兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

女性から見た維新史「勤皇藝者」

2023年10月06日 | 歴史
勤皇藝者」小川煙村著・マキノ書店1996年2月復刻版発行

著者は明治10年(1877年)京都で生まれ、「やまと新聞」の記者を経て作家となった。原本は明治43年発行。本書はその復刻版、定価50銭とある。本書は「中西君尾」という京都の芸者から著者が聞き取った直話をもとに、脚色つけて執筆された小説、いわば女性からの維新史である。

主人公の君尾は、丹波国福井郡西田村の博徒の親分・友七の娘で、本名を君と言う。父・友七は博徒の喧嘩で殺され、君尾は母親ともに京都に移り住む。母子ともに地元では美人で有名だった。

君尾は文久元年(1862年)春、17歳で祇園新地の島村屋という置屋から芸鼓として売り出された。なお、芸者とは東京の呼称で、京都では芸鼓と称し、見習い修行中を舞妓と称する。

高杉晋作の取り持ちで井上馨の馴染みとなる。関白九条尚忠の腹心である島田左近の馴染となって隠密活動もする。島田左近はその後暗殺される。元治元年(1864年)池田屋事件から禁門の変の頃には品川弥二郎と馴染みとなり、鳥羽伏見の戦いで品川が作った「トコトンヤレ節」は君尾が節付けしたものとされる。

井上馨は伊藤博文と英国への密航を計画、大村益次郎と相談、御金蔵5千両を取り出して実行した。帰国後、長州藩は俗論派と正論派が対立。元治元年9月29日、井上は反対派に襲われた。傷は全身、40針以上縫う重傷で三日の間ピクピクと息をするばかりだった。逃げる途中、溝の中に落ち、腹を刺されたが、助かったのは密航出発の際、君尾が送った鏡が懐中にあったため。鏡が剣の切っ先をカチリと受け止めていた。

高杉晋作と祇園町の置屋井筒の芸鼓・小りか、桂小五郎と三本木の芸鼓・幾松、山県有朋と祇園町の舞妓・小菊・小美勇、久坂玄瑞と島原の芸鼓・辰路など、長州藩士馴染の芸者たちの名が挙げられている。久坂の馴染の芸鼓・辰路は本名を辰といい、姓は西村、京都島原の置屋桔梗屋に在籍した。辰路が久坂と知り合ったのは19歳頃と言う。

新選組の近藤勇も君尾の気っ風の良さと美しさに魅かれ、言い寄った。君尾は近藤勇の男らしさに魅かれるも、勤皇派芸者、佐幕派の近藤に勤皇派に転向すれば応諾すると答えた。近藤は「それは出来ぬ」と手を引いたという。

桂と幾松について、桂が「箱回しの源助」と偽って京に潜入活動中、新選組の近藤勇に問われたとき、君尾の機転で窮地を脱する逸話も紹介されている。「箱回し」とは首から箱をぶら下げて、箱の中の人形を操作し、三味線を弾きながら、路上で投げ銭を得て生計を得る大道芸人を言う。

幕末当時、京都諸藩の遊ぶ茶屋は決まっている。これを「お宿坊」と称する。長州藩は縄手大和橋北入東側の魚品、薩摩藩は末吉町の丸住、土佐藩は富永町の鶴屋、新選組は一力とそれぞれ決まっていた。

桂小五郎の幾松はすでに近江商人の旦那が付いていた。伊藤博文が置屋の女将を刀で脅かして桂との仲を認めさせたという。強引ではあるが、一応置屋の内諾を得ていたのである。

桂小五郎(木戸孝允)のように芸鼓を正妻にすることは、当時の武家社会では大変なこと。その後の写真を見ると、確かに美人である。それ以上に同志的な結合があったのだろう。

写真は松下村塾


写真は久坂玄端の墓


写真は萩にある高杉晋作の墓。

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