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シア式ドロップス

方向性の無い超マイペースブログ。 缶ドロップみたいに色々なフレーバーをお楽しみくださいませ。

覚え書き

2011-04-06 22:47:19 | 2011.3.11 M9.0
地震(東日本大震災)が起きた2011年3月11日から、
24日までメモしていた覚え書きより。


2011.3.11 (fri)
PM 2:46 屋外 強い揺れ 樹木の支えでやっと立てる程

直後に帰路へ 強い余震(?)が度々あり
電気が通っており、信号などに支障無し
目に見えた混乱も無し

PM 3:10頃 帰宅
自宅外観 瓦、壁に少しのひび等の破損

内観 天井の板、一部落ち
壁のヒビ 数カ所にあり

鉢植えの倒れあり 家具の倒れは無し
食器類の割れ無し 土鈴数点は割れ
茶の間の方(築30年程)の方が 少々難ありに思える
余震が多く なかなか家の中におちつけず

※自室のベッドとパソコン周りが凄かったのだが、
奇跡的にも本棚(カラーボックス)の漫画本は一冊も乱れていなかった。

PM 4:30頃 父帰宅
PM 6:00前に母帰宅 小高の某工場を直後に脱出 津波を目撃
母帰宅後に家の中におちつく

ライフライン 電気○ ガスはプロパンなので○
水道は× 地下水が出るので、それでしのぐ

万が一のために車はガレージの外へ 石油ストーブの使用を止める

買い置きのカップ麺で夕食 茶の間で3人揃って寝る

安否確認 栃木の姉一家○ 宮城の弟×


2011.3.12 (sat)
余震は続く
揺れに波があり 一度揺れれば、数回揺れ
それからしばらくは間があり 再び揺れれば…というふうな

朝刊届く
昨日母に送ったメールが、今朝になってから届いた
携帯 圏外多し
電話 たまにかかってくる

地域の呼びかけで避難所への炊き出しに米一升炊く
※弱小米農家だけれど、米には困らなかった。

ラジオ ラジオ福島(801 KHz)○
ふくしまFM(78.6 MHz)×

ライフライン 水道×

荒れた自室の片付け
万が一のための準備

風呂に入る
※地下水が出るのと、自宅が薪風呂なんですよ。灯油もつかえるけれど。
数年前に内風呂にする際、頑固にも薪風呂にこだわった親父に感謝。

東京電力 福島第一原子力発電所 一号機 水素爆発
夜頃に 第一原発 20km圏
第二原発 10km圏 避難指示

自宅 圏外 免れる
25km圏だとヤバイ

弟 安否不明

25日目のリアル

2011-04-04 22:20:27 | 2011.3.11 M9.0
(↑南相馬市鹿島区小池)

20km圏が避難指示が出た3月12日以降、原町区の店という店は閉まった。
屋内退避指示(3/14)が出た途端に、閑散としつつも禍々しい空気が漂っていた。

3月15日~17日までの3日間は本当に異様だった。


で、本日、地震以来の町内探索をしました。
(宮城県美里町に住む親戚が、ガソリンを持ってきてくれました。
ラパンには2/3ほど入っていたけれど、ありがたく給油しました)
物資は乏しくとも、
区内にあるセブンイレブンの半分ほどは、営業時間に制限があっても開いていた。
ローソンも開いていた。
小さな商店もそれなりに開いていた。
でも、スーパーやドラッグストア、ホームセンターなどは一切開いてはいない。
病院も殆どが閉まっているので、救急車は相馬市方面に向かって走ってゆく…。

被害の無かった小さな工場も動いており、
外の人たちから見ると、なんだかわからない危険な場所なのに、
少しずつ日常が戻ってきている、この異様さ。
原町区は静かに回り始めているのだ。

でも、物資は乏しい。
もともと閑散としていた所だけど、
出歩いている人は一層少なく、自衛隊や警察が回っているので殺伐としている。
けど、戻ってくる人は少なくはないと思うのだが。
(残っていた人も半分近かったからな)


(↑原町区北原)
走っているのを撮ったのではなく、
原ノ町駅から上り方面1Kmあるかないかの場所で止まっている。
(斜めになっているけれど、もともとこの場所は斜めになるとこ)

原ノ町駅は外観の改装したばっかりだったけれど、
一目見た限りでは壊れてはいなかったな。
ホームには651系、E721系E415系(だと思うのだが)が停車していた。


津波の現場にも向かった。
本当にこの町に津波が襲ったのを確かめたかった。
(こういったのはデリケートなものですが、画像を載せます)


