愛国保守のメルマガ特集

現在の日本は危険な状態です。国内に反日勢力が蠢いています。在日朝鮮人、中国人がいます。また、外国のスパイが野放しです。

韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人: 2-2 枡富安左衛門

2014-03-30 16:38:59 | 韓国問題

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韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人
2-2 枡富安左衛門 ~ 韓国民の精神開発を使命とした日本人

 日本人校長は韓国人学生に「本当に独立を望むなら学ぶのだ」と口癖のように説いた。
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■1.韓国政府から国民勲章を授けられた日本人■
 1995(平成7)年12月16日、韓国の京郷新聞は次のような記事を掲載した。[1,p195]

__________
 15日午前、ソウル市鐘路区三清洞にある中央教育研修院の講堂では、国民教育に寄与した功労で、3092人に達する国民教育功労者の褒章式が開かれた。

 そのなかで、もうすでに故人になった一人の日本人が、私立学校の設立に功績があったとして追贈され、国民勲章の牡丹章の受章者に選ばれて注目された。(その人物の名前は)枡富安左衛門氏(ますとみ・やすざえもん)。
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 国民勲章とは、政治や経済、社会、教育などの分野で韓国民の福祉向上と国家の発展に大きく寄与した人物に与えられる勲章で、日本の文化勲章に相当する。等級は5段階に分かれており、その中で「牡丹章」は2番目に高いクラスである。

__________
 故人の娘の石井武子さん(75)が、父親の代わりに勲章を受け、参加した人々から熱い拍手喝采を浴びた。・・

 枡富氏は1918(大正7)年から全羅北道富安郡に富安教会、富安小学校、高敞高等学校を設立して、この地域の人々の精神啓発に一生を捧げた。・・・

 高敞高校出身のハングル学者の韓甲洙さん(83)も、「日本人にかかわらず、自分の私財を投じて学校と教会を建てるなど、韓国を愛し、この地方の開花に種をまいた先駆者だ」と話し、「日本人だというだけで罵倒してしまうには、あまりにも大切な方だ」と述懐している
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 1995年といえば、韓国にとっては「光復(植民地からの解放)」50年にあたっていた。光復節の8月15日には、旧朝鮮総督府の建物が日本統治の象徴として解体撤去され、その式典で、金永三大統領が「植民地支配と侵略行為を日本は素直に反省すべきだ」と演説した。

 こうした反日感情の中で、日本統治時代の朝鮮に生きた一人の日本人が、韓国政府から「国民勲章」を受けるとは、どうしたわけか。そこには日韓両国にまたがる人々の強い絆があった。


■2.韓国農業で国利民福を志す■

 枡富安左衛門は、明治13(1880)年、福岡県門司市の醤油製造業を営む家に生まれた。下関商業学校在学中に父を失ったため、17歳にして家業を継ぎ、店を切り盛りしながら、学校で商業を学んだ。

 明治37(1904)年2月、日露戦争勃発と共に、枡富は出征して、食料・物資の調達・分配など後方の兵站部門に従事した。

 出征前から「韓国農業に付きて之れが経営をなして国利民福(JOG注:国に利益をもたらし民を幸福にする)を謀る考えなり」と、韓国での農業経営の志を抱いていたが、出征の途上で、全羅北道(朝鮮半島南西部)の沃野を自らの目で確かめて、その意思が固まった。

 当時の朝鮮半島は、停滞した李朝王朝のもとで農業も荒廃の極みにあり、しばしば飢饉に襲われていた[a,b]。そこに日本の進んだ農業技術を導入することで、生産性を飛躍的に上げる余地があった。

 日露戦争が終わって帰国した枡富は、明治39(1906)年6月、再び全羅北道を訪れた。この地は李朝末期の東学党の乱の発祥地であり、この頃でも残党が山野に潜伏して、韓国人地主を襲撃したりしていた。そんな中を馬にまたがって、土地を物色して廻る枡富の姿は、農民たちから「無謀な行為」として驚きをもって迎えられた。


■3.尊敬と思慕の念を集めた農業経営■

 枡富は、この地で4万坪の土地を購入して、農業経営を始めた。当時の朝鮮半島での農業は原始的な零細農で、面積当たりの収穫も少なかった。また毎年のように洪水や日照りに襲われていた。

