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兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本、情報を拾い読みした内容を書いています。

平井一家3代目 博徒 原田常吉№3

2013年07月30日 | 歴史
原田常吉の獄中生活

 次郎長との手打式後、原田常吉は東三河最大の博徒親分にのし上がった。しかし、明治17年の賭博犯処分規則で捕縛され、懲役7年の判決を受けて、名古屋監獄に収監される。この時の原田常吉の獄中での行状を記した資料に「第24号行状碌」という名古屋刑務所文書がある。

 常吉の獄中生活は他の博徒と比べ、抜群に優秀な獄中態度であったという。看守たちの言葉を借りれば、「衆中ニ卓絶デアリ」「泥中ノ蓮」と言わしめる程、尊敬感を抱かさせた。獄中生活は、看守に常吉の仮釈放ための上申書を書かせるほどであった。上申書よれば、獄中での看病夫としての仕事ぶりは、自ら同囚者の糞尿に接し、汚物を洗い、夜間も衣帯を解くことなく、看病に専念したという。

 看守の評価は、常吉のすぐれた統率力、看病夫としての献身的な奉仕精神、真摯な作業態度が認められたものである。模範囚の立ち振る舞いが評価され、懲役4年で、満期まで3年を残して、常吉は明治21年6月仮釈放された。

 出獄後の常吉は血気にはやった以前と打って変わって、物静かな生活をするようになった。その後、名古屋から戻った兄の亀吉が、宝飯郡下佐脇に帰って、すぐに病死したため、35日の法要後、一家の跡目を弟善六の長男善吉に譲った。


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平井一家3代目 原田常吉№2


常吉は当初、赤坂宿・旧赤坂番所跡の御油警察署に収監され、その後名古屋監獄に移送された。写真は旧赤坂番所跡地である。


平井一家3代目 博徒 原田常吉№2

2013年07月23日 | 歴史
清水一家と平井一家の和解

原田常吉は弟の善六を殺した斧八一家の用心棒を殺害した以降、徐々に一家の勢力も戻ってきた。明治6年、常吉は赤坂宿の旅籠こい屋にて、以前の盟友清水の次郎長と密かに面会した。二人は懐古談のなかで和解の糸口を見つけ、明治13年6月、浜松の料亭島屋で手打式が行われた。その和解の経過は次のとおりである。

明治12年、名古屋の稲葉地一家の日比野善七という者が、清水一家に逗留した際、大政から和解の仲裁人に適当な人はいないかと聞かれ、「名古屋で両者の仲裁ができるのは津坂音吉以外はいない。」と答えた。名古屋の音吉に声をかけたところ、ぜひこの大役を引き受けたいと音吉は大いに乗り気で、懇意な地元大親分の鈴木富五郎を訪ねた。

鈴木富五郎が平井亀吉にこの話をすると、亀吉は、「和解は望むところだが、仲裁が津坂では承知できない。今でこそ大きな顔をしているが、もとは名古屋奉行所の岡っ引き上がりだ。どうしても頼むなら、他に頭の重い親分を一人、二人引き出さなければ駄目だ。」と承知しなかった。

翌年、明治13年、亀吉は木曽福島まで用事で行ったおり、信州まで足をのばして、昔からの兄弟分の相川平作(又五郎)の墓参りをした。相川一家は平作の倅の平三が跡目を継いでいたが、まだ若いため、後見人として身内の倉吉が仕切っていた。

清水との和解の話を聞いた倉吉は、「雲風の親分、平作親分の死後、見る影もない相川一家ですが、その仲介の役を平三にやらせて下さい。」と頼んだ。亀吉は平作への供養になるのならばと思い、「俺には異存はない。だが清水の意向を確かめねばならぬ。」と答えた。倉吉はすぐに清水に飛び、次郎長の了解を取った。

しかし、最初に話のあった津坂音吉の顔をつぶすわけにもいかず、丁度その頃、鈴木富五郎のところに富五郎の兄弟分で、浜松の斉藤善五郎が滞在していたので、津坂音吉を呼び、斉藤善五郎を通じて話をした。

名古屋、浜松の大親分の手前、音吉も納得して、相川平三、斉藤善五郎、津坂音吉の3人の仲裁役が決まった。回りまわった手続を経て、やっと手打ちまでたどり着いたのである。

手打ちの場所は遠州浜松に決まり、警察に許可求めたが、何百人の博徒が繰りこむと聞いて、警察も尻込みをした。しかし、祭礼の日にまぎれてやるのならばと許可が出た。手打ち式当日集まった博徒は、両方で千人。これだけの、親分、顔役がそろったのは未曽有のことであると「常吉実歴談」に書き記されている。


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平井一家3代目 原田常吉№1

博徒・間ノ川又五郎という人

写真は原田常吉が弟の善六を殺した形の原斧八一家の用心棒を待ち伏せ殺害した東海道御油宿入口の御油橋である。


平井一家3代目 博徒 原田常吉№1

2013年07月19日 | 歴史
博徒に一代記などの伝記は少ない。その理由の一つは、識字力のある博徒が少なく、資料が残っていないこと、二つ、アウトロー的存在のため事実関係を知られたくないことなどが挙げられる。そのため、浪曲、小説などで偶像化された形の伝記が多く、その正確さには問題がある。

