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新月のサソリ

空想・幻想・詩・たまにリアル。
孤独に沈みたい。光に癒やされたい。
ふと浮かぶ思い。そんな色々。
(主・ひつじ)

煉瓦

2025-02-03 03:25:00 | Short Short

屋上のまるい煙突カバーから煙が出ていた。
それはただの通気口だったのかもしれないが、古い煉瓦造りの、1メートルほどの四角柱の突起上にかぶせたアールデコ調のカバーが、なんだか煙突の方が似合っていると思った。

いくつもの淡い煙が屋上にふわふわと、ビルが吐く息のように白く漂い、私は、自分がその中に身を隠していられるこの時間が、あまり残されていないのだとわかっていたけれど、そのときは唯一ここにいることが、落ち着きを取り戻すただ唯一の方法に思えた。
実際、もう半日もここを動けずにいる。

暗くなる頃、彼が屋上の扉を開け、暮れ行く空の下に佇む私を見つけた。
どうしてここだと分かったのか、あちこち探したのか、それは訊かない。きっと私を見つけてくれると思っていた。そういう人だから。

私の時間は終わった。
もう決めなければいけなかった。

彼がそばに居る。悲しくも寂しくもない。
ただ、自分の価値がひどく落ちぶれてしまったような無力感が、彼のやさしさを上回った。
「大丈夫だよ」と彼は言う。
「そうね」と私も言った。

そうね、でもその先に言葉が何も浮かばなかった。
屋上の端に、夜のあわいに湧く白い煙にまぎれて、打ち捨てられた煉瓦がひとつ見えた。その一片がいつかどこかで、役に立つことがあるのだろうかと見つめるうちまた煙に消えた。

やさしいことが辛くなる。
自分の存在理由は、自分で保っていたかった。
私もいつかあの煉瓦のように、ただそこに在ることだけで時間が過ぎ、これまでの何もかもが徒労に終わる日が来るのではないかと、立ち並ぶビルの明かりを見下ろす足がすくんだ。

「心配ないよ。家に帰ろう」彼が言う。
私は彼に向き直り、「そうね」と微笑んだ。




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雨音

2025-01-28 00:50:00 | Short Short

「最近、雨の動画見てるの」
曇天の中、部屋に寄ってくれた友人に言った。
「流行ってるみたいだね。いいの?」
「うん、なんか落ち着く」
「どれ」
「これ」
私はノートパソコンを開いて、いつもの動画を彼女に向けた。

「雨音ってさあ、雨に音はなくて、雨粒が物にぶつかる音だよね。ネーミングが『靴下』みたいだなっていつも思ってたんだ」
そう言って彼女は隣に座り、私が食べかけていたスナック菓子に手を伸ばした。
「靴下と同じ理由だと思ったことはなかったなあ」
私は彼女のコーヒーを淹れに立ち上がる。
お湯を沸かしながら、突然彼女が来てくれたことが心強かった。
靴下ねえ。
雨音が聞こえるというのは、そこに何かがある、ということだ。
ふーん、靴下かぁ。
マグカップを硝子棚から取り出し、ドリップの袋を破る。
ほらまた。香はいろんな思いを運んでくる。


哀しい夢だった。
心を開いてよ、と彼は言う。やっと、まともに話が出来たけど、私を取り巻くバリアを私は破れずにいる。寝る前に観た映画のせいかもしれない。
心を開いてもいいのかな、って思ったけど、あれ? この人、違うよね。あの人がいるんだよね。
今は昔。
もう過ぎたこと。ここにはなにもない。
薄く意識が戻り、こんな哀しい気持ちも目が覚めると忘れていくのか、と、夢がまだ近くにあるうちに寝ぼけた頭で私は書き留めた。
この気持ちを忘れてしまうのは、私の大切なものをひとつ失くすようなものだ。


マグカップを彼女の前に置く。また並んで座る。
ふと無造作に放ったままだったマフラーを掴んで手繰り寄せ、もうどこにもない匂いを嗅ぐ。
鼻先の肌触りが懐かしく、脳内でガランと音が聞こえてきそうだ。
「本物の雨、降ってきたね」
彼女がカップに鼻を寄せいい顔で笑う。
音はまだ小さかったけど、窓の向こうを斜めに走る筋が見えた。

そこに何かがある、と知らせてくれる雨。
ノックしているのはどちらだろう。
そこに何かがあると知っているから、多くの人が雨音に癒しを感じるのだろうか。それともただの 1/F?
画面を見ると、再生回数がくるんと更新した。ひとりきりではない。だけど冷たいときもある。

