風景居酒屋 ごじゃ満開

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727) 私的岩手通史の旅 第18回

2010年05月29日 | 私的岩手通史の旅
 秋田の事業場へ向かう途中ラジヲを聴いていたのですが、「うちの子どもが通う小学校では、給食時間の私語が禁止である」という投書にちょっと驚きました。「おしゃべりに夢中になると食べ終わるのに時間がかかるから」という理由らしいですが、全員が黙々と食べている姿を想像すると「う~む」という感想を抱いてしまいました。


第18回 東北38年戦争5(奥州市 阿弖流為と母礼)

 前回、今の胆沢地方がエミシの拠点となっていたと申しましたが、その指導者だったとされるのが阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の2人です。両名とも生年が不明であり、「続日本紀」に初めて胆沢の名が現われた776(宝亀7)年にエミシ軍の中でどのような存在だったか定かではありませんが、その後の活躍を考えるとすでに中心的存在であったのでは?と思います。

 胆沢地方には2人の名が由来となったとされる地名があります。うち阿弖流為が由来とされているのが、北上川右岸の奥州市水沢区佐倉河地区にある「跡呂井(あとろい)」です。現在は水田が広がる一帯ですが、江戸時代には北上川水運の拠点ともなったようで、「跡呂井お蔵場の跡」という木柱も建っています。


(跡呂井の名が書かれた町内会の看板 -奥州市水沢区佐倉河 2010/01/09-)

 一帯はまた東北38年戦争の激戦地ともなった場所で、水田の一角には物見櫓が建っています。当時にこのような物が建っていたか定かではなく想像の域を越えないのでしょうが、訪れた時は最上階から「田んぼアート」による阿弖流為の顔が描かれているのが見えました。当時の彼の肖像画が残っているわけではなく、茨城県にある鹿島神宮に奉納されている「悪路王首像」がモデルのようです。

 悪路王とは坂上田村麻呂に倒されたエミシの酋長で阿弖流為とは別人のはずなのですが、イケメンにするわけにもいかずこうなったのでしょうか?。


(刈入れ時はどんな風景になるのでしょう? -奥州市水沢区佐倉河 2008/06/29-)

跡呂井はこの辺です。



1年前の一品・・・お休みでした
2年前の一品・・・「273)盛岡散歩 聖寿禅寺に眠る2(横川省三)
その他の品々・・・コチラです。

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