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新月のサソリ

空想・幻想・詩・たまにリアル。
孤独に沈みたい。光に癒やされたい。
ふと浮かぶ思い。そんな色々。
(主・ひつじ)

粉雪

2025-01-10 00:45:00 | Short Short

まだドアの取っ手に手をかけて、そっと握っただけなのだけれど。

少しずつノブを回して、ガチャっと音がしたら、少しだけそのドアを押してみよう。少しだけ。
そして、その隙間から覗いた景色が心地よければ、またもう少しだけ押してみよう。
時間をかけて、ゆっくりでいい。


目の端に異変を捉えた。
顔を向けると晴れたブラインドのまにまに、ちらつくものが見えた。
雪だ。
窓のそばへ行き、ブラインドを開く。
晴れた光の中を粉雪が散り乱れる。
綺麗だ。
深く息を吸い、目を見開く。
向かいの高架線路を列車が行くと、光が陰った。
過ぎた車両は、粉雪も一緒に連れて行ってしまった。

清々しく、とても寒い。


少しずつ、時間をかけて、ゆっくりでいい。
違ったら、気づかれないようそっとまたドアを閉める。それだけのこと。
そのときは、光に散ったあの粉雪を探しに出かけよう。
春は、まだ先だ。




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シーツ

2024-12-27 11:05:00 | Short Short


竿に干した洗い立てのシーツが、朝の清々しい光を運ぶ風に大きくなびいた。
がらんと広い庭に、シーツだけが白く眩い。
広い庭___。

本当はただの坪庭。いつもはその狭さにも嬉々として、雑草や植え物の手入れに戸惑うくらい雑然としていて、それでも生命の奥行きがその箱庭を生かしていた。
それが今はただただ広く感じるだけで、もはや生命の気配など風と共にシーツを撫で、手の届かぬ場所へ行ってしまう。
在る、と思っていたものは、迷い込んだひと時の戯れだったのか。自分の見えているこの世界は、『本当』なのだろうか。

あの日と同じだ。

広い廊下に夕暮れの光が差し込み、ひとり荷物を運ぶ後ろ姿に、殊更ガランとひと気のない空間が強調されて、つるつると滑るくらいに手入れのされた廊下に反射した光がとてもまぶしくてきれいなのに、独り行くその後ろ姿の健気な強さに胸を打たれ、どうしようもなく淋しい気持ちが込み上げた。

はた、とまたシーツがなびく。
込み上げるものはあの日と変わらない。『本当』のこともわからない。
シーツの冷たさが庭を渉る。それだけが今の本当。

今夜、この洗い立てのシーツで眠る。それが明日への力。
ささやかでいい。これから私はあの背中が刻んだものを、またはじめから創り直す。
過ぎてゆく風に思いを乗せ、透き通る陽に手をかざすと、塀の向こうで南天の実がちらりと赤く揺れた気がした。




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夜を混ぜる

2024-12-22 00:10:00 | Short Short

こんな夜はエキノプシスを散りばめよう。
浮かんだ月にはドレッシングを降りかける。
雲の合間をクジラが泳ぐ。
ぼくがつくる秘密の夜の、秘密のレシピ。

月がよじってミルクを一滴、クジラの尻尾が滴を跳ねる。空に散らした花にバニラが染みる。
煌めきは甘く、夜に降る、白く降る。
クジラの腹が月を横切る。ドレッシングが色を変え、夜を黒く垂れていく。

小さな世界で小さな明かりで夜の道行く小さな影たち。街の明かりが夜を消す。クジラを消す。ぼくも消す。夜空を見上げた誰ひとり、ぼくの夜だと気づかない。

さあ、そろそろ夜をかき混ぜようか。
ぼくは大きなスプーンで夜をすくう。
人もクジラも同じ海へ、山も街もマーブルの中へ。匙からこぼれる全ての夜が、渦巻く彼方に呑み込まれる。恐れも怒りも散り散りに、痛みも涙も砕けて消えろ。
ぼくは力いっぱい世界を混ぜる。

靴下をくわえた猫が夜を覗いてにゃあと笑った。ひらひらと落ちてゆく靴下には猫のひげ一本。これが今夜の隠し味。
そろそろと北風が世界を整え東風を待つ。

とても冷たい冬の夜、ぼくはこっそり夜を混ぜる。
目を凝らして見ていてごらん。きっと猫が笑うから。




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揺れる

2024-12-16 03:50:00 | Short Short

激しい雨の音で目が覚めた。
午前5時。布団に入ってまだ三時間ほどだ。出来れば眠っておきたかったが、目が冴えてしまったので起き上がる。
キッチンで水を飲み、部屋を横切って窓のブラインドを人差し指と親指で少し広げ、外を見る。
まだ暗い。
中型トラックほどの作業車らしき車が道路の向こう側に停まり、仕込みの作業音をかなりの音量で響かせている。何ヶ月か前から度々来るようになったこの作業車に、まだ暗いうちから起こされることがしばしばあった。

