兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

小渕志ちという人

2015年06月10日 | 歴史
今から120年ほど前、明治12年、東海道二川宿に伊勢参りに行く駆け落ちの夫婦が逗留した。

この旅人に宿の者が「どこから来なすった」と聞けば、上州(群馬県前橋市)からだと言う。「それなら繭から糸を作ることはご存じか」と尋ねるとその夫婦は「それが商売ですわ」と答えた。そうすると地元の者は何人か押しかけ、繭から糸を作ることを教えてくれ、できることならここに定住してほしいと懇願した。

これまでこの地域では蚕を育て繭を作ることはできても、糸を作ることはできなかった。夫婦は地元の人の熱意に打たれ、二川(豊橋市二川町)で製糸場を作った。

夫の「中島徳治郎」は数年後に亡くなるが、残された妻は「小渕志ち」と言い、製糸場を営む。よそ者のため、まともな繭は集まらず、当時「くず繭」として見向きもされなかった「玉繭」から糸を取り出す方法を成功させた。そして玉糸製糸場(夫の名の一字を取り、「糸徳製糸場」と名付けた)を創業した。

その後同業者も増え、明治35年には輸出も開始され、豊橋は玉糸生産で全国の8割を占めるようになり、「蚕都豊橋」「糸の町豊橋」と呼ばれ、繭取引所まで創設された。

蚕都豊橋にとって「小渕志ち」の功績は偉大であるが、その生い立ちはあまり知られていない。小渕志ちは上州の上野国石井村で生まれ、15歳のとき、製糸工場に働きに出て、1年で独立、糸の座繰業を始めた。

小渕志ちは17歳で結婚、盲目の娘を出産するも、夫の暴力にあい、仕事で知り合った小島徳治郎と駆け落ちをして、二川の宿にたどり着いたのだ。その時、小渕志ちは32歳であった。

時は明治、恋愛も結婚も自由でない時代、駆け落ちの二人は二川で虚偽の戸籍を作る。近所の大岩寺和尚(二村洞恩和尚)も二人を憐れみ、保証人となる。しかし、その事が罪となり、和尚は罰せられ、牢死した。夫は下獄後、自分のために犠牲となった和尚の死を苦にして、絶食して死んだ。

残された小渕志ちは、よそ者、無学、罪人の汚名を浴びながら、必死で夫の名の付いた工場を守り、二つの工場を建てるまで事業を発展させた。大正2年には産業功労者として表彰を受け、自動織機の豊田佐吉とともに名古屋離宮で天皇と個人拝謁している。そして盲目の娘も二川に呼び寄せ、女工のための女学校まで作り、昭和4年、83歳で、その波乱の生涯を終えた。

最近、世界遺産登録された群馬県富岡製糸場が話題になっている。蚕の町として昔、有名であった愛知県豊橋市二川町にも「小渕志ち」という群馬と関係のある人物がいることは興味深いといえる。

ブログ内に関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
相対死(心中)した二川宿の飯盛女

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(小渕志ち像)

(糸徳製糸工場跡地)


写真は小渕志ちの銅像

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