「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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求道者であるということ

2017年04月01日 | 基本

 

「求道者であるということ」

 


 ぼくは今のところ、いわゆる「クリスチャン」ではない。つまり、世間一般で言われるような意味での(というか、形でのとでも言おうか)「信者」ではない。そんなぼくが今こうして、「信仰と教会をめぐる求道的エッセイ」などというブログを綴ろうとしている。おまけに、その頭に「呻吟祈求(しんぎんききゅう)」という、なんとも厳めしいタイトルまで付けてしまった。いかにも硬派の書き物で、お世辞にも今風の流行りではないだろう。はたして、どれだけの人が読んでくれるだろうか。知人の一人曰く、「老境の無謀な巡礼」とか。

 

 ただ、日本の戦後史に間違いなく一時代を画し、混沌のなかに深く重要な問いを投げかけ続けた、あの1960年代と70年代。その両方を身をもって体験し、そのただ中で日常を生きて人生を積み重ねたぼくらのような者たちには、いくつになっても消すことのできない習性がある。何につけても「事の本質は?」と問わずにおれないのである。なんと厄介で手間のかかる人種かと、当の本人もそう思う。けれども、ぼくらは常にそのような問いを懐に抱き、内に温めながら歩いてきた。手間はかかるが、事が大事であればあるほど、小手先のやり繰りでは埒が明かなくなる。いま一度、本質に立ち戻り、原点から出直すこと。そこにこそ、遠くの先まで望み見ることを可能にするかぎがあるのではなかろうか。ハウツーの具体もまた、堅実で息の長いそれらを願うなら、その源泉は実は同じところにあるのではないか。そう思うからこそ、ぼくらは厄介な問いを大切にしてきたのだった。

 

 そんな背景を持ち、その中でキリスト教というものにも触れてきたのが「ぼく」という人間である。(格好のいい言い方をすれば)時代の精神からか(俗な言い方をするなら)時代の流行りからか、実に猥雑で、それゆえ生活的でも哲学的でもあって実に刺激的だった戦後という時の中で、ぼくもまた例にもれず、人生の指針を求めて歩を重ねてきた。右往左往をしながら、一喜一憂を繰り返しながら、よろめきながらそうしてきた。逆に言えば、それほどに多様で豊かなものがそこにはあったということなのだろう。そして、時代は今や戦後、外へと向かって開かれた時代である。道すがらには当然のようにキリスト教というものがあり、その教会というのがあった。ぼくはどこか眩しくも映ったそれらに目配せをしながら、時代を嚙み締め、そこを通って、今いるここに辿り着いたのである。 




 それはたしかに迷いながらよろめきながらではあったものの、しかし(自分で言うのもなんだが)真面目な求道心に促されてのものだった。だから、キリスト教についても、いろんな本を手にしてきた。教会についても、いろんなところを尋ね歩いた。そして、その信仰について、いろんなことを考えてきたと思う。そうした意味で、(もちろん、学者や牧師のようないわゆる「プロ」ではないが)このぼくでもいくらかは信仰と教会をめぐる求道的語り合いの輪の中に入れてもらえるのではないかと、そう思ったしだいである。


 ぼくのような人間は、言ってみれば、通称「シンパ」と呼ばれる類いに分類されるのかもしれない。「教会員」という形ではいまだ「クリスチャン」にはなっていないが、しかしキリスト教の信仰に少なからず足を踏み入れ、その教会に様々心を向け続けている。実際、物書きの世界には、(方向や深さや立場は一様でないとしても)キリスト教に関心を寄せる者が結構多くいる。例えば、阿刀田(高)さんなどはその誠実さがいかにも滲み出ていて、そう言うにふさわしい一人かと思う。奥様を介して、牧師や教会とのお付き合いを深められたらしい。それはそれとして、ぼくが言いたいのは要するに、シンパの中にも真面目な求道者がいるということ。そして、道を真剣に探し求める求道の者だからこそ、信仰や教会についての思索や論考に、内輪の議論ではおそらくは気づかないなにがしかのことを語ることができるのではないか、ということなのだ。




