愛国保守のメルマガ特集

現在の日本は危険な状態です。国内に反日勢力が蠢いています。在日朝鮮人、中国人がいます。また、外国のスパイが野放しです。

韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観 :3-1 韓国製トンデモ日本史

2014-04-27 10:57:54 | 政治

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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観
3-1 韓国製トンデモ日本史

 日本は百済の残党が土着原住民を制圧して作った国?!
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■1.「日本海」が消える!?■

 韓国は「日本海」を「東海」という名称に改めさせようと国際的な運動を続けている。事の起こりはもう10年も前の1992 (平成4)年、韓国と北朝鮮が国連地名標準化委員会に共同で「日本海」という地名表記の是正を求める提案を行ったことである。[1]  

 平成14(2002)念8月に海図の名称を標準化する国際水路機関が作成した指針案では、韓国側の働きかけが通って「日本海」の名称が消えていた。外務省は慌てて高官を派遣して抗議し、日本の立場を支持する他の加盟国の批判もあって、この指針案を撤回することとなり、「日本海」の名称はかろうじて残された。[2]

 しかし、韓国側の執拗な運動で、百科事典エンサイクロペディア・ブリタニカ、米国の大手地図製作社であるランド・マクナリー社、新聞のワシントン・タイムズなどが「東海」の表記を併用したという。

 さらに各国の政府や民間のホームページ約8百件に「訂正要求」を行い、うち英BBC放送や英外務省など約90件のサイトに「東海」を認めさせることに成功したとしている[3]。ここまで執拗に地名を改めさせようという動きには、日本人にはなにか空恐ろしい執念を感じさせる。

 韓国側はその主張の裏付けとして、日本海は昔から「東海」と呼ばれてきており、「日本海」に変更されたのは日本が植民地統治をしていたからである、という「歴史事実」があるとしている。こんな「歴史事実」を持ち出されると、日本人はビックリしてしまう。しかし、これが簡単に反論可能な事実無視の主張だと知れば、国際社会はそんなに簡単に騙されるのかと、もう一度ビックリするだろう。


■2.日帝に奪われた地名!?■

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 この海は元々「東海」または「韓国海」であった。我々には東側の海であるから「東海」であり、世界人、特にヨーロッパ人にはアジアの東側にあるから東海であり、この海の東側は「太平洋」であった。よって「東海」や「韓国海」という名称は初めから韓国だけで用いられてきたのではなくて、国際的な公認表記だったのである。
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「日帝(日本帝国主義)に奪われた地名を探して」(金ギビン)という、タイトルからして、いかにも気張った本の一節である。金氏はこういう根拠として朝鮮日報(92年11月12日付け)の「研究結果」を引用している。

 そこには、1615年、コディンホ・デ・ヘレディアによるアジア地図に「MAR CORIA (韓国海)」と表記があった事を始めとして、11の地図で同様の表記をしているという年表をつけている。その中には、日本人が「朝鮮海」と呼んでいる例も3つある。

 この記事では「日本海」という表記が最初に現れた地図としてはマテオ・リッチが1602年に描いた「坤輿(こんよ)万国全図」があるが、その後200年間は、「日本海」という表記が使われなかった、と述べる。そして次のように結論を下す。

__________
 東海が「日本海」として呼ばれる傾向が強まったのは、はるか後である1904年日露戦争、そして1910年以後というのが我が学界の通説である。事態がこのようになってみると、世界に通用している「日本海」を除去することは韓国としてみれば「奪われた名前の取り戻し」となって、国際的には太平洋戦争を引き起こした日本軍国主義に対する最後の「終戦作業」の1つとなるわけである。
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■3.トンデモない嘘■

 こうまで書かれると、素人はたじたじとなってしまうが、さすがに我が国には、歴史事実をきちんと調べてくれる専門家がいる。その一人、青山宏夫氏の調査によれば、「日本海」という名称が現れる地図は「坤輿万国全図」以降、1800年までに16種を数える。したがって、「200年間は、『日本海』という表記が使われなかった」というのはトンデモない嘘である。

 日本で作られた3つの地図の一部に、「朝鮮海」と評価されているのは事実だが、これらは太平洋を「大日本海」とし、それとの対で「朝鮮海」が使用されたのである。西洋図では19世紀には、「日本海」という呼称が広く用いられており、19世紀後半は圧倒的に「日本海」が多い。

 韓国併合は1910年、20世紀に入ってからなので、日本が植民地支配によって「東海」という名称を無理矢理「日本海」に変えたという主張も事実ではない。

 これだけ明白な事実があるのだから、韓国がトンデモない主張をし始めた時から、いちいちきちんと反論していれば、国際水路機関の指針案から「日本海」が消えるような恐れはなかったはずだ。

 韓国が「東海」を主張し始めたとき、外務省もまさか、そんな嘘が国際社会で通用するはずがない、と思ったのではないか。その油断が外務省の怠慢を呼んだのだろう。国際社会でのプロパガンダ戦には、何でもあり、という基本を国際派日本人は知らなければならない。


■4.黄河文明もメソポタミア文明も朝鮮民族が作った!?■

 この「東海」のような、日本人があっと驚くようなトンデモ史観が韓国には多い。そしてそれは多分に日本にも関わったものだ。韓国の大手・東亜出版社は94年に「大朝鮮帝国史」という本を出版した。そこで描かれた朝鮮民族の発祥を要約すると、次のようなストーリーになるという。