「ねえ」
動画を観ていた彼女が、コーヒーを啜りながら横目で私を見る。
「ひとりで落ちそうだったら、いつでも電話してきな」
そう言って私が握るマフラーを自分の方へ引き寄せ、同じように匂いを嗅ぐ。
「こういうのより、ちょっとはマシだよ」
穏やかなはずなのに少しだけ涙が出た。
「うん」
今日の雨は、あたたかいみたい。




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言い訳

2025-01-22 01:33:11 | Short Short

朝、布団の中で目を覚ました時、頭をよぎった。
「俺、なんのために起きるんだろう」。
なんのために、誰のために。
自分のため? どうしてそれが自分のため?

夢見が悪かったのかもしれない。気怠い体を持ち上げ、ベッドの縁に座る。立ち上がる気がしない。起き上がる気力を何とか奮い起こしたばかりで、どうして立ち上がれるもんか。
しばらくじっと座って、窓からの明るい日差しに芽吹く水差しの植物たちを見ていた。

___こんな日もある。
でも、「誰にでも」じゃない。

みずみずしい若葉を見ていたらいくらか気分が和んできた。もう一息。
そうだ、この前録画したボン・ジョヴィをもう一度観ようか。カッコよくて、なに言ってんだか分らんのに目が離せなくて、バラードなんて何故かあの頃のトム・ウェイツと重なって、ああ、きっとあいつもコレ録画したんだろうなあ、なんて思ったりして。

あいつ、生きてんのかな。
ちゃんとどっかで立ち上がって歯磨きして、メシ食ってんのかな。

今でも「きっとこの番組観てんだろうな」なんて思う相手は、俺にとってあいつしかいない。もう10年以上音沙汰もないのに、ふとした瞬間にあいつの顔がよぎる。
会わなくなった理由も忘れた。たぶん、つまらん喧嘩でもしたんだろう。

あいつ、本当は激情型の激アツ男のくせに、いつも客観的に自分を見ては本音を抑えて気を遣う、変なヤツだった。
俺たちはあの時期、いつも一緒だったな。若くて金がなくて、勢いだけはあって。なんにでもなれる気がして、しんどいことでも笑い飛ばす気合があった。
今の俺を見たらがっかりするかもしれないな。そう思ったら余計連絡する勇気もなかった。
もう、あんまり時間、ないんだけどな。

仕方ない。ボン・ジョヴィは諦めて、今日は歩こう。あいつに連絡する言い訳を探しに。
遠くまでは行けないけど何度でも、台風が来る頃までには何とかなるだろう。そう言えばあいつ、台風のたびにオケラがどうしたとか訳の分からん事言ってたよな。よし、決めた。台風が来る前だ。そしたら俺にも「起き上がる」理由が出来る。
言い訳は短くていいんだ。ちょっと笑って一気に昔にかえる。そして俺はこう言う。


覚えておいてほしい。
後になってお前のところに、俺の噂が流れ着くかもしれない。最期はひとりで悲惨だった、とかさ。でもそんな噂を耳にしても、かわいそうだなんて思わないでほしいんだ。
俺は他のヤツらみたいにうまくできなくて、今度は崖の下に転がり落ちて、それが最後かもしれない。
だけど覚えておいてほしい。
そのとき突っ伏した地面の先に小さな花が咲いていたならきっと、きれいだなって俺は思うだろう。
もし深い深い穴に落ちてしまっても、見上げた空が丸く切り取られて、白く光っていれば、やっぱり、ああ、きれいだなって、俺は思うんだ。
そんな自分だってことを知ってる。
だからどうか覚えておいてほしい。
俺が、俺たちが、一緒に笑った日のことを。


なんだ、わざわざ言い訳なんてしなくても、はじめからこう言えばいいじゃないか。
だけど俺は歩くよ。明日もその次の日も歩いて、やっぱり、短い言い訳を考えることにする。
第一声、お前に笑ってほしいからな。

出かけよう。いい天気だ。



〈関連話・風の夜に




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面影

2025-01-16 18:00:00 | Short Short

ああ、そうか。舞っていたのは雪だったのか。
いやに寒くて冷たくて、でも風の形に降る白が軽やかで華やかで、うっかり桜のことを思ったんだ。
あれはとても寒い春の日だったから、ついそう思ってしまった。

