兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

忠治に殺された博徒・島村伊三郎

2020年08月01日 | 歴史
国定忠治は庶民の味方の侠客と言われる。それは国定村代官をつとめた羽倉外記の「赤城録」によるところが多い。赤城録は必ずしも忠治の実像を表すものではない。忠治が縄張りと勢力維持の抗争を続けた博徒であり、普通の博徒と何ら変わりはない。

侠客と言われるのは忠治が「二足の草鞋」と言われる「関東取締出役道案内」という役人の手先にならなかったことが大きな理由だろう。関東取締出役は総員で13人程、火付盗賊改5人程で関八州全区域を取り締まる。関東取締出役は勘定奉行配下で代官所の手付が任命される。

彼らは事務処理が得意の文官、武の人ではない。そのため改革組合村制度が創設され、各村の自治組織に依存する。手足として動くのが「関東取締出役道案内」である。地元の顔役、博徒がその役を担った。

二足の草鞋の「道案内」の評判は良くない。後述の島村伊三郎の兄弟分・木崎宿で旅籠屋経営・孝兵衛は自分の旅籠の飯盛女(遊女)は規定を超えて抱えて、目こぼしを受ける。他店の遊女は2名以下の取締を強化する。博徒の場合、自身の博奕場の目こぼしを条件に敵対博徒の博奕場を取り締まる。さらに改革村の負担費用を横領するなど権力を笠に私腹を肥やす道案内が多かった。

若き忠治が売り出しの契機になったのが博徒・島村伊三郎斬殺事件である。天保5年(1834年)7月2日夜、忠治は子分三ツ木村文蔵ら8人で伊三郎を襲撃した。当日、自身の縄張りである世良田村(現・群馬県太田市)長楽寺境内で博奕が開催された。

伊三郎は境宿(現・群馬県伊勢崎市)島屋で酒を飲んだ後、世良田へ向かう途中、米田村原山で忠治らに襲われた。米田村周辺は民家が少なく、田んぼと立木だけの寒村。当時、国定忠治24歳、島村伊三郎は44歳、男盛りである。

翌日早朝、地元新田郡高岡村の組頭・藤七は虫の息で立木の下に斃れている伊三郎を発見した。傷は肩先から背中に50センチほどの切り傷、腰から腹にかけて5か所の刀傷、刺し傷があり、いわばめった斬り、瀕死の状態である。組頭とは村役人の一種、庄屋(名主)、組頭、百姓代を「村役人三役」と言った。

藤七は被害者の伊三郎とは顔見知り、すぐに島村に連絡し、親類の松之助、次郎八に伊三郎は引き取られた。松之助、次郎八は後ろめたいことがあったのか、事件を内密にするよう名主に依頼した。名主らも面倒は避けたい。一筆取って、了解した。伊三郎はその後まもなく自宅で死亡した。

(博徒名) 島村伊三郎  (本名) 町田伊三郎
(生没年) 寛政2年(1790年)~天保5年(1834年)7月2日 享年45歳
      国定忠治、三ツ木の文蔵らに襲われ殺害される。

島村伊三郎は、寛政2年(1790年)利根川沿い三角州の島村前島・船問屋佐七の長男として生まれた。博徒は裕福な家の出身が多い。国定忠治は富農の生まれ、黒駒勝蔵は名主の出身である。伊三郎は16歳で武州牧西村(現・本庄市)の兵助の子分となり、博徒の道を歩む。

文化7年(1810年)28歳のとき、木崎宿で旅籠を経営しながら、関東取締出役道案内をつとめる孝兵衛の弟分となる。文化10年(1813年)、島村一家を立ち上げる。文政元年(1818年)兄弟分孝兵衛の勧めもあって、孝兵衛と同様に関東取締出役道案内となり、勢力を拡大。伊三郎、29歳の時である。

この頃、同じ上州で一人の博徒が勢力を拡大していた。名を大前田英五郎という。英五郎は伊三郎より三つ年下。文政元年(1818年)英五郎は、敵対する久宮村の丈八一家の親分・丈八を殺害し、逃亡した。その後、丈八一家と和解するも、これを契機に勢力拡大し、上州の大親分となっていく。

一方、忠治は文政10年(1827年)地元百々村の紋次の子分となり、無宿となる。百々村の紋次は伊三郎の島村の縄張りと隣接、お互いに勢力拡大のため敵対していた。紋次の死後、大前田英五郎の支援のもと、忠治は百々村の紋次の跡目を継ぐ。

講談では忠治の子分・三ツ木の文蔵が賭場で伊三郎に殴られた仕返しと言われている。本当の理由は長年の敵対関係、お互い勢力拡大のため、伊三郎殺害で決着をつけざるを得なかった。

伊三郎の生まれた島村は利根川筋にあり、利根川氾濫で荒れ地が多い。稲作、畑には適さない。年貢も氾濫のたびに免除された。しかし桑を植え、蚕を育て、生糸を紡ぐ養蚕には最適である。一帯は養蚕業が盛んで、利根川輸送の商業地として発展した。

この地域は零細大名の飛び地、天領、旗本領地が一つの村を分割する。そのため治安維持、警察力が弱い。博徒には最適である。ここに忠治が関東取締出役道案内である伊三郎を暗殺できる要因があった。

前述のように伊三郎は木崎宿の関東取締出役道案内の孝兵衛とは兄弟分、関東取締出役の面子もあり、殺害から一か月後、忠治ら一味は関東取締出役に追われる。忠治らは信州へ逃亡した。

伊三郎は地元の大親分。かつて忠治が無宿人を殺害した際には、玉村の佐重郎の依頼を受けて、忠治を見逃したことがある。この時、忠治は17歳、大前田英五郎のところに1年余りかくまわれた。その後、英五郎は忠治を百々村の博徒・紋次に託した。ここから忠治の博徒渡世がスタートした。

伊三郎にとって、忠治はチンピラ程度のレベル、格に大きな違いがある。伊三郎は博徒ながら、それなりの人物である。忠治は信州へ逃亡後、上州に戻る。そして赤城山に立てこもり、縄張りを拡大した。そこから「忠治伝説」が始まる。

日光例幣使街道の玉村宿改革組合村大惣代を務めた渡辺三右衛門の日記には「忠治は島村伊三郎の命日には欠かさず供養をしていた」「忠治のため命を捨てる覚悟の子分は100人以上いた」と書かれている。忠治は捕縛後、取り調べのため玉村宿に留置された。三右衛門は忠治らを半月以上に渡って警備を担当した。忠治の処刑後、残された忠治の妾・とくの後見人にもなっている。


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下の写真は島村伊三郎の墓。戒名は「蓮清浄花信士」である。西村宝珠寺内平野氏墓地。群馬県と埼玉県の県境近くの伊勢崎市境島村大字立作1300にある。



下の写真は島村伊三郎を斬殺した三ツ木の文蔵こと大見山文蔵の墓。
戒名は「三明通達信士」天保11年6月29日歿。享年32歳。向かって一番右の墓である。

コメント (2)
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