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 古朝鮮の領土は北はバイカル湖から南は揚子江まで、西はモンゴル砂漠から東は日本にいたる広大なものだった。紀元前9000年前、東夷族である桓因はパミール高原の下に桓国を立て、その後バイカル湖の付近に移った。紀元前7000年前に韓国人の祖先はバイカル湖付近から分かれ、世界各地に散らばっていった。

 紀元前4500年には中国東北部に紅山文明ひいては黄江文明を打ち立てた。紀元前3500年頃には西に向かつた一部が、メソポタミア一帯にシュメール文明を築き、紀元前2700年ごろには中国南部に進出した一部がチベットまで征服し、8O0年問統治した。また西に向かった一部はフィンランドの北側に定着し、東北に向かつた一部はべーリング海を渡つてアメりカに入りインディアンの祖先になったという。

東に向かつた一部はサハリンを伝って日本列島に入り、日本に定着し、これが「倭」の祖先となった。紀元前2173年には朝鮮族は海を渡ってこの「倭」を征伐した。よって日本族の94%は我が同族〈朝鮮族〉である。
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 同様の内容が、韓国陸軍の「民族史教育」で教えられており、もちろん正規の歴史学者からは「考古学的な裏付けがない仮説を全軍に事実かのように教育するのは性急なこと」と批判されている。これに比べたら、我が国での「邪馬台国は九州か、近畿か」という論争など、はるかに地味でつつましいものに見えてくる。


■5.日本は朝鮮民族が作った国!?■

 韓国製トンデモ日本史はまだまだ続く。玄ギョンビンの「韓国人は偉大な韓国を望む」(1992)は、日本の古代から近世までの歴史を次のように説明する。

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 日本は7世紀未から国家形成期に入った。それ以前の日本は三韓・伽や(ニンベンに椰のつくりの部分)・百済などが自分の領土の一部として統治してきた。しかし660年、百済が滅亡し、その後裔らが続けて行った〈百済〉復興運動が失敗するや日本列島は自らの歴史期に入ったのだ。

夫餘氏家門が日王家〔天皇家―引用者注)を形成し、新羅系・百済系・高句麗系が武力で王族や貴族集団を構築した。彼らは新しい文化や伝統を普及させる一方で、土着原住民を制圧し、列島全域へと勢力を広げ、支配力を確保して日本を建設した。
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 この歴史観なら、日韓併合も、分家と本家が再合併したようなものだから、非難されるいわれはないのだが、それはまた別の話らしい。


■6.皇室のルーツは百済!?■

 日本は百済系の旧支配層が作ったというトンデモ史観では、当然、皇室のルーツも朝鮮でなければならない。

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 最初に日本を支配した天皇は、百済人の末裔である15代・応神天皇(4世紀)と仁徳天皇(5世紀)父子であった。(中略)6世紀に百済の武寧王の弟が26代・継体天皇になった以後、百済の王族が7世紀末まで即位した。

百済の聖王もやはり日本の天皇であるという主張がある。百済の聖王が540年に高句麗を攻撃して失敗し、540年に日本に渡って29代・欽明天皇になったというもの。33代・推古天皇(6世紀末~7世紀初)は、百済の王族の純粋な血統を引く日本最初の正式な女王である。その夫・敏達天皇(6世紀)も百済人王族である。
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 これは平成13年12月23日に、天皇陛下が「私自身としては桓武天皇の生母が武寧王の子孫であると、続日本記(しょくにほんぎ)に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」と述べられた御言葉を、東亜日報が報道した記事の一節である。

 天皇は、「桓武天皇の生母が武寧王の子孫」という歴史的文献に記載された事をそのまま述べられただけなのだが、これが韓国マスコミでは、「皇室の起源は韓国」というトンデモ史観にすり替えられて大々的に報道された。なかには、「強い衝撃/日本マスコミ、百済部分省き報道」などと、日本のマスコミがこの「真実」を隠そうとしたと報道した韓国紙まであった。

 日本の皇室のルーツが朝鮮にあった、というトンデモ史観は、韓国内で広く信じ込まれているそうな。ついにそれを「日王家」自身が認めた、やっぱり、という事なのだろう。本当にそう信じるなら、皇室は朝鮮民族最古の王族家系なのだから、「偉大なる朝鮮民族の象徴」として尊崇してしかるべきだろう。

 もちろん韓国の学界では、こんなトンデモ史観はほとんど支持されていない。韓国での日本古代史の権威・高麗大学の金鉉球教授は、「日本の天皇家の百済起源説を主張する本も出てきているが、史料の恣意的な解釈など歴史研究者の立場から見るとき学問的成果として受け入れられない」と述べている。


■7.万葉集は朝鮮語で書かれている!?■

 古代日本は朝鮮人が作ったというトンデモ史観で、一番苦しいのは、朝鮮語で書かれた文献が皆無である、という点である。しかし韓国の逞しいトンデモ歴史家たちは、その程度ではへこたれない。作家・李寧熙は、「もう一つの万葉集」で、万葉集の歌が朝鮮語で解読できるという「学説」をうちだした。

 たとえば、額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に次のようなものがある。

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金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念

 秋の野のみ草刈(か)り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治(うじ)の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思(おも)ほゆ(秋の野のみ草を刈って屋根を葺いて、泊まった宇治の宮処の仮の宿のことが思い出される。)
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 これが李寧熙にかかると、朝鮮語で次のような意味になるという。
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新羅よ 刀研いで注ぎ 締め苦しむなかれ
お上の都は 刀が 来るから来襲に備えよ
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 これは百済人である舒明天皇が、新羅の攻撃に備えよと百済に警告するために、額田王に作らせた歌であったという。どうしてこんな訳が出てくるのか、第2句「美草苅葺」のみ見てみると:

