皆さんは幕末に偽官軍として、信州下諏訪で処刑された「赤報隊」のことをご存じだろうか?その後、昭和になって亡霊のように、朝日新聞襲撃事件において「赤報隊」の名が使用された。この赤報隊に深く関わり、最後は自ら縊死した博徒が水野弥三郎である。
(博徒名)岐阜の弥太郎 (本名)水野弥三郎
(生没年)文化2年(1805年)~慶応4年(1868年) 享年64歳
大垣藩本牢内で縊死により自殺
水野弥三郎は、岐阜矢島町の医師の子に生まれるが、医業を嫌って、一心流鈴木長七郎に入門する。めきめきと剣の腕をあげるが、医家から破門され、博徒となる。その後、武儀郡関小左衛門、安八郡神戸政五郎と並ぶ美濃三人衆と称され、子分配下500余人を抱える大親分となる。
水野家は代々京都西本願寺の典医であった。そのため京都とのつながりが強く、新撰組から分離した反近藤派の高台寺党を率いた伊東甲子太郎と関係があった。その後、甲子太郎が暗殺された後は、赤報隊2番隊長で、甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎と関係を強めていく。
赤報隊とは、慶応3年12月西郷隆盛らの策略による薩摩邸焼き討ち事件を成功させた部隊が京に戻り再結集、倒幕挙兵の同志を募り、京都を脱走した綾小路俊実、滋野井公寿の二卿を奉じ、東征軍の先鋒として編成された草奔の部隊である。
一番隊は相楽総三、二番隊は鈴木三樹三郎、三番隊は江州水口藩士油川錬三郎がそれぞれ隊長を務めた。慶応4年正月に江州松尾山金剛輪寺で結隊、15日江州松尾山を出発、近江を経由、21日に美濃の加納宿に到着した。二番隊には、荒神山の決闘から姿を消した黒駒勝蔵が参加していた。
黒駒勝蔵は、水野弥三郎とは親子ほど年が違うが、昔から水野弥三郎の手下の関係にあった。赤報隊から、弥三郎に300人程の子分を出すよう指示があった。弥三郎はこれに応じ、270人の手下を出した。しかし、加納宿での手下博徒らの乱暴、狼藉行為が大きな問題となる。それ以上に問題となったのは弥三郎が、赤報隊が美濃路街道沿いに勝手に発布した年貢半減令の告知に深く関わったことにある。
新政府は財政逼迫しており、年貢半減は認めらるものでない。さらに恭順一色の幕府の対応に赤報隊の緊急性は不要となり、むしろ邪魔になった。東山道鎮撫総督府は大垣藩に弥三郎捕縛の命令を出す。しかし、弥三郎は手下500人を持つ博徒である。総督府は官軍協力の褒賞授与による呼出の形式をとり、一種のだまし討ちで弥三郎を捕縛した。翌日、事実を知った弥三郎は牢内で縊死して死亡した。
死亡後、加納宿に次のような高札が掲げられた。
「岐阜住人 水野弥三郎」
「右之者、従前より天下之大禁を犯し子分と称し候無頼従者衆し、奸吏と交わりをむすひ、良民を悩まし候件、少なからず、あまつさえ官軍之御威光を仮り、欲しい儘に人命絶って候段、不届き至極に付き、召し寄され御詰問之処、申し訳相立たず、罪あり、入牢仰せつけられ候に付き、追々斬罪之上、梟首仰せつけらるべきところ、死去いたし候につき、其の儀に及ばざること相なりこと、百姓町人共右の次第、篤と相心得べきものなり。」
水野弥三郎の墓は、水野家菩提寺蓮生寺の家墓から追い出されて、岐阜市の共同墓地に眠っている。弥三郎の法名は「釋専志信士」。隣に弥三郎に殉死した子分の生井幸治の墓が並んでいる。子分・生井幸治の戒名は「勇肝鉄心信士」、任侠の生き方が何たるかを後世に伝えている。
歴史の大義に賭けた博徒・弥三郎の思想は幕末維新の中で消滅した。しかし、慶応4年正月尾張藩が急遽編成した「尾張藩草奔隊」に、尾州の博徒北熊実左衛門、三州平井の博徒雲風亀吉に並んで、水野弥三郎の一の子分岐阜の高井辰蔵の名前がある。
振り返って、幕末の草奔隊には清水次郎長の系列は一人も参加していない。反対に次郎長は、時代の風を読む天性の能力で、葵から菊への時代の大激動を難なく乗り切ってみせた。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社
ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
悪者にされた勤皇博徒・黒駒勝蔵という人
会津藩に味方した越後博徒・観音寺久左衛門
三河博徒・雲風の亀吉(博徒史その1)
写真は水野弥三郎の墓(右側)正面は戒名「釋専志信士」側面に水野彌三郎源維光・終年六拾四歳とある。
