岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

10 新宿クレッシェンド

2019年07月06日 17時50分00秒 | 新宿クレッシェンド

 

 

9 新宿クレッシェンド - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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 誰かが倒れている俺の額に、手を当ててくれている。
 暖かい手だ……。
 怜二の手か…、愛の手か……。
 いや、違う。誰の手なんだろう?
 その瞬間、ハッと目を覚ました。
 ボンヤリと映りだす見慣れた景色。視界の片隅に、誰かが映っている。
 ゆっくり横を振り向くと、泉がいた。視線に気が付くと、俺の額に手を当てたまま泉はニッコリ微笑んでくる。髪型もポニーテールのままだった。
 自分の部屋に、泉がいることの不自然さを、自然と受け入れている。
「大丈夫?」
「いつから来てたんだ?」
「そんな経ってないよ。それより挨拶ぐらいしてよ。お互いちゃんと逢うのって、ほんと久しぶりなんだよ。まったく……」
 泉はワザと膨れっ面をしている。久しぶりに逢ったのに、いきなりその顔はないだろう。相変わらず、可愛い奴だ。
 自然と俺は笑顔になる。こいつは、やっぱり俺に必要なんだ。
「ああ、ごめんごめん…。言い遅れたけど、おはよう」
「何、言ってんの、もう夕方だよ」
「え、そんなに俺、寝てたんだ……」
「私、隼人の寝顔ずっと見てたんだよ。途中、何かにとても慌てて苦しんでいて、ちょっとして、寝ながら急にニコニコしてたのよ。変なの……」
 泉は俺を心配そうに見つめている。まだ俺の手には愛を受け止めた感触がある。確かにあれは夢だったんだ。今、俺の横で泉が居てくれる方が現実なのだ。
「夢だったんだよな……」
 両手を見ながら、静かに言った。
「えっ?」
「でも、救えたんだ…。良かった……」
 泉は優しい瞳で黙って微笑んでくれる。
 目と目が合う。何分ぐらい目線を合わせただろう。泉の顔が近付いてくる。唇に優しい感触が触れた。一瞬だったが、心地良い感触は、まだ唇に残っている……。
「風邪うつるぞ」
「平気だもん」
「馬鹿」
「やっと逢えたね。こんな形だけど……」
 泉は恥ずかしそうな笑顔を俺に向ける。自分が今したことに照れているのか、頬が赤い。
「一ヶ月ぶりぐらいか?」
「うん」
「寂しかったか?」
「うん」
「そうか、俺も寂しかった」
「う…、ん……」
 泉の目元がウルウルしだしている。本当に泉は俺の前で、よく泣く。
「やっぱさー…、何て言ったらいいのかな……」
「何?ハッキリ言って」
「お、おまえは俺の女だ」
「…、う…、うう……」
「また泣き出す。本当におまえは泣き虫だ」
 泉は泣きながら俺の胸に突っ伏してくる。俺は優しく頭を撫でてやる。さっきの夢の中で、愛にしたのと同じように。
「何か欲しい物あるんだろう?」
「ううん。ないよ」
「この間、言ってたじゃねーか」
「言ってみただけだよ。何もないよ」
「遠慮してんじゃねーだろうな?」
「してないよー。じゃあ、今度逢う時まで考えておくね」
「ああ、そうしろ」
 俺の稼ぐ金は汚い金だ。その気持ちを忘れる為にも、泉に何かを買い、少しでも綺麗な使い方をしたかった。それに、こいつの喜ぶ顔がもっと見たい。
「さっき、何の夢見てたの?」
「俺が小さい時の夢だ」
「怜二君とかもいたの?」
「ああ、もちろん愛もいたよ」
「そう……」
「以前、話したことあったよな」
「うん」
「夢の中かもしれないけどさ……」
「うん」
