兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

北海道最果ての監獄「樺戸監獄」

2022年08月04日 | 歴史
樺戸監獄(当初は樺戸集治監と呼ばれた)をご存じだろうか?明治12年設置の東京小菅の東京集治監、仙台宮城集治監に次いで北海道に設置された集治監である。よく知られている網走監獄は樺戸監獄の分監として開設された。その他の分監としては空知監獄、釧路監獄がある。樺戸集治監は、作家吉村昭の小説「赤い人」の舞台となった。

明治初め、西郷隆盛の西南戦争以降の自由民権運動の政治犯や、無期徒刑から15年以上の懲役囚を収容する集治監として、北海道に「樺戸監獄」が設置された。開設は明治14年、初代典獄は月形潔である。月形潔の叔父、月形洗蔵は、尊王攘夷を唱える筑前勤皇党の首領である。

囚人は、明治維新政府から北海道開拓の労働力に利用され、厳しい環境のなかで、鉄の鎖を装着され、道路工事、水道工事など過酷な労働に使役された。現在も、囚人の作った道路である「樺戸道路」「上川道路(国道12号)」が残っている。この道路は北海道の大動脈となり、厳しい囚人使役を示して真っすぐな道路となっている。

この囚人活用による北海道開拓政策を建白したのが、伊藤博文の側近の金子堅太郎である。建白書のなかで「囚徒は道徳に背く悪党である。懲罰として苦役をさせれば、工事費が安く上がり、たとえ死んでも監獄費の節約になる」と述べられている。樺戸集治監設置の翌年には、樺戸集治監から遠くないところに空知集治監(現在の三笠市)が設置された。空知集治監の囚人は空知炭鉱の労働力として動員された。

使役の厳しさは、最初の1年間で、372名の収容囚人のうち、35名が病死し、2名が脱獄していることでもわかる。明治15年、脱獄対策もあり、新選組永倉新八が看守の剣術師範として赴任している。新政府財政の厳しさを反映して、囚人に支給される衣服も貧弱で、食料も十分ではなかった。

囚人は鉄球で足を繫がれ、赤い囚人服で、真冬でも足袋はなく素足である。その実態は、吉村昭の小説「赤い人」で詳しく描かれている。この監獄には有名な脱獄囚「五寸釘の寅吉」も入獄し、二度も脱獄に成功している。

そのほか、破戒僧・大須賀権四郎や海賊房次郎と呼ばれた囚人も入獄していた。贋札づくりで無期徒刑に服しながらも、この地で多くの絵を残した熊坂長庵もここの囚人であった。熊坂長庵は体も弱く、冬の寒さと厳しい労役に耐え切れず、入獄後2年余りで病死した。破戒僧・大須賀権四郎も入獄後、30歳の若さで死亡した。二人とも囚人墓地に埋葬された。

大正8年、樺戸監獄は39年の歴史を終え、廃監された。39年間で、1,046名の囚人が死亡している。うち逃亡による斬殺が41名。死亡者のうち遺族に引き取られたのは、わずか24名。残りの1,022名の囚人は監獄近くの囚人墓地である篠津山墓地に今も眠っている。

関連記事が下記にあります。よろしければ、閲覧ください。
海賊房次郎と破戒僧・大須賀権四郎という人

脱獄囚・五寸釘寅吉という人


写真は樺戸監獄近くにある篠津山囚人墓地。南無阿弥陀仏。合掌


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