兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

喧嘩しない大親分博徒・蕎麦亀と丹波屋伝兵衛

2023年11月20日 | 歴史
博徒というと国定忠治、黒駒勝蔵、清水次郎長などの名しか思いつかない人がほとんどだろう。しかし、世間に名を知られていないが、博徒としては歴史に名を残しても良い博徒がいる。歴史的有名人だけが優れているのではない。無名でも優れた博徒がいる。特に博徒は喧嘩を華とするため、抗争、喧嘩をしない博徒は歴史に残らず、忘れ去られることが多い。

そんな博徒の一人として、喧嘩を一切しないことを信条とし、大親分となった博徒・伊野亀吉がいる。この博徒については、増田知哉氏著書「侠客・博奕打ち物語」に記載されている。亀吉は八王子、三多摩地区一帯を縄張りとする博徒で、当時、江戸、甲州、伊豆、上州まで名を知られた親分である。

(博徒名) 通称・蕎麦亀   (本名) 伊野亀吉
(生没年) 天保7年(1836年)~明治32年(1899年)7月18日
      享年64歳で病死。

伊野亀吉は初め、甲州の一の宮万兵平の子分となり、博徒の道に入る。亀吉25歳のとき、親分万平が死亡してからは、伊豆の大場久八の身内となった。明治になって大場久八も博徒から足を洗ったため、故郷の八王子に戻り、蕎麦屋を営む傍ら博徒稼業を始め、徐々に子分たちも増えた。亀吉は腰の低い温和な親分で、いつもニコニコし、乞食が来ても「旦那」と呼んだという。

亀吉が言うには、「喧嘩などするとはどうしたことか、喧嘩して勝ったところで、殺してみたところで、それでどうなるわけではない。甲州近くのこの辺りは気の荒い所で、喧嘩が多いが、喧嘩にならぬように捌いてゆく。喧嘩すれば、逃亡とか、土地を離さなければならない。喧嘩すれば仇にされるが、仇は博奕場にされる。なんの得にもならず、そんなことではいけない。」と言っていた。その証拠に亀吉の身体には喧嘩傷一つとしてなかったという。

亀吉も60歳近くになり、跡目を「曲七」に譲った。「曲七」の本名は内田七太郎と言い、本業が曲物屋だったところから曲七と呼ばれた。一方、亀吉は蕎麦屋を営み、晩年は「蕎麦屋の爺さん」と呼ばれた。「うちは儲けるつもりはないから」と言って、ここの蕎麦の盛り一杯はよその二杯分あり、繁盛し、職人の給料もよそより高かった。

この爺さんがあるとき、曲七のところに立ち寄った。親分の曲七は留守で子分だけしか居なかった。子分たちが仲間内で博奕をやっていたので、久しぶりにやってみたいと言うと、子分たちが「どうぞ爺さん胴を取ってください。」言われ、少し眼が悪いがやってみようとサイコロを振った。筒の外にサイコロが出ている。子分たちは「眼が悪いので気が付かないのだ」と思い、出た目に張る。

これなら誰でも儲かると平気で続けた。そのうち爺さんが博奕で張った金を掻き集めて、ネンネコにくるんだ。子分たちが、「勝負しないで持って行かれては困ります。」と言うと、爺さんは、「この馬鹿野郎、俺が眼が見えないと思っているのか、そんな根性でどうなる。金は俺が持って行く。曲七が帰ったら、早速、盃を返せと言っておけ。」といって帰った。

驚いた子分たちは平岡という親分の兄貴分に、親分に知れないように爺さんに詫びを入れるように頼んだ。平岡の兄貴分が爺さんのところに行って、「あいつらが心違いしたそうです。このことを曲七に言っておやりになれば、大変なことになります。今度だけは勘弁してやっておくんなさい。」と言った。

爺さんは、「それはぜひ止して貰いたい。あんな性根のない奴らなら、商売をするなり、かえって真人間になれる見込みがある。今、そういう手紙を書かして、曲七の所に出したところだ。」と言う。

「侠客・博奕打ちの物語」を書いた増田氏は、蕎麦屋の爺さんと言われた博徒・亀吉のことを、「遊侠の世界での残照の中で、博奕打ちの親分として、貴重な存在であり、博徒として相当な人物だった。」と記している。

亀吉が居た三多摩地区には、幕末・明治期にかけて名を残した博徒がいた。最も有名なのは小金井小次郎である。スケールは小次郎に及ばないが、もう一人は小川村(現・小平市)にいた小川幸蔵である。二人とも歴史に名が残る博徒である。他方、亀吉は名は知られていないが、この二人の博徒に勝るとも劣らない博徒と言える。

伊勢の古市で有名な博徒に「丹波屋伝兵衛」がいる。伝兵衛は荒神山騒動の穴太徳次郎の親分である。伊勢(三重県)きっての大親分。次郎長は、吉良の仁吉の弔い合戦で、千石船2艘で伊勢湾を渡り、伝兵衛相手に喧嘩を挑んだ。伝兵衛に戦意は無く、穴太徳とともに謝罪し、和議が成立した。

伝兵衛は、伊豆韮山(静岡県伊豆の国市)の出身、五尺そこそこの小男で、20歳頃博徒になった。妻は次郎長の子分・増川仙右衛門の叔母である。仙右衛門の父・佐治郎も博徒で、赤鬼の金平の子分に殺された。佐治郎の妹の「おとめ」が伝兵衛の妻である。仙右衛門は後に次郎長の手助けで父の仇を討ち、それが縁で次郎長の子分となった。

伝兵衛は明治になって、半田竹之助と名を改めた。丹波屋の跡目も人に譲り、古市を離れた。明治23年(1890年)12月16日、蕎麦亀こと伊野亀吉の別宅で、心臓麻痺を起こし急死した。年齢は65歳前後と言われ、八王子市興林寺に葬られた。蕎麦亀は全国の博徒に名が売れ、人望もある博徒であった。

ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
新門辰五郎の弟分博徒・小金井小次郎という人

一揆鎮圧に協力した博徒・小川幸蔵という人



下の写真は「蕎麦亀」こと伊野亀吉の墓。八王子市子安町「興林寺」にある。戒名は「壱誉宮量亀信士」である。正面戒名の右側は「量誉智明久信女」左側は「照誉貞孝妙散信女」とある。亀吉の妻女であろう。


下の写真は伊野亀吉が明治26年に建てた「三侠の墓」・丹波屋伝兵衛の墓である。三侠とは杉本万平、井上勘五郎、丹波屋伝兵衛である。
万平とは甲州街道一帯に勢力を張った博徒一ノ宮一家の初代・一ノ宮万平、勘五郎とは二代目・井上勘五郎、三代目が伊野亀吉である。
正面に三つ戒名がある。「沢泉道量信士」「本誉覚道常念信士」「西向了盛信士」中央の「本誉覚道常念信士」が丹波屋伝兵衛である。
右側面「香花料金弐拾円・施主亀吉」「性誉覚念妙操信女」明治26年2月12日俗名夕子」とある。
左側面に慶応三卯年「本念妙覚貞性信女」9月6日、明治16年「念誉自性貞操信女」3月31日
背面に「文久3年6月9日・俗名万平」「明治23年12月16日・俗名竹之助」「慶応2年8月27日・俗名勘五郎」とある。「竹之助」が丹波屋伝兵衛である。



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