この音だったか、と視線をちょっと上げると電線に雫がぶら下がっているのが見える。耳を澄ませば、雨の音が微かにある。

今日の日の出は6時56分。今はまだ朝になれない夜の端っこ。
12月も中旬、夜明けを待つ街と夜を惜しむ空。今の自分の象徴っぽくて、なんだか笑える。

電車は始発を皮切りに、前の高架線路を遠慮なく何台も通り抜ける。人の世は地球の軌道などお構いなく、人工時計が刻む時刻に従って朝を決める。
列車の種類か速度の違いか。過ぎる車両はそれぞれの音量と音質で、せめてもの個性を主張しているかに聞こえた。そんなことをしたところで、いつかみんな、朽ちてゆくだけなのに。
瞼の裏に残るあの日の古木。

ひと気のない山の中腹に分け入り、思いがけず開けた視界の先に見えた立ち枯れの古木。あの道なき山の斜面を俺がどんな思いで彷徨っていたのかなんて誰も知らない。あれからもう二年が過ぎた。あの古木を見たとき、心がしんと立ち止まった。

雨粒の音がさっきよりも立体的に屋根や道路を打つ。風がやんだのだろう。
雨雲に覆われたままの日の出は暗く、夜の名残りがはかなく漂う。
ベランダの室外機が唸る。
俺はあの木のように、最後のその瞬間まで立っていられるだろうか。
もう一度ベッドに戻り、目を閉じる。
あの場所で朽ちた彼が最後に見たものは何だったのだろう。
枯れた老木に種が舞い落ちいつか芽を吹き、また森の一部に戻れただろうか。

作業車の音がやみ、車は飛沫音をまとい遠ざかって行った。
粒だった雨音だけが残される。

昨日と今日の重なりに、冬の雨を聴く。




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砂を掴む

2024-12-05 21:45:00 | Short Short

薄れてゆく、薄れてゆく____。

時が経つほどに、それは積み重なり育まれるはずのモノなのに、どうしようもなく、指の間をとめどなくすり抜ける砂は容赦なくこぼれ落ち、ぼく自身になにも残さない。

日入りの時刻ちょうどに、鳥たちが一斉に合図を交わし枝々から飛び立つ。一瞬で小さな塊になって暮れ行く空に消えた。刻々と闇にまぎれてゆく空。

動けずにそのままぼんやりとしていた。ぼんやりと、さっき見た夢の断片を夕闇の空に垣間見ていた。ずっとそのまま、じっとぼんやりしていたら、ふと、懐かしい匂いに振り返る。誰かに呼ばれたような、そうだったらいいのにと、視線の先を探す。
それとも懼れる影の近づく気配か。ぼくの矢印は光を失くし呑み込まれる。

ぼくの秘密は彼らのもの。ぼくはもうその手の中で踊るだけ。道化のように踊るだけ。そうして、踊っていることすらぼくの中には残らない。
重たい風が光をさらい、ただただ薄れゆく。そう、薄れてゆくだけ。

だけど、だから、ぼくは何度でも砂を掴むんだ。
きみが、迷わないように。



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懐中時計

2024-11-07 11:07:00 | Short Short

懐中時計の表面を指でなぞり胸ポケットにしまう。彼はその指で帽子のツバを深く下げて顔を伏せた。
悔しい時、いつもそうする。ツバで隠した唇はぎゅっと固く結ばれているんだろう。
だから私もいつものように彼に背を向け歩き出した。目の端で彼がとぼとぼと ついて来るのを確かめて声をかける。


思いがけず押し寄せるあの頃の思い。
戸棚の奥に仕舞いこんでいた古い箱を開けると、あの懐中時計が目に飛び込んできて、私は潮風に吹かれた。
人はなんてたくさんの瞬間を、無造作に置き去りにしていくのだろう。

あの時、自分がなんと言ったのか、もう忘れてしまった。
でも私たちはあの後、並んで歩いた。
港を遠目に橋の上から行き交う船の灯りと色走る水面の揺らぎを交互に見ながら、ふたりで一緒に彼の悔しさを月白のしじまに流していった。
それからまた歩いて歩いて、駅近く踏切がカンカン鳴りだすと、私たちは顔を見合わせ走り出しくぐり抜けた後ろを列車が突風みたいに過ぎて行く風圧に、なんだか可笑しくなって笑っていた。