眩しさも冷たさも変わらないのに、ぼくたちは随分遠くまで来てしまったね。
同じ笑顔で微笑む君は、そんなぼくをやさしく包んでくれるけど、ぼくは君に温もりをちゃんと届けられているのかな。

年が明けたよ。また新しいことをたくさんしよう、君と一緒に。
コーヒーをふたつのカップに注ぐ。
明るい部屋に充ちる香りに、戯言だと君は笑うだろうか。

ふたりで近所を歩く。
家々の庭先に咲く花の名を、君はひとつずつぼくに教えてくれる。冬の花は強い。枯れたような町を明るく彩る。君みたいだ。
季節が変わると、ぼくはその花たちの名をいつも思い出せずにいた。そんなことを繰り返して、ぼくらは季節の中でたくさん笑った。

風が鳴いている。電線が揺れる。影が、揺らぐ。

そうか、桜じゃなかったのか。
空に流れる薄雲がまぶしくて、ぼくは眼を細めた。
そうか、桜じゃなかったんだな。
滲んだ白の中で咲いているのは、君。




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粉雪

2025-01-10 00:45:00 | Short Short

まだドアの取っ手に手をかけて、そっと握っただけなのだけれど。

少しずつノブを回して、ガチャっと音がしたら、少しだけそのドアを押してみよう。少しだけ。
そして、その隙間から覗いた景色が心地よければ、またもう少しだけ押してみよう。
時間をかけて、ゆっくりでいい。


目の端に異変を捉えた。
顔を向けると晴れたブラインドのまにまに、ちらつくものが見えた。
雪だ。
窓のそばへ行き、ブラインドを開く。
晴れた光の中を粉雪が散り乱れる。
綺麗だ。
深く息を吸い、目を見開く。
向かいの高架線路を列車が行くと、光が陰った。
過ぎた車両は、粉雪も一緒に連れて行ってしまった。

清々しく、とても寒い。


少しずつ、時間をかけて、ゆっくりでいい。
違ったら、気づかれないようそっとまたドアを閉める。それだけのこと。
そのときは、光に散ったあの粉雪を探しに出かけよう。
春は、まだ先だ。




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シーツ

2024-12-27 11:05:00 | Short Short


竿に干した洗い立てのシーツが、朝の清々しい光を運ぶ風に大きくなびいた。
がらんと広い庭に、シーツだけが白く眩い。
広い庭___。

本当はただの坪庭。いつもはその狭さにも嬉々として、雑草や植え物の手入れに戸惑うくらい雑然としていて、それでも生命の奥行きがその箱庭を生かしていた。
それが今はただただ広く感じるだけで、もはや生命の気配など風と共にシーツを撫で、手の届かぬ場所へ行ってしまう。
在る、と思っていたものは、迷い込んだひと時の戯れだったのか。自分の見えているこの世界は、『本当』なのだろうか。

あの日と同じだ。

広い廊下に夕暮れの光が差し込み、ひとり荷物を運ぶ後ろ姿に、殊更ガランとひと気のない空間が強調されて、つるつると滑るくらいに手入れのされた廊下に反射した光がとてもまぶしくてきれいなのに、独り行くその後ろ姿の健気な強さに胸を打たれ、どうしようもなく淋しい気持ちが込み上げた。

はた、とまたシーツがなびく。
込み上げるものはあの日と変わらない。『本当』のこともわからない。
シーツの冷たさが庭を渉る。それだけが今の本当。

今夜、この洗い立てのシーツで眠る。それが明日への力。
ささやかでいい。これから私はあの背中が刻んだものを、またはじめから創り直す。
過ぎてゆく風に思いを乗せ、透き通る陽に手をかざすと、塀の向こうで南天の実がちらりと赤く揺れた気がした。




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夜を混ぜる

2024-12-22 00:10:00 | Short Short

こんな夜はエキノプシスを散りばめよう。
浮かんだ月にはドレッシングを降りかける。
雲の合間をクジラが泳ぐ。
ぼくがつくる秘密の夜の、秘密のレシピ。

月がよじってミルクを一滴、クジラの尻尾が滴を跳ねる。空に散らした花にバニラが染みる。
煌めきは甘く、夜に降る、白く降る。
クジラの腹が月を横切る。ドレッシングが色を変え、夜を黒く垂れていく。