 枡富は半島でも有数規模の水利組合の結成に参画し、近くの湖から農業用水を確保して、干ばつや洪水の被害防止に大きな成果を上げた。また湖からの水流を利用して発電し、この地方に電灯をともすことに成功したという。燃料源として乱伐が進んでいた付近の山々の植林事業にも、近隣の日本人農業主や韓国人農民と協力して取り組んだ。

 さらに悲惨な生活を送っていた小作人たちの救済のために、畑作の改良、緑肥の調整、二毛作、間作などに取り組ませた。こうした農業経営を進めた枡富は、小作人を含め近隣住民から尊敬と思慕の念を集めた。


■4.「韓国の仕事は信仰を元としてやりたい」■


 枡富の農業経営に思想的な基盤を与えたのが、妻・照子の影響で入信したキリスト教だった。韓国での農業経営を始めた翌年の明治40(1907)年、枡富は照子と結婚した。照子は福岡英和女学校(現在の福岡女学院)在学中に、アメリカ人女性宣教師と出会い、卒業の年に洗礼を受けていた。

 当初、照子は韓国に渡って新婚生活を営んだが、慣れぬ土地で体調を崩し、病気がちになったため、国内に戻って療養生活を送るようになった。以後、枡富は韓国を、照子は日本国内を本拠地とし、数ヶ月単位でお互いに行き来するようになった。

 照子は枡富にキリスト教入信を勧めたが、枡富は「仏教にも、儒教にも良い所はある。すべての宗教の長所をとって、国のためになしたい」と言って、なかなか聞き入れなかった。

 しかし、照子とともに教会通いをしているうちに、ついに折れて、「僕も信者になる。韓国の仕事は信仰を元としてやりたい」と言った。結婚3年後のことであった。

「信仰に基づいた農業経営」を目指した枡富は、デンマークを自らの事業のモデルとした。この点を次のように語っている。

__________
 1850年代に一人の牧師が現れて、信仰に基づいた農業と教育の振興を唱え、それが広く国民に受け入れられた。その結果、やせてどうにもならなかった土地が開墾され、世界にも模範的な農業国になった。[1,p145]
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 枡富は、まずは自身の信仰を確かなものとするために、大正元(1912)年、神戸の神学校に入学した。韓国での事業は、一時的に友人に託した。さらに将来の韓国での教会事業は、韓国人自身の手によらなければならないとして、3人の優秀な韓国人学生を呼び寄せ、自分とともに神学校に入学させた。

 この後、枡富は多くの韓国人学生に奨学金を出して、日本やソウルの大学、神学校で学ばせるようになった。


■5.私立小学校の設立■

 神戸の神学校で学んでいる間に、枡富は韓国の農場の近隣で、子ども向けの学校として「私立興徳学堂」を設立した。当時の韓国全土には、370万人の就学年齢の児童がいたが、寺子屋のような私塾を含めても、18万5千人、全児童の5%しか、教育を受けていなかった。

 当初は、村人たちも子供を通わせるのをいやがり、入学希望者は非常に少なかった。経済的な理由からであろう。そこで枡富は、児童全員に教科書やノート、鉛筆などを無料で提供し、授業料までもただにした。

 村民たちは、こうした枡富の教育への熱心さや、正規の小学校と変わらない充実した教育内容ぶりを知って、すすんで子供たちを学堂に通わせるようになった。

 神戸神学校で学んでいた3人の奨学生が大正5(1916)年に卒業して教員に加わった。彼らは学校に寝泊まりして、教育内容の充実に智恵を絞った。

 こうした努力が実って、大正8(1919)年、興徳学堂は学校法人としての認可を受け、私立吾山普通学校と改名した。当時、普通学校は1郡に1校を原則として設立が進められていたが、いち早く普通校を持てた高敞郡は、他地域の住民たちから非常に羨ましがられたという。


■6.学校存続に立ち上がった郡民たち■

 大正7(1918)年、枡富は所有する土地約2100坪を使って、「私立吾山高等学校」を設立し、中等教育に乗り出した。早くも2年後に、正式な学校法人としての認可を受け、「吾山高等普通学校」に昇格した。当時の高等普通学校は、朝鮮全土でも12校しかなかったところに、近隣6道での初めての高等普通学校が人口まばらな寒村に出現したことは、大きな話題となった。

