家を出て新宿へ向かう。クリスマスのせいか町並みは華やかになっている。昨日と変わらない数のカップルが、イチャイチャしながら街を歩いていた。
昨日の電話の時に、泉と逢う約束でもしておけば良かったと後悔する。
でも昨日街を歩いた時のような惨めさは、微塵も感じない。自分にとって特別な女がいるだけでこんなにも違う。やっぱり、男にとって女は偉大なのだろう。
俺にとって泉は、非常に大事な存在なのだ。
店に近付くと、ピンサロのメガネの店員がいつも通り威勢よく、通行人に呼び込みしている。話した感じ、とても好印象を受ける人だ。
俺が新宿に遊びで来ていてここを通っただけなら、ただ、邪魔な存在にしか感じられなかったかもしれない。お互い名前も年齢も素性も分からないけど、その間に奇妙な友情は存在している。
「おはようございます。朝から頑張ってますね」
「おっ、もうそんな時間か、おはようございます」
「昨日、うちもあれから大変だったんですよ」
「隣で私は外にいつも立ってますから、ある程度、様子は分かりましたよ。ゲーム屋さんだと、よくある風景みたいですね」
「まだ、俺、ここに入って一ヶ月経ってないんですよ。だからさすがにちょっとビックリしました」
「まだそんなもんでしたっけ?そんなに時間経ってないんですね。なんか結構前からいるような感じしますよ。今度時間とお金出来たら、遊びに行かせてもらいますね」
「ありがとうございます。でもそんな使わないで下さいよ。知ってるお客さんが負け込むと、こっちだって本当に心苦しいんですから……」
「もちろん、ほどほどにしときますよ。おっと…、時間そろそろ危なくないですか?もう五分前ですよ」
「ありゃ、では失礼します」
時計を見ると十時五分前だった。急いで階段を駆け上がる。店の中は七卓ほど客がいて、そこそこ忙しそうだ。
「おはようございます」
「おっす、昨日からずっと客が切れないで忙しいよ」
新堂が親しげに話してくる。今までで無愛想だった新堂が、店内で仕事中、このように話し掛けてくるのは初めてだろう。
昨日の一件で、俺は完全に店の一員とみなされたようだ。俺以外、急がしそうにINをしながら、話し掛けてくる。
「この流れを引き継いで、頑張りますよ」
「入れてー」
客は店内のビンゴがリーチなので、異様な雰囲気をかもし出しながら、ゲームにのめり込んでいる。田中は必死になってINをしている。
俺もすぐに着替えて、INキーを手に取り、ホールに出た。新堂が近づいて耳打ちしてくる。
「あの八卓に座っている人いるでしょ。小倉さんといって、うちだと一番太くていいお客さんなんだよ」
「あのー、太いって、どういう意味ですか?」
「簡単に言えば、いっぱいうちでつかってくれるお客さんといったとこだ。ビップ客とも言うけどね。来るとだいたい一晩で、うーん、四十五万前後はINを回してくれる。最低十万は毎回負けるし、いくら負けても一切ごねたりしない」
「へー、すごいですねー。見た感じ、普通のおじいちゃんって感じですけどね」
「ああ、服装も普通の格好してるしな。でも財布の中見ると、すごいんだぜ。いつも三百ぐらいの現金は持ち歩ってる」
「へー、そんな風には見えないですねー」
「そこが歌舞伎町の面白いとこなんだよ。うちみたいな一円のレートだと、暇つぶしで来てるようなもんなんだろ。以前、夜に来て十五万負け、朝方になって帰ったことがあるんだ。こっちがすいませんて近寄ると、小倉さんは一晩いて十五万くらいで済むんじゃ、安いもんだよなーって、ニコニコしながら帰っていくんだから……」
絶句する。まさに今まで見てきたことのない完全に別世界の人だ。見た目はただの普通のおじいちゃんだけど、何をしている人なのかまったく想像がつかない。後ろ姿はとても小さく小柄だ。