小さな世界で小さな明かりで夜の道行く小さな影たち。街の明かりが夜を消す。クジラを消す。ぼくも消す。夜空を見上げた誰ひとり、ぼくの夜だと気づかない。

さあ、そろそろ夜をかき混ぜようか。
ぼくは大きなスプーンで夜をすくう。
人もクジラも同じ海へ、山も街もマーブルの中へ。匙からこぼれる全ての夜が、渦巻く彼方に呑み込まれる。恐れも怒りも散り散りに、痛みも涙も砕けて消えろ。
ぼくは力いっぱい世界を混ぜる。

靴下をくわえた猫が夜を覗いてにゃあと笑った。ひらひらと落ちてゆく靴下には猫のひげ一本。これが今夜の隠し味。
そろそろと北風が世界を整え東風を待つ。

とても冷たい冬の夜、ぼくはこっそり夜を混ぜる。
目を凝らして見ていてごらん。きっと猫が笑うから。




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揺れる

2024-12-16 03:50:00 | Short Short

激しい雨の音で目が覚めた。
午前5時。布団に入ってまだ三時間ほどだ。出来れば眠っておきたかったが、目が冴えてしまったので起き上がる。
キッチンで水を飲み、部屋を横切って窓のブラインドを人差し指と親指で少し広げ、外を見る。
まだ暗い。
中型トラックほどの作業車らしき車が道路の向こう側に停まり、仕込みの作業音をかなりの音量で響かせている。何ヶ月か前から度々来るようになったこの作業車に、まだ暗いうちから起こされることがしばしばあった。

この音だったか、と視線をちょっと上げると電線に雫がぶら下がっているのが見える。耳を澄ませば、雨の音が微かにある。

今日の日の出は6時56分。今はまだ朝になれない夜の端っこ。
12月も中旬、夜明けを待つ街と夜を惜しむ空。今の自分の象徴っぽくて、なんだか笑える。

電車は始発を皮切りに、前の高架線路を遠慮なく何台も通り抜ける。人の世は地球の軌道などお構いなく、人工時計が刻む時刻に従って朝を決める。
列車の種類か速度の違いか。過ぎる車両はそれぞれの音量と音質で、せめてもの個性を主張しているかに聞こえた。そんなことをしたところで、いつかみんな、朽ちてゆくだけなのに。
瞼の裏に残るあの日の古木。

ひと気のない山の中腹に分け入り、思いがけず開けた視界の先に見えた立ち枯れの古木。あの道なき山の斜面を俺がどんな思いで彷徨っていたのかなんて誰も知らない。あれからもう二年が過ぎた。あの古木を見たとき、心がしんと立ち止まった。

雨粒の音がさっきよりも立体的に屋根や道路を打つ。風がやんだのだろう。
雨雲に覆われたままの日の出は暗く、夜の名残りがはかなく漂う。
ベランダの室外機が唸る。
俺はあの木のように、最後のその瞬間まで立っていられるだろうか。
もう一度ベッドに戻り、目を閉じる。
あの場所で朽ちた彼が最後に見たものは何だったのだろう。
枯れた老木に種が舞い落ちいつか芽を吹き、また森の一部に戻れただろうか。

作業車の音がやみ、車は飛沫音をまとい遠ざかって行った。
粒だった雨音だけが残される。

昨日と今日の重なりに、冬の雨を聴く。




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砂を掴む

2024-12-05 21:45:00 | Short Short

薄れてゆく、薄れてゆく____。

時が経つほどに、それは積み重なり育まれるはずのモノなのに、どうしようもなく、指の間をとめどなくすり抜ける砂は容赦なくこぼれ落ち、ぼく自身になにも残さない。

日入りの時刻ちょうどに、鳥たちが一斉に合図を交わし枝々から飛び立つ。一瞬で小さな塊になって暮れ行く空に消えた。刻々と闇にまぎれてゆく空。

動けずにそのままぼんやりとしていた。ぼんやりと、さっき見た夢の断片を夕闇の空に垣間見ていた。ずっとそのまま、じっとぼんやりしていたら、ふと、懐かしい匂いに振り返る。誰かに呼ばれたような、そうだったらいいのにと、視線の先を探す。
それとも懼れる影の近づく気配か。ぼくの矢印は光を失くし呑み込まれる。

ぼくの秘密は彼らのもの。ぼくはもうその手の中で踊るだけ。道化のように踊るだけ。そうして、踊っていることすらぼくの中には残らない。
重たい風が光をさらい、ただただ薄れゆく。そう、薄れてゆくだけ。