左側は殉死した子分・生井幸治の墓である。
(博徒名)岐阜の弥太郎 (本名)水野弥三郎
(生没年)文化2年(1805年)~慶応4年(1868年) 享年64歳
大垣藩本牢内で縊死により自殺
水野弥三郎は、岐阜矢島町の医師の子に生まれるが、医業を嫌って、一心流鈴木長七郎に入門する。めきめきと剣の腕をあげるが、医家から破門され、博徒となる。その後、武儀郡関小左衛門、安八郡神戸政五郎と並ぶ美濃三人衆と称され、子分配下500余人を抱える大親分となる。
水野家は代々京都西本願寺の典医であった。そのため京都とのつながりが強く、新撰組から分離した反近藤派の高台寺党を率いた伊東甲子太郎と関係があった。その後、甲子太郎が暗殺された後は、赤報隊2番隊長で、甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎と関係を強めていく。
赤報隊とは、慶応3年12月西郷隆盛らの策略による薩摩邸焼き討ち事件を成功させた部隊が京に戻り再結集、倒幕挙兵の同志を募り、京都を脱走した綾小路俊実、滋野井公寿の二卿を奉じ、東征軍の先鋒として編成された草奔の部隊である。
一番隊は相楽総三、二番隊は鈴木三樹三郎、三番隊は江州水口藩士油川錬三郎がそれぞれ隊長を務めた。慶応4年正月に江州松尾山金剛輪寺で結隊、15日江州松尾山を出発、近江を経由、21日に美濃の加納宿に到着した。二番隊には、荒神山の決闘から姿を消した黒駒勝蔵が参加していた。
黒駒勝蔵は、水野弥三郎とは親子ほど年が違うが、昔から水野弥三郎の手下の関係にあった。赤報隊から、弥三郎に300人程の子分を出すよう指示があった。弥三郎はこれに応じ、270人の手下を出した。しかし、加納宿での手下博徒らの乱暴、狼藉行為が大きな問題となる。それ以上に問題となったのは弥三郎が、赤報隊が美濃路街道沿いに勝手に発布した年貢半減令の告知に深く関わったことにある。
新政府は財政逼迫しており、年貢半減は認めらるものでない。さらに恭順一色の幕府の対応に赤報隊の緊急性は不要となり、むしろ邪魔になった。東山道鎮撫総督府は大垣藩に弥三郎捕縛の命令を出す。しかし、弥三郎は手下500人を持つ博徒である。総督府は官軍協力の褒賞授与による呼出の形式をとり、一種のだまし討ちで弥三郎を捕縛した。翌日、事実を知った弥三郎は牢内で縊死して死亡した。
死亡後、加納宿に次のような高札が掲げられた。
「岐阜住人 水野弥三郎」
「右之者、従前より天下之大禁を犯し子分と称し候無頼従者衆し、奸吏と交わりをむすひ、良民を悩まし候件、少なからず、あまつさえ官軍之御威光を仮り、欲しい儘に人命絶って候段、不届き至極に付き、召し寄され御詰問之処、申し訳相立たず、罪あり、入牢仰せつけられ候に付き、追々斬罪之上、梟首仰せつけらるべきところ、死去いたし候につき、其の儀に及ばざること相なりこと、百姓町人共右の次第、篤と相心得べきものなり。」
水野弥三郎の墓は、水野家菩提寺蓮生寺の家墓から追い出されて、岐阜市の共同墓地に眠っている。弥三郎の法名は「釋専志信士」。隣に弥三郎に殉死した子分の生井幸治の墓が並んでいる。子分・生井幸治の戒名は「勇肝鉄心信士」、任侠の生き方が何たるかを後世に伝えている。
歴史の大義に賭けた博徒・弥三郎の思想は幕末維新の中で消滅した。しかし、慶応4年正月尾張藩が急遽編成した「尾張藩草奔隊」に、尾州の博徒北熊実左衛門、三州平井の博徒雲風亀吉に並んで、水野弥三郎の一の子分岐阜の高井辰蔵の名前がある。
振り返って、幕末の草奔隊には清水次郎長の系列は一人も参加していない。反対に次郎長は、時代の風を読む天性の能力で、葵から菊への時代の大激動を難なく乗り切ってみせた。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社
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会津藩に味方した越後博徒・観音寺久左衛門
三河博徒・雲風の亀吉(博徒史その1)
写真は水野弥三郎の墓(右側)正面は戒名「釋専志信士」側面に水野彌三郎源維光・終年六拾四歳とある。
左側は殉死した子分・生井幸治の墓である。
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