「今日はその小倉さん、どんな感じなんですか?」
「最初来て、すぐに五万のビンゴ取って、おまけに一気も連発してたから、十七万くらい勝ってたんだ。俺がたまには勝って持ってって下さいと言っても、そんな真似は出来ないよって、まだ今もやってるんだ。たまには、勝って帰ってもらいたいのに……」
「義理堅いんですね。何だか格好いいですね」
「ああ、それで結局、今は五万負けってとこかな」
俺は小倉さんというおじいさんに非常に好感が持てた。
金を持っているとか、ここで太いからとか、そんなことじゃない。俺は、ここだけしか知らないが、小倉さんの生き方というか在り方……。
その辺に男としてのダンディズムを感じる。
テーブルを見ると、灰皿に煙草が溜まっている。俺はすぐに灰皿を交換する為に八卓へ歩いていく。
「失礼します」
灰皿一つ換えるのにも、何故かとても神経を使う。
「おや、初めて見る顔だねー」
小倉さんが俺に気付き、声を掛けてくれる。
素直に嬉しかった。見た目は本当にただの小柄なおじいさんなので、肩でも揉みましょうかと気をつかいたくなるような感じなのに……。
たったひと言で親近感を覚える。
「はい、赤崎といいます。はじめまして。まだ入って一ヶ月経ちません。これからもよろしくお願い致します」
「そうか、ワシはいつも来る時間帯が夜中だし、君は早番だから、なかなか会わない訳だよなー」
口をモゴモゴさせながら、小倉さんは優しい口調で俺に話す。とても優しそうに見えた。このダークネスにというか、歌舞伎町にいるのが非常に似合わない。そんな感じの不思議な人だった。
「まだ、この仕事に慣れていませんが、よろしくお願いします」
「フォッフォッ…、岩崎君。いい新人が入ったねー」
「ええ、おかげさまで…。これもひとえに小倉さんみたいな、いい常連さんたちに支えられているからですよ」
「岩崎君も、お世辞が一人前になったねー」
「いやー、そんな。まだまだです」
小倉さんは少ししてから、機嫌良く帰って行った。
結局八万負けだった。それでも綺麗に遊び、ニコニコ笑って帰れる小倉さんはすごかった。
この間、新堂に絡んでいた情けないチンピラと比較すると、まるで月とゴキブリぐらいの違いがある。
今日の客の入りだと、岩崎は俺に二万くらいは渡してくるだろう。それにしても、岩崎はいつもどうやって誤魔化し、店の売り上げから金を抜いているのだろうか?
岩崎はそのやり方について、俺にひと言も話したことがなかった。まあそんなことは、俺から聞くことでもないし、岩崎の出方をみるしかないだろう。
仕事に行って十二時間が経ち、夜になると新堂、田中が来て俺の仕事は終わる。
今日、岩崎は日払いの金とは別に三万円をくれた。予想より一万も、多くもらっているのにあまり嬉しさが湧いてこない。
金に麻痺してきた証拠だろうか……。
狭山の駅に着いて、すぐ泉に電話した。時間は十一時を回っている。皮肉にも昨日、泉に電話を掛けた時間と同じ頃だ。
残り一時間を切ったけど、まだクリスマスには違いない。
「おう、昨日は悪かったな。今、仕事終わったんだ」
自然に言葉が出る。昨日の気まずい空気とはえらい違いだ。
「お疲れさま。昨日、隼人に何度も電話してんのに、全然、出てくれなかった」
「悪かったよ。怜二が二股かけられたって…。あのあと、俺の部屋来て、あいつの愚痴を聞くの大変だったんだよ」
「あらー、二股?怜二君、女見る目ないわねー」
「あいつは調子良過ぎて、誰かれ構わずに女を口説いてるから、そういう目に遭うんだ」
「相変わらず、隼人は言い方きついなー」
「それを承知でおまえは俺に惚れたんだろう?」
「バカじゃないの。本当相変わらずね」
自分で言っといて、自分の台詞に恥ずかしくなる。言わなきゃよかった……。