(↑原町区泉)

目があるなら、そらさずに見よ。
耳があるなら、ふさがずに聴け。
頭があるなら、その意味を考えよ。
心があるなら、事実と気持を受けとめよ。

…本当に、本当に起こっていたんだな…。
栃木に向かう時に泣いたけれど、それは人災で泣いたわけで、
この変わり果てた場所を見、(地震が起きて)25日目にして地震で泣いた。


(↑原町区泉)
アスファルトが削り流されていた。


(↑鹿島区北海老・30km圏外)
東北電力原町火力発電所。
何だかわからないでっかいのが傾いている。


(↑鹿島区小島田)
国道6号線に横付けしている漁船。


(↑鹿島区小島田)
海岸線から3km地点に漁船がかなり流されているんですよ…。
(6号線を横切った船もある)
車から降りてみたら、漁船から流失したのだろうか?重油臭かった。
ここらは本当は水田が広がっていた場所なのに…。


海岸線の区域に住む、連絡先が分かる知り合いの無事は判明したのだけれど、
連絡先を知らない相馬市に住む元同僚が、行方不明だと知る…。
今日付の新聞の一覧を見て、一瞬、心臓が止まった。

もう少しで震災が起きて1ヶ月になるが、
今日、やっと私は震災の現実を知った…。

こんな私を外の人はどう思うのだろうか

2011-04-03 23:38:39 | 2011.3.11 M9.0
2日に原町に一時帰宅しました。
5日には再び姉のところへ行くつもりです。

この2週間ほど、今後の身の振り方を考えていたりしまして、
暫くは栃木でバイトしながら、新しいスキルを身につけようと思っています。

原発事故にある程度の見通しがつけば良いのですが、
一進一退の現状では、この先の己の見通しもつかないので。
(それでも、現場で働いている方々には大変感謝しています。
逆に腹立つのは東京電力の幹部連中)
収入が無いと、生活が出来ないですからね。

必ず来るであろう、浜通りの再興の時に役立つようなことを身につけたいです。


半月ぶりに戻った原町は、離れた時と違った意味で異様な感じです。
生活感が無いようで有ったり。
有るようで無い。
少し見て回っただけでも、それでも不思議な感じです。


トップ画像は3日付の福島民報の見出し。
配達は3月14日以来、来ていないので、開いているコンビニで購入。
姉んとこは全国紙(読○)だったので、
福島情報満載のローカル紙は、この事態の中で本当にありがたい存在だ。

近況報告

2011-03-19 13:58:34 | 2011.3.11 M9.0
2011.3.11 14:46
東北・関東大震災(東日本大地震)
私の住む福島県南相馬市にも今まで感じたこともない激震が襲った。

海岸線の集落は津波に飲まれたが、
山側にある私の家は、瓦などが少し崩れた程度ですんだ。

直ぐにも復興を!と思っていたところに、
追い討ちをかけるような、原発トラブルの連続。

南相馬原町区の大半は、避難指示は逃れたものの、
屋内退避指示となり、身動きがとれなくなり、
原発が持つ見えない恐怖のおかげで、南相馬は見棄てられた地域と化す…。

家の窓から外を見ても、道路を走るのは乗用車ばかりで、物資を運んでいそうな車を見ることは無かった。
先が見えない不安と恐怖にやむを得ず、17日の夕方に両親と一緒に(一時的に。…と思いたい)原町を離れ、
栃木の姉の所に身を寄せました。


地震は天災だから仕方ないと解りつつも、
平穏な日常が一瞬に失ってしまう、理不尽さ。

屋内退避によって、
瓦礫の中に残っている人を助けられない、
憤りと悔しさ。

見棄てられたことによる、
とてつもない絶望。

原発トラブルによって、
家族と家がほぼ無事にもかかわらず、
先祖が江戸時代から住んでいた、そして私が生まれ育った土地から、
何故に離れなければならないのか?!

言葉では伝えられない様々な感情が、
私の(だけではなく、多くの人達にも)中を渦をまいている。


原発から離れたことで、何もかもに逃れたことにはならない。

南相馬に残された、そして自主的に残った人達を思うと、
本当に離れて良かったのだろうかと、
今は罪悪感に苛まれている。

自分のこれからを考えるのも怖いが、
今はただ、原発で働く作業員、自衛隊、警察、消防…さまざまな人達の無事と、
事態が良くなる事を祈るのみです。

私が住む場所は、
福島県南相馬原町しかないのだから…。