しぇとの夫です。
多くのお友達、仲間にささえていただいたこと、感謝しています。
9/21 しぇとは家族に見守られ旅立ちました。もう3か月もたってしまいました。
8月は楽しみにしていたオリンピックも少し見ることができましたが、
(特に男子バレー、体操の冨田君がお気に入りでした)
9月に入り、腸閉塞のため食事がとれなくなり、急に容態がわるくなりました。
ずっとよくなるために、前向きに闘っていました。泣き言は一切言わず、芯の強い人でした。麻薬パッチをずっと貼って痛みをコントロールしていましたので、苦しみはかなり抑えることができたと思います。
病室ではいつもどおりの優しい笑顔で家族をみつめていました。
6月に今年6回目の入院をしてからはずっと個室でした。病院には無理を言って、特別に
部屋に泊まっていました。最後の3か月はずっと一緒でした。消灯になり、寝てもいいし、話してもいいし、二人でまどろんでいる時間が一番好き。と言ってくれました。何年分もの価値ある時間でした。男はいざとなるとダメなもの。支えられているのは私のほうでした。
みんなが仲良く楽しくできるといいのに。皆が受けたい治療が受けられるといいのに。と言っていました。保険外の治療や、緩和ケアについて、いろいろな壁にあたり、しぇとには心配をかけてしまっていたので。
気にしていた髪もかなり伸び、抗がん剤で抜けてしまった時、ロングに戻るまでは絶対に生きるんだから。と言っていたことも達成できたと思います。
元気でかわいらしかった明るい自分を覚えていてほしいと、友達には病気のことは極力言わないでいました。また会うことは望んでいませんでした。しぇとの持っていた美意識を尊重していました。
亡くなる数日前、ありがとう。もうだめだから・・。と言いました。私はそんなことはない。と思いましたが、しぇとはわかっていたんですね。
死ぬことは怖くないとも言っていました。また会えるからと。私もそう思います。
しぇとの思いは皆に伝わるはずです。知り合えた方々にありがとうと言いたかったと思います。私もしぇとを支えて、応援してくださった方々にほんとうに感謝しています。
あれから3か月、しぇとは天国で持ち前の人懐っこさでお友達を作って仲良くしているはずです。病気と向かい合っている人のことを思いながら。
みなさま、こんにちは。しぇとの姉のうさこです。
しぇとの体調はよくなったり悪くなったりを繰り返していましたが、絶対にまたブログを更新できると信じて予告を出させて頂いていました。
再びしぇとの言葉をみなさんにお伝えできなくて、ごめんなさい。
旅立ちの前の週明けから、しぇとは最後の時が近付いているのがわかっているようで、みんなに別れの言葉を繰り返していたので、最後の数日間は、しぇとに小さい頃から可愛がってもらっていた私の息子と娘もずっと病室に一緒にいました。
しぇとは、病院のベットに横になりながら、その魂は旅をして、自分の人生を振り返っていたようですよ。
高校生の頃の自分や、小さい頃の私の息子や娘にも会ってきたそうです。
自分の人生は、周りがいい人ばかりでものすごく幸せだったと・・・そして、「さようならじゃなくて、いつかまたどこかで会おうね。だから、悲しくないんだよ。」とも繰り返していました。
最後の夜(最後になるとは、その時は思いませんでしたが)、私は病院に泊まる予定はしていなかったのですが、夕方から、しぇとがかなり吐き始めて、とても帰れる状況ではなかったので、私と息子と娘は病室に泊まることに決めました。
泊まることを決めたとたんに、あれだけ激しかった嘔吐がぴたりと止まり、今思えば、しぇとは最後の夜、私たちに一緒にいて欲しかった・・・そして大切な旦那さまを一人いさせることも忍びなかったのでしょうね。思いやりのあったあの子らしいなと思います。
葬儀の後、私は一度も泣いていません。
まだ、現実を受け入れられずに、しぇとは長い旅行に行っているのだと無理やり思おうとしている自分がいます。
でも、二人で注目していたドラマ(篤姫、流星の絆、チームバチスタ)を見たとき、フィギアスケートを見たときなど無性にしぇとにメールしたくなり、また自分の携帯から「薄荷キャンディー」の着メロ(しぇとの着メロ)が流れることはもうないんだと思うと、しみじみと淋しさが胸に広がってきます。