 ここまでは順調に成長してきたが、第一次大戦後の経済不況の波が、枡富の事業経営を直撃した。今まで農業で得た利益を学校経営につぎ込んできたのだが、それも難しくなった。

 枡富は、大正11(1922)年3月31日限りで、吾山高等普通学校を廃校させざるをえない、と発表した。生徒全員は他の学校に転校させ、その学費と交通費を負担することとした。

 しかし、この地方ではかけがえのない高等普通学校を潰してはならない、と高敞郡守・金相鉛の呼びかけのもと、地元郡民たちが立ち上がった。もともと独立意識の強い地方で、「自主独立は教育を通じての知性の開明が伴わなければならない」を合い言葉に、学校存続を決議した。

 郡民は募金活動を展開し、約30万円を集めた。意気に感じた枡富も生徒たちへの弁済にあてるつもりだった1万5千円を寄付した。枡富はしばらく校長、理事長の立場に留まることとなった。

 同時に人里離れた吾山から郡庁のある高敞に移転され、ここに「高敞高等普通学校」として再スタートした。大正15(1926)年、校舎を近代的な赤レンガ造りの2階建てに改築した際の落成式には斎藤実・朝鮮総督が参列した。斎藤は「文化政治」を標榜していた。枡富と親交があり、人作りを最優先した枡富の事業に共感を抱いていたのだろう。

 吾山普通学校も、枡富は敷地、校舎、施設のいっさいを当局に寄付し、富安公立普通学校と改称された。


■7.「本当に独立を望むなら学ぶのだ」■

 枡富は「本当に独立を望むなら学ぶのだ」と口癖のように生徒たちに説いた。韓国の人々の独立への思いに共感し、そのためには現地の青年たちが将来様々な方面で活躍し、自分の力で発展できるよう、生徒たちの教育に心を砕いた。

 その精神は、高敞高等普通学校にも受け継がれた。抗日運動、独立運動に参加して公立学校を退学させられた生徒たちを進んで受け入れ、勉学の場を提供した。やがて高敞は「民族運動揺籃の地」として、朝鮮全土に知られるようになる。

 冒頭の新聞記事に登場したハングル学者の韓甲洙氏もその一人だ。昭和5(1930)年に光州学生独立運動に参加して、それまで学んでいた学校から退学処分となり、監獄出所後はどこの学校も編入学を認めようとしなかった。

 風の噂をたよりに高敞高等普通学校の門を叩くと、応対に出た職員は「韓国のために戦う学生は、勉強させなければならない」とただちに入学を認めてくれた。

 韓甲洙氏は、教鞭をとっていたハングル語学者・鄭寅承に出会い、ハングル研究の道を志す。後に韓国で初めてのハングル辞典の編纂委員の一人となり、戦後は李承晩大統領の秘書室長も務めるなど、韓国の政界、教育界の中枢で活躍した。


■8.「私の使命は韓国民の精神開発」■


 昭和10(1935)年に高敞高等普通学校を卒業した一人が鄭成沢氏である。枡富はすでに日本に戻り、その前年に亡くなっていたので、直接の面識はなかった。鄭氏は卒業後、教育者の道を歩み、戦後の1966(昭和41)年、富安国民学校の校長に任命された。

 鄭氏が教育の一環として、生徒たちに学校の歴史を調べさせたところ、同校が枡富の手によって設立されたことを初めて知った。自分でも関連資料を探したところ、近隣の老人が『枡富安左衛門追想録』と題した分厚い本を差し出した。枡富の夫人・照子が編纂したもので、枡富自身の手紙や文章が収録されていた。それを読んだ鄭氏は深く心を動かされた。

 鄭氏は翌年の創立記念日に、全校児童にこう語りかけた。

__________
 皆さんは、日本人が建てた学校に通っている。韓国民を熱烈に愛した日本人が、その熱情に動かされて建てられた学校に通っているのだ。皆さんは、それを誇りに思って貰いたい。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 鄭氏は枡富の命日に追悼式を行い、さらに私費を投じて顕彰碑を建てた。「枡富先生教育功労碑」としたかったが、当時の反日感情の中では打ち壊される恐れもあったので、「学校設立記念碑」とし、裏面に設立の歴史として、枡富の事績を記した。

 しかし、反日教育を受けた若い職員らから「倭人を称えるなど、もってのほかだ」と批判され、その一人が「親日校長」などと非難する投書を教育委員会などに送り続けた。鄭氏は、学校や同僚にも迷惑がかかるとして、教職を去った。


