兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

吉良仁吉が命を懸けて加勢した博徒・神戸の長吉

2021年06月04日 | 歴史
神戸の長吉は、清水一家と吉良一家が加勢し、穴太徳を相手に荒神山で戦った博徒である。天田愚庵「東海遊侠伝」では、喧嘩の最中、逃げ回る卑怯者親分と描かれている。それは本当だろうか?神戸長吉の真実の姿を見てみよう。

神戸の長吉は、文化11年(1814年)下総国千葉郡浜野村(現・千葉市中央区浜野町)に生まれた。本名は吉五郎と言い、下総国を出奔、全国を流浪しながら渡世人として渡り歩いた。

伊勢国河曲郡神戸城下(現・鈴鹿市神戸)に流れ着き、神戸屋祐蔵の配下となったときは、すでに中年の渡世人であった。伊勢鈴鹿の神戸に一家を構え、長身で長い顔であったことから「神戸の長吉」と呼ばれた。

博徒名  神戸の長吉 
本名   吉五郎(明治維新後は、初芝才次郎と名乗った)
生没年  文化11年(1814年)~明治13年(1880年)3月20日 病死 享年67歳

荒神山の決闘で戦った博徒・穴太徳とは同じ神戸屋祐蔵配下で兄弟分の関係になる。穴太徳は桑名宿で渡世を張り、神戸屋祐蔵の跡目を継いだ。一方、神戸の長吉は地元の神戸で親分・祐蔵から荒神山観音寺の博奕場を引き継いだ。

しかし穴太徳一派との博奕上でのいざこざで長吉の家が壊された。この反撃として長吉が穴太徳一派の博徒を斬る事件が発生した。長吉は役人に追われ、逃亡する。留守の間に荒神山の博奕場を穴太徳に取られた。この縄張り争いが荒神山の喧嘩の原因である。

荒神山の喧嘩は一瞬で終わり、吉良仁吉は火縄銃で撃たれて死亡した。双方とも役人に追われ、逃亡した。穴太徳、神戸の長吉ともに地元に戻ったときは世の中も変わり、明治の時代になっていた。明治の時代はもう博徒の時代ではない。政府からの博徒取り締まりは厳しくなる一方である。

明治4年(1875年)荒神山の手打ち式が行われた。この時に、清水一家28人衆の写真が写された。長吉の養子となった久居の才次郎は、長吉の跡目を継ぐことなく、跡目は才次郎の弟分・伊藤市五郎が相続し、明治8年、長吉は隠居した。

その翌年、明治9年11月伊勢地方で百姓一揆が発生した。いわゆる伊勢暴動である。神戸の町にも暴徒が侵入、民家に放火しようとした。このとき、長吉は暴徒から町を守るため、暴徒の先頭集団の一人を斬殺、鎮圧したと言われる。

決して卑怯者、臆病者と言われるような人物ではない。肝の据わった博徒である。それから4年後、明治13年3月20日、病死した。墓は鈴鹿市西条の妙祝寺にある。戒名は「妙法本行院誉日徳信士」

荒神山の喧嘩で吉良仁吉たち博徒が死んだ頃、坂本龍馬は、寺田屋襲撃事件のけがを癒す目的で、おりゅうとともに鹿児島へ新婚旅行に出かけた。龍馬が暗殺されたのはその翌年である。仁吉は28歳、龍馬は32歳。当時、歴史に名を残した多くの人の死があった。しかし歴史に名を残さない博徒の死も本人にとっては、精一杯生き抜いたひとつの人生である。


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「荒神山の決闘」目撃の生き証人・おだいさん

義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉


写真は妙祝寺にある神戸の長吉の墓。一番右側の大きい墓である。正面に「妙法本行院泰嶺日徳信士」、右側面に「明治十三辰年三月二十日」とあり、左側面に「下総国千葉郡浜野村の初芝初五郎」とある。
左側の二つの墓は荒神山の喧嘩で死亡した子分の墓。寺の過去帳には「慶応2年寅歳4月8日・泰進信士、仝・最進信士・才次郎子分」とある。慶応2年4月8日とは荒神山決闘の当日である。




写真は荒神山の決闘の現場となった荒神山観音寺境内にある吉良仁吉の碑。

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