 布団から両腕を出して、ゆっくり天井へ向ける。まだ手の平には愛を受け止めた感触が残っている感じがした。あれは夢だったのに、まるで現実のような錯覚を起こしている。
「でも…、今度は救えたんだ」
 俺は布団をめくり、上半身を起こした。泉は優しい瞳で俺を見つめている。
「……良かったね」
 泉は俺の肩に、自分の頭を横向きに乗せてくる。
「どうなんだか…。よく分からないよ」
「ねえ…、隼人、目をつぶってみて……」
「え?」
「いいから…、早く目をつぶって」
「ああ…、分かったよ」
 俺が目をつぶると、泉は抱き付いてきた。いい匂いがする。一ヶ月ぶりに嗅いだとても懐かしい匂いだ。ポニーテールの尻尾が俺の顔をくすぐる。
「昨日さー。泉と電話して家帰ってからさー……」
「どうしたの?」
「アラチョン行って、マスターに無理言って、ハンバーグ作ってもらって……」
「うん」
「愛のとこに置いてきたんだ」
「ふーん」
「あいつ満足したかな…」
「隼人は今、生きてて楽しい?」
 楽しいか……。
 すぐには返答できない。
 新宿で薄汚れた金を稼ぐ俺。すっかり歌舞伎町の汚染された菌に犯され、腐っていく。でも今は、泉が俺のそばにいる。それだけが救いのような気がした。
「俺か?うーん……、少なくても、今は幸せだと感じてるよ」
「じゃー、愛ちゃんだって嬉しいに決まってるじゃない」
「そうか?」
「そりゃそうよ。女の直感ってやつだもん」
「……少し、気が楽になった…」
「やっぱり私が必要でしょ?」
「……ああ、返す言葉がないな」
「へへ……」
「心なしか、具合も良くなってきたみたいだ」
「明日も仕事なんでしょ?」
「もちろん」
「じゃあ、私、今日はもう帰るから、ゆっくり休んでね」
 泉は俺から離れて洋服の乱れを直す。目元はさっき泣いたせいか、ちょっと赤い。
「泉……」
「どうしたの?」
「今日はありがとうな」
「何よ、いきなり…、もう…。じゃーね、お大事に……」
 部屋のドアが閉まる。俺は泉に感謝した。唇にはまだ泉の唇の感触が残っている。俺は自分の唇を手で触ってみた。

 昨日の泉効果か、体調はすっかり良くなっていた。
 一日ぶりにダークネスに出勤すると、岩崎ら従業員が駆け寄ってくる。今日も客はいないみたいだ。
「具合大丈夫ですか、赤崎さん」
「ええ、おかげさまで…、昨日はすいませんでした」
「気にしないで下さい。ただ、鳴戸さん、そういう休み方嫌うんで、もし今日、ここに来ることあったら、赤崎さんにうるさく言ってくるかもしれませんが、あまり気にしないようにして下さいね。あ、あと、水野さんはしつこくて嫌味な言い方すると思いますけど、そっちは大丈夫ですよね」
 途端に憂鬱な気分になった。
 老婆心で岩崎が教えてくれるのはありがたいが、あの鳴戸の機嫌を損ねたということを聞くと、この場から逃げ出したくなる。
 昨日、幸せだった分のしわ寄せが、今日にプラスされた感じだ……。とても憂鬱だ。鬱病になりそうだ。
「大丈夫ですよ。ガーッとは言ってくるかもしれませんが、あの人はあとにまで引きずりませんし、言い終われば、いつもと一緒ですから」
「はぁ…、了解です」
「休んじまったもんは、しょうがねえって」
 溜息をつく俺の肩を新堂はポンと叩くと、「じゃーな」と帰っていく。田中も、俺を無理に励まして帰る。みんないい従業員たちだ。
 しかし、現実問題、鳴戸にどやされることを考えると、やっぱり怖い…。恐ろしい……。
 岩崎に頼まれて買い出しに行く。
 昨日休んだだけあって、いつもの倍近くの量だから大変だ。クリスマスが終わっても、歌舞伎町の賑わいは変わらない。違うのはカップルの数が減ったぐらいだ。
 買い物を済ませると、店に戻るのが憂鬱になる。足取りが次第に重くなっていく。
