カズフサ「このタイムカプセルを思い出したということは いろいろなしとげて過去をふりかえる余裕ができたという事なんでしょうね」
(田丸浩史,2008,『ラブやん⑩』講談社)
個人ブログがタイムカプセルというのは言い得て妙だ。
特に何かがあったわけではないが、なるほど過去を振り返る余裕はようやく出てきたように思える。
確かにこの数年は余裕がなかったかもしれないし、同時にいろんなことを成し遂げたのだと自信を持って言えそうだ。
親が死んで、仕事を辞めた。やはり2014年に大きな転機があったのは間違いなさそうだ。
読み返してみれば、2012年ごろからの自分は本当に苦悩の真っただ中にいたのだということを実感させられる。大学を留年したうえに、変な会社に入ってしまったのだから。
ただそれは、大学入学まで順風満帆であったかのような人生の反動のようなーいやそもそも自分の人生が全体から見てどのような評価にあるのかは未だに分からないが。
少なくとも小学校お受験をしてそのままエスカレーターで高校を卒業してしまったのは恐ろしい事であると思う。
私立の小学校を出たなんてことは、ただならぬ額の財産を投げ打ってくれた親には申し訳ないがとても人様に言えることではない。
ともかく自分はあの震災とほぼ同時に初めての挫折というものを痛いほど味わって、苦痛にまみれた日々を送ることになったのだと思う。
入社直後のブログ記事は読むに堪えないほど恐ろしい。
"ただただ俺が過去を振り返る材料が増える一方で、死にたさと戻りたさと戻れなさだけでいっぱいで、なんていうかもうつらい。"(2013年04月01日)
"「それでもみんな歯を食いしばって働いてるんだ」なんていう一般論は俺個人の「だるい」に勝てない"(2013年06月02日)
"会社の何が嫌なのかもわからなくなってきた"(2013年08月28日)
"どうすることが自分に良いのかすら分からない。"(2014年01月17日)
"本当に精神的ダメージを受けているのか、メンヘラごっこをしているだけなのか、自分にもよくわからない。"(2014年03月18日)
完全にキマっている。今思えば完全に適応障害とかうつ病とか自律神経失調症とか、そういうやつの一歩手前だった。
会社の数駅手前から汗と動悸が止まらなかったり、会社のトイレで泣いたりしていたのに、よくここまで持ち直したものだと我ながら感心する。
15か月間、というのが自分の中のひとつの基準だった。最初の会社に就職してから辞めるまでの期間である。
現職になってから、この15か月の壁を越えられるかどうか、それだけが自分にとってのひとつの目印であり、目標だった。
それはどうもあっさり超えることができたらしい。月に換算したのは今この時が初めてだが、いま27か月目。そろそろ倍である。
今のところ辞めそうな気配もない。むしろ仕事は楽しい。給料もそれほど高くないが世間全体で見れば高給取りだ。実にいい事だ。人生は充実している。
「ホント異色の経歴っすね。俺は大卒ストレートでこの仕事だからなあ」とはよく今の職場で言われる。
当人からすればそんなに大げさな事ではないのだが、あの業界も狭い世界なので、まぁ、そうなのだろうと受け取っておく。
大学を留年した時、そこにはレールを外れてしまったという焦りもあったが、同時に安心感もあった。
そうして遠回りをして、今は公務員に身を落ち着けている。あたかもレールに戻ったかのようだ。戻ったのかな。
そもそもレールなんてものが令和の世にあるんだろうか。分からんが、舗装されているかどうかの違いくらいは歴然だ。
ところがその舗装路を見たこともない車両で走ろうとしているおじさんがいるらしい。うまく走るかどうかわからないが、やってみたいのでやることにした。
そもそも今の仕事を始めたのも似たようなモチベーションだったわけである。
"どうせ長生きする気もないし、バリバリに稼ぎたいわけでもないから(使い道がない)、どうせなら一度は憧れた職業を目指して、一応なるだけなってみたい。
それで期待はずれで今の仕事よりキツかったとしても、まーそれはしょうがないでしょって感じ。
やらない後悔より、やって後悔したい。"(2013年06月02日)
何事も結果オーライ。
またしてもちょっとしたことにチャレンジしていこうと思うので、みんなのお力添えをお願いします。
ここでいうお力添えとは、たまにお好み焼きを食べに行ったり、冬はみんなでスキーに行ったり、通話しながらゲームをしたり、仕事終わりに飯を食うことです。
果たしてこの先どうなるのか、それは未来のぼくに託す。