「美」は朝鮮語音読で「ミ」、「草」は「セ」で「ミセ」は「ムセ」に通じ「鋳物の鉄」を意味する。「苅」は日本語訓読で「カリ」。これは朝鮮語「カルダ」(磨く)の語幹「カル」。「葺」は日本語訓読で「フキ」。これは朝鮮語「ブッキ(注ぐ)」を表す、、、。

 朝鮮語と日本語の音訓を見境なく持ち出して、それを適当に変形して朝鮮語にこじつけている。それも「葺」は別の歌では語尾「ジ」を意味する、などと一貫性がない。李寧熙のトンデモ「学説」は日韓の学界ではまったく相手にされていないが、以後、このアイデアを真似て、万葉集や日本書紀を朝鮮語で解読しようとするトンデモ歴史家が後を絶たず、半ば「定説化」してしまったという。


■8.トンデモ史観と歴史観共有!?■

 以上、韓国での「トンデモ史観」を紹介した。ここで注意しなければならないのは、こういうトンデモ史観が流行るのは韓国だけでなく、日本も同じだということである。それは李寧熙の「万葉集=韓国語」説が日本でベストセラーとなり、それが韓国に輸出された事からも窺える。日韓の違いは、同じトンデモ史観でも日本は自虐的であり、韓国側が夜郎自大的である事だ。だから両者は結びつきやすい。

 どこの国でも、こういう専門家なら相手にしないトンデモ歴史家がいて、正規の歴史研究者とトンデモ学者の距離はきわめて大きい、という事を認識すれば、近年の近隣諸国との歴史問題にどう対応するか、という問題に対するヒントが得られる。(ただし、日本にはマルクス主義流トンデモ史観が専門家の間でも残留しているが、この問題は今回は触れない。)

「歴史観の共有」はまず韓国内の専門研究者とトンデモ歴史家の間でやってもらわねばならない。慰安婦問題にしても、韓国人元慰安婦が3年間で貯めた貯金が現在の貨幣価値で4,5千万円だったという事実が残っている[a]。「残虐な日本統治」時代に朝鮮の人口は32年間で2.5倍に急成長した[b]。

 本稿で紹介したような韓国の専門研究者の意見なら、日本でもごくスムーズに受け入れられるものだ。しかし、韓国で専門研究者とトンデモ史観の乖離がこれほどあっては、日韓の専門研究者どうしの内輪の「歴史観共有」では、トンデモ史観に馴らされた韓国一般国民を納得させるのは難しく、問題の真の解決にはならない。また日韓のトンデモ歴史家どうしの「トンデモ歴史観の共有」では問題は悪化するだけである。

 これから日韓の民間交流がますます盛んになるにつれて、本稿で紹介したような韓国人のトンデモ史観に日本人が面食らう場面がますます増えてくるだろう。まずはこういうトンデモ史観が韓国内で定着しているという事を、よく知っておくことだ。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(106) 「従軍慰安婦」問題(上)
 日韓友好に打ち込まれた楔。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html

JOG(107) 「従軍慰安婦」問題(下)
 仕掛けられた情報戦争。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog107.html

b. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 野平俊水、「韓国人の日本偽史」★★★、小学館文庫、H14
2. 産経新聞、「日本海」呼称残る IHO、削除案を撤回」、
H14.09.21、東京朝刊、2頁
3. 産経新聞、「『日本海名称』で韓国 『東海』浸透度を発表
H14.09.27、東京朝刊、6頁


韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人: 2-5 日韓の架け橋・李方子妃

2014-04-20 13:07:55 | 韓国問題

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韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人
2-5 日韓の架け橋・李方子妃

 日本皇族から、朝鮮王朝最後の皇太子妃、そして韓国障害児の母へ。
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■1.毅然たる覚悟■

 大正5(1916)年8月3日朝、大磯の別邸で夏を過ごしていた梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)妃は、いつものように新聞を拡げると「あっ」と声をあげて、両手をわなわなと震わせた。

「李王世子の御慶事-梨本宮方子女王とご婚約」

 という大見出しとともに、まぎれもなく自分の袴姿の写真が掲載されている。隣には、李王世子、すなわち大韓帝国皇太子・垠(ウン)殿下の写真が並んでいる。

 東京に帰った方子妃は、父守正王から正式に婚約を告げられ、次のようにきっぱりと答えた。

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 よくわかりました。大変なお役だとは思いますが、ご両親様のお考えのように努力してみます。
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 母・伊都子妃は、わずか15歳の娘の毅然たる態度に、言葉もなくただ涙された。この時から日韓の狭間で波乱の人生が始まるのだが、方子妃はまさにこの毅然たる覚悟通りに、日韓の架け橋としての役目を果たし続ける。

 2学期が始まると、学習院では「皇太子妃におなりになる。でも朝鮮のお方がお相手ではね」と学友達はささやきあっていた。そこに方子妃が髪を中心から分けて結う韓国式の髪型で、昂然と胸を張って登校してきた。みなはその覚悟の見事さに感心した。


■2.韓国併合■

 皇太子垠は明治40(1907)年、11歳にして日本に留学した。この2年前に、日露戦争に勝利した日本は、大韓帝国を保護国としていた。朝鮮半島の不安定が日清、日露両戦役を引き起こしていただけに、英米両国はこの措置を歓迎した。

 大韓帝国側から見れば、垠を人質に取られた格好だったが、わが国は朝野をあげて歓迎し、すべて日本皇太子と同等の扱いをした。特に明治天皇、皇后は垠を可愛がられ、よく御所に召されて、贈り物を与えられた。

