頭・車善七とは江戸時代、のトップとして浅草でを統括した人物が代々名乗った名前である。「」は「貧人」がなまったものという説がある。は江戸時代の賎民身分で、頭の矢野弾左衛門の配下とされた。
幕府は、農民、町人等が人別帳から外れ、路上生活者となった者をエタ頭、頭に捕まえさせた。小屋に集め、引き取り先が判明した者は郷里に戻し、不明の者は身分に落とし、として管理した。エタとの大きな違いはは定職を持つことができず、小屋頭の下で乞食(勧進と言った)、ごみ拾い等で生計を維持、幕府またはエタ頭の指示で牢屋人足、処刑手伝いを担当した。
初代・車善七は三河国渥美村(現・愛知県渥美郡)の出身という。家康江戸入国時には隅田川のほとりに住んでいた。他方、車善七の先祖は常陸国の佐竹藩の家臣であったとういう説もある。
善七の父が佐竹藩を関ヶ原の戦いで西軍に味方させたため、父は磔になる。父の仇として家康を狙ったが失敗、家康に許されたが人界を辞して、乞食の群れになったと言う説である。この説を明治維新後、新聞記者・福地桜痴が小説に書いている。信じられる話ではない。
江戸には、当時、頭が4人いた。車善七以外は、その支配の土地の名を取って呼んでいる。車善七、品川松右衛、深川善三郎、代々木久兵衛の4人である。これらの頭の下に、五、六千人のが組織された。そのうち車善七が7割の勢力を有した。幕末、天保14年、手下人数が記録に残っている。それによると、車千代松3,946人、松右衛984人、善三郎441人、久兵衛272人となっている。
車善七は新吉原遊郭の裏に住居を構え、江戸のたちを管理していた。なぜ吉原の裏なのか?吉原で遊び、身を崩すとになるとわかるよう見せしめという説。それは違う。理由は彼らの仕事の多くが紙くず拾いのためである。は市中の紙くずを集め、職人が漉き直して再生紙を作り、落とし紙として再利用していた。
江戸時代、紙は高価で、貴重品である。遊郭吉原内の清掃を任されたたちは吉原で紙集めをした。吉原は貴重な紙を多く使用した。なぜ多く使用するか?「ある事」の後始末に紙を使用した。江戸市中で拾い集めた紙くずと合わせて、善七の小屋頭の所に集積した。当時、浅草製の落とし紙(トイレットペーパー)は「浅草紙」と呼ばれ、有名であった。
吉原遊郭の傾城屋(遊女屋)の経営者は「亡八」と呼ばれた。すなわち、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つを忘れた人、いわばと同じと言う意味である。傾城屋もと同様に、エタ頭・矢野弾左衛門の配下とされている。(1657年)明暦3年「明暦大火」で江戸市中の6割が燃え、江戸城天守閣も焼け落ちた。10万人以上の死者が出たと言われる。当時、江戸の人口は約30万人、死者の多さが理解できるだろう。
幕府重臣・保科正之は市中視察をして、町奉行に焼死体の埋葬を命じた。埋葬場所は隅田川の向い岸の本所回向院、命じられたのは頭・車善七である。車善七は数万の死体を運び込み埋めた。回向院の過去帳では2万人あまり、実際には5万人前後と言われている。この時も善七は、エタ頭・矢野弾右衛門の指示、配下の下で働いた。
「江戸の貧民」の著者・塩見鮮一郎氏によると、エタ頭・矢野弾右衛門の支配下の職能集団は次のとおり。「・座頭・舞々・陰陽師・壁塗・土鍋・鋳物師・辻目暗・・猿引・鉢叩・弦指・石切・土器師・放下・笠縫・渡守・山守・青屋・坪立・筆結・墨師・関守・鐘打・獅子舞・蓑作・傀儡師・傾城屋」以上、28種を挙げている。内の身分の上下の順列もこの順番になっている。
明暦の大火から約70年後、享保5年(1720年)頭・車善七はエタ頭・矢野弾右衛門の支配下から脱するため、矢野弾右衛門浅之助に反抗し、訴訟となった。3年にわたる訴訟の間に善七本人は死亡し、奉行所は弾右衛門の側に立ち、裁判を引き継いだ頭7人は全面的に敗北した。
当時、はが治めるのが原則、その原則は弾右衛門がの裁判を行う。形式的には町奉行が判決を下すが、弾右衛門の意向を聞いて判決を決めるため、側が負けるのは当然である。7人の組頭うち3人は死罪、残り4人は永牢と決定した。善七の息子・菊三郎は、当時13歳と幼く、罪は問われず、死亡した先代の車善七の跡を継いだ。
江戸時代中期になると江戸市中も全国から無宿人が集まり、治安不安定のため「人足寄場」が作られ、等の寄場である「溜」も設置された。これが「浅草溜」である。いわゆるの授産更生施設である。
明治4年になると解放令が発令され、エタ、などの賎民身分が廃止となった。エタ頭・矢野弾右衛門は「弾直樹」と名前を変え、車善七も「長谷部善七」と名乗った。明治5年には「浅草溜」が廃止され、翌年に「溜」の収容者は上野の護国院に移された。東京都はここを貧民の収容所として、名前を「養育院」と言った。
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吉原遊郭の遊女