 ピンサロのメガネの店員に挨拶を済ませ、ダークネスに戻ると水野、鳴戸の両オーナーはすでに店に来ていた。
 水野は俺のことを嫌な目つきで睨んでくる。
 鳴戸はあくまでも自然体でゆったりと椅子に座り、遠くを見るような目つきをしていた。どこを見ているのか、俺には分からない。とても嫌な雰囲気が、店中に充満している。
「昨日はすいませんでした……」
「やる気あんのか。私の顔、潰すんじゃないよ。真面目だと思って俺は採用したのに、これじゃ意味ないよ。まったく……」
 水野がほざく。嫌味な言い方をしてくる奴だ。でも、こいつはどうだっていい。問題は横に座っている方だ。続けて、鳴戸が口を開く。
「おーい、赤崎ー。ここで働くってことはねー。ガキが働きに来てんのと違うんですよー。ガキがねー。その辺、ちゃんと理解してるんですかー?理解してんですかー?」
 嫌な敬語の混じった言い方。鳴戸、独特の口調だ。心臓に悪過ぎる。
「は、はい。すいません」
「あのなー、謝ったって何にもならないんですよ」
「はい……」
「じゃー、何で昨日、店に来ないんですかー?」
「風邪で具合が悪く、電話では岩崎さんの方に言ったのですが……」
「おい、さっきから私は何で店に来ないんだと言ってるんですよー。電話の話しろなんて、いつ言いましたか?」
 鳴戸の独特なアクセントを含んだ甲高い声は、より一層甲高さを増す。
 思わず体が萎縮した。鳴戸の話し方に嫌悪感を覚えるが、それ以上に恐ろしさを感じる。昨日は岩崎が休んでいいとは言ったが、それについては、絶対に今の状況で俺の口からは言い出せない。もう素直に謝るしか方法は思いつかなかった。
「すいません、たるんでました。以後、このようなことは絶対にしません」
「そう、次に同じことを繰り返さない。それが大事なんです。謝るだけじゃ、何の意味もないんですよー。その辺のとこ、理解しましたー?」
 どうやら鳴戸の納得いく答えを言えたようだ。少し声のトーンが下がっている。
「はい、気を付けます!」
「分かってくれればいいんです。分かってくれればねー」
「はい」
「本当に悪いって、心から謝ってんの?まったく……」
 さっきから黙って聞いてりゃ、まったくまったくと、それしか言えんのか。このハナクソ親父め……。
 水野はまだ何か言いたそうな素振りをしていたが、鳴戸は言うだけ言うと、俺に対して興味をなくしたように、水野に話しかける。
 そのあと、二人は客がいないせいか店にそのまま残り、色々話していた。鳴戸が店にいるだけで、神経をすり減らす。
 こんなのが毎日続くなら、とてもじゃないが俺はもたない。
 最初は穏やかに話し合っていたが、徐々に鳴戸の声が甲高くなる。俺と岩崎は、部屋の角で直立不動にビシッと立っていた。
 内容は聞こえないが、何やら揉め出したみたいだ。
 一丁前に、水野が珍しく言い返している。表情を見ていると、非常に滑稽で面白い。名前の通り水の中、口を尖らせながら溺れそうな顔つきで、懸命に足掻いているようにしか見えない。
 俺の全身には、いつの間にか鳥肌がたっていた。横目で岩崎の表情を見てみる。見る限り岩崎も同じ鳥肌がたっていそうだ。
 水野の声が次第に大きくなる。
「いやー、鳴戸君、私だってね…。別に現状で何もしてない訳じゃないんだよ。そう自分ばっかりやっていると言われてもねー……」
 水野の顔は今にも泣き出しそうだった。必死になって鳴戸に声を吐き出している。この間の鼻クソのように見えた口髭の天婦羅の切れ端が、、オーバーラップする。危なく吹き出しそうになった。
 水野の言い方や態度で、俺は再び水野を嫌いになっていたようだ。惨めで滑稽で、哀れで、落ち目な五十六歳の男。
 俺と岩崎がいるからか、従業員の前で必死になって鳴戸に食い下がっている。