■9.「私の使命は韓国民の精神開発」■


 1995(平成7)年、枡富の60回忌の年に、鄭氏は韓甲洙氏らとともに再び立ち上がった。学校を設立した外国人が韓国政府から相次いで表彰されていたので、同様の政府表彰を申請したのだった。

「日本人を表彰するなどもってのほか」と担当の役人たちは迷惑そうな表情を隠さなかったが、韓氏の人脈を通じて粘り強く説得し、ついに大統領の決裁がおりたのである。こうして冒頭の「国民勲章牡丹章」授賞が実現した。

 富安国民学校の校庭には、開校時に植えられたアカシアの苗木は今は巨木となって、子供たちに格好の日陰を提供している。校庭の片隅には、鄭氏の建てた石碑が今も残っている。その側面には、鄭氏の好んだ枡富の言葉がさりげなく刻まれている。

__________
 私の使命は韓国民の精神開発であり、私のすべてのものは、即ちそのためにあるだけだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html

b. JOG(204) 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営
 朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と朝鮮人の平等・融和のチームワークだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog204.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 黒瀬悦成『知られざる懸け橋―枡富安左衛門と韓国とその時代』★★、朝日ソノラマ、H8
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4257034734/japanontheg01-22%22




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ベトナム戦争時 韓国軍駐留基地内に「慰安所」的な施設存在

2014-03-27 21:18:36 | ライダイハン

ベトナム戦争時 韓国軍駐留基地内に「慰安所」的な施設存在2014.03.22 07:00


韓国ではベトナム戦争に参戦した韓国軍の蛮行が、ここに来て問題視され始めている。




その象徴が韓国軍兵士がベトナム人女性をレイプするなどして生まれたライダイハン(ベトナム語で「ライ」は混血、「ダイハン(大韓)」は韓国を意味する蔑称)だ。





 ベトナムにはこのライダイハンは数千人から3万人いるといわれている。戦争終結後にベトナムに流入した韓国人ビジネスマンと現地女性との間に生まれた子もいるが、韓国兵による性被害により生まれたライダイハンも少なからず含まれているのは事実だ。




 ベトナム問題に詳しいフォトジャーナリストの村山康文氏も、「クイニョンの韓国軍基地の食堂で働いていたという女性から、4、5人の韓国兵にレイプされライダイハンを身ごもったと聞いた」と語る。




 ただ、こうしたレイプがすべてではない。かの戦争時、少なからぬ韓国人にとってベトナム人女性は、“性の商売道具”でもあった。




 ベトコン掃討作戦により、農村部から命からがら逃げ出した人々のうち、多くの若い女性は売春で家族を養うほかなかった。そのブローカーや雇い主の多くが民間の韓国人だったという。





 ベトナム戦争では、戦争の特需にあやかろうと建設業者や運送業者、飲食施設経営者など、総計1万5000人もの民間人が韓国からベトナムに渡っていた。


中でも外国人相手の売春斡旋業に手を染める韓国人は少なくなかった。ベトナム戦争当時にサイゴン支局長を務めていた元朝日新聞記者の井川一久氏はこう語る。




「米軍や韓国軍の駐屯地に近い都市には、韓国人経営のナイトクラブ、バー、キャバレー、ホテルなどが密集していて、その多くは売買春施設でもあった。風俗産業の相当の部分が韓国人に握られていたといっても過言ではない。その種の事業に関係する日本人は私の知る限りは2人だけでしたが、韓国人は数百人単位でいた」



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韓国サイト 韓国軍人に暴行されたベトナム人女性の証言掲載

2014-03-27 13:34:55 | ライダイハン
 
  韓国サイト 韓国軍人に暴行されたベトナム人女性の証言掲載

2014.03.20 07:00
 





 韓国ではベトナム戦争に参戦した韓国軍の蛮行が、ここに来て問題視され始めている。3月7日、かつて日本軍の慰安婦だったという女性とその支援団体代表がソウルで会見を開き、ベトナム戦争に参戦した韓国軍による「ベトナム人女性に対する性暴力や民間人虐殺」について、「韓国政府が真相を究明し、公式謝罪と法的責任をとるように」と訴えたのである。

