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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観 : 3-3 大和朝廷の百済・任那救援

2014-05-11 10:11:10 | 韓国問題

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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観
3-3 大和朝廷の百済・任那救援

 高句麗の侵攻から百済、任那を守るべく、大和朝廷は大軍を送り込んだ。
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■1.「大和朝廷の軍勢は百済を助けて、高句麗とはげしく戦った」

 中国と北朝鮮の国境をなす鴨緑江の北岸に、巨大な石碑が建っている。自由社版の歴史教科書は、その写真を載せ、次のような説明文をつけている。

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高句麗の広開土王(好太王)碑 高さ6.4m。この碑文に391年、朝鮮半島に出兵した大和朝廷が、高句麗と戦ったことがしるされている。[1,p60]
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 本文には、当時の情勢をこう説明している。

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 そんな中(JOG注: 中国が内乱のために影響力が弱まった)、朝鮮半島北部の高句麗が強大になり、4世紀初めに、朝鮮半島にあった中国領土の楽浪郡を攻め滅ぼし、4世紀後半には半島南部の百済をも攻撃した。

百済は大和朝廷に助けを求めた。大和朝廷は、もともと、貴重な鉄の資源の供給地である半島南部と深い交流をもっていたので、海をわたって朝鮮に出兵した。このころから、半島南部の任那(みまな、加羅(から))に影響力をもったと考えられる。

 大和朝廷の軍勢は、百済を助けて、高句麗とはげしく戦った。高句麗の広開土王(好太王)の碑文には、そのことが記されている。高句麗は、百済の首都漢城(現在のソウル)を攻め落としたが、百済と大和朝廷の軍勢の抵抗にあって、半島南部の征服は果たせなかった。[1,p60]
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 369年に百済王が倭王(日本書紀では神功皇后)に送った七枝刀(ななさやのたち)が、石上神宮に所蔵されている。長さ74.9センチで、左右にそれぞれ3つの枝がでて、剣先と合わせて7つの枝がでているという意味だ。高句麗との戦いに備えて、百済が大和朝廷に助けを求めた際の献上品である。

 ちょうど、朝鮮戦争で北朝鮮が韓国に攻め込んだのに対し、国連軍が参戦して侵略を阻止したのとよく似た戦争が、西暦400年前後に起きたのである。


■2.倭国は東アジアの大国だった

 東京書籍版は、広開土王(好太王)碑については、注で以下のように記している。

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 高句麗の好太王(広開土王)の功績をたたえる石碑には、好太王がしばしば倭の軍を破ったことが記されています。[2,p26]
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 石碑そのものが好太王の功績を称えるためのものだから、「しばしば倭の軍を破った」と誇るのは当然である。東書版が北朝鮮の歴史教科書で、かの国の祖先であろう高句麗の視点から書くなら、これでも良い。

 しかし、わが国の歴史から見れば、5世紀初頭の大和朝廷が朝鮮半島に大軍を送りこむほどの軍事力、経済力を備えていたという歴史事実の方が重要であって、個々の戦闘でしばしば負けたとしても、さしたる重要事ではない。

 この100年ほど前に書かれた「魏志倭人伝」では、東アジアで君主国として機能しているのは、高句麗と倭のみで、半島中南部は70余国に分立している後進地域であったと書かれている。さらに高句麗は人口15万人ほどに過ぎず、倭国はすでに100万人規模の大国であったという[a]。

 西暦391年に大和朝廷が激しく高句麗と戦った時期の天皇は、第15代応神天皇であった。応神天皇陵は全長418メートルあり、次代の仁徳天皇陵全長485メートルに次ぐ最大級の古墳である。

 仁徳天皇陵の建造は、1日2千人が働いたとしても約16年かかるほどの大土木工事で、そんな巨大古墳を二代続けて建造できるほどに、当時の大和朝廷の国力は充実していたのである。[b]


■3.百済(ペクチェ、くだら)・新羅(シルラ、しらぎ)、、、

 この戦いの背景について、東書版の本文では、中国の南北朝への分裂を記述した後に、こう説明している。

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 いっぽう朝鮮半島では、高句麗(コグリョ、こうくり)と、4世紀におこった百済(ペクチェ、くだら)・新羅(シルラ、しらぎ)の三国が、たがいに勢力を争っていました。大和政権は、百済や、小国が分立していた加羅(カラ、から、(任那(イムナ、みまな)地方の国々と結んで、高句麗や新羅と戦いました。[2,p32]
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 記述内容の比較に入る前に、まずふりがなに言いがかりをつけておく。コグリョ、ペクチェ、シルラなどという韓国語読みが、なぜ日本の、それも中学の教科書に必要なのか、という点である。