「ねえ、今度いつ逢える?隼人、何してんのか分からないけど、仕事頑張ってんでしょ」
「うーん、まー、確かに頑張ってるね。ただ、休み決まってないんだよな。でも近い内、絶対に時間作るよ。それでいいか?」
「うん、話していて隼人、頑張っているというか、意欲に燃えてるの分かるもん。それを邪魔したくないし、私は大人しくしてるよ」
「悪いな、ありがとう」
「でも、逢った時は何か、ねだっちゃうかもね」
「ああ、好きな物買ってやるよ」
金なら腐るほど、いくらでも入ってくるのだから……。
「ほんと?すごい嬉しいー。確かに隼人、ちょっといい風に変わったかもしれないね」
確かに変わった。歌舞伎町の住人として、金の魅力にとり憑かれだしている。
「どうだかな。まあ帰り道だし、俺はこれから家に帰ってすぐ寝るよ」
「気を付けて帰ってね」
携帯を切ると、真っ直ぐに帰ることにする。
途中、アラチョンの看板が目に入る。
腹は減っていたが、クリスマスのこの時間帯に一人で入っていったら、あのマスターのことだ。色々と突っ込んでくるだろう。
さすがにそれは勘弁なので、家へ向かう。窓越しにマスターがてんてこ舞いで、忙しなく動き回っているのが見えた。
「頑張れよ」
マスターに向けて呟いたつもりだが、近くを歩いていたカップルが不思議そうな顔をして、俺の方を見ていた。
いい気分だ。湯船に浸かり、手で湯をすくい顔にかけた。
泉とまた、ヨリを戻せたんだなと実感する。あいつと一時、別れて、いや見捨てられてという表現の方が正しいのだろうか。色々な葛藤や矛盾に、時にはへこんだりしたけど、結果的に良かったと思う。一時の別れは冷却期間となり、お互いの大切さを感じることが出来た。
去年と違って、今年はイブもクリスマスも一緒には過ごせなかったが、充実している。俺に一番しっくりくる女が居てくれるのだ。少なくとも幸せを感じている。
歌舞伎町に来る前の俺は最悪だった。泉と別れ、金もない辛く惨めな日々。しかし、悪い事があったからこそ、今、いい時だと感じられる。
運気が変わってきたのは間違いなく歌舞伎町で働きだしてからである。今のダークネスの仕事が、もちろん一生の仕事とは思っていない。自分から辞めるつもりはないが、働き出して一ヶ月という月日が経とうとしている。
その短い期間で、俺は今まで、絶対に手にすることの出来なかった金額をもらえている。それがどんな方法であれ、岩崎には感謝しないといけない。
恐る恐る行ってみた歌舞伎町ではあるが、案外、俺には水が合うのだろう。
今まで働いてきたどんな職場よりも、居心地が良く感じるのは正直な気持ちである。
風呂から上がると、自然と鏡に目が行く。
こめかみの三本の傷が鏡に写る。今日は見ても、傷が疼きだす様子はない。
愛のことを思い出す。
今みたいに金があれば、一緒に見に行ったデパートのレストランで好きなだけお子さまランチを食わせてやれただろう。
あんなガラスのケースに入ったものを見せるだけなんて、絶対にさせない。
しかし、この金は俺のものには違いないが、結局は欲望にまみれた薄汚れた金だ。そんな金で、愛にハンバーグを食べさせるのか。
愛と繋がっていた目に見えない糸が、一本切れたように感じる。
何本繋がっているのか分からないけど、一つ、また一つと、その糸が切れていくたびに、俺は人間らしさを失っていく。
だが、どんなに頑張って綺麗な金を稼いだとしても、愛は俺のところに戻ってきてはくれない。開き直ってでも、俺は生きるしかない。
割り切れ……。
目を閉じた。愛の悲しそうな顔が、浮かび上がる。
このままいくと、俺は頭がおかしくなるのではないか……。
愛…、ハンバーグ、大好きだったよな……。
アラチョン、まだやっているかな?