ひそやかに時を蓄えた懐中時計が映す可惜夜の風の匂いがいくつもそこに、ただそこにある。


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ふたつめ

2024-11-04 11:00:00 | Short Short

大きな翼の影が地上を走る。

薄暮れの中、石の灯篭が続く道にぼくは居た。
そこは真新しいふたつめのステージ。ひとつめの奥に潜んでいた真実が現れたふたつめの世界。これまでやりくりしてきた全ては崩れ去った。

石畳の回廊を守り人たちが、まるでふたつめの歩き方を示すように、道の両側に並んだ灯篭に順番に明かりを灯し始め、照らされた道の先へとぼくを誘う。

やり方なんてわからない。始まったばかりのこの道を、どうやって進めばいいのか、未だ混乱の中にいる。
水晶の夜にぼくの過去は知らないものになった。見えていたものは外側の張りぼてに過ぎず、けれど透き通った灯の道を、一歩、また一歩、足を前に踏み出し、ただただ歩いて行く。石畳に揺れているのが光なのか影なのか、陰陽の思惑も異質な揺らぎを放つこの道を。

翼の影が辿り着く場所は、ぼくの行く道と同じだっただろうか。
響く靴音に、語りかけるのは、誰。



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青い夜

2024-11-01 14:41:00 | Short Short

青い夜だった。
いつもよりも滲んだように青が広がる夜で、だから、いつもよりも月が黄色く見えていた。
星はなくて、そういう煌めいたものは滲んだ青の中に溶け込んでいて、だから、滲んだ黄色もいつもより輝いて見えたんだ。

今夜の空は閉じている。向こうへと続く道が閉じられている。
そのことが、何故かやけに僕には心地よくて、窓から背伸びをするように体を乗り出しても、今夜は怖くない。

湖も、その向こうの山も、みんな青く滲んできれいだった。
ぼんやりと輪郭のない僕と、夜の青が混ざって、僕も夜の一部になった。湖面の移ろいが僕の中に、森の雫が僕の中に。

まどろむ青に、パンを焼く匂いが朝のさえずりに運ばれてくる。
まだ手つかずの光がパンの匂いにほだされて、やわらかに笑った。

香ばしい匂いが夜の青を塗り替えていく。僕の滲んだ輪郭が、少しずつ光に晒され、やがて白い朝の中に立っていた。
行ってしまった夜の青を、僕は僕の胸に滲ませた。もう、あの夜は僕の一部だから。誰も知らない、僕の大切な青。

空の道が開く。景色が輪郭を取り戻していく。
僕はコーヒーを淹れに、窓を閉めた。



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剣(つるぎ)

2024-10-28 12:12:00 | Short Short

高く振りあげた剣を、そのまま静かに前に突き出す。微かな葉擦れの音が夜を際立たせ、闇をより深く引き寄せる。
鈍く光る剣はこの世のものではない妖しさを帯び、闇に力を与えている。

剣先を見つめる視線の先には黒い雲が流れ、山の向こう側の街灯りに浮かんで見えるその稜線が遠い。

この世はきれいなものばかりではない。

それらを葬ることが私の与えられた任のはずだった。
だがこの剣は、そういう人の世が定めた善悪美醜こそ忌み嫌う。人間が分けた《穢れたもの》という箱に投げ入れたものたちを祓おうとすれば、こちらがたちまち闇に呑まれてしまう。

私が剣を操るのではない。
剣が私を試している。
「お前は穢れのない存在なのか。祓う方の側なのか」と。

空で役目を終えた人口衛星が、オレンジの尾を引いた。
「お前にとって、あれは、美しいものなのか」
剣先に流れていくオレンジの光が消えても、私の中に解はない。
私はこの星に立ち、なにをしようとしているのか。これまで何を見てきたのか。

途切れた雲の先に広がるものを、鈍く光る剣の意味を、草木の声さえ、私は知らない。



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時の外側

2024-10-25 13:31:00 | Short Short

僕たちのポケットには白い小鳥がいつもいて、僕らの世界が止まるとき、ポケットから飛び立っていく。空の向こうのずっと向こうへ、ラインを越えてもっと向こうのその先に居る、僕たちのところへ戻ってくるんだ。
瑠璃の花を一輪咥えて。