 韓国がベトナム戦争に参戦したのは1964年のこと。1973年まで、のべ32万人もの兵士を南ベトナムに派遣している。

 実は、ベトナムでの韓国軍による蛮行を、当事者である韓国人が知ったのは1999年で、戦争終結からかなりの年月を要していた。発端は週刊誌『ハンギョレ21』(1999年5月6日号)が始めた1年以上にわたる連載記事だった。記者がベトナム当局から資料を入手し、現地取材と生存者への接触を重ね、韓国軍による殺戮の実態を白日の下に晒した。とくに殺害方法に触れた箇所は凄惨を極める。

〈生存者の証言を元に韓国軍の民間人虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通したパターンが見られた。

●子供たちの頭を切り落とし、手足を切断して火に投げ込む
●住民をトンネルに追い詰め毒ガスで窒息死させる
●女性たちを次々に強姦したあと殺害
●妊婦の腹から胎児が飛び出すまで軍靴で踏みつける〉

 まさに韓国史のタブーに初めて切り込んだ記事だった。しかし、長く封印されてきた蛮行を暴いたことに、政権は怒り、元軍人たちも大反発した。同誌を発行する本社の幹部が、退役ベトナム参戦軍人らに監禁、暴行される事件まで起こった。

 それから10年以上を経て、ようやく同誌に追随する動きが出始めた。先の市民団体の声明の前日、韓国の市民参加型ニュースサイト『オーマイニュース』に、韓国軍人に集団輪姦されたベトナム人女性の証言が掲載されたのである。

 韓国軍の基地で働いていた当時20歳の女性が、兵士たちに輪姦された挙げ句に妊娠。「ライダイハン」を出産し、現在に至るまでの苦労の人生を回顧している。

 ライダイハン──。ベトナム語で「ライ」は混血、「ダイハン(大韓)」は韓国を意味する蔑称である。

※週刊ポスト2014年3月28日号



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ベトナム戦争 韓国軍「ゴダイの虐殺」を生き残った人の証言

2014-03-27 13:24:38 | ライダイハン

ベトナム戦争 韓国軍「ゴダイの虐殺」を生き残った人の証言  

ベトナム戦争当時の韓国の指導者は、陸軍少将の時にクーデターを起こし、軍事独裁政権を樹立した朴正熙(パク・チョンヒ)大統領だった。現在の朴槿恵(パク・クネ)大統領の父親だ。彼は30万人以上の韓国兵を戦地ベトナムに送り込んだ。そこで起こった「虐殺と陵辱」にいま改めて注目が集まっている。

 ベトナム問題に詳しいフォトジャーナリストの村山康文氏は、現地取材を通じ、韓国軍による民間人の無差別殺戮や女性の性的陵辱といった戦争犯罪について、多くのベトナム人から直接の証言を得てきた。

 ベトナム中南部ビンディン省の省都・クイニョンにほど近い「ゴダイ集落」は、韓国兵の暴虐が最も苛烈を極めた地だ。1966年1月23日から2月26日にかけ、多数の民間人が殺された。ベトナム国内では〈ゴダイの大虐殺〉と呼ばれ、いまだ民族の悲劇として語り継がれている。

 同集落にあるタイヴィン村に住むグエン・タン・ランさん(62)は、15発もの銃弾を受けながら奇跡的に一命を取り留めた。同村を襲撃したのは韓国陸軍・首都ソウル防衛師団「猛虎部隊」だった。

「100人を超える韓国兵が村を襲撃したのはまだ朝靄の残る9時頃でした。怒声とともに彼らは村の1軒1軒のドアを足で蹴破ると、屋内にいた人間の髪の毛を掴みながら引っ張り出し、全65人の村人を1か所に集めました。

 韓国兵は一斉掃射で私たちを皆殺しにするのではなく、銃で追い立てて数人単位のグループに分かれさせ、4、5人ずつ集中砲火を浴びせ殺していくという方法を取りました。私の両親や親族も私の眼前で殺されました。

 その最中、韓国兵は中に若い女性を見つけると、寄ってたかって引きずり出し、地面に乱暴に転がした。そして私たちの目の前で輪姦し始めたのです。乱暴の限りを尽くされ、すでに微動だにしなくなった娘を、最後には撃ち殺した」

※週刊ポスト2014年4月4・11日号



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韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人: 2-1 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営

2014-03-23 13:14:49 | 韓国問題



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韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人
2-1 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営

 朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と朝鮮人の平等・融和のチームワークだった。
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■1.日本統治下の発展■__________


 日帝(日本帝国主義)の支配下で、わが民族はとくに経済的な収奪によってひどい苦痛を受けるようになった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

と、韓国の歴史教科書は日本統治時代を批判するが、当時の朝鮮経済の発展を定量的に調べてみると、そこに浮かんでくるのは、この文章にはそぐわない逞しい発展の姿である。

 朝鮮半島の人口は1906年(明治39年)の980万人から、1938年の2,400万人と、約30年間で2.45倍に急増した。その原因は、医療制度の確立と、米の大増産だった。後者については併合当初の生産量約1千万石が、20年後には2千万石へと倍増した[a]。

 韓国の歴史学界でも経済史分野では、日本統治を再評価する研究者が3分の1を占めるというが、反日イデオロギーにとらわれない実証的研究の進展を期待したい。

 今回はその一端として、米の大増産を誰がどのように推進したのか、史実を辿ってみよう。


■2.日朝融合の開発を■


 大正7年夏、京阪神、東京を中心に米騒動が勃発し、その責任をとって、寺内内閣が総辞職をした。投機による米価高騰が原因だったが、その根底には人口増による国内の生産量不足があった。

 後継の原内閣は長期的展望に立った食糧問題解決のために、「開墾助成法」を制定し、産米の増大を図った。しかしこの法案は日本内地だけを対象としており、朝鮮殖産銀行初代頭取・三島太郎は大いに憤慨して、これを朝鮮にも施行するよう強く建議した。

__________
 日本内地と朝鮮とは、幾多の関係に照らして考えれば、これを差別して母国対植民地とみなすのは妥当ではない。・・・ たとえば、今回の開墾助成法に基づく米穀増収計画のような立法精神に照らして、最もその実効を期そうとすれば、むしろまず朝鮮において施行すべきである。

 これまでの(内地からの)移民の招致にあたっては、多くの場合、既成の開墾地を買い入れることを常とした。そのために朝鮮人を圧迫し、その利益を剥奪するような結果を生じ、反感を激成した事実がある。・・・したがって、移民招致の方針と開墾助長の計策とを併せて行ない、もっぱら未開墾地の開墾を促進し、それをもって日本人移住者の安定を図れば、朝鮮人の悪感を誘起することはない。

 朝鮮産業の開発は、交歓をもって隣人関係を保つ日本人と朝鮮人融合のもとに、協同の力によってこそ、有終の効果を発揮できるものといわなくてはならない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 三島の建議が奏効して、朝鮮殖産銀行を中心に半島における米増産に本格的に取り組む事となり、突貫作業で「第一次朝鮮産米増殖計画」が立てられ、さらに5年後に見直されて「産米増殖更新計画」が制定された。

 これは大正15年からの12年間で、3億25百万円を投じて、35万町歩の土地改良・農地造成を行い、年産816万石の増産を図り、約3百万石を半島内の消費増にあて、残りを内地販売に向ける、という計画であった。併合当初の年産1千万石と比較すれば、この計画の壮大さが窺われよう。


■3.朝鮮農業の課題■

 増産の主要な柱として水利事業があった。半島での面積あたりの米収量は内地の半分以下であり、これは天水(雨水)頼みで、3年に一度くらいの雨の多い年でなければ、収穫の望めない天水田が過半を占めていたことによる。

 朝鮮半島はもともと雨が少なく、それも6月から8月に集中する。この量と時期が少しでも狂うと米作は大きな被害を被る。大正8年は降雨量が平年の3割に過ぎず、中、西部において大干害が起こって、70万人が流民となって他地方や満洲に流出したほどであった。

 少ない降雨を効果的に利用するには、灌漑施設が不可欠である。しかし朝鮮半島はこの面で大きく立ち後れていた。半島全体の灌漑施設数は2万4千カ所に過ぎず、日本の香川一県と同程度であった。

 また十分な補修もされずに、荒廃して用をなさない施設も多かった。これは李朝朝鮮時代に地主は都市に住んで農業技術も知らず、蓄えができれば高利貸しに回して、利の少ない農業への投資を喜ばなかったからである。