予定外に早く別れてしまったけれど、しぇとと姉妹の縁があって楽しかったな~と思っています。
これまで、しぇとのブログを読んで応援して下さったみなさま、本当にありがとうございました。
心優しいみなさまに、これからたくさんの幸せがやってくるように心から願っています。
はじめまして、うさこの娘です(しぇとの姪にあたります)
私はしぇとには小さい頃から、一緒にお留守番をしてもらったり、ふたりで買い物にでかけたり本当にかわいがってもらいました。
私としぇとは、しぇとの両親(私の祖父母)やうさこもたびたび名前を呼び間違えるほど似ているらしく、とても仲良しでした。名前はしぇとが旅立った今でもたまに呼び間違えられます
病気をしてからは、自分がつらがっている姿は見せたくないと、私や兄には体調の良い日にしか会ってくれませんでした。
でも、しぇとの影響で私も大好きになったペネロペというキャラクターのぬいぐるみ(私が2年前のしぇとの誕生日にプレゼントしました)を毎日とてもかわいがってくれていたそうです。今そのぬいぐるみは私がしぇとがしていたようにかわいがっています
また、私は茶道をやっているので、しぇとが結婚するときに買った着物をお茶会で着て、去年の秋にしぇとにその姿を見せられたことが本当によかったなと思っています
1月の成人式でもしぇとの振袖をきます
私はしぇとが旅立つ2日前、しぇとと「このまましぇとみたいな女の人になるから、ずっと見てて」と約束しました。しぇとは「うん、今のままいーっぱいかわいいもの集めようね」と言ってくれました。
だから今でも、2人で集めていたリサとガスパールやペネロペを見るとついつい心のなかでしぇとに話しかけてしまいます。
しぇとは、自分の人生には悪い人がいなさすぎた、と最後に言っていましたが、私はしぇとが旅立ってからお葬式でしぇとのお友達に会い、初めてこのブログを読み、その言葉の意味を理解しました。
みなさま、しぇとを大切に思って下さってほんとうにありがとうございました。
しぇとはみなさまからたくさんの幸せをいただいたと思います
よいお年をお迎えください。
多くのお友達、仲間にささえていただいたこと、感謝しています。
9/21 しぇとは家族に見守られ旅立ちました。もう3か月もたってしまいました。
8月は楽しみにしていたオリンピックも少し見ることができましたが、
(特に男子バレー、体操の冨田君がお気に入りでした)
9月に入り、腸閉塞のため食事がとれなくなり、急に容態がわるくなりました。
ずっとよくなるために、前向きに闘っていました。泣き言は一切言わず、芯の強い人でした。麻薬パッチをずっと貼って痛みをコントロールしていましたので、苦しみはかなり抑えることができたと思います。
病室ではいつもどおりの優しい笑顔で家族をみつめていました。
6月に今年6回目の入院をしてからはずっと個室でした。病院には無理を言って、特別に
部屋に泊まっていました。最後の3か月はずっと一緒でした。消灯になり、寝てもいいし、話してもいいし、二人でまどろんでいる時間が一番好き。と言ってくれました。何年分もの価値ある時間でした。男はいざとなるとダメなもの。支えられているのは私のほうでした。
みんなが仲良く楽しくできるといいのに。皆が受けたい治療が受けられるといいのに。と言っていました。保険外の治療や、緩和ケアについて、いろいろな壁にあたり、しぇとには心配をかけてしまっていたので。
気にしていた髪もかなり伸び、抗がん剤で抜けてしまった時、ロングに戻るまでは絶対に生きるんだから。と言っていたことも達成できたと思います。
元気でかわいらしかった明るい自分を覚えていてほしいと、友達には病気のことは極力言わないでいました。また会うことは望んでいませんでした。しぇとの持っていた美意識を尊重していました。
亡くなる数日前、ありがとう。もうだめだから・・。と言いました。私はそんなことはない。と思いましたが、しぇとはわかっていたんですね。
死ぬことは怖くないとも言っていました。また会えるからと。私もそう思います。
しぇとの思いは皆に伝わるはずです。知り合えた方々にありがとうと言いたかったと思います。私もしぇとを支えて、応援してくださった方々にほんとうに感謝しています。
