兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

喧嘩ぎらいの博徒・長楽寺の清兵衛

2023年04月14日 | 歴史
上州で喧嘩嫌いの親分は大前田英五郎、東海道筋では藤枝の長楽寺の清兵衛が有名だ。静岡県藤枝市本町に長楽寺という臨済宗古刹がある。清兵衛は、この寺の門前に住む藤八の次男として生まれ、すぐ近くの菊次郎という人の養子となった。寺の門前に住んでいたので「長楽寺」と呼ばれた。

清兵衛は、骨格たくましく、腕っぷしも強かった。田中藩4万石の御用を勤め、藩主(本多紀伊守正納)のお供をして甲府に行ったとき、偽勅使を見破って召捕った話、晩年に凶悪犯人を捕まえて、警察に感謝状を貰った話が残っている。喧嘩嫌い、穏やかな人柄、旅人の世話も良いことで名が通っていた。さらに白粉彫りで、背中に小野の小町、胸から腰、両手足に桜の花をちりばめた彫り物の見事さでも有名である。

(博徒名)長楽寺の清兵衛   (本名)杉本清兵衛
(生歿年)文政10年(1827年)2月29日~大正10年(1921年)8月12日 病死 享年95歳

(博徒名)大藪の平五郎    (本名)佐野平五郎
(生歿年)文政12年(1829年)~明治41年(1908年)4月5日 病死 享年79歳

長楽寺の清兵衛を有名にしたのは、浜松の五社神社で行われた荒神山の喧嘩の手打ち式で、甲州津向の文吉と二人で仲介人をしたことである。清兵衛は次郎長より七つ年下だったが、それほど渡世人としての貫禄があった。

清兵衛の長い生涯で渡世人として喧嘩をしたのは、たった1回かぎり。相手は、隣村の郡村(現・藤枝市郡町)の大藪の平五郎という親分であった。平五郎は、清兵衛より三つ年下、清兵衛とは四分六の兄弟分。性格は短気で粗暴だった。だから、五社神社の手打ち式のときも、この男には声をかけずにコトを運んだ。

平五郎は、この扱いを根に持ち、兄貴分の清兵衛に恨みを持った。それがこじれて、平五郎は清兵衛に果たし状を突き付けた。清兵衛もいきり立って、身内を招集した。明治14年10月24日の夕方、双方とも約70名の人数を近くの青池に繰り出した。この喧嘩で平五郎の息子・佐野銀次郎が殺害された。

殺害された銀次郎は、堅気の青年で、郡役所に勤めていた。このとき26歳、父親の身を案じて、木刀をたずさえて駆けつけた。父親の平五郎に「ここは、堅気の来るところではない!」と一喝され、余儀なく家に戻る途中、長楽寺方の一隊と出くわし、血祭りにあげられてしまった。

翌日、長楽寺一家から三州の忠次郎が銀次郎殺しの下手人として警察へ自首してきた。仲間の横内の角蔵と浪人の金山敬助は草鞋をはいたが、捕らえれれて、懲役2年に処せられた。平五郎も静岡に逃げ、博徒仲間のもとに隠れていたが、次郎長の仲裁で清兵衛と和解、家に戻って来た。

大藪の平五郎こと佐野平五郎は、明治41年(1908年)4月5日死亡した。藤枝市本町の慶全寺に葬られている。法名「泰岳良平居士」。行年79歳。慶全寺には、平五郎が建てた息子・佐野銀次郎の墓がある。銀次郎の妻は名を「サト」と言った。あまり身持ちは良く無く、銀次郎の死後、平五郎の妾になって、二人の子を産んでいる。平五郎の死後、子分の妾になったという。

一方、清兵衛は、大正10年8月12日、95歳で大往生した。法名は「大量正眼居士」。藤枝市洞雲寺に墓がある。清兵衛の墓は、杉本家墓として建立され、昔の墓は隣に積み上げられている。隣に説明の石碑が建っている。

ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
吉良仁吉が命を懸けて加勢した博徒・神戸の長吉

次郎長の兄貴分博徒・津向文吉

写真は藤枝市洞雲寺にある長楽寺の清兵衛の墓で、杉本家の墓。石碑の後に昔の墓石が積まれている。


写真は藤枝市慶全寺にある大藪の平五郎が建てた佐野銀次郎の墓。左側面には事件の経過が刻まれて、墓石の土台には子分らしき名前が刻まれている。

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祭りの名脇役・テキヤとはどういう人か?