荻上「行く道が 泥沼でも」(木尾士目,2005,『げんしけん⑥』講談社)
(田丸浩史,2008,『ラブやん⑩』講談社)
個人ブログがタイムカプセルというのは言い得て妙だ。
特に何かがあったわけではないが、なるほど過去を振り返る余裕はようやく出てきたように思える。
確かにこの数年は余裕がなかったかもしれないし、同時にいろんなことを成し遂げたのだと自信を持って言えそうだ。
親が死んで、仕事を辞めた。やはり2014年に大きな転機があったのは間違いなさそうだ。
読み返してみれば、2012年ごろからの自分は本当に苦悩の真っただ中にいたのだということを実感させられる。大学を留年したうえに、変な会社に入ってしまったのだから。
ただそれは、大学入学まで順風満帆であったかのような人生の反動のようなーいやそもそも自分の人生が全体から見てどのような評価にあるのかは未だに分からないが。
少なくとも小学校お受験をしてそのままエスカレーターで高校を卒業してしまったのは恐ろしい事であると思う。
私立の小学校を出たなんてことは、ただならぬ額の財産を投げ打ってくれた親には申し訳ないがとても人様に言えることではない。
ともかく自分はあの震災とほぼ同時に初めての挫折というものを痛いほど味わって、苦痛にまみれた日々を送ることになったのだと思う。
入社直後のブログ記事は読むに堪えないほど恐ろしい。
"ただただ俺が過去を振り返る材料が増える一方で、死にたさと戻りたさと戻れなさだけでいっぱいで、なんていうかもうつらい。"(2013年04月01日)
"「それでもみんな歯を食いしばって働いてるんだ」なんていう一般論は俺個人の「だるい」に勝てない"(2013年06月02日)
"会社の何が嫌なのかもわからなくなってきた"(2013年08月28日)
"どうすることが自分に良いのかすら分からない。"(2014年01月17日)
"本当に精神的ダメージを受けているのか、メンヘラごっこをしているだけなのか、自分にもよくわからない。"(2014年03月18日)
完全にキマっている。今思えば完全に適応障害とかうつ病とか自律神経失調症とか、そういうやつの一歩手前だった。
会社の数駅手前から汗と動悸が止まらなかったり、会社のトイレで泣いたりしていたのに、よくここまで持ち直したものだと我ながら感心する。
15か月間、というのが自分の中のひとつの基準だった。最初の会社に就職してから辞めるまでの期間である。
現職になってから、この15か月の壁を越えられるかどうか、それだけが自分にとってのひとつの目印であり、目標だった。
それはどうもあっさり超えることができたらしい。月に換算したのは今この時が初めてだが、いま27か月目。そろそろ倍である。
今のところ辞めそうな気配もない。むしろ仕事は楽しい。給料もそれほど高くないが世間全体で見れば高給取りだ。実にいい事だ。人生は充実している。
「ホント異色の経歴っすね。俺は大卒ストレートでこの仕事だからなあ」とはよく今の職場で言われる。
当人からすればそんなに大げさな事ではないのだが、あの業界も狭い世界なので、まぁ、そうなのだろうと受け取っておく。
大学を留年した時、そこにはレールを外れてしまったという焦りもあったが、同時に安心感もあった。
そうして遠回りをして、今は公務員に身を落ち着けている。あたかもレールに戻ったかのようだ。戻ったのかな。
そもそもレールなんてものが令和の世にあるんだろうか。分からんが、舗装されているかどうかの違いくらいは歴然だ。
ところがその舗装路を見たこともない車両で走ろうとしているおじさんがいるらしい。うまく走るかどうかわからないが、やってみたいのでやることにした。
そもそも今の仕事を始めたのも似たようなモチベーションだったわけである。
"どうせ長生きする気もないし、バリバリに稼ぎたいわけでもないから(使い道がない)、どうせなら一度は憧れた職業を目指して、一応なるだけなってみたい。
それで期待はずれで今の仕事よりキツかったとしても、まーそれはしょうがないでしょって感じ。
やらない後悔より、やって後悔したい。"(2013年06月02日)
何事も結果オーライ。
またしてもちょっとしたことにチャレンジしていこうと思うので、みんなのお力添えをお願いします。
ここでいうお力添えとは、たまにお好み焼きを食べに行ったり、冬はみんなでスキーに行ったり、通話しながらゲームをしたり、仕事終わりに飯を食うことです。
果たしてこの先どうなるのか、それは未来のぼくに託す。
荻上「行く道が 泥沼でも」(木尾士目,2005,『げんしけん⑥』講談社)