 太子大師(皇太子の主任教師)に任命されていた伊藤博文が、「垠のためにならないから」と断っても、両陛下はやめられなかった。伊藤自身も孫のように垠を慈しみ、安重根に暗殺された後、垠はよく「伊藤公が生きておられたら」と語っていた。

 明治42(1909)年7月6日、韓国併合が閣議決定された。アメリカ政府は「むしろ米国のためにこれを歓迎す」とし、イギリス、ロシア、ドイツ、フランス各国政府もこれを了承した。

 後の首相・原敬は「今日決行するの必要ありや否や疑はし」と評し、小説家・有島武郎は「この日、朝鮮民族の心情やいかんと涙する」と記している。


■3.旧朝鮮王妃としての責任■

 併合後も、李王家は皇族の一員として高い地位を与えられた。敗戦時、総理大臣の年俸が1万円だった時に、李王家の皇族費は120万円と皇室に次ぐ巨費である。方子妃の生家梨本宮家などはわずか3万8千円に過ぎない。さらに本国朝鮮に150万坪を越す土地や4千万円以上の預金を所有していた。

 垠の父、李大王は方子妃との婚儀を大変に喜んだという。方子妃は皇族であり、そして何よりも当時皇太子だった昭和天皇のお后候補の一人とされていた方である。「日本皇太子と同等」という扱いはここにも及んでいた。

 また韓国の宮廷では、王妃の一族が実権をとるために、血で血を洗う勢力争いが絶え間なく続いており、日本皇族の女王殿下をいただけば宮廷も穏やかに治まるだろうと安堵されていた。

 大正9(1920)年4月28日、東京六本木・鳥居坂の李王邸で結婚式が執り行われた。婚儀に反対する朝鮮人大学生が、ピストルと爆弾をもって李王邸潜入を企てたが、朝鮮人刑事が検挙して事なきを得た。

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 王冠をのせた瞬間、思わず身がひきしまり、同時に旧朝鮮王妃としての責任が、重くのしかかってきたのを感じました。
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 方子妃は自伝にこう述べている。

■4.王子晉の死■

 垠殿下と方子妃は本物の愛情を育てて行かれた。2年後、王子晉(チン、ただし「しん」と呼ばれていた)が産まれ、一家は初めて朝鮮に帰ることになった。生後8ヶ月の乳児を連れて帰る事に、母伊都子妃は最後まで反対されたが、ぜひ晉殿下も一緒にという朝鮮側の強い要望に押し切られてしまった。

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 その心配も朝鮮側の熱烈な歓迎に吹き飛び、元気いっぱいの晉はかわいい若宮様と女官達にも大変な人気であった。

 2週間にわたる数々の行事も終わって、いよいよ明日はこの地を去ると思えば、名残りが惜しまれてきて、なんとはなしに寂しさをおぼえたのは、殿下のみならず、私にとっても晉にとっても、この国、この地がふるさとであることを、心でも、肌でもたしかめることができたからでしょうか、、、
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 しかし、悲劇は出発前夜、お別れの晩餐会の後にやってきた。二人が宴から戻ると、侍従が半狂乱になって「若宮様のご容体が!」と叫ぶ。無我夢中で駆けつけると、晉は青緑色のものを吐き続けていた。そして3日後、激しい雷雨の中を晉はわずか8ヶ月の生命を終えた。

 日本人の医師達は、急性消化不良と断定した。しかし、出発の前の晩、細心の警戒が最後にゆるんだのを狙っていたように起きただけに、方子妃はじめ多くの人は、毒殺に違いない、と思った。


■5.幸福の日々■

 昭和6(1931)年12月29日、2度の流産を乗り越えて、男子玖(ク、ただし普段は「きゅう」と呼ばれていた)誕生。垠殿下は方子妃の手をとられ、「ごくろうだったね」とただひとこと。方子妃はよろこびで涙ぐんだ。皇室典範は、男子がいないときは王家廃絶をうたっており、朝鮮王統の存立がかかっていたからである。方子妃は次の歌を詠まれた。

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つもりたるととせ(十年)のなやみ今日晴れて高き産声きくぞ嬉しき

 必ずいつの日か、朝鮮王国の血を受け継いだこの子に、しっかりと父祖の国の大地に立てる日を迎えさせねばならない。
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 との悲願を心の底に深く刻みつけた。

 昭和10(1935)年、垠殿下は宇都宮第14師団歩兵第59連隊連隊長として赴任、方子妃も玖とともに宇都宮に住む。農家の人達と気軽に話をしたり、スキーに夢中になったりと、しばしの幸福の日々が続いた。

 昭和18(1943)年、第一航空軍司令官に任命される。垠殿下は、部下には思いやり深く、上官にはよく尽くし、事にあたって動ずることなく、王者の風格があった。

 幼年学校の同期生の一人は「少なくともわれわれ軍人、殊に同期生にとっては、最も親しい敬愛する宮様であって、人質とか異国人とかいった感情は露ほどもなかったのが事実である」と語っている。立派な日本軍人、理想的な日本皇族として、ふるまわれていた。

 また人材育成にも心を砕き、日本留学中の朝鮮人留学生のための寮を作り、毎年10万円もの奨学金を下賜されていた。


■6.終戦後の臣籍降下■

 昭和20年8月、日本が敗戦を迎えると、占領軍司令部は各皇族の特権の剥奪にかかった。宮内庁から支給されていた歳費は停止され、高額の財産税が賦課された。李王家も、昭和天皇が特に行く末を案じられたが、皇族の身分を奪われ、財産の大半を財産税として取り上げられ、残った宅地などもペテン師に奪われてしまった。