2023年04月04日 | 歴史
映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんはテキヤである。「一本の稼業人」のテキヤと呼ばれる。親分を持たない旅人(タビニン)を意味する。軒下三寸借り受け増して・・」の仁義。同業者への付き合いの挨拶である。寅さんは、祭りの一角で「コロビ」(地面にゴザを敷き、商品を並べる)商売の啖呵売りのテキヤである。テキヤの実態を描いたユニークな本がある。

「テキヤの掟・祭りを担った文化、組織、慣習」廣末登著・角川新書2023年1月発行
著者は1970年生まれ、現・龍谷大学犯罪学研究センター嘱託研究員、犯罪社会学専門の社会学者。「ヤクザと介護」「裏社会メルトダウン」等多くの著書がある。

テキヤとは祭り、縁日に露店や興行を営む業者を言う。当たれば儲かるとの意味で「的屋」「香具師」とも呼ばれる。2010年暴力団排除条例の施行でテキヤも反社組織と見なされ、更に2020年コロナ禍で人の集まりが消滅した。本書は、薄利の商品を祭りで売る、縁日を支える人たちがどのように商売し、どう生活しているのか?「テキヤ社会」の現場報告である。

本書は二人の「テキヤ」に焦点を当て、二人の回想でテキヤ社会の実相に迫る。ひとりは関東神農連合会の幹部・世話人を務め、30年間夫婦一緒でテキヤ稼業を続けた。しかし暴力団排除条例から、2017年テキヤを脱退、副業の建設業に専念しようとした途端、2021年建設業許可を取り消された。その理由は条例の「元暴5年ルール」である。反社組織脱退後5年経過しない者は銀行口座作成、各種契約ができない規定である。

テキヤ系暴力団もある。戦後、池袋のブラックマーケーットを仕切っていたテキヤ集団・極東会関口愛治、桜井一家関口一門である。
著者は言う。暴力団は博徒、テキヤは商売人、全く「稼業」が違う。にも拘らず、反社勢力と一括りされる。この世間の理不尽さは是認できないと。昭和初期、百貨店の横暴に抗議して、日本橋三越本店で一人のテキヤが割腹自殺した。四谷新花会所属露天商・中村宗郎である。

テキヤは中国古代の神「神農黄帝」を祭神とする神農界社会。ヤクザは「天照大神」を祭神とする任侠界社会である。テキヤは200円、300円の商品を販売する商売人である。一方、ヤクザは裏社会のサービス業である。前記の元世話人は「三寸」(露店の売台をいう)を並べて露店商売をした妻を失った。希望を失った彼は早く妻の所に行きたいと嘆く。

もう一人は、深川本所の江東地区テキヤの帳元(親分)の娘である。父親は人形作りをしながら、テキヤ稼業を営む。彼女は父親から、23歳で跡を継いだ。そして63歳で引退する。彼女は、テキヤとはご縁による商売、一期一会の出会いであると言う。縁日という人間交差点の風景を回想する。

テキヤは祭りの名脇役であり、神社仏閣を支えてきた商売人である。いま日本文化の一角を担ってきたテキヤが消滅しようとしている。テキヤの課題は色々ある。一つはテキヤのなり手がいない。若者の人材不足である。もう一つは、テキヤ商売する場所が少ないこと。寺院規制、警察の道路規制など。最後はテキヤ商売のグレー的色彩を取り除き、ホワイト化することだろう。巻末にテキヤの隠語集も掲載されている。ユニークなテキヤ論である。

ある人が山田洋次監督に聞いた。「寅さんの結末はどうなりますか?」監督はしばらく考えて答えた。「寅さんは年を取ると、帝釈天の寺男になる。ある日、帝釈天の境内で子供たちとかくれんぼをする。寅さんがみつからないので、子供たちがみんなで探す。すると寅さんが本堂の縁の下で眠るように死んでいるのを見つけた」こんなシーンかなと。寅さんらしい。



                    寅さんの啖呵売口上である。

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