■4.大規模灌漑施設で収量3倍増■


 殖産銀行の水利事業は、灌漑施設の建設により、安定した収穫を上げることをめざしていた。まず農民たちに水利組合を結成させ、その組合に対して灌漑事業用の資金を貸し付ける。資金は担保不要で、朝鮮総督府自体が保証人となっていた。15年から20年の長期返済で、各農民が支払う水利組合費から支払われた。

 灌漑工事の大規模なものを見てみると、益沃水利組合における大雅里貯水池堰堤は、コンクリート堰堤の高さ30.9m、延長254mに及び、ここで堰き止めた貯水を総延長71kmの水路で10キロ四方程度の広大な田に配分していた。

 乾ききった天水田に満々と灌漑水が満たされた時の朝鮮農民の喜びようは大変なものだったという。収穫の安定から生産意欲も向上したことも、大幅な収量増に貢献した。

 昭和11年時点では、このような水利組合が190に上り、実施面積20万町歩、反当たり収量は0.49石から1.49石へと3倍になり、総額において202万石の増収が得られた。反あたりの水利組合費は、益沃の場合4.35円であり、1石の増加は40円程度の売上げ増につながったので、朝鮮農民の収入は著しく増大した。

 水利事業以外にも、朝鮮殖産銀行は農業倉庫の建設、化学肥料の使用、大規模干拓事業などに融資し、朝鮮農業発展の原動力となった。


■5.困難だった内地からの資本調達■

 このように朝鮮殖産銀行は長期的な資本投下により朝鮮農業の近代化に大きく貢献したのだが、その資本はどこから調達したのか? 現代のような開発銀行もODA(政府開発援助)もない時代である。ここに殖産銀行の最大の課題があった。

 産米増殖計画に必要な膨大な資金を調達するには、半島の地場資本では到底足りず、内地の金融市場をあてにする必要がある。しかし、その内地の資本はきわめて臆病で、事情のよく分からない半島での長期事業に投資しようとはしなかった。現在でも開発途上国の国債を喜んで買う人はいないのと同じである。

 2代目頭取有賀はその説得に多大の労力を費やした。その努力が稔って、殖産銀行は、所要資本の60%から多いときで80%近くを殖産債権の形で内地金融市場から調達した。また配当を確実に行って、市場の信用を高めた。これにより大正7年から昭和20年までに貸付量では実に100倍もの成長を支えたのである。


■6.朝鮮の文化伝統に則り、自主自立の精神を鼓舞する■


 殖産銀行による産米増殖計画は、大きな特徴が二つある。一つは市場原理に基づき、金融市場から資本を調達し、朝鮮農民の自立心を刺激しつつ採算のとれる事業化を進めた点。現代日本の公共投資などよりもはるかに市場原理に則った進め方だ。

 もう一つは朝鮮農民の文化的伝統を尊重した進め方である。上述の水利事業では水利組合の結成が重要なテコとなっているが、朝鮮では伝統的に「契」という強力な自治組織があり、これを大いに活用したものであった。

 実は第一次朝鮮産米増殖計画の直前に、「朝鮮農事改良(株)」を設立するという政府案があり、国会にまでかけられた。これは朝鮮に日本の大資本と新技術を投下して、一挙に増産を図ろうという構想だった。三島頭取はこのようなあまりにも植民地主義的な開発方式では、朝鮮の民族感情を著しく傷つける恐れ有り、と論難して、不成立となったという経緯があった。


■7.一視同仁の銀行経営■


 朝鮮農民の文化伝統を尊重し、自主自立の精神を重んずる進め方は、日韓併合時に謳われた「一視同仁(すべての人を平等に見て仁愛を施すこと)」、「内鮮融和(内地と朝鮮との融和)」を初代頭取・三島が現実に朝鮮殖産銀行の経営に生かして行こうとした所から生まれた。

 その具体的な現れとしては、日本人と朝鮮人を完全に同一待遇とした点がある。殖産銀行に勤務した朴承復さんの証言を聞いてみよう。

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 当時の朝鮮人にとっては最も人気の高い銀行は殖産銀行でした。次に朝鮮銀行、次に商業銀行や朝興銀行でした。

 なぜ殖産銀行の人気が高かったのかと言えば、まず第一に給料のよさです。朝鮮に来ていた日本人は、日本にいる日本人より給料が高かったんです。

基本給に外地手当ての加給が60パーセント加えられました。役所や一般の会社では朝鮮人には外地手当ての加給はつきませんが、殖産銀行では日本人と同じに朝鮮人にも60%の加給が加えられるんです。[2,p160]
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 今日でも、日系企業の海外子会社の現地社員と日本からの駐在員とが同待遇というのはまれである。大不況の時には、この点を改めて、費用削減を図るように内外から圧力がかかったというが、二代目頭取・有賀はこの平等待遇を貫き通した。