原田常吉は、通称平井の常吉と呼ばれ、幕末から明治にかけて、愛知県の東三河地方一円で勢力を有した「平井一家」の親分である。平井一家の初代の小中山七五三蔵は、渥美半島の先端、伊良湖岬に近い小中山村(現田原市)出身である。二代目は常吉の実兄平井亀吉で、三河ではトップクラスの勢力を持っていた。

三代目原田常吉の伝記は「侠客原田常吉」という書物があり、長谷川昇氏の「博徒と自由民権」の中で紹介されている。この伝記は「原田常吉実歴談」ともいわれ、大正2年、名古屋新聞の記者であった中尾霞生氏が常吉本人から聞き取りして、新聞に連載したものである。

原田常吉は「遊侠の人博徒・原田常吉」で述べたように、若いころ清水の次郎長ともに三河各地で賭場荒らしをしていた。次郎長と別れてから、安政2年(1855年)9月、新居の番所に火縄銃を撃ち込んだ罪で、3年余り逃亡の後に捕縛されて、10年間、新島に流刑となった。

新島での常吉は従順な流刑生活をしたため、役人や島の住人の信頼を得て、流人頭になる。流人頭としての働きは親分として博徒を使いこなしてきたため、慣れたものだった。さらに信用され、島の住職に請われて流人から島の寺男になった。

その後、島の娘お鶴と結婚し、染物屋を始め、子供も生まれた。満10年になった明治元年、大赦で許され、妻のお鶴と一緒に戻ろうとしたが、妻は島を離れることを反対したため、帰ることもできず、やむえず、常吉は単身で三河に戻った。

常吉が単身でも故郷に戻ったのは、留守中の平井一家が以前の勢力を無くして、一家を管理していた末弟の善六が、敵対する形の原の斧八一家の食客、立川慶之進によって、二川の自宅で謀殺されたためである。

戻った常吉は弟の仇打ちで、三河御油宿の掛間橋で待ち伏せし、斧八の用心棒を殺害する。この時、殺されたのは人違いで、稲川某という用心棒だった。しかし、このことが地元の評判となり、散りじりになっていた子分たちが戻ってきて、以前の一家の勢いを戻すことになる。
(参考)「侠客・原田常吉」中尾霞山著


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遊侠の人博徒・原田常吉

平井一家3代目 博徒・原田常吉№4


写真は原田常吉の墓。左の戒名は妻である。豊川市小坂井町平井の墓地にある。法名「最成院釈常念」大正4年(1915年)2月6日歿、享年84歳。



明治の博徒大刈込

2013年07月14日 | 歴史
明治14年、松方大蔵卿のいわゆる松方デフレ政策で米価が値下がりする一方、増税により、小作農への転落による農民層の貧困化が激しくなっていた。この情勢の中、明治15年から明治18年にかけて全国で農民の騒擾事件が続発する。同じ時期に明治政府による博徒集団に対する一斉取り締まりが実施された。その特徴は通常手続きによるものでなく、社会安定を目的とした緊急博徒取締による一斉検挙であった。

明治17年1月、太政官布告の「賭博犯処分規則」により警察の行政措置で処罰が可能となると、博徒検挙は全国規模で行われた。長谷川昇氏の「博徒と自由民権」によると、愛知県の名古屋監獄に収監された主な博徒は以下のとおりである。

近藤実左衛門 59歳 農業  (懲罰5年・過料金300円) 熱田警察署   愛知郡上郷村
原田常吉   53歳 農業  (懲罰7年・過料金350円) 御油警察署   宝飯郡平井村
栗田新吉   36歳 撚糸業 (懲罰5年・過料金300円) 岡崎警察署   額田郡和合村
斉藤和助   31歳 農業  (懲罰5年・過料金300円) 岡崎警察署   碧海郡棚尾村
井上吉松   57歳 口入業 (懲罰4年・過料金200円) 枇杷島警察   東春日井郡瀬戸村
須崎岩五郎  44歳 理髪業 (懲罰4年・過料金200円) 熱田警察署   愛知郡千篭村
岡島次郎吉  58歳 農業  (懲罰4年・過料金200円) 熱田警察署   西春日井郡味鋺村
鈴木庄三郎  34歳 農業  (懲罰4年・過料金200円) 岡崎警察署   額田郡久後崎村

この時、静岡県においても清水次郎長が(懲罰7年・過料金400円)、清水一家の後継者である増川仙右衛門が(懲役6年・過料金300円)処罰となっている。当時、米の値段が1石5円14銭であるので、過料金400円は現在の金額で言うと約400万円になる。

愛知県で検挙された博徒は、原田常吉は平井一家、栗田新吉は形の原一家・生田派、近藤実左衛門は北熊一家、斉藤和助は形の原一家別派、井上吉松は瀬戸一家、須崎岩五郎は山崎一家、岡島次郎吉は北熊一家の舎弟で山崎一家、鈴木庄三郎は吉良一家の各親分である。それぞれの親分は、幕末から次郎長、勝蔵等の博徒とともに血なまぐさい闘争を続けてきた武闘派の博徒であった。

清水次郎長は明治26年(1893年)6月、風邪がもとで死去した。73歳。死亡記事は新聞で大きく報じられた。東京在住の樋口一葉もその日の日記に書いた。「侠客駿河の次郎長死亡、本日葬儀。会するもの千余名。上武甲の三洲より博徒の頭(かしら)だちたるもの会する」と。

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遊侠の人 博徒・原田常吉という人

明治の大刈込で清水次郎長も懲役刑を受け、収監された。下は清水次郎長の顔写真。