急いで服を着て、アラチョンに向かった。
俺は罪滅ぼしという訳ではないが、自分の中のやるせなさを何とかしたかった。
アラチョンの看板は点いていたが、ドアにはすでにクローズと掛かっていた。マスターが店の中から俺に気付き、近付いてくる。
「どうしたんだい、隼人ちゃん。こんな遅くに……」
「も、もう終わりですよね」
「何かあったのかい?」
「いや、いいんです」
「コーヒーぐらいご馳走するよ。外、寒いだろ。そんなとこいないで、中に入りなよ」
「いつもすいません、マスター……」
アラチョンの店内に導かれる。俺はお言葉に甘えることにして店の中に入った。
マスターはコーヒーを淹れている。いい香りが辺りに漂う。薄汚れた金でもいい。アラチョンのおいしいハンバーグを愛に食わせてやりたかった。
「ほら、飲みなよ。体、冷えてるだろう?」
「いつもすいません」
「どうしたんだい?」
「マスター、ハンバーグのテイクアウトって、やってましたっけ?」
「何、遠慮してんだよ。店をクローズしてたって、隼人ちゃんに言われたら、いつだって作るよ。今、作ってやるから食ってけばいいじゃんか」
「持ち帰りは…、無理ですよね……」
「何だ、自分で食うんじゃないのかい?」
「いや、やっぱいいです。悪いし……」
「話してみなよ。少なくても俺は隼人ちゃんの倍は生きてる。何かしら力になれるかもしれないだろ」
「いいんです…。放っておいて下さい」
俺の言葉を聞くなりマスターは、クルリと向きを変える。
気を悪くさせちゃったのかな……。
当たり前だ。俺は何を考えているのだろう。
マスターは引き出しを開けて、ゴソゴソ何かを探しているみたいだ。何て声を掛けていいか分からない。
もし、気を悪くさせてしまったのなら、何かしら声を掛けないと失礼だ。
「き、気を悪くさせてしまいましたか?」
「……」
マスターからの返事はない。
俺の言い方が悪かったのだ。閉店時間にいきなり来て、親身になってくれているマスターに対し、何故、あんな言い方をしてしまったのだろう。背中を見ていると、心苦しくなる。
静かに引き出しを閉めたマスターは、そっと一枚の写真を俺の前に置いた。
「お…、親父…。マスター、ひょっとしてこの写真…、俺の親父ですか?」
ニコッと笑い、マスターは軽く頷いた。
「俺の大事な親友だったんだ……」
「……」
今まで親父のことなど、思い出すことさえなかった。
「確かに親としては、あいつは失格だよ。自分の息子が苦しんでいるのに、近くにいないんだもんな。でもあいつは何とかしたくたって、もう出来ないところにいる。だから俺は親友として、あいつのケツぐらい拭いてやりたいんだ。たまに俺の夢に出てくるんだぜ。隼人ちゃんの親父さん…。向こうでも心配なんだろ、きっと…。よかったら話してみなよ。せっかく言い掛けたんだからさ。駄目かい、隼人ちゃん?」
愛の顔を見る前に亡くなった親父。そんなんじゃ、天国に行っても、愛だって分からないじゃねえか、馬鹿親父……。
「……」
「本当にいいなら、こんな時間に俺のとこ来ないだろ?言ってみなよ。それとも俺なんかじゃ、頼りないか?」
親父は、マスターに頼んでいたんだな…。目尻が熱くなる。
「いや…、そんなことないです。妹の愛のこと、急に思い出してしまったんです」
「……。愛ちゃんかー…。あの子は本当に可愛い子だったな。隼人ちゃんには残念な事件だったよな。…で、愛ちゃんがどうしたんだい」
「あいつ、本当にハンバーグ大好きだったんです。小さい頃、よくデパートに連れて行くと食べたがっていたんです」
「うん」
「でも、俺もまだ小さかったから、一回も食べさせてやることが出来なかったんです。それで、今日、クリスマスじゃないですか?もう日にち変わっちゃいましたけど…。今さらかもしれないですけど…、マスターのハンバーグ、食わせてやりたかったなって……」
「俺も、あの日のことは覚えているよ。隼人ちゃん、ひょっとして、まだ自分のせいだと思っているのかい?」