■8.人材の宝庫■
 

待遇だけでなく、当時の日本人と朝鮮人がまさに一体感をもって仕事に取り組んでいた様子を朴承復さんは次のように語る。

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 戦後までに支店長が三人代わりました。その一人に滝という支店長がいましたが、お酒の大好きな方でした。毎日清酒を一升飲むんです。日本人の独身の男性もいたのですが、滝さんは独身の私を奥さんを通してよく家に呼んでくれました。銀行の風呂に入ってから卓球をやり、それからお酒になるのです。・・・

 行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。日本人も韓国人も区別なく、みんな仲よく楽しく遊んでいました。

 日帝(日本帝国主義)時代にそんなことあり得ないと言われるかもしれませんが、過激な人や極端な人たちの一部での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか、見たこともありません。[2,p163]
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 大東亜戦争が始まると、日本人行員は次々と赤紙で徴兵されていったが、朝鮮人は炭鉱などに徴用された。朴承復さんの所にも徴用の赤紙が来たときに、滝支店長は「ばかやろう」と言葉を発するや、知事の所に行って「彼が行ってしまったら、この銀行はつぶれてしまう」と言って、徴用を撤回させた。

 殖産銀行が、朝鮮農民の痒い所に手の届くような事業を進めて大きな成果を上げ得たのも、朴承復さんのような現地人エリートに存分に活躍させたからであろう。朝鮮人で支店長になったり、課長が朝鮮人で部下が日本人ということも当然あった。

 このように殖産銀行は朝鮮の優秀な青年を抜群の待遇で採用し、大きな仕事を任せたので、後に人材の宝庫と言われるようになった。戦後の国家再建委員会の20人の委員のうち、実に12名が殖産銀行出身者で占められていた。朴承復さん自身も国務総理行政調整室長などの要職を経て、世界シェア3位のセンピョ醤油の代表となっている。


■9.有賀光豊の遺徳■


 有賀の四男・敏彦氏は、新日鐵の技術者として、昭和40年から約10年間にわたり、浦項製鉄所の建設指導を行った。同氏はその時の思い出を次のように語っている。

__________
 私が浦項在任中、父光豊の四男であることが知られるようになり、直接父を知る人、或いは密かに敬慕していた多くの韓国人から非常に親しく付き合って貰うことが出来、難事業であったものの極めて円滑に進捗することができた。[1,p465]
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 この敏彦氏のもとに、昭和40年代にソウル在住の見知らぬ韓国人から手紙が届いた。李廣基というその差出人の父親は、かつて日本統治時代に独立運動で捕まり、死刑の判決を受けたのだが、有賀が助命嘆願して海外追放となり、終戦後に帰国して郷里で余生を過ごしたという。

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 生前、命の恩人である有賀様に一目でもお目に掛かって、お礼を申し上げたかったのだが、その機会を得ず、まことに心残りである、有賀様は既に御存命でないと聞いているが、せめて、お前が有賀様の遺族の方を探して、お礼を申し上げてくれ、と言い続けておりました。

 私は父の遺志を果たすべく、つてを求めてご遺族を探しておりましたが、ようやく今日、ご子息である貴台の住所を知り、御手紙を差し上げる次第です。

 亡父に代わって、有賀光豊様の御鴻恩に対し厚く御礼申し上げます。
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 この「亡父」と有賀光豊がどういう関係にあったのか、有賀は一切語っていないので分からない。しかし敏彦氏はこう述べている。

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 父は、「朝鮮は我々がお手伝いをして立派な国に育て上げ、そのうえで本来の持ち主に返すべきだ」と考えていたことは、ほぼ間違いない事と思う。
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 朝鮮農業の大発展の原動力となっていたのは、このような精神の持ち主であった。

(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(056) 忘れられた国土開発
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html

b. JOG(005) 国際交渉の常識
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog005.htm

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 藤田文吉、「朝鮮産業経済の近代化と朝鮮殖産銀行」★、
西田書店、H5
2. 呉善花、「生活者の日本統治時代」★★★、三交社、H12




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