だけど、だから、ぼくは何度でも砂を掴むんだ。
きみが、迷わないように。



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懐中時計

2024-11-07 11:07:00 | Short Short

懐中時計の表面を指でなぞり胸ポケットにしまう。彼はその指で帽子のツバを深く下げて顔を伏せた。
悔しい時、いつもそうする。ツバで隠した唇はぎゅっと固く結ばれているんだろう。
だから私もいつものように彼に背を向け歩き出した。目の端で彼がとぼとぼと ついて来るのを確かめて声をかける。


思いがけず押し寄せるあの頃の思い。
戸棚の奥に仕舞いこんでいた古い箱を開けると、あの懐中時計が目に飛び込んできて、私は潮風に吹かれた。
人はなんてたくさんの瞬間を、無造作に置き去りにしていくのだろう。

あの時、自分がなんと言ったのか、もう忘れてしまった。
でも私たちはあの後、並んで歩いた。
港を遠目に橋の上から行き交う船の灯りと色走る水面の揺らぎを交互に見ながら、ふたりで一緒に彼の悔しさを月白のしじまに流していった。
それからまた歩いて歩いて、駅近く踏切がカンカン鳴りだすと、私たちは顔を見合わせ走り出しくぐり抜けた後ろを列車が突風みたいに過ぎて行く風圧に、なんだか可笑しくなって笑っていた。

ひそやかに時を蓄えた懐中時計が映す可惜夜の風の匂いがいくつもそこに、ただそこにある。


関連話


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ふたつめ

2024-11-04 11:00:00 | Short Short

大きな翼の影が地上を走る。

薄暮れの中、石の灯篭が続く道にぼくは居た。
そこは真新しいふたつめのステージ。ひとつめの奥に潜んでいた真実が現れたふたつめの世界。これまでやりくりしてきた全ては崩れ去った。

石畳の回廊を守り人たちが、まるでふたつめの歩き方を示すように、道の両側に並んだ灯篭に順番に明かりを灯し始め、照らされた道の先へとぼくを誘う。

やり方なんてわからない。始まったばかりのこの道を、どうやって進めばいいのか、未だ混乱の中にいる。
水晶の夜にぼくの過去は知らないものになった。見えていたものは外側の張りぼてに過ぎず、けれど透き通った灯の道を、一歩、また一歩、足を前に踏み出し、ただただ歩いて行く。石畳に揺れているのが光なのか影なのか、陰陽の思惑も異質な揺らぎを放つこの道を。

翼の影が辿り着く場所は、ぼくの行く道と同じだっただろうか。
響く靴音に、語りかけるのは、誰。



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青い夜

2024-11-01 14:41:00 | Short Short

青い夜だった。
いつもよりも滲んだように青が広がる夜で、だから、いつもよりも月が黄色く見えていた。
星はなくて、そういう煌めいたものは滲んだ青の中に溶け込んでいて、だから、滲んだ黄色もいつもより輝いて見えたんだ。

今夜の空は閉じている。向こうへと続く道が閉じられている。
そのことが、何故かやけに僕には心地よくて、窓から背伸びをするように体を乗り出しても、今夜は怖くない。

湖も、その向こうの山も、みんな青く滲んできれいだった。
ぼんやりと輪郭のない僕と、夜の青が混ざって、僕も夜の一部になった。湖面の移ろいが僕の中に、森の雫が僕の中に。

まどろむ青に、パンを焼く匂いが朝のさえずりに運ばれてくる。
まだ手つかずの光がパンの匂いにほだされて、やわらかに笑った。

香ばしい匂いが夜の青を塗り替えていく。僕の滲んだ輪郭が、少しずつ光に晒され、やがて白い朝の中に立っていた。
行ってしまった夜の青を、僕は僕の胸に滲ませた。もう、あの夜は僕の一部だから。誰も知らない、僕の大切な青。

空の道が開く。景色が輪郭を取り戻していく。
僕はコーヒーを淹れに、窓を閉めた。



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剣(つるぎ)

2024-10-28 12:12:00 | Short Short

高く振りあげた剣を、そのまま静かに前に突き出す。微かな葉擦れの音が夜を際立たせ、闇をより深く引き寄せる。
鈍く光る剣はこの世のものではない妖しさを帯び、闇に力を与えている。

剣先を見つめる視線の先には黒い雲が流れ、山の向こう側の街灯りに浮かんで見えるその稜線が遠い。

この世はきれいなものばかりではない。

それらを葬ることが私の与えられた任のはずだった。
だがこの剣は、そういう人の世が定めた善悪美醜こそ忌み嫌う。人間が分けた《穢れたもの》という箱に投げ入れたものたちを祓おうとすれば、こちらがたちまち闇に呑まれてしまう。