「違いますか?俺があの時、愛をブランコに乗せてなければ…、愛は…、愛はあんな風にならずに済んだんです。そうすれば本当は今、ここにだって一緒にハンバーグを食いに連れて来れた…。いや、もっとあいつが小さい内に、いくらだって腹いっぱい食わせてやれたんです。俺が、愛を殺したようなもんだ…。俺が……」
長い間、抑えていた思いが……。
溜まっていた感情が……。
ついに言葉に出てしまった。
心の奥底で渦巻いていたものを、自分ではもう、とめられなかった。
不覚にも俺はマスターの前でボロボロと泣いていた。
マスターは、俺の肩にポンッと手を置くと、厨房の方に無言で歩いていく。
しばらくして、「ジュー……」と肉の焼けるいい匂いがする。マスターは再び火を起こして、ハンバーグを焼いてくれているのだろう。
俺はテーブルに突っ伏し、思い切り泣いた。
肉の焼ける音が聞こえなくなっても、マスターはしばらく出てこなかった。きっと俺に気を使ってくれているのだろう。気持ちが暖かくなる。
「お待たせ。ほらっ、これ持っていきな」
泣き顔を見せたくないので、俺はマスターの顔を見られなかった。うつむいたまま無言で受け取り、財布を出す。汚い金だけど仕方ない。
「お代はいらないよ。うちはもう閉店してる時間だ」
「そんな訳いかないです。こんな迷惑かけて……」
「俺からの些細なクリスマスプレゼントだ。それ持って、さっさと行きなよ」
「でも……」
「隼人ちゃんの親父さんから、とっくにお代はもらってるからさ、な?」
「あ、ありがとうございます……」
「また、来てくれよな」
「本当にありがとうございます。俺、何て言ったらいいか……」
「今日の俺のハンバーグ…、大失敗作だ。ちょっとしょっぱくなってる。こんなんじゃ、お金取れないよ……」
思わず顔を見上げた……。
マスターの目には涙が滲んでいた。マスターは泣き声のまま、俺に諭すように優しく話し続ける。
「いいかい隼人ちゃん。ずっと自分を責めるのは分かる。それでも隼人ちゃんは生きている。だったらさ、自分の足で立って、ちゃんと生きていかないと駄目なんだ。気の済むまで責めたっていいさ。でも隼人ちゃんは、愛ちゃんの分まで生きなきゃいけないんだよ。隼人ちゃんの親父さん、あいつだって生きてたら、きっと、そう言うと思うぜ……」
「…ありが…とう…ござい…ました……」
それだけ言うのが精一杯だった……。
外に出て、煙草に火をつける。
こんな真夜中に、俺は愛の墓へと向かっている。
涙は、もう出ていなかった。愛の前で泣く訳にはいかない。
真心のこもったハンバーグ。俺は、今日この日を絶対に忘れないだろう。マスターには頭が上がらない。でっかい借りを作ってしまった。
それにしてもマスターと親父が昔、親友同士だったとは驚きだ。親父の奴、愛の生まれた時に事故に遭い、愛の顔すら見ていない……。
「俺が代わりに今、愛のとこ行ってくるからな、馬鹿親父……」
暗い夜道を黙々と歩くが、クリスマスの余韻かまだ何組かのカップルを見かける。
泉と逢って楽しい時間を過ごしたいという思いもあったが、今はこの温かいハンバーグを愛の元へ持って行ってやりたかった。
正直、夜中に墓場へ行くのは、あんまり気持ちいいものじゃない。
お寺の入口にまで来た時、ひと気がなく明かりのない様子に薄気味悪さを感じ、鳥肌がたった。
マスターから受けた感動は、恐怖心の前に徐々に薄れつつある。非常に怖かった。自分で自分を情けなく思う。
お寺の入口をくぐっても、なかなか足が進まない。何度も後ろを振り返った。
「墓場で転んだら、そこの土を舐めないといけないんだよ」
幼い頃聞いた、祖母の言葉を思い出す。今となっては迷信だろうと思うが、この現状では絶対に転びたくない。震える体、手足を踏ん張りながら、ゆっくりと一歩、また一歩と進む。迷信かもしれないが、転ぶのはやっぱり嫌だった。
ハンバーグの入ったビニール袋に手を触れると、少し冷めてきていた。
一体、何の為にここへ来たんだ?