    ⁑

ありていに言ってしまえば、『僕ら』はときどき動けなくなる。
それは例えるなら、今まですいすい泳げていたのに、突然手足が上手く水をかけなくなって、あれよあれよと沈んでいくようなものだ。

どんどん暗い場所へ、冷たい場所へと、誰にも気づかれず、誰も知らない水中の奥底深くに、君も静かに落ちてゆく。
ざっくりと横たわった君の体に万斛の砂が水に舞い、君の上に降り積もる。君の全部を隠してしまう。
どこにも行けない。誰も来ない。
君はひとり砂の中、時の外側に眠るんだ。灰色の原石を胸の奥に宿したまま。

ある凪の夜、世界はついに動かない。

だけどポケットから飛び立った小鳥がいつか戻って、そっと君の胸に瑠璃の花を寄せるだろう。君の中の原石が徐々に青く染まり始め、ついにはきっと輝きだす。
小鳥は君のポケットにするりと潜り込み、そして世界は明るく目覚めるんだ。


ときどき僕たちは時の外側で眠り、でもまたいつか戻ってくる。
ただそれだけのこと。
そう、ただそれだけのことなんだよ。



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プルシャンブルー

2024-10-11 07:45:00 | Short Short

市販のキャンバスに下地を塗りこめていく。
大きさは、そう、出来れば大きめがいい。でも決して大きすぎてはいけない。20号~30号くらいが良いだろう。

絵具の仁義はいろいろあるが、あまり気にせず。まずはジンクホワイトを薄くたっぷり何度も重ねる。それからシルバーホワイト。そしてイエローオーカーを濃くならないよう薄すぎないよう。その上からもう一度ジンクホワイトを。キャンバス上でイエローオーカーと馴染ませるように塗り込んで行く。薄い生成りの生地が出来あがる。

しっかりと乾いたことを確かめたなら、さあ、プルシャンブルーを。
初めは刷毛で、それからナイフで何度も何度もキャンバスに置く。ところどころまだらでいい。
黒に近い深い深いブルーから、明るく軽快なブルーまで、プルシャンブルーはそれだけでキャンバスに表情をつけていく。

青が乾かないうち、白や紫や淡いピンクにそれから黄色なんかをキャンバスの上に散りばめ濁らないよう青と馴染ませる。

あるラインを超えたとき、画上に風が吹き空間が開きそれぞれの色たちが輝き出す。キャンバスの奥から求められる色や形を、ただ夢中になってその世界の中に与えていく。もしくは与えた色を削ぎ落とし青の向こうの彩を迎える。

すべての色彩が踊る中、傍らでそっと私の手を取るのはプルシャンブルー。
私は青の中に身を任せ、そのリードに心地良く酔いしれる。時には軽快に、時には重厚に、時には静かに触れ合うように、その情熱の青と踊る。

そして突然、パタッと世界は完結する。

世界があちらとこちらに分けられる。
色彩たちは輝きながら、しかし私の手からは離れてしまった。もうこちらから与えるべきものは何もなく削ぎ落す場所も何処にもない。
青が世界をたゆたゆと湿らせ秩序を与えている。あちらから、静かに私を見つめている。

そうしたら注意深く、遠くから近くからずっと眺める。ずっと眺めていたいと思えたなら、それは完成だ。心が少しでも陰ったならその世界とは決別し、時間を置いてからまたプルシャンブルーと戯れる。

麗しのプルシャンブルー。私は躊躇うことなくあなたの前に跪く。

   

※写真・1994年制作  油彩  15号
※文・2011/09/10 別サイト投稿分を修正




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西日

2024-10-06 13:10:00 | Short Short

「今日の天気は忙しいわねえ」
まるでなにもなかったかのように姉が言う。

午前中静かに曇りを通していたのが、午後になると痛いほどの日射し、かと思えばいきなりの雷鳴。時を置かず、激しく雨が降り出し、大雨警報発令。小一時間も経たぬうち雨は小降りになり、今は晴れやかな夕刻を街に届けている。にもかかわらずまた雷が遠くでゴロゴロと鳴りだした。

「天の神様も一発ドカンとぶちまけてすっきりしたいことがあったのかもね」
姉は窓に近づきブラインドを上げ、眩しい西日を六畳の畳に迎え入れた。まだ青く濡れた桜の葉先が窓に垂れていた。
「まぁだゴロゴロ言って発散しきれてないみたいだけど」
姉は空に向かって嘘のように晴れやかな顔を向けると、窓辺を離れ、キッチンでお気に入りのチョコを冷蔵庫から取り出し、愛おしそうに摘み上げ、口元へと運ぶ。