あれから3か月、しぇとは天国で持ち前の人懐っこさでお友達を作って仲良くしているはずです。病気と向かい合っている人のことを思いながら。
みなさま、こんにちは。しぇとの姉のうさこです。
しぇとの体調はよくなったり悪くなったりを繰り返していましたが、絶対にまたブログを更新できると信じて予告を出させて頂いていました。
再びしぇとの言葉をみなさんにお伝えできなくて、ごめんなさい。
旅立ちの前の週明けから、しぇとは最後の時が近付いているのがわかっているようで、みんなに別れの言葉を繰り返していたので、最後の数日間は、しぇとに小さい頃から可愛がってもらっていた私の息子と娘もずっと病室に一緒にいました。
しぇとは、病院のベットに横になりながら、その魂は旅をして、自分の人生を振り返っていたようですよ。
高校生の頃の自分や、小さい頃の私の息子や娘にも会ってきたそうです。
自分の人生は、周りがいい人ばかりでものすごく幸せだったと・・・そして、「さようならじゃなくて、いつかまたどこかで会おうね。だから、悲しくないんだよ。」とも繰り返していました。
最後の夜(最後になるとは、その時は思いませんでしたが)、私は病院に泊まる予定はしていなかったのですが、夕方から、しぇとがかなり吐き始めて、とても帰れる状況ではなかったので、私と息子と娘は病室に泊まることに決めました。
泊まることを決めたとたんに、あれだけ激しかった嘔吐がぴたりと止まり、今思えば、しぇとは最後の夜、私たちに一緒にいて欲しかった・・・そして大切な旦那さまを一人いさせることも忍びなかったのでしょうね。思いやりのあったあの子らしいなと思います。
葬儀の後、私は一度も泣いていません。
まだ、現実を受け入れられずに、しぇとは長い旅行に行っているのだと無理やり思おうとしている自分がいます。
でも、二人で注目していたドラマ(篤姫、流星の絆、チームバチスタ)を見たとき、フィギアスケートを見たときなど無性にしぇとにメールしたくなり、また自分の携帯から「薄荷キャンディー」の着メロ(しぇとの着メロ)が流れることはもうないんだと思うと、しみじみと淋しさが胸に広がってきます。
予定外に早く別れてしまったけれど、しぇとと姉妹の縁があって楽しかったな~と思っています。
これまで、しぇとのブログを読んで応援して下さったみなさま、本当にありがとうございました。
心優しいみなさまに、これからたくさんの幸せがやってくるように心から願っています。
はじめまして、うさこの娘です(しぇとの姪にあたります)
私はしぇとには小さい頃から、一緒にお留守番をしてもらったり、ふたりで買い物にでかけたり本当にかわいがってもらいました。
私としぇとは、しぇとの両親(私の祖父母)やうさこもたびたび名前を呼び間違えるほど似ているらしく、とても仲良しでした。名前はしぇとが旅立った今でもたまに呼び間違えられます
病気をしてからは、自分がつらがっている姿は見せたくないと、私や兄には体調の良い日にしか会ってくれませんでした。
でも、しぇとの影響で私も大好きになったペネロペというキャラクターのぬいぐるみ(私が2年前のしぇとの誕生日にプレゼントしました)を毎日とてもかわいがってくれていたそうです。今そのぬいぐるみは私がしぇとがしていたようにかわいがっています
また、私は茶道をやっているので、しぇとが結婚するときに買った着物をお茶会で着て、去年の秋にしぇとにその姿を見せられたことが本当によかったなと思っています
1月の成人式でもしぇとの振袖をきます
私はしぇとが旅立つ2日前、しぇとと「このまましぇとみたいな女の人になるから、ずっと見てて」と約束しました。しぇとは「うん、今のままいーっぱいかわいいもの集めようね」と言ってくれました。
だから今でも、2人で集めていたリサとガスパールやペネロペを見るとついつい心のなかでしぇとに話しかけてしまいます。
しぇとは、自分の人生には悪い人がいなさすぎた、と最後に言っていましたが、私はしぇとが旅立ってからお葬式でしぇとのお友達に会い、初めてこのブログを読み、その言葉の意味を理解しました。
みなさま、しぇとを大切に思って下さってほんとうにありがとうございました。
しぇとはみなさまからたくさんの幸せをいただいたと思います
よいお年をお迎えください。