下の写真は明治につくられた養育院(貧民収容所)で死亡した者の供養塔
幕府は、農民、町人等が人別帳から外れ、路上生活者となった者をエタ頭、頭に捕まえさせた。小屋に集め、引き取り先が判明した者は郷里に戻し、不明の者は身分に落とし、として管理した。エタとの大きな違いはは定職を持つことができず、小屋頭の下で乞食(勧進と言った)、ごみ拾い等で生計を維持、幕府またはエタ頭の指示で牢屋人足、処刑手伝いを担当した。
初代・車善七は三河国渥美村(現・愛知県渥美郡)の出身という。家康江戸入国時には隅田川のほとりに住んでいた。他方、車善七の先祖は常陸国の佐竹藩の家臣であったとういう説もある。
善七の父が佐竹藩を関ヶ原の戦いで西軍に味方させたため、父は磔になる。父の仇として家康を狙ったが失敗、家康に許されたが人界を辞して、乞食の群れになったと言う説である。この説を明治維新後、新聞記者・福地桜痴が小説に書いている。信じられる話ではない。
江戸には、当時、頭が4人いた。車善七以外は、その支配の土地の名を取って呼んでいる。車善七、品川松右衛、深川善三郎、代々木久兵衛の4人である。これらの頭の下に、五、六千人のが組織された。そのうち車善七が7割の勢力を有した。幕末、天保14年、手下人数が記録に残っている。それによると、車千代松3,946人、松右衛984人、善三郎441人、久兵衛272人となっている。
車善七は新吉原遊郭の裏に住居を構え、江戸のたちを管理していた。なぜ吉原の裏なのか?吉原で遊び、身を崩すとになるとわかるよう見せしめという説。それは違う。理由は彼らの仕事の多くが紙くず拾いのためである。は市中の紙くずを集め、職人が漉き直して再生紙を作り、落とし紙として再利用していた。
江戸時代、紙は高価で、貴重品である。遊郭吉原内の清掃を任されたたちは吉原で紙集めをした。吉原は貴重な紙を多く使用した。なぜ多く使用するか?「ある事」の後始末に紙を使用した。江戸市中で拾い集めた紙くずと合わせて、善七の小屋頭の所に集積した。当時、浅草製の落とし紙(トイレットペーパー)は「浅草紙」と呼ばれ、有名であった。
吉原遊郭の傾城屋(遊女屋)の経営者は「亡八」と呼ばれた。すなわち、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つを忘れた人、いわばと同じと言う意味である。傾城屋もと同様に、エタ頭・矢野弾左衛門の配下とされている。(1657年)明暦3年「明暦大火」で江戸市中の6割が燃え、江戸城天守閣も焼け落ちた。10万人以上の死者が出たと言われる。当時、江戸の人口は約30万人、死者の多さが理解できるだろう。
幕府重臣・保科正之は市中視察をして、町奉行に焼死体の埋葬を命じた。埋葬場所は隅田川の向い岸の本所回向院、命じられたのは頭・車善七である。車善七は数万の死体を運び込み埋めた。回向院の過去帳では2万人あまり、実際には5万人前後と言われている。この時も善七は、エタ頭・矢野弾右衛門の指示、配下の下で働いた。
「江戸の貧民」の著者・塩見鮮一郎氏によると、エタ頭・矢野弾右衛門の支配下の職能集団は次のとおり。「・座頭・舞々・陰陽師・壁塗・土鍋・鋳物師・辻目暗・・猿引・鉢叩・弦指・石切・土器師・放下・笠縫・渡守・山守・青屋・坪立・筆結・墨師・関守・鐘打・獅子舞・蓑作・傀儡師・傾城屋」以上、28種を挙げている。内の身分の上下の順列もこの順番になっている。
明暦の大火から約70年後、享保5年(1720年)頭・車善七はエタ頭・矢野弾右衛門の支配下から脱するため、矢野弾右衛門浅之助に反抗し、訴訟となった。3年にわたる訴訟の間に善七本人は死亡し、奉行所は弾右衛門の側に立ち、裁判を引き継いだ頭7人は全面的に敗北した。
当時、はが治めるのが原則、その原則は弾右衛門がの裁判を行う。形式的には町奉行が判決を下すが、弾右衛門の意向を聞いて判決を決めるため、側が負けるのは当然である。7人の組頭うち3人は死罪、残り4人は永牢と決定した。善七の息子・菊三郎は、当時13歳と幼く、罪は問われず、死亡した先代の車善七の跡を継いだ。
江戸時代中期になると江戸市中も全国から無宿人が集まり、治安不安定のため「人足寄場」が作られ、等の寄場である「溜」も設置された。これが「浅草溜」である。いわゆるの授産更生施設である。
明治4年になると解放令が発令され、エタ、などの賎民身分が廃止となった。エタ頭・矢野弾右衛門は「弾直樹」と名前を変え、車善七も「長谷部善七」と名乗った。明治5年には「浅草溜」が廃止され、翌年に「溜」の収容者は上野の護国院に移された。東京都はここを貧民の収容所として、名前を「養育院」と言った。
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吉原遊郭の遊女
下の写真は明治につくられた養育院(貧民収容所)で死亡した者の供養塔