 方子妃は、これからは私が強くなって殿下はそっと静かに、したいように暮らしていただこう、戦うのも私、守るのも私なのだ、と決心した。

 昭和25(1950)年には、垠殿下はマッカーサーに招かれて来日した大韓民国初代大統領・李承晩と会談をした。李王朝につながる血統を自慢していた大統領は、国民の同情を集める垠殿下にライバル意識を持ったのか、冷たく「帰国したいなら帰ってきなさい」と言い、殿下は落胆して帰国をあきらめた。

 昭和35(1960)年、李承晩は大統領選4選に成功したが、不正選挙を怒る学生革命により失脚、翌年クーデターに成功した朴正煕が、この3年前に脳血栓で倒れた垠殿下の容態を心配し、生活費、療養費を韓国政府が保証するので、帰国されたいと連絡してきた。


■7.反日感情渦巻く韓国へ■

 昭和38(1963)年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国に帰った。皇太子として11歳で故国を後にして実に56年が経っていた。ベッドに寝たままの殿下は、そのまま病院車に乗せられ、ソウルの聖母病院に直行した。ちぎれるように手をふる出迎えの人並みも、目には入らなかった。

 たとえ一歩でも半歩でもいい、殿下の足で故国の土を踏ませたかった、と方子妃は切ない思いをした。

 当時の韓国では、李承晩大統領の12年間におよぶ排日政策の結果、反日感情が横溢していた。小学校から、中学、高校と反日教育が施され、「電信柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな日本が悪いとされる」と揶揄されるほどであった。

 方子妃が勝手が分からずに、使用人にまで丁寧に頭を下げると、たちまち非難の的になった。「チョッパリ女出て行け」などと罵倒されたこともあった。チョッパリとは豚足のことで、足袋で草履を履いた足はブタのひづめと同じだというのである。


■8.障害児の教育を始める■

 そんな中で、方子妃は精神薄弱児の教育を始める。ポリオなどで麻痺した子どもたちは、家族の恥として家の中に閉じこめられていた。方子妃はその子供らの自立能力を引き出し、育て上げることを目指した。

 新聞に心身障害児募集の公告を出すと、たった一人8歳の精神薄弱の女の子の応募があった。交通費程度で来てくれる優秀な若い先生を見つけ、また場所も延世大学の一隅を間借りできた。机などは古道具屋を廻って調達した。

 あの家にポリオの子供がいる、と聞くと方子妃は訪ねていく。おびえた眼で迎えられた事もたびたびだった。それでも1年して、聾唖や小児麻痺の子どもが10人ほども集まった。

 政府から支給される生活費は、垠の入院費と生活費でほとんど消えてしまう。方子妃は資金を稼ぐために、趣味で作っていた七宝焼を売ることを始めた。足踏みバーナーで長時間火を起こしていると、足が腫れ上がった。夏の暑い日には窯の熱気を浴びて、汗だくだくになる。すでに60代半ばの方子妃には重労働であった。


■9.韓国障害児の母■

 生徒数が多くなると、新しい土地を探し、建物を建て、「慈恵学校」が正式に発足した。より多くの資金を集めるために方子妃は王朝衣装ショーを始め、自らも宮中衣装を着て海外を廻られた。これには、旧朝鮮王朝の権威と誇りを大事にしてもらいたい、と非難が集中した。しかし、妃殿下はそんな非難をよそに80歳を過ぎても海外でのショーを続けられた。

 このような方子妃の努力で慈恵学校は形を整え、児童数150名、校地4千坪、教室や寄宿舎以外に、豚舎、鶏小屋、農場まで備える規模に成長していった。

 方子妃が日本への募金旅行から帰った時の帰った時のことである。風呂場をのぞくと、せっけんの泡をつけた子どもと、お湯のしずくをしたたらせた子どもが抱きついてくる。方子妃はよそゆきの洋服が泡だらけになるのもかまわず、子どもたちを抱き寄せ、「ただいま」と一人一人の顔をのぞき込む。

 一緒に訪れた在日韓国人の権炳裕は、この光景を見て胸がつまり、この方の為ならどんな応援もしようと心に誓ったという。権はその後の在日大韓民国婦人会中央本部会長である。

 平成元(1989)年、方子妃は87歳で逝去された。5月8日、古式に則って千人の従者を伴った葬礼の行列が、旧朝鮮王朝王宮から王家の墓までの2キロの道を進んだ。墓にはすでに19年前に亡くなられた垠殿下が待っている。韓国からは姜英勲首相、日本からは三笠宮同妃両殿下が参列され、多くの韓国国民が見送った。[2]

 日本の皇族として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり、さらに「韓国障害児の母」と数奇な運命を辿られた方子妃は、「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と述べられている。日韓の架け橋になろうとの15歳の時の決意のままに、その後の72年間を生き抜かれたのである。
  (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(005) 国際交渉の常識
   日本の朝鮮統治の悪しき遺産?!
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h9/jog005.htm

b. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発による食料の増産が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_2/jog056.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 「朝鮮王朝最後の皇太子妃」★★、本田節子、文春文庫、H9.7
2. 「日韓2000年の真実」★★★、名越二荒之助、国際企画、H9.7

以上

 

 

http://ac10.i2i.jp/bin/2nd_gets.php?00953189"

 


韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人: 2-4「朝鮮産業革命の祖」野口遵

2014-04-13 12:52:24 | 韓国問題

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韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人
2-4「朝鮮産業革命の祖」野口遵