 しかし水野が何を言ったところで、鳴戸に通用するはずがない。俺に向けて話した時よりも、格段に鳴戸の声は甲高くなる。
「あー、そーですか。そこまで言うならやってもらいましょう。それでいーですね、水野さん。私はそれでも、全然、構いませんから……」
 水野のさっきの勢いはどこに言ったのか、下を向いてションボリしている。それに構わず、鳴戸はさらに捲し立てた。
「頑張って下さいね、水野さん。ただし、ここの店の回銭は私のお金です。これは私の物ですから持って行きます。いいですね、自分のケツは自分で拭いて下さいね」
 そう言うと、金庫の方に歩いて行き、中にある金を自分のバックにしまいこんだ。パッと見、二百万ぐらいだろうか……。
 金をしまい終わると、鳴戸はそのまま黙って店を出て行ってしまう。
 水野は、頭を抱えて塞ぎ込んでいる。
 見事に対照的な二人のオーナー……。
 これが漫才なら笑えるが、実際にその場にいると笑えない。二人の決定的な違い。それは金があるか、無いかだけの差ではないような気がする。
「水野さん、これでまったく店の回銭ない訳ですけど、一体、どうするんですか?」
 岩崎が冷淡な口調で言葉を掛ける。ゆっくりと顔を上げる水野。
「分かってる。そんなことは言われなくても分かってる…。何とかするから待ってろ」
 無理に虚勢を張る天ぷらハナクソ親父。確かに水野にとっては、絶体絶命のピンチだろう。脳みその無い頭の中で、色々と金策を考えているに違いない。
 何故、おれはここまで水野が嫌いで、ボロクソに思ってしまうのか……。
 それは会った時から、俺の生理的に嫌いなオーラを放っていること。それ以外にも、この歌舞伎町という街で騙され、完全な負け犬になっているからだ。
 さっきの鳴戸に言った台詞は、正に負け犬の遠吠えということわざが、ピタリと当てはまる。
 ふらーっと力なく立ち上がり、水野は無言のまま、夢遊病者のような足取りで店から出て行こうとした。ドアノブに手をかけた状態で、一言だけ岩崎に声を掛ける。
「おい、岩崎。偶数の台は、全部最低設定にしておけ、ロイヤル、ストフラも、ちゃんとカットしとけよ。んー…、明日の昼頃、鳴戸君が来るかもしれないから、それまでには元に設定戻しておけよ。それと鳴戸にこのことは内緒だからな」
 水野の言う台詞は本当にクズでろくでなしだ。金が無いから店のゲームの設定をきつくして客から搾り取るという、安易な発想しか考えていない。負け犬はそれだけ言うと、店から出て行った。
 岩崎はタメ息をついて、煙草を一服してから、俺に愚痴を言ってくる。
「あの人、本当に現場のこと、何も考えてないですよね。そんなことしたら客は怒って、自分らに八つ当たりしてくるだろうし、自然と客だって、ここから足が遠のくぐらい、分からないんですかね?鳴戸さんにしても店の金を全部持っていって、これからどうやって営業するんだって感じですよ」
「あの~、岩崎さん……」
「何ですか?」
「さっき会話に出ていた回銭って、何のことですか?」
「ああ、店にある金のことを指すんです。例えば、INで二本入れた時、お釣り八千渡すじゃないですか。OUTになった場合、払う金だって必要ですよね?だからあらかじめある程度の金を店で用意してあるんです。賭博ですから」
「なるほど、そうなんですか」
「まあ、こんな設定にしちゃあ、OUTなんて、ほぼないですけどね…。まったく……」
 岩崎はブツブツ言いながらも、台の後ろに回り、設定を直しだす。
 今日の夜は、常連の小倉さんみたいな太くていい客が、ダークネスに来ないことを願うばかりだ……。
 俺は買ってきたドリンク類を整理してから、無言で店の掃除をした。

 翌日、仕事に行くと、そういう日に限って、常連客は沢山来たらしい。
