兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

三代で消滅した高田屋嘉兵衛

2018年08月02日 | 歴史
小説「菜の花の沖」を書いた司馬遼太郎は、英知と勇気において江戸時代の人で最も偉い日本人は高田屋嘉兵衛であると言っている。嘉兵衛は淡路島の出身で、兵庫の和泉屋喜兵衛の下で沖船頭となり、その後和泉屋の支援で、自前の千五百石積み船「振悦丸」を手に入れた。建造費用は当時の金で2000両(現在で1億5千万円)を要したと言われる。

嘉兵衛は弟の金兵衛、嘉蔵とともに、兵庫で酒、塩などを仕入れ、酒田に運び、酒田で米を購入、函館で売却、その金で魚、昆布、魚肥を仕入れ、上方で売ると言う廻船問屋商売を始めた。いわば現在の総合商社である。

寛政11年(1799年)嘉兵衛は択捉島開拓の任にあった近藤重蔵の依頼を受けて、国後島と択捉島間の航路を開拓した。国後と択捉間は潮の流れが強く、その横断は非常にアイヌでも難しかった。その後、択捉島で17ケ所の漁場を開き、蝦夷地貿易の中心商人となり、高田屋は莫大な財を築いた。当時、高田屋は函館本店を始め、江戸、大坂、兵庫に4店舗を構え、蝦夷、アイヌ貿易を一手に取り扱う最大の海産物問屋となった。

文化8年(1811年)5月千島列島の測量をしていたロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニンが国後陣屋の役人に拿捕される事件が起きた。翌年文化9年8月、ゴローニン奪還を目指すディアナ号副艦長リコルドは、人質交換要員として、高田屋嘉兵衛を拿捕した。カムチャッカに連行された嘉兵衛は、ロシアとの紛争解決のため、ゴローニン釈放交渉役として幕府と交渉、文化10年9月、函館でゴローニンは釈放された。

ゴローニン事件解決後、嘉兵衛は体調を崩し、故郷の淡路島に戻った。淡路に戻っても、嘉兵衛は地元の灌漑工事、港整備のため多額の寄付を行った。徳島藩主・蜂須賀治昭は、嘉兵衛の功績を賞し、300石藩士並み武士待遇と処した。しかし文政9年(1826年)嘉兵衛は背中に出来た腫物が悪化、59歳で病死した。

嘉兵衛の死から6年後、高田屋2代目を継いだ弟の金兵衛は、幕府からロシアとの密貿易の疑いをかけられ、さらにロシア船舶との航行上の密約を隠していた罪で、闕所、所払いの処分を受け、高田屋は僅か三代で消滅、没落した。いわば、現代のスパイ罪である。大袈裟に航行上の密約と言っても、ゴローニン釈放のお礼にリコルドが高田屋の船籍の安全を保障する旨の小旗を渡したことを言う、それは単に口約束でしかなく、冤罪というべきものであった。

写真は高田屋一族の墓。真ん中が高田屋嘉兵衛の墓、隣は弟の嘉蔵、金兵衛の墓。函館市の称名寺にある。称名寺は函館戦争の際、新選組の屯所となった寺である。

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