マスターの心意気を無駄にするのか?
愛に、これを届ける為に、来たんじゃないのか?
自分を叱咤する。少しだけ、前に進む意欲が湧いてきた。
勇気を振り絞り、足を一歩一歩慎重に進めて行く。臆病風にふかれ徐々に進むのがやっとだった。俺の体は恐怖と寒さでブルブル震えていた。
しばらく進むと、墓場の入り口が見える。
「愛の墓は……」
独り言を言いながら、少しでも気を紛らわせようとした。墓石をグルリと見渡してみる。ひと一人もいない静けさ……。
そこには亡くなった者だけが眠る、聖なる無の神秘的な世界が広がっていた。
こんな場所に、生きている俺がいてもいいのか。そんな時だった。
「ん……」
一箇所だけ、鈍い光を放っているように見える墓石。
あれだけあった恐怖心が、不思議となくなる。俺は鈍い光に向かって進む。
明かりはほとんどなく、この薄暗い状況の中、愛の墓は、俺を優しく導いている。
「愛……」
慎重に足元を確認しながら、愛の墓に近付く。
「あっ……」
途中で足をつまずき、俺はバランスを崩す。ハンバーグだけは、死守しないといけない。右手でビニール袋を空に向かって突き上げたまま、俺は墓場の地面へ転んだ。
ホッ…、ハンバーグは無事か……。
祖母の言った言葉が頭の中で鳴り響く。
「墓場で転んだら、そこの土を舐めないといけないんだよ」
俺は舌を出し、地面の土をそのまま舐めた。小さな小石も含んだ固いザラザラした嫌な感触が、口の中に充満する。唾液を一点に集め、土と一緒に吐き出した。
「これで文句ねえだろ……」
独り言を呟きながら、淡々と歩く。
やっとの思いで愛の墓の前に立つ。マスターの用意してくれたビニールからハンバーグを取り出そうとした。
「……」
容器は二つあった……。
マスターの心遣いがとても嬉しかった。
でも、愛の前だから泣く訳にはいかない。妹の前で兄は、いつも毅然とした態度をしてなきゃいけないのだ。
一つを愛の墓の前に、そっと置いた。
「遅くなってごめんな…、愛…。これ、おにいちゃんが今、一番おいしいと思ってるハンバーグなんだぞ。一緒に食べような。随分待たしちゃったよな。本当にごめんな、愛…。もう、ショーウインドーの中のハンバーグなんかじゃないんだぞ。好きなだけ食べていいんだぞ……」
首筋にヒヤッとした冷たさを感じ、思わず空を見上げる。
空が、俺と愛を歓迎してくれたかのように、真っ白な雪を降らせ始めた。
白いマフラーを外し、愛の墓石に巻いてやる。そして愛に向かってニコリと微笑みかけた。
「ハハハ…、こんなことってあるんだな…。でも愛は寒いよな。風邪ひいちゃうよな。愛、見てみなよ。おまえの好きな雪が降ってるぞ。愛、早く食べないとハンバーグ冷めちゃうぞ。おまえ、あんなに食べたがってたもんな。おにいちゃん、ここに来るまでおっかない思いしてきたんだぞ。仲良く一緒に食べような……」
愛の墓石の前で、俺はゆっくり腰を下ろし、俺の分のハンバーグを取り出す。
マスターのハンバーグを一口食べた。ちょっとしょっぱい。当たり前だ。愛の前で涙を流したくなかったけど、ハンバーグの上に俺の大粒の涙がこぼれ落ちていた。
一気に平らげると、ゆっくり立ち上がる。
愛の墓を改めて見た。俺の巻いてやった白いマフラーが風になびいている。真っ白な雪がもたらした幻想だろうか……。