 そもそも地名や人名の呼び方は、各国語さまざまで良いというのが国際常識である。たとえば、フランスの「パリ」は、英語では「Paris, パリス」、ドイツ語では「Paris, パリース」、イタリア語にいたっては「Parigi, パリージ」などと、隣接国でも勝手に呼んでいる。

 フランス人が英語で話す時は「Paris, パリス」と言うのが常識である。逆にフランスの首都なのだから、イギリスの教科書にも「パリ」と書けと要求したら、非常識な中華思想の持ち主と軽蔑されてしまう。

 まして義務教育である中学の歴史教科書とは、各国民が持つべき歴史常識を次世代の子供たちに伝えるためのものである。日本語では百済は「くだら」であり、「ペクチェ」などと言う日本人はいないのだから、ふりがなは「くだら」で十分である。

 このシリーズで何度も述べてきたように、東書版では随所に半島寄りのアンバランスな視点が見られる。よほど愛国的な半島出身の執筆陣が書いていると邪推しているが、それならそもそも韓国語で、韓国か北朝鮮の歴史教科書を書いたらどうか。


■4.正反対の歴史観

 次いで本文の比較をしてみよう。

 自由社版では、高句麗が南進し、百済が助けを求めたので、大和朝廷が出兵した、という経緯が記されている。さらに、「高句麗は、百済の首都漢城(現在のソウル)を攻め落としたが、百済と大和朝廷の軍勢の抵抗にあって、半島南部の征服は果たせなかった」と結果を記している。

 大和朝廷が参戦したのは、百済の救援のためであり、それによって百済は独立を守れたのだから、戦争目的は達成できた、ということになる。

 東書版に描かれた光景はまったく異なる。高句麗と百済、新羅の勢力争いに、大和政権が百済、任那と同盟して参戦した、と描かれている。これでは単に、朝鮮半島での勢力争いに加わったというだけである。

 さらに、その戦いで、高句麗がしばしば勝ったという。これでは、豊臣秀吉のはるか以前から日本は朝鮮半島を侵略しようとしていたが、高句麗の強兵に阻まれた、という言い方でもできよう。

 歴史観の違いとはこういう事である。この二つの中学歴史教科書はまさに正反対の歴史観を唱えているわけである。


■5.半島南部は大和朝廷の勢力圏

 もう一つ、自由社版にあって、東書版にないのが、任那と大和朝廷との関係である。自由社版では「大和朝廷は、もともと、貴重な鉄の資源の供給地である半島南部と深い交流をもっていた」「このころから、半島南部の任那(みまな、加羅(から))に影響力をもったと考えられる」と、記している。

 この100年ほど前にかかれた『魏書』では「「魏志倭人伝」と並んで「韓伝」「高句麗伝」など、半島の情勢も伝えているが、そこには半島南端部は「倭」の領土である、という認識が示されている。そして半島南東部では倭人が鉄の採取を行っていた、という記事がる。[a]

 考古学的に見ても、半島西南端の栄山江地域には、5~6世紀に築造された日本独特の前方後円墳が10数基も築造されている[a]

 同時に日本列島からもたらされた遺物、列島からやってきた人物が現地で製作したと思われる遺物が半島南部から少なからず出土している。任那の地には倭人が集団で移住していたのである[3,p23]。

 百済、新羅との関係においても、両国から王族などが人質として大和朝廷に送られた。ただし、これは純粋な人質というよりも、次代の王族を「親日派」として育てようという狙いもあったようで、405年に百済で王が没すると王位継承争いが起こり、大和朝廷は人質として来ていた王子を送還して、その即位を支援している。[3,p45]

 こうして見ると、大和朝廷は任那をほぼ直轄領土として治めており、さらにその北側の百済、新羅を服属国として勢力圏内においていた、と言ってもよさそうである。そこに高句麗が攻め込んできたら、大軍を送って防衛するのは宗主国の当然の努めである。

 こうした史実から見ると、自由社版の「深い交流」「影響力」という表現は控えめながらも妥当であり、東書版のあたかも対等な同盟のような書きぶりは、史実にそぐわないと言える。


■6.南朝への上表文

 高句麗を牽制するために、大和朝廷が打ったもう一つの手は、中国の南朝宋と結ぶことだった。自由社版はこう説明する。

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 南朝の歴史書には、倭の5人の王(倭の五王)が、次々に使者を送ったことや、大和朝廷の支配が広がっていくようすが書かれていた。大和朝廷が南朝に朝貢したのは、高句麗に対抗し、朝鮮南部への軍事的影響力を維持するためだった。[1,p61]
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 さらに倭王武(第21代・雄略天皇)が送った次のような上表文が引用されている。