さっきまで一発ドカンと暴れていたのはどこの誰だ、と私は呆れずにいられない。
失恋の痛みをチョコで癒せるくらいなら、八つ当たりの一発は勘弁して欲しいのだけれど。


病床のベッドから板天井を見つめながら、いつかの姉を思い出していた。
このところ視界がどんどん狭くなっていく。
怖くはなかった。
むしろこの不自由な檻から解放される日がくることに、日増しに安堵の気持ちが強くなっていた。

もう少しで私もそちらに行くようだから、そのときは、あの日チョコを見つめた眼差しで私を迎えに来てよね、姉さん。
それでね、きっと庭では桜の葉が赤く色づいている頃だろうから、それをまたふたり並んで見るのはどう? 姉さんが八つ当たりのお詫びにチョコをわけてくれたあの頃に戻ったみたいで、なんだかいいと思わない?

緩く穏やかな西日が、褪せた畳にやさしく命を吹き込むように、あたたかく射す。
はずし忘れた風鈴が、風に吹かれてリーンと鳴った。



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手紙

2024-09-26 01:15:00 | Short Short

もらった手紙は、後にも先にも、あの一通だけだった。
私はあのとき、体がちぎれる思いで声を殺して泣いたけれど、本当は何に対して泣いているのか、分かっていなかった。

その手紙はしばらく持っていたが、月日を重ねたのち、結局破って捨てた。未練になるのが嫌だったからだ。

そしてまた月日を重ね、あの時、私はたぶん未来を捨てようとしている自分に対して泣いていたんだと、今更ながらにやっと自分の心中を察した。おかしなものだと、つくづく思う。

部屋の明かりを消して、いくつもロウソクをつけ、お気に入りのぬいぐるみの写真を撮りながら、帰りを待っていた夜があった。
ずっと忘れていたけど、似たようなシーンをテレビドラマで見て、思い出した。

考えることはみんな同じ、みたいなことが散りばめられた世界で、今この瞬間にも、その同じようなことが夜の隅のどこかに出現しているのだろうか。
その人たちも、ロウソクの灯りをいつかまた忘れていくのだろうか。

あの手紙はもう世界のどこにも存在しないけれど、私の中にはまだ淡く残っていたことを知る。
それは『思い出』と呼ぶべきものなのだろうか。
わからない。

私はあのとき、自分の決断に泣いたけれど、一方で、初めて手紙を書いてくれたことが、とても嬉しかったんだと思う。



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君の露草

2024-09-20 01:30:00 | Short Short

月は申し分なく丸く輝いていた。
遠くでオカリナを吹くように風が歌った。はじめてのような懐かしいような、不思議な音階。秘密の約束。

この窪地にはさっきまで泉が湧いていたけれど、今は水が引き底一面に水草が見える。その真ん中に君は立ち、風が渦巻く時を待ち、あの遠く輝く故郷に帰ろうとしている。

「見送りはいらない。私のためにひとつだけ咲かせたあの露草が、見送ってくれる」
君は気丈にそう言って背中を向けたけど、その肩がとても小さく見えたものだから、僕はつい、目を逸らしてしまった。
刹那、黒い突風が僕を通り抜けた。

顔を上げると君はもう、其処にはいなかった。
君の匂いを残したまま影は消え、渦巻いた風もやんだ。急に静かになった夜の黒を、月明かりが溶かしていく。

僕は君が咲かせた露草を探したけれど、窪地のあちらこちらから水が湧いて出て、すぐにそこは元の泉になってしまった。
揺れる水面に月が浮かんだ。

オカリナを鳴らしていたのは君だったんだね。風がやんで気づくなんて。

「月がとっても綺麗だよ」
いまさらそんなことを言っても、君には届かない。君の露草はどこにあるの。

月がとっても綺麗なんだよ。



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白い花くるくる

2024-09-18 02:08:21 | Short Short

木の根元に雀。まるく座る。
めいっぱい小さな体をまるく膨らましているみたいで誇らしげに見える。
雀にすれば、ただちょいとそこに座っただけなのだろうけど。
座ると胸がむにゅっと膨らんだように見える。それだけのこと。
それだけのこと、かなり可愛い。

白い並木道を少し歩く。
目の前に、花びら、ではなく、一輪の花のまま、くるくると回りながら落ちてきた。
風はない。
また、くるくると一輪。なんだろう。

見上げると雀がちゅぴちゅぴ花をついばんでいる。
パタパタっと枝を変えてまたちゅぴちゅぴ、白い花くるくる。

風誘う木漏れ日にチラチラと雀の影。
光の雨を私にもキラキラと。



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