私が剣を操るのではない。
剣が私を試している。
「お前は穢れのない存在なのか。祓う方の側なのか」と。

空で役目を終えた人口衛星が、オレンジの尾を引いた。
「お前にとって、あれは、美しいものなのか」
剣先に流れていくオレンジの光が消えても、私の中に解はない。
私はこの星に立ち、なにをしようとしているのか。これまで何を見てきたのか。

途切れた雲の先に広がるものを、鈍く光る剣の意味を、草木の声さえ、私は知らない。



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時の外側

2024-10-25 13:31:00 | Short Short

僕たちのポケットには白い小鳥がいつもいて、僕らの世界が止まるとき、ポケットから飛び立っていく。空の向こうのずっと向こうへ、ラインを越えてもっと向こうのその先に居る、僕たちのところへ戻ってくるんだ。
瑠璃の花を一輪咥えて。

    ⁑

ありていに言ってしまえば、『僕ら』はときどき動けなくなる。
それは例えるなら、今まですいすい泳げていたのに、突然手足が上手く水をかけなくなって、あれよあれよと沈んでいくようなものだ。

どんどん暗い場所へ、冷たい場所へと、誰にも気づかれず、誰も知らない水中の奥底深くに、君も静かに落ちてゆく。
ざっくりと横たわった君の体に万斛の砂が水に舞い、君の上に降り積もる。君の全部を隠してしまう。
どこにも行けない。誰も来ない。
君はひとり砂の中、時の外側に眠るんだ。灰色の原石を胸の奥に宿したまま。

ある凪の夜、世界はついに動かない。

だけどポケットから飛び立った小鳥がいつか戻って、そっと君の胸に瑠璃の花を寄せるだろう。君の中の原石が徐々に青く染まり始め、ついにはきっと輝きだす。
小鳥は君のポケットにするりと潜り込み、そして世界は明るく目覚めるんだ。


ときどき僕たちは時の外側で眠り、でもまたいつか戻ってくる。
ただそれだけのこと。
そう、ただそれだけのことなんだよ。



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プルシャンブルー

2024-10-11 07:45:00 | Short Short

市販のキャンバスに下地を塗りこめていく。
大きさは、そう、出来れば大きめがいい。でも決して大きすぎてはいけない。20号~30号くらいが良いだろう。

絵具の仁義はいろいろあるが、あまり気にせず。まずはジンクホワイトを薄くたっぷり何度も重ねる。それからシルバーホワイト。そしてイエローオーカーを濃くならないよう薄すぎないよう。その上からもう一度ジンクホワイトを。キャンバス上でイエローオーカーと馴染ませるように塗り込んで行く。薄い生成りの生地が出来あがる。

しっかりと乾いたことを確かめたなら、さあ、プルシャンブルーを。
初めは刷毛で、それからナイフで何度も何度もキャンバスに置く。ところどころまだらでいい。
黒に近い深い深いブルーから、明るく軽快なブルーまで、プルシャンブルーはそれだけでキャンバスに表情をつけていく。

青が乾かないうち、白や紫や淡いピンクにそれから黄色なんかをキャンバスの上に散りばめ濁らないよう青と馴染ませる。

あるラインを超えたとき、画上に風が吹き空間が開きそれぞれの色たちが輝き出す。キャンバスの奥から求められる色や形を、ただ夢中になってその世界の中に与えていく。もしくは与えた色を削ぎ落とし青の向こうの彩を迎える。

すべての色彩が踊る中、傍らでそっと私の手を取るのはプルシャンブルー。
私は青の中に身を任せ、そのリードに心地良く酔いしれる。時には軽快に、時には重厚に、時には静かに触れ合うように、その情熱の青と踊る。

そして突然、パタッと世界は完結する。

世界があちらとこちらに分けられる。
色彩たちは輝きながら、しかし私の手からは離れてしまった。もうこちらから与えるべきものは何もなく削ぎ落す場所も何処にもない。
青が世界をたゆたゆと湿らせ秩序を与えている。あちらから、静かに私を見つめている。

そうしたら注意深く、遠くから近くからずっと眺める。ずっと眺めていたいと思えたなら、それは完成だ。心が少しでも陰ったならその世界とは決別し、時間を置いてからまたプルシャンブルーと戯れる。

麗しのプルシャンブルー。私は躊躇うことなくあなたの前に跪く。

   

※写真・1994年制作  油彩  15号
※文・2011/09/10 別サイト投稿分を修正




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