兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

函館の博徒・柳川熊吉

2022年01月02日 | 歴史
幕末、北海道の函館に柳川熊吉という博徒がいた。年齢は、清水次郎長より5歳年下である。熊吉は、榎本武揚旧幕軍と薩長官軍との五稜郭における函館戦争で放置された旧幕軍兵士の遺体を勝手に埋葬した罪で死罪の刑を受けた。

(博徒名)柳川 熊吉
(生没年)文政8年(1825年)~大正2年(1913年)
     函館で死去。 享年89歳

柳川熊吉は、文政8年、江戸浅草で柳川鍋料理店を営む野村鉄次郎の長男として生まれた。若いころ、当時浅草で売り出し中の新門辰五郎の配下となり、博徒稼業に入ったという。

31歳で人夫請負業をしていた時、函館奉行・堀織部正に命じられた五稜郭築城に伴う人夫集めのため、自ら人員を率いて安政3年に江戸から函館へ移った。その後、函館で料理店を営業しながら、子分600人を抱える博徒の親分になった。

明治2年(1869年)函館戦争が勃発した。敗北した賊軍・旧幕軍兵士の遺体は函館市内に放置されていた。官軍は遺体に触れれば、旧幕脱走軍に内通する者として厳重に処罰した。

この惨状を見かねて、柳川熊吉は実行寺住職・松尾日隆、大工棟梁・大岡助右衛門と相談して、子分とともに一夜のうちに放棄された遺体を収容した。そして市内4つの寺に埋葬した。その数は、浄玄寺107名、実行寺94名、願乗寺54名、称名寺3名、合計258名と言われている。

戦争終了後、旧幕軍の遺体処理の探索が行われ、熊吉は捕縛され、軍法会議で死罪が宣告された。熊吉は、取り調べに際し、子分とは盃を返し親分子分の関係を断ち、すべて一人で埋葬したと主張した。

断首刑実行の寸前に、薩摩出身の軍監・田島圭蔵が介入し、「熊吉の行動は人倫にかなう。こういう男をむやみに殺してはならぬ」の助言により、熊吉はかろうじて罪一等を減じられた。

後年、旧幕軍戦死者796名が、函館八幡宮の東、函館山中腹に合祀され、明治8年(1875年)7回忌に墓碑「碧血碑」が建てられた。碧血とは「義に殉じた武人の血は、3年経てば地中で碧玉となる。」と言う中国の言い伝えによる。

碑の裏側に「明治辰巳(1869年)に実にこのことあり、石を山上に立てて、以ってその志を表す。」と漢文で記載されている。具体的内容が記載されていないのは賊軍の影響があったためであろう。

熊吉は、碧血碑建立に尽力し、晩年は碧血碑の整備・管理しながら近くに居住し、大正2年、88歳で死去した。熊吉は死に際、家族に「今、何時だ?そうか、潮の引き時だな。人てぇいうものは潮の引くときに死ぬもんだ。じゃ、これで行くよ、あばよ」と言って死んだという。

柳川家代々の墓は実行寺にある。柳川熊吉の戒名は「典松院性真日樹居士」である。

碧血碑のある函館山ふもとの西側斜面、海を眺める高台に外人墓地がある。外人墓地の中に60年安保全学連委員長・唐牛健太郎の墓がある。墓は低い板型の墓地のため目立たない。彼は1984年3月、46歳で死去した。新選組土方歳三が函館戦争で戦死したのが34歳の若さ。近くには石川啄木の墓もある。啄木は26歳の若さだった。

下記に参考記事があります。よろしければ、閲覧ください。
賊軍幕府軍兵を埋葬した博徒たち

下の写真は函館八幡宮にある「碧血碑」 題字は五稜郭で榎本武揚とともに戦った陸軍奉行大鳥圭介の字と言われている。


下の写真は碧血碑の隣にある柳川熊吉の碑


下の写真は柳川熊吉の墓



下の写真は函館八幡宮近くにある石川啄木一族の墓


下の写真は函館山西斜面の外人墓地内の唐牛健太郎の墓


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