 俺が店に着くなり、田中が大変でしたと愚痴ってくる。遅番は散々文句を言われ続けたようだ。話を聞いていて、小倉さんが来なかったのが唯一の救いだと感じた。
 昨日の夜だけで六十万は上がったらしい。新堂と田中が帰ると、岩崎は面倒臭そうに台の設定を直しながら口を開いた。
「赤崎さん、昨日の遅番、珍しくINが三百八十万いったらしいですよ」
「俺、よくみんながINいくついったとか言うじゃないですか。その辺がよく分からないんですよね」
「赤崎さんが仕事で客にIN入れに行くじゃないですか。そのINを早番、遅番に分けて一日のINを入れたトータルを言ってるんですよ。昨日で言えば、INが三百八十。つまり、遅番だけでINが全部で三百八十万円分ありましたってことなんですよ。もちろん、新規の初回サービスの分のINも、入りますけどね」
「つまりこのダークネスは全部で台が十台あるから、一台辺り十二時間の間に平均三十八万は、INが入ってるということですよね。お客さんが入れてーって、よく言うじゃないですか?あれで金額にすると、一台辺り三十八万円分のお金が、この機械に入ってることに……」
「その通りです。相変わらず冴えてますね」
「たった一日、遅番の時間帯だけで六十万も、利益が上がったってことですよね?」
「上がり過ぎですよ。水野さんは馬鹿だから素直に喜ぶだろうけど、鳴戸さんはこの数字見て、どんな設定してたんだって、絶対に怒りますよ。鳴戸さんは現場上がりだけあって、客の気持ち、分かる人ですから」
「ようするに、現金儲かったって、ただ喜ぶのは、水野さんだけってことですか」
「そうですよ。INが一晩で三百八十なんて、この歌舞伎町でもかなり忙しい部類になります。そのINで上がりが二十万から三十万くらいだったら、客だってこの店は負けても良く出る店だって納得出来るんですよ。元々うちはそれぐらいの設定の優良店なんです。昨日、水野さんが、あんなこと言わなければですけどね」
「水野さんの昨日言ったことで、少なくても、数の卓に座った人は、絶対勝てない犠牲者になったんですね?」
「いや、ところがそうでもないんですよ。そこがまた、ポーカーの面白いところなんですけどね。赤崎さんビンゴのこと、まだよく理解してないですよね?」
「え、ええ…。理屈はある程度分かりますけど……」
 岩崎は正面の壁に貼ってあるビンゴのボードのところへ歩いていき、何枚かのトランプの札を適当に裏返してから、俺に振り返る。
「いいですか?赤崎さん」
「はい」
「今は何の札がリーチになってるか、分かりますか?」
 通常、ビンゴのボードは、トランプの札、Sラインが、A、二、三、四、五、六。
 Bラインが、八、九、十、J、Q、Kに並んでいる。
 しかしSラインで岩崎がめくった札は、三、四、五、六で、Aと二の札は見えている。Bラインは、Kのみだけ見えて、残りの札はめくられて見えない状態になっている。
「うーん…、今の状況だと、BラインのKだけです。叩いて一気して、最後の決まり手がKならビンゴですよね?Sラインは誰かが一気して、Aか二のどちらかが出れば、残った方がリーチになります」
「そうです。それでKが出てマークがハートなら五万、スペードなら三万」
「ダイヤ、クローバーで一万ってプレミアがもらえるんですよね」
「はい、あれだけ忙しい状況だと、一気もバンバン出ますから、当然ビンゴも比例してすぐにリーチとなるからチャンスはいっぱいあります」
「パチンコやスロットと似た形のギャンブルですね。決定的に違うのは、初回サービスがあるという点と、そのビンゴのプレミアが有るってことですね」
「一度もテイクしないで叩いていると、一時間で約五、六万は軽く入りますけど、その分ワンチャンスで、七万ぐらい簡単に取れますからね」
 客はみんな、何を求めにこのダークネスへ来るのだろうか?
