兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

次郎長一家の重鎮・増川の仙右衛門

2023年03月02日 | 歴史
富士山のふもとの増川村(現・富士市)に佐太郎(佐治郎とも言う)という親分が居た。子分は少ないが、この地方では親分で通っている。アコギなこともせず、60歳を超すまで生き延びていた。ある時、佐太郎の子分が隣村の遊び人と博奕をして、借りを作った。博奕の貸し借りはこの世界では厳しい。

隣村の遊び人の力蔵は、下田の安太郎一家の用心棒をしていた流れ者浪人の竹次郎を交えて、佐太郎の子分に催促したが、佐太郎の子分は払わない。そこでいっそのこと殺してしまえと、押しかけたが本人は居ない。ならば、親分の佐太郎をやっつけろと、佐太郎が近くの妙蓮寺に居るところを急襲して、佐太郎を殺害した。文久2年6月13日のことである。

(博徒名) 増川仙右衛門   (本名) 宮下仙右衛門
(生歿年) 天保7年(1836年)~明治25年(1892年)8月6日 病死 享年56歳

佐太郎には仙右衛門という息子が居た。渡世の修行に下田の安太郎のもとに出されて、その時26歳、安太郎の身内の者を女房に貰っていた。安太郎は伊豆の赤鬼の金平の身内である。金平は黒駒勝蔵と組んで次郎長と敵対している。

仙右衛門は父の悲報を知ると、安太郎身内の女房を離縁し、父の仇を討とうと清水次郎長を頼った。その時、次郎長は43歳、直ちに承諾した。次郎長の子分にしてくれと言う仙右衛門に敵討ちが先だと答えた。その足で増川村の力蔵を探した。力蔵は御殿場と裾野の中間にある村、神山の芝居小屋に居ることがわかった。村はずれ待ち伏せし、仙右衛門は一刀で力蔵を切り倒した。次郎長は助太刀しようと木の陰で様子を見ていたが、その必要は無かった。

仙右衛門は15歳の時から伊豆に修行に出されて、韮山代官所下役の松下又右衛門の道場に通い、やくざながら相当な腕前だった。力蔵を斬った仙右衛門は清水に戻り、次郎長の盃を貰い、子分となった。もう一人の相手、竹次郎は行方をくらましたが、次郎長が人の手を使って探すと、遠州小松村の祭りに来ていると知らせが入った。

仙右衛門は、父・佐太郎の子分の辻勝と二人で小松村に駆け付けた。竹次郎は観音堂の盆芝居の見物をしていた。二人は後たすき掛けで襲った。竹次郎は観音堂の階段に置いてあったドスを取ろうと駆け上がったところを、仙右衛門に下から槍で突きあげられ、殺害された。

丁度この時、一緒に来ていた竹次郎の女房・お鶴が駆けつけて来た。殺された竹次郎を眺めたあと、「うちの人のドスがその辺にありませんか」と探し回ったという。この女房は遊女あがりで妾奉公しているうちに、竹次郎と駈け落ち、同棲していたという。かなりの男勝り、気の強い女だった。

仙右衛門は次郎長生家近くの波止場のまえの家に住み、大政亡き後は次郎長一家の束ねをした。賭博犯狩りのときは次郎長と一緒に静岡の井宮監獄に入った。出るときも一緒である。仙右衛門は、明治25年8月6日、死亡した。56歳であった。次郎長の死ぬ前年である。

墓は梅蔭寺にもあるが、後に清水の妙慶寺にある宮下家の墓にも合祀されている。宮下家の没年は明治15年となっている。明治25年の間違いだろう。

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写真は静岡市清水区の梅蔭禅寺にある増川仙右衛門の墓である。


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