 北朝鮮に世界最大級のダムを造り、一大化学工業地帯を出現させた男。
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 水豊ダムは、日本統治下の朝鮮総督府と満洲国政府が工事費用を折半して1937年に建設着手。41年から発電を始めた。貯水量は、琵琶湖の約半分に相当し、当時としては世界最大級だった。

 45年の終戦時に、進駐してきたソ連軍が発電施設の一部を持ち去った。朝鮮戦争中にも米軍の空爆に遭ったが、壊滅的被害は免れた。中朝両国は55年、ダムの共同利用協定を結び、年間36億8千万キロワット時の発電を半分ずつ分け合っている。

 安定した発電を続ける水豊ダムは、エネルギー不足に悩む北朝鮮にとって今でも貴重な存在だ。韓国統計庁の推計では、2003年の北朝鮮の発電量は196億キロワット時で、その9%強が、水豊ダムから供給されている計算になる。

 この水豊ダムをはじめ、朝鮮の水力開発に大きく貢献し、「朝鮮産業革命の祖」「朝鮮人の恩人」と称される人物がいる。日本窒素肥料を中核とする一大コンツェルンを築いた野口遵である。

 彼が朝鮮で展開した事業は次のようなものであった(黄文雄『歪められた朝鮮総督府』光文社)。

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 野口氏は、威興の北にある鴫緑江上流を堰き止めて、日本国内になかった17万キロワットの巨大発電所をつくった。大正14年に着工、昭和3年に完成した。さらに2年後、20万キロワットの発電所をつくった。計37万キロワットという大発電所である。・・・

 それに続いて、白頭山、豆満江、虚川江などに続々と水力発電所を建設し、いずれも15万キロワット級であった。それから鴨緑江には、義州、雲峰、水豊など7カ所にダムを建設し、巨大な湖をつくって、180万から2百万キロワット出力の大発電所を計画していた。・・・水豊ダムは、高さ102メートル、・・・出力70万キロワット、昭和12年から着工3年で完成した。
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 野口の事業について、『日本の創造力(10)』(NHK出版)には、こう記されている。

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 朝鮮半島の地形は背骨ともいうべき長白山脈が半島の東を走っている。そのため北朝鮮の日本海側は厳しい山岳地帯を形成している。西側は高原地帯を形成し、長白山に源を発する多くの河川は、ゆるやかに西流し、鴨緑江となって黄海に注いでいる。

野口はこの水流を変更、日本海側の厳しい落差(約1千メートル)の地形を利用して新型の水力発電を行い、それを基本にして大化学工場を建設した。

・・・川の流れを変えるのであるから、工事は大規模なものとなる。鉄道を敷き、トンネルをうがち、人工の湖をつくり、ダムを建設した。そしてそこに働く人たちのために町づくりもした。

 いっぽう、昭和2年(1927)には朝鮮窒素肥料会社を設立、輿南に化学工場をつくり、一大化学工業地帯を出現させた。まさに野口の朝鮮開発は壮挙であった。
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 ちなみに、野口は昭和15年に脳溢血で倒れた後、全財産3千万円を寄付し、うち25百万円で財団法人野口研究所を、残り5百万円で朝鮮奨学会を設立した。研究所はその後化学の発展に寄与し、奨学会は約4万人の奨学生を送り出した。病に倒れた時、野口は側近にこう語ったという(日経2000・3・6)。

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 古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ・・・化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい。
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 台湾で東洋一のダムを造り、百万人の農民を豊かにした八田與一は、今も台湾の人々に敬愛されているが、北朝鮮は野口遵の事など一切語らずに、さらに援助をせしめようとするのみである。「報徳とか報恩」を知らない国は、国民が発憤して発展するはずもない。

(参考:日本政策研究センター『明日への選択』H17.7)
http://www.seisaku-center.net/

a. JOG(216) 八田與一~戦前の台湾で東洋一のダムを作った男
 台湾南部の15万ヘクタールの土地を灌漑して、百万人の農民を豊かにした烏山頭ダムの建設者。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog216.html

b. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html

以上

http://ac10.i2i.jp/bin/2nd_gets.php?00953189"

 

 

 


韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人:2-3 朝鮮農村の立て直しに賭けた日本人

2014-04-06 08:26:50 | 政治


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韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人
2-3 朝鮮農村の立て直しに賭けた日本人

 荒廃した朝鮮の農村を建て直そうと、重松は近代的養鶏の普及に取り組んだ。
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■1.「倭奴が来た(ウエノムワッソ)」

 二人の男が自転車でにやってきた。「倭奴が来た(ウエノムワッソ)」という声がした。洋服姿をしているだけで、侮蔑の眼差しを向ける。老人は逃げ、青年たちは嘲りの表情で二人を見た。女たちも戸を閉めて家の中に隠れた。

 自転車を降りた二人のうちの一人は、杖をついてびっこを引きながら歩いている。丸眼鏡に頬髭を生やした特異な風貌である。その歩く様を、子供たちがそっくり真似しながら、はしゃいで、ついてくる。

 大正14(1925)年11月、平壌から東に40キロも入った江東という寒村でのことである。平壌からは1日1回、6人乗りのバスが往復するだけで、電気もなく、夜はランプの暮らしだった。

 びっこを引く男は重松〇修(○は高に昇、まさなお)。江東金融組合の理事である。金融組合とは、日本政府によって各地に作られた小規模の組合で、高利貸しに苦しむ農民を救うために小口低利の貸し出しを行っていた。