 勝ちたくて来る客が大半だろう。でも、小倉さんみたいに勝ちを求めている訳ではない客もいる。
 本当に勝ちを狙いたいなら、ある程度叩いて三千や四千にいったらテイク。そしてビンゴがリーチになったら、一気を狙えば利口なやり方だ。
 ただ、そうするとセコく見られてしまう。店内中の客と従業員が、どっちらけムードになることは間違いないだろう。
 ポーカーゲームというフィルターを通して、打ち方や金の使い方で、その人間の性格が出る。
 小倉さんみたいな太くて一度もテイクせず、常に叩く客は、確かに金を大量に使う。その分ツボにはまると、十万二十万くらい、簡単に勝つこともある。
 店員の立場で見ると、綺麗な遊び方で非常に格好いいし、見ていて気持ちいい。
 そんな新宿歌舞伎町という街の不思議な空間の中で、俺は働いているのだ。岩崎は台の設定を直し終えたらしく、椅子に腰掛ける。
 ピンポーン……。
 チャイムが鳴る。誰か来たようだ。モニターを見ると鳴戸だった。俺の背筋に冷たいものが走る。
「おはよう。昨日は忙しかったらしいですねー」
「おはようございます」
 俺と岩崎は口を揃えて挨拶する。鳴戸は一瞬ニヤリとしてから、すぐに真面目な表情で話しだす。
「あとはこの時間帯も、もうちょっと客が常時入ってれば文句ないんですけどねー」
「すいません。暇な時間、営業やデン張りとかするようにして頑張ります」
「そうです。ゲーム屋はやることやったら、待ちの商売ですからね。まー、いいでしょう。でも、昨日のあの上がり具合が明らかにおかしいです。水野さん、昨日私が帰ったあと、設定、下げろって言いましたね?」
「いえ、台の設定は変えてませんよ」
 岩崎は平気な顔で誤魔化している。確かにさっき鳴戸が来る前に台の設定は直してある。昨日言われた通り、水野を形だけ庇っているのだろう。
 途端に鳴戸の表情が一変する。
「岩崎―、私はですねー。嘘をつかれんのが非常に嫌いなんですよねー。あなたそのことは、ちゃんと知ってましたか?」
「画面確認して下さい。設定そのままじゃないですか」
 鳴戸は無言で岩崎に歩み寄る。岩崎は怯えた表情になっていた。鳴戸が近づいた瞬間、岩崎はいきなりしゃがみ込む。
 よく見ると、鳴戸は右膝を突き出していた。不意打ちで、膝蹴りを腹に入れたのだろう。
 鳴戸は、床に額をつけた状態で苦しむ岩崎の後頭部辺りに、足を乗せ踏んづける。俺は一通りの光景を、ただ固まって見ているだけだった。鳴戸の甲高い声が部屋に響く。
「おーい、いつまでも舐めたこと抜かすんじゃねーよ。このガキが…。数字見りゃー分かんだよ。数字見りゃーよー。そんなに俺が馬鹿に見えんのか。あっ?」
「すいませんでした。すいませんでした」
 また一気に鳥肌がたつ。
 鳴戸の本性を初めて見た。これが本来の姿なんだろう。
 岩崎は必死に懇願する。俺は一歩も動けない。しばらくすると、鳴戸は足を離す。
「…ゴホッ…、昨日、鳴戸さんが帰ったあと、水野さんの命令で…、うっ…、設定を変えました…。ゲホッ、ゲホッ……」
「始めから素直にそう言えばいいんですよ。そう言えばね…。あなた、本当に間抜けですねー」
「す、すいま…、ゴホッ…、せんでした……」
「赤崎君、私にアイスコーヒー作ってもらえますか。砂糖無し、クリーム一つだけでお願いしますよ」
「は、はい。かしこまりました」
 俺は慌ててキッチンに行く。岩崎はまだ床に座り込んでいた。
 迅速にこれでもかというスピードでアイスコーヒーを作り、鳴戸のところへ持っていく。鳴戸は足を組んだ状態で、俺のことを気にする様子もなく、岩崎に視線を移す。
「岩崎ー。いつまで痛がってるんですか。私はそんなに強くやってないのに、いつまでもそんな痛そうな素振りしてると、赤崎がビックリするじゃないですか。早く男なんだから、さっさと立ちなさい」
 よろめきながら立ち上がる岩崎。何も出来ず、ただ立っているだけの自分が歯痒い。
 コンコン…、ドアをノックする音がした。
 モニターを見ると、水野の顔が見える。俺はすぐに鍵を開けに行く。