 このブログでは、最初に申し上げたように、信仰と教会をめぐる求道的エッセイを本質的な視点を大事にして綴っていきたいと考えている。そこで、これが第1回目の文章ということもあるので、そのようなエッセイを書くにあたって、求道者ならではの持ち味というのがあるとしたら それははたしてどんなものなのか、その点について簡潔にまとめておきたいと思う。信仰と教会を考えるにあたって、求道者ならではの利点とは一体、どこにあるのだろうか。


 それはまずもって、(このブログの読者の読解力を信じて言わせていただければ)「業界タブー」とでも言えるような、教会内にしばしば見受けられるある種の禁忌がぼくらのような求道者にはあまりないということである。内輪の事情に疎いぼくたちは、分らなかったり不思議に感じたり、あるいは疑問に思ったり異論を持ったりすると、そのことを素朴に口にする。が 寂しいのは、そのとき、取り巻く辺りの空気が瞬間、冷たく張り詰めるのを時に感じることなのだ。「教会では言ってならない何事かを言ってしまったらしい」という、なんとも表現しがたい複雑な心情。何もかもを吐き出していい、吐き出せばいいというような話でないのはもちろんである。そうではなくて、悪意のない心から出た素朴で真面目な思いとその言葉を大切にすること。先入観や固定観念で決めつけることをせず、互いに胸襟を開いて受け止め合うということである。そのような自由で温かな空気がその場に満ちていたら、ぼくたち求道者も信仰の語り合いにもっと加われるかもしれない。ぼくらもまた、信仰や教会のことをよりよく、より深く知りたいと願っているのだから。しかも、固定化した枠にとらわれない 少しく違った問題意識や視点がぼくたち求道者にはあるやもしれない。そして、もしかすると、そうしたところから、聖書や信仰や教会についての思わぬ発見があるやもしれないと、ぼくはそう考えている。「真理は往々にして、子供や愚者の内に隠されている」とも言われる。そこでは思いがけず、「本質」が問われるからである。

 

 続く一つも、これと関連している。それは、ぼくたち求道者はタブーや固定観念に縛られることが少なく、しかも事をもっと知りたいと願っているがゆえに、物事の幕引きを いわゆる「予定調和」のような仕方で簡単に済ませることはしない、ということである。神学的にはたしかに、創造論的に、また終末論的に予定調和ということがあるのかもしれない。けれども、日常の信仰生活において、課題や疑問をあまりに容易に片付けてしまうことがありはしないだろうか、「分らないことがいろいろありますが、神様はすべてをご存知ですので・・・」というような言い方でもって。しかし、ぼくらのような者たちは、そう簡単に「はい、そうですね。分りました」とは言えないのである。そして、そこには、(我田引水的にはなるが)事の探求と理解を止めずに深める それなりに良い道筋が隠されているようにも思われるのだが、いかがだろうか。ぼくらは、もっとしっかりと、もっと納得のゆくところまで探りたいのである。たとえ最終的に、結局、予定調和に行き着くとしても。ちなみに、メジャーリーグのあのイチローがある日本人選手に言った一言が今でも耳に残っている。「おまえさん、いつも予定調和なんで、つまんないんだよね」

 

 だから、ぼくたち求道者は考え・探り・そして求めるということを、それなりの理解を放り出すようにして、中途で中断したくはないのである。これがいわば、3つ目の利点と言えようか。言うまでもなく、信仰や教会のことが単なる「理解」という次元で分るかといえば、求道者のこのぼくでもそうは思われない。ただ、それにしても、日々を生きる姿勢が問われている「信仰」という事柄を前にして、(もちろん、一般論だが)そこに向き合う探求の真剣さが巷にあまり感じ取れないのはどうしてなのだろう。

 