 江東金融組合では理事の重松以下、4人の朝鮮人職員がいるだけだった。びっこを引いているのは、前任地で暴徒に襲われ、脚を打ち抜かれるという重傷を負ったからだ。

 重松が訪れたのは、江東の下里(かり)という50戸ほどので、両班(ヤンバン、貴族)の家柄から働くことを軽蔑して、のんびりと長煙管(きせる)を吸いながら、その日その日を過ごすことを誇りとしていた。そんな生活を続けていたので、零落していたが、それでも生活態度を変えようとはしなかった。

 重松は、因習を続けている下里を更正させることで、江東全体の変える模範にしようと考えたのである。


■2.養鶏の副業で農民を豊に

 重松は、江東の地に赴任してから、区域内の農民の現状を観察して回った。小作農や小農は凶作だと食べるものもなくなって、高利貸しに金を借りる。借金の返済のために僅かな土地を売り、一家離散したり、都会の浮浪者になる、という有様だった。

 金融組合が「節約して貯蓄を」と勧めても、そもそも貯蓄そのものが不可能な貧窮農家が多かった。そこで重松の考えたのが、養鶏を副業として農民を豊かにする事だった。

 トウモロコシの実をとった残りの黍殻(きびがら)を臼で擂(す)って鶏の餌にする。鶏の糞で田畑を肥やす。その卵を売り、また一部は育てて親鶏を増やす、というアイデアだった。

 こう思いついてから、重松は仕事の傍らで自力で鶏舎を建て、平壌に行って日本人の専門家から飼育の仕方を習い、10羽の白色レグホンと5羽の名古屋種を購入して育て始めた。朝晩は重松が世話をし、昼は妻が手伝う。

 艶々とした真っ白の羽と赤い鶏冠を持った白色レグホンとバラ色をした名古屋種は、鶏舎の中を元気に歩き回り、手のひらで餌を差し出すと、駆け寄ってきて、ついばんだ。

 やがて卵を生み始めると、毎晩、重松は卵が親鶏の羽の下からはみ出していないかチェックする。北朝鮮の冬では、冷えた卵は凍死してしまうからだ。

 養鶏は順調に進み、白色レグホンから生まれ育った若鶏は136羽。こららの生む有精卵を下里の村人たちに無償配布しようというのである。


■3.「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」

 重松は李青年の案内で、立派な門構えの家に入っていった。飼い犬が吠えると、髭をたくわえた老人が出てきた。この村の長老のようだ。李青年は朝鮮式の丁寧な挨拶をした。の人も10名近く集まってきた。

 重松は朝鮮語で挨拶し、ここに来た目的を語り始めた。各戸に白色レグホンの有精卵を15個ずつ無料で配布するので、それを育て、とれた卵を供出して貰って共同販売する。卵の代金は据え置き貯金にして、貯まったお金で、豚や牛を買い、土地も買える。

 重光の熱意の籠もった言葉を、村人たちは黙って聞いていたが、やがて口を開いた。

「白色の鶏は神様のものだ。そんなものを食えば罰があたる」
「鶏の卵を売って、牛や土地が買えるなんで、そんなことがあり得るはずがない」
「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」

 重光は底知れぬ頑迷さを感じた。しかし、村人たちの嘲りの裏には、充たされぬ思いが潜んでいるような気がした。

 重松は何も反論せずに、「もっとよく静かにお考えになってください。そのうちまたお邪魔に上がります」と言って、引き揚げた。重松は自転車を押しながら、あの頑迷さを打ち破るには何度も何度も訪問し、誠意で彼らの心に触れ、愛によって彼らの心の底の魂を揺り覚まさなければならない、と考えた。


■4.見たこともない大きな卵

 重松は下里の村に何度も足を運んで、養鶏を勧めた。翌年2月末、一人の老婆が組合事務所に現れて、「卵を欲しい」と言ってきた。重松は急いで舎宅に戻り、有精卵を15個、丁寧に綿で包んで、老婆の持ってきた籠に入れてやった。老婆は見たこともない大きな卵に驚いて「アイゴー・・・」。そして自分のしていた襟巻きを卵に掛けて帰って行った。

 3月になると、重松の配る卵の大きさに驚き、ポツリポツリと下里から種卵を貰いに来る人が出てきた。その中には、かつて重松に毒づいた人たちもいた。

 3月の終わりには、老婆から「13羽、雛が孵(かえ)りましたよ」と伝えてきた。重松は時間ができると、下里に行って、雛の育て方を指導した。8月末までに520個の種卵を配布し、そのうち半分が育った。初年度としては満足すべき結果だった。

 翌春には育った鶏が産卵を始めた。その卵を組合に持ってこさせ、重松とその妻が、日本人校長や署長、朝鮮人の組合長など、比較的余裕のある家に売り歩いた。従来種の値段よりも一割ほど高くしたが、大きさと新鮮さ、それになによりも重松夫妻の志を知っているので、快く買ってくれた。

 それでもさばききれないほど、卵が持ち込まれるようになり、重松は平壌の金融組合連合会本部に販売を頼むと、斉藤清理事長は快く引き受けた。

 重松と部下たちは勤務時間終了後、集まってきた卵を一つ一つ明かりを当てて調べ、合格印を押し、厳重に荷造りして、乗合バスに載せて貰う。

 そうして届いた卵を、斉藤理事長は何個か背広のポケットに入れ、近所の銀行や会社などに出かけて、「この卵を買わないか。大きくて美味いよ。食堂で使うといい」と売って歩いた。相手は、顔見知りの経営者である。販売先は次々に決まっていった。ただ、時々、ポケットの中の卵が割れて、困ったこともあった。


■5.未亡人の借金返済

 下里で若くして夫を亡くした夫人がいた。二人の小さな子供を抱えており、組合にも37円の借金をして、途方に暮れていた。亡くなった夫は、立派なレグホンを育てていて、重松も一目置いていた人物だった。