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 昔からわが祖先はみずからよろい・かぶとを身につけ、山野を越え、川をわたって落ち着くひまもありませんでした。東は毛人(1)を55か国、西は衆夷(2)を66カ国、海をわたって北の95カ国(3)を平定しました。(「宋書倭国伝」より)

(1)東北地方の人々のことか。(2)九州地方の人々のことか。(3)朝鮮半島のことか。
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 東北地方や九州地方を平定したとは、日本武尊(やまとたけるのみこと)の物語を思い起こさせる[c]。雄略天皇の治世は456年から479年であるが、大和朝廷が高句麗と激しく戦った391年は、その曾祖父・第15代応神天皇の時代であった。

 その応神天皇の母親が三韓征伐の神功皇后であり、祖父にあたるのが日本武尊である。こうしてみると、大和朝廷は代々、国内および朝鮮半島の平定のために務めてきたわけで、「よろい・かぶとを身につけ、山野を越え、川をわたって落ち着くひまもありませんでした」というのも、実感の籠もった言葉である。

 東書版でも、この上表文は引用されているが、「海をわたって95国を平定しました」という部分については、自由社版のような「朝鮮半島のことか」という注釈はない。海をわたったら朝鮮半島だというのは言わずもがなのことだからか、あるいは大和朝廷が半島に勢力を広げていた事実を少しでも隠したいのか、、、


■7.中国の冊封体制には従わない、という外交方針

 倭王武の上表文の目的は、高句麗に対抗すべく、国内および高句麗を除く朝鮮半島全域での軍政権を宋に認めさせることであった。上表文の冒頭で、東北、九州、朝鮮半島での平定の歴史を訴えているのは、そのためである。

 しかし、南朝の宋は北魏と対立中であり、南北両朝に両属外交を展開していた高句麗を敵に回すわけにはいかなかった。そのため、倭王の要請は聞き入れられなかった。

 そして、これを最後に、大和朝廷から中国へ遣いを送ることはなくなった。望みを聞いて貰えない以上、つきあっても意味はない、という事であろう。

 中国の王朝から、周辺国の王が位を授けられ、領土の支配を認められることを冊封と呼ぶ。わが国の君主で、冊封を受けたのは、卑弥呼と、この倭王武を含めた倭の五王のみである。[3,p83]

 卑弥呼は、魏と高句麗との対立が激化したタイミングを見計らって遣いを送り、高句麗を共通の敵として、魏との一種の同盟関係を結んだ[d]。倭の五王も、高句麗との対決のために宋と同盟関係を作ろうとしたが、中国が南北朝に分裂していたので実現しなかった。

 こう見ると、中国王朝の冊封体制とは、わが国にとっては、利用価値のある時だけ、それに従ったという外交手段に過ぎないと言えよう。

 倭王武で途絶えた外交関係の途絶は、隋が中国大陸を統一し、それに対して聖徳太子が遣隋使を送るまで120年余も続く。そして、太子は隋に対して、あくまで対等な立場で国書を送っているのである。それでも隋は高句麗との対決上、使者を丁重に扱っている。

 雄略天皇は、この上表文を最後に、中国王朝との断交を決意したようだ。この時期に、国内では「治天下大王」という称号が用いられ始める[3,p79]。これは中国の皇帝を世界の中心とする中華思想からの離脱であって、以後、中国の冊封体制には従わない、というのが、大和朝廷の外交方針として定着していくのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(685) 倭国は東アジアの大国だった。
 中国の史書は、倭国が国家の統合度と人口規模でずば抜けた大国であったと記している。
http://blog.jog-net.jp/201102/article_1.html

b. JOG(766) 歴史教科書読み比べ(5) ~ 古墳はなぜ作られたのか?
 その規模と数で世界史的にも特筆すべき日本の古墳が作られた理由は何か。
http://blog.jog-net.jp/201209/article_4.html

c. JOG(584) 日本武尊 ~「安国(やすくに)」への道
 日本武尊は大君から「服(まつろ)わぬ者共を言(こと)向け和(やわ)せ」と命ぜられた。
http://bit.ly/ZHTBGE

d. JOG(759) 歴史教科書読み比べ(4):邪馬台国の戦略外交
「魏志倭人伝」から、朝貢外交を学ぶか、戦略外交を学ぶか。
http://blog.jog-net.jp/201207/article_7.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

2. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3. 熊谷公男『大王から天皇へ 日本の歴史03』★★★、 (講談社学術文庫) 、H10
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062919036/japanontheg01-22/



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