晴走雨読

おじ・おば

土曜日に葬式に行ったと書きましたが、亡くなったのは94歳の叔父でした。

大正生まれで戦争中は海軍で飛行機に乗っていました。

操縦士ではなく無線電信員としてですが。

多少兵器マニアだった私としては、この叔父と合って戦時中の話を聞くのが楽しみでした。

叔父さんが乗っていたのは戦闘機ではなく、複座あるいは3座の偵察機だったそうで、南方のトラック島などにもいたらしい。

戦争終盤は本土で偵察機に乗っていたので生き残る事が出来たそうだ。

どんな機体に乗っていたのか、本人の記憶があいまいだったので特定はできませんでしたが、「敵機に見つかっても絶対に追いつかれなかった」と言っていた所から、当時最速の偵察機「彩雲」だったかもしれません。

彩雲というのはニックネームで、現場では「十七試艦上偵察機」とか呼んでたはずですから彩雲とか言われても分からないのかも。

ネットで彩雲の写真を見つけて叔父さんに見せたら「これかもしれない」と言ってましたが、当時すでに多少ボケてましたから確証は得られませんでしたが。



自分の叔父(伯父)さん叔母(伯母)さんの人数を数えてみたら、自分の親の兄弟が8名。カミさんの親の兄弟が14名。(カミさんの母親は11人兄弟なのです)

合計22名。配偶者を入れると44名。全員戦前生まれです。産めよ増やせよの時代でしたから。

もちろん若くして亡くなった方もいますし疎遠になってる方もいますが、これだけの人数の冠婚葬祭に関わるとすると、大変さが分かってもらえますでしょうか?

この44名の中で従軍経験者は多分7名。戦死1名。

ソ連のシベリア抑留経験者2名。

数年前天皇陛下が慰霊に訪問された玉砕の島ペリュリュー島から奇跡の生還をした叔父さんもいます。

部隊は全滅ですから戦死広報が実家に届き葬式もあげたそうです。

本人は米軍の捕虜となりアメリカ本土の収容所に移送され、戦後帰国。

10年ほど前に亡くなられたのですが、戒名は戦死した時にもらったものをそのまま使ってました。



44名いたおじおばも存命しているのは8名。戦争を経験した方はいなくなってしまいました。

みなさん波乱万丈・艱難辛苦の経験をされたと思います。もっと色々話を聞いておけばよかったと思っても今は叶わず。

我々が戦中派の生の声を聴けた最後の世代だったのに。
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