 それもこれも、(求道者の特質の最後になるが)信仰とか教会とかいうものの「本質」や「原点」を、ぼくたちがなんとかして少しでも知りたいと願っているということなのである。信仰とは突き詰めたところ、おそらくは「実存的」「経験的」なものなのではないかと推察している。であればこそ、そこに近づきたい、迫りたいと思う。思索も論考も、理解も議論も、このぼくにとっては詰まるところ、そこへと歩を進めるための通り道なのである。そこを、ぼくは真剣に、誠実に歩いていきたいと思っている。真面目な求道者であれば、その点はきっと、同じなのではないだろうか。そして、依然として「求」道者であり、いまだ「未」信者であるからこそ、ぼくらは常に期待に満ちた緊張感をもって、そこを生きているのである。そこに息づく新鮮な探究心と向上心。ひょっとしたら、それこそが、ぼくら求道者の持ち味の最たるものなのかもしれない。




 そもそも、人はだれしも例外なく、限りのある存在と言えよう。有限の存在である。たとえ信仰に入り、教会に通い、奉仕に励んだとしても、人間が人間である以上、それは変わることがない。だとしたら、そこに完成や完全はなく、どこまでいっても混沌や不明、不確かさ、頼りなさが付きまとう。それゆえ、だからこそまた、人は出来上がってしまったら終わりなのだろうと思う。つまり、ぼくらはだれもが不完全な存在だから、だからこそ「求道」ということが(いわゆる「求道者」であると「信仰者」であるとにかかわらず)すべての人の本質的な事柄になるということである。その意味で、たとえ すでにクリスチャンである「既」信者の人たちであっても、どこかに求道を置き忘れてしまったら、大切な何かを失うことになるのではないだろうか。いまだ未信者のぼくながら、そう思われてならない。

 

 長々と書き連ねてしまった。お許しいただきたい。いずれにしても、以上のような趣旨のもとにこのブログを記し、信仰と教会の本質をめぐるあれこれについて、クリスチャンもノンクリスチャンも一緒になって考えていけたらと願っている。そこでは、とにもかくにも「求道」という言葉がキーワードになる。良きものを探し求める、謙虚な心の有り様である。

 「エーゲ海に面したホテルの屋上から眺める夕日は美しい。私はバーの片隅で強烈なラキ酒を飲みながらパウロの生涯を思った。

 ——あれは・・・なんだったのかな——

 パウロの生涯は、なにもかもダマスコ郊外で起きた出来事に凝縮されている。つまりイエスの顕現・・・。思想的転向は言うに及ばず、神学の拠りどころも、身のふりかたも、みんなあれから始まっている。

 信仰を持たない私は、イエスの顕現をそのまま信ずることはできない。むしろ、

 ——パウロにはそれが必要だったろうな——

 と、こざかしい思案が浮かんでしまう。

 イエスの直弟子たちを中心とする重鎮たちが、ユダヤ教との縁を切れずにいるとき、それを越えて新しい思想を確立するためには『私自身がイエスからじかに命令を受けたのだ』と、錦の御旗のようなものがなくてはパウロはつらかったろう。それを主張しなければ、立場が弱くなる。たったいま〝身のふりかた〟と言ったのは、このあたりの事情についてである。〔が、〕

 ——それだけじゃないな——

 とも思った。

 パウロが宣教に費した厖大なエネルギーと執念を思えば、その出発点において、イエスの声を実際に聞き、イエスを実際に見なかったならば、

 ——あそこまではやれない——

 と、そんな判断も生まれてくる。

 他人を騙すことはできても、自分を騙すことはできない。少なくとも主観的にはパウロはイエスを絶対に〝見た〟のだろう。だからこそ、それを原点として彼の神学が確立できたのだろう。」

(阿刀田高『新約聖書を知っていますか』新潮文庫、265〜66頁、新潮社、平成十年)

 

 

©綿菅 道一、2017

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(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)


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