「ハンバーグありがとう。おにいちゃん。じゃーねー」
雪がしんしんと降る中、愛の声が聞こえたような気がした。白いマフラーが揺れる度に、愛が俺に向かって、手を一生懸命振っているように見えた。
「おにいちゃん、明日も仕事だから帰るぞ。寒いだろうから、マフラーは愛にあげるな。うん、おにいちゃんは大丈夫だよ。また来るな」
クリスマスの日に、天が、俺に与えてくれた美しい現象。愛とのことを雪も喜んでくれ、ドラマティックに演出してくれている。俺はまた愛の墓に近づいた。
「まだ世の中、捨てたもんじゃないよな…。愛、おにいちゃん、頑張るからな……」
しばらく愛の墓に突っ伏して大声で泣いた。
これは何の涙だろう……。
歌舞伎町で働く汚れた自分への悲しみなのか。それとも、もう会えない愛へのせつなさからなのか。
明日も仕事だから、そろそろ俺は行かなくちゃいけない。ちょっとの間だったかもしれないけど、愛と会話出来たような気がする。最初は怖かったが、ここへ来られて良かった。まだ名残惜しいが、愛の墓を見ながら、俺はゆっくりと立ち上がろうとした。
急に背中でゾクッとした寒気を感じる。
何かにジッと見られている視線を感じたのだ。明らかに、雪による寒さとは違う種類のものだった。俺の血液が激しく動き回る。
最近では感じられなかったが、幼い頃にこれと似たような感覚は、嫌というほど体験している。立ち上がり背後を振り返った。確かに、人の気配を感じたのだ。
「誰だ。出てこいよ……」
言葉を発してみたが、シーンと辺りは静まり返っている。
しばらくその場に立ち、辺りを見回した。こんな真夜中の墓場に俺以外、一体、誰がいるというのだろうか。俺の考え過ぎか気のせいだろう。
辺りは雪が積もり始め、一面に銀世界を形成しつつある。
俺と愛の為だけの綺麗な空間。
その新雪の中に、消えかかった女性のハイヒールらしい足跡が目に入った瞬間、過去のおぞましい記憶が蘇ってくる。
こめかみの傷が疼きだす。
いくら見回しても、辺りには誰もいなかったはずなのに……。
ハイヒールの足跡を残していった何者かに、俺と愛の神聖なるこの空間を汚された感じがした。
あの女、愛が亡くなったのを知っていたのか……。
もう今の俺は、幼い頃に比べたら無力ではない。拳に自然と力が入る。
しばらく愛の墓から立った状態で辺りの様子を窺ったが、人の気配はまったくしない。雪だけが、静かに舞い降りていた……。
目覚めて時計を見ると、朝の十時を過ぎていた。
すぐに立ち上がろうとするが、体がいうことを利かない。昨日、雪の中でしばらく佇んでいたことが体に響いているのか。寒気もダルさもあるから、おそらく風邪をひいたのだろう。
それにしても完全な遅刻だ。ついに、やってしまった。自分の中で遅刻は許されないものがあったが……。
自己嫌悪に陥る。遅刻をする人間を俺自身が大嫌いだった。この世の中、何人の人間が遅刻というもので、仕事に支障をきたし、周りに迷惑を掛けてきたのだろう。それに対し、激しい感情を持っていた俺自らが、ポカをする……。最低だ。
俺は携帯をとり、ダークネスに電話を入れた。時間は元には戻せないのだ。素直に謝るしかない。
「すいません。赤崎です。はい、はい…。本当に申し訳ありません。…いや、そんな訳いかないですよ。でも…、はい、ええ。確かに鼻声ですけど…、はい、はい…、本当に今日、大丈夫ですか?はい、分かりました。明日は必ず出勤します。はい、はい…、本当にすいませんでした。失礼します」