 これから始まる地獄の宴など知らずに、水野は笑顔で店に入ってくる。相変わらず隙だらけの大馬鹿野郎だ。今日は紺のスーツを着ているが、まったく似合わないピンクのネクタイを締めていた。
「おはよー。あれ、鳴戸君、先に来てたんだ。昨日の数字見たかい?」
 呑気なものだ。こんな奴を庇って、腹に膝蹴りを入れられた岩崎が、本当に可愛そうで仕方がない。
 どっちにしろ、こいつはまた従業員の前で、鳴戸に赤っ恥をかかされるのだろう。このダークネスの異様な雰囲気。普通なら誰でも感じるだろうに……。
 水野は哀れなピエロだった。
「水野さーん。あんた、何を考えてるんですか?何を……」
「はぁ、いきなり何だね?」
「私はねー、何を考えているんですかと言ってるんです」
「昨日の夜はIN三百八十。上がり六十万。それの何がおかしいのかね」
「店、潰す気かって私は言ってるんですよ、水野さん。とぼけるのも、いい加減にして下さいよー」
「とぼけるって、何をだね。私はね……」
「あのねー、岩崎がちゃんと、唄ってんですよ」
 水野がまったく迫力のない目つきで、岩崎を睨みつけた。岩崎は顔を合わせずに知らん顔をしている。鳴戸は続けて捲くし立てた。
「もー、私ねー。限界なんですよ。限界。分かりますか、水野さん?あんた、忙しい遅番の時間帯に店、よく顔出して客がいるのにホール見ながら、いつもニヤニヤしてるみたいじゃないですか」
「いやー、それはだね……」
「今は私が喋っている番なんです。その件だって遅番の新堂が、ちゃんと私に報告してるんです。あんた、オーナーでしょ?そのオーナーがね、客が負けてるとこに顔出して、客の前で平気でニヤニヤしてるんですよ。ちょっと頭おかしいんじゃないですか?神経疑っちゃいますよね」
 物凄い剣幕だった。甲高い声を聞いているだけで、冷や汗が止まらない。水野は、口を挟む暇すら与えられず、みるみるしょぼくれてうつむく。
「もー、ハッキリしましょーよ。あなたは私に借金があります。店のことですら、ちゃんと出来ません。どーします?どーするんですか?」
「い、いやー…、私は……」
「方法は二つあります。一つはトイチでもトザンでもいいから借りてきて、私に借金をちゃんと清算して、この店を今まで通り共同経営として続ける。もう一つは、ここのオーナーである権利を私に譲り、ここは関係なく勝手に生きていくかです。さあ、どっちにしますか、水野さん?どっちにするんですかー?」
 究極の選択。果たして水野はどっちを選ぶのだろうか。しょぼくれた水野は下を向いたまま、何も話さない。起死回生の一発など、何もないだろう。
「岩崎、赤崎。おまえたち、日払いの金額いくらでしたっけ?」
 鳴戸はこちらに振り向き、急に優しい声になり、俺と岩崎に話し掛けてくる。
「自分は一万五千円です」
 岩崎が答える。
「自分は一万三千円頂いてます」
 鳴戸は自分の懐から財布を取り出す。分厚い財布だ。いくら入っているのか判らないぐらいの札束が、ぎっしりと詰まっている。鳴戸は一万円札を四枚取り出すと、俺と岩崎に二万ずつ手渡す。
「これ、今日の日払いです。今日はもう店、営業しませんから帰っていいですよ」
「あ、あのー」
 岩崎が鳴戸に話し掛ける。
「岩崎―。私はもう帰っていいですよと言ったんですよ。聞こえませんか?」
 俺と岩崎は慌てて帰り支度をしだす。
 水野がどっちを選択するのか興味あったが、今はそんなことも言ってられない。この嫌な雰囲気から開放されるだけでも、ありがたいと思わないと……。
「お、お疲れさまです…。失礼します」
 ドアノブに手をかけた時、背後から甲高い声が響く。
「あー、明日は、通常通り、営業しますから、ちゃんと出てきて下さいね」
「は、はい……」

 

 

11 新宿クレッシェンド - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

12345678910111213時間は午後七時。いつもより早く仕事が終わった。これから泉と逢おうかなと考えていると、岩崎が声を掛けてくる。鳴戸に膝蹴りを食らったことは、おくびに...

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