はないけれど……。
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