岩崎は、俺の声の調子から具合が悪いのを察知したみたいで、今日は休んでいいと、気を利かせてくれた。今日、岩崎はダークネスの早番の仕事を一人でこなすのだろう。俺を気遣って、店は暇だと言ってはくれたが、電話越しに聞こえたあのゲームの色々な音は、店の忙しさを物語っていた。
彼に悪いことをした。やるせない気分に陥る。
とりあえず今日は、大人しく寝ることにした。布団に横になると、突然携帯が鳴り出す。アラベスクの一番…、泉からだった。ダルい体を動かして電話に出る。
「もしもし……」
「うわっ、すごい声。風邪でもひいたの?」
「ああ…、そうみたいだ……」
「大丈夫なの?」
「駄目みたいだ。大人しく仕事も休んで寝てる……」
「怜二君は?」
「分からない……」
「もう、ちゃんと寝てなきゃ駄目だよ。具合悪そうだから、電話とりあえず切るね」
「ああ、悪いな」
「お大事にー」
泉との電話が終わると、俺は横になる。苦しい……。俺はいつの間にか眠りについた。
夢の中で、俺と怜二と愛の三兄妹は、ガキの頃の姿になっていた。
公園で怜二と愛を連れて、遊び回る。俺と怜二が滑り台をして遊び、愛は大人しくベンチに座り、俺たちを見て喜んでいる。
夢中になって滑り台を滑っていると、近所のガキが愛を苛めて泣かしていた。怜二が俺に愛が苛められているよと、教えに来る。
俺は近所のガキを蹴散らして、愛を守る。愛はしばらく泣いていたが、俺に抱きついて甘えだす。俺は愛の頭を撫でてやり、一日の小遣いを全部使って、お菓子を買ってきた。
そして三人で仲良く分け合って食べた。
怜二も愛も、笑顔でいっぱいになる。俺も笑顔だ。
鳩の群れが俺たちのところに集まってくる。愛はスナック菓子を小さく千切って、鳩に与えた。鳩はドンドン集まってくる。
三人で持っていたお菓子をすべて千切って鳩に与えた。お菓子が無くなると鳩は次々に飛び立って、その場からいなくなる。現金な生き物である。
愛が「ブランコに乗りたい」と言う。俺は駄目だと止める。愛が泣き出し、怜二は俺に「乗せてやれよ」と勝手なことを言い出す。
ふと、ここは夢の中なんだということに気付き、俺は愛をブランコに乗せてあげることにした。
楽しそうにブランコを漕ぐ愛。
俺と怜二はそれを楽しそうに見守る。急に喉が渇いてきたが我慢した。愛が俺と怜二に向かって手を振り出す。
「バカッ!」
全速力で、俺は愛に向かって走り出す。
愛はバランスを崩し、ブランコから落ちていく。前と決定的に違うのは、俺と愛の距離だ。
全力で駆けつけ、地面に頭がぶつかる瞬間に、俺は愛を体ごとうまくキャッチした。
そのままの勢いで俺は後ろ向きに倒れ、後頭部を地面にぶつける。夢の中なのに痛かった。
でも、良かった。これでいい……。
手の平には、愛を受け止めた感触がある。
怜二と愛が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。俺は愛の顔を確認すると、ニコリと笑って見せた。
「良かったな、愛…。ほんと良かった……」
視界がぼやけていく……。
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