 重松の部下は「土地がわずかばかりありますから、差し押さえをすれば、組合に損失はないですよ」と言った。それが当時の朝鮮社会の常識だった。

 重松は「そんな冷酷なことはできないよ。一度、会ってみて、話をしてみよう」と言った。しばらくして、夫人が組合にやってきて鶏卵を届け、その後で重松の前に来た。4歳の長男を抱えている。

「ご主人が亡くなられてお気の毒です」と重松から話しかけた。「ありがとうございます。その主人の病気や葬儀などもあって、借りていたお金を返したいのですが、どうにもしようがないのです」とやつれた顔で答えた。

「ここにあなたの養鶏貯金が4円55銭あります。滞貨しているあなたに払い戻しはできません。しかしあなたが豚を飼って一生懸命働いて債務を返す覚悟がおありでしたら、払い戻しを特別に認めたいと思います」

 土地を取られるものと思っていた所に、思いがけない言葉をかけられて、彼女の目は輝いた。そして4円だけ引き出し、市で子豚を買って帰った。その後も婦人は卵を組合に持ち込み続けた。重松は顔を合わせるたびに、激励の言葉をかけた。

 それから7ヶ月後、育てた豚を32円で売り、それと養鶏貯金のお金で、37円の貸付金と利子をきれいに払った。重松には何度も頭を下げて、礼を言った。

「理事さんのおかげで土地も売らず夫の債務を払うことができました。これから先も豚や鶏を飼って貯金し、子供を学校に行かせるつもりです。本当にありがとうございました」と、涙をこぼさんばかりに喜んでいた。


■6.「鶏が医生を生んだ」

 37歳の貧しい小作人がいた。妻と3人の幼い男の子を抱え、二間しかない草葺きの小屋に住んでいた。しかし重松の指導どおりに鶏を飼い、どしどし卵を組合に持ってきた。やがて養鶏貯金は27円75銭になり、もうすぐ牛を買える額に近づいた頃、重松に手紙を出した。

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 ・・・私は理事様の公益を広く施そうという高義に副(そ)いたいと思います。私は来る4月10日に平壌医生講習所に入学することを決心いたしました。

その学費捻出のために養鶏貯金を引き出したく思います。理事様にこのことをご了承いただければ、小生はそのご恩は永久に忘れません。[1,p157]
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 重松は驚くとともに、感激した。改めて調べてみると、医者にかかれない貧しい人のために医生になろうと、毎晩、漢方医の本で独学していたという。

 平壌での一年の苦学の末、総督府より医生の免許が交付された。重松からの手紙でこの事を知った京城日報社長の松岡正男は感激して、その手紙を新聞に4段抜きで紹介した。そこでは「では、鶏が医生を生んだなどと喜んでおります」と重松は喜びを語った。


■7.「軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」

 昭和5(1930)年の春、重松が平壌に出てきた際に、斉藤理事長に第77聯隊に連れて行かれた。重松の説明を受けた白石聯隊長は「朝鮮の農村で生産された野菜や卵を、そうした産業団体から納めてもらえば、軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」と語った。聯隊との間で月7千個もの卵を収める契約が交わされた。

 ある時、軍事演習に合わせて、2千個もの大量注文が電報でもたらされた。重松は組合の在庫を調べたが、その半分もない。考えた末に、重松は近くの小学校の菅校長を訪ねた。

 菅校長は50歳近くになって、教育者としての最後の舞台を朝鮮人少年少女の教育に捧げようとやってきた人物である。そして雛を育てることが少年少女の情操教育にもつながると、生徒の家庭でも養鶏貯金を奨励していたのである。

 重松は、菅校長に事情を話し、朝礼の時間に全校生徒に各家庭での卵をあるだけ持ってくるように伝えてくれないか、と頼んだ。菅校長は「いいですとも、さっそくやりましょう」と快諾した。こうして4百人の生徒が、めいめいの家庭から卵を持ち込み、軽く2千個が集まって、演習地に送られた。

 軍関係では、さらに航空隊、高射砲隊、病院などが江東の卵を買ってくれるようになり、販売数は飛躍的に増加していった。昭和2年の鶏卵の販売数は993個だったが、昭和11年には30万個を軽く超えるようになった。

 それまでに養鶏貯金で購入された牛1千頭、豚2千100頭、土地2万5千坪、さらに進学資金、結婚資金、家の建て替えなどに使われ、江東農民の生活は格段に向上した。また江東の成功を見て、同様に養鶏を始める地方が数多く現れた。


■8.「実は、理事さんにお礼をしようと、頌徳碑を建てました」

 副業としての養鶏が軌道に乗ると、重松はさらに女性たちにハングルを教えたり、村人が集まって将来を論じあうための集会所を建てることを提案した。それを受けて、村人たちは朝一時間、早起きして、自力で会堂を作り上げた。こうした作業が勤勉と共同の精神を育てていった。

 昭和11(1936)年2月11日の紀元節、3番目の模範であった芝里が一番の更正として、知事から表彰された。芝里は歓喜の渦に包まれ、重松の喜びも一入(ひとしお)であった。

 3月の終わり、芝里の代表たちが組合にやってきて、重松に次の日曜日にに来てくれ、と頼んだ。「なにがあるんです?」と聞くと、「実は、理事さんにお礼をしようと、頌徳碑を建てました」という。重松は呆然としたが、もう碑は出来ているのだから、行くしかなかった。

 昭和13(1938)年6月、重松に転勤命令が出た。江東での実績が高く評価され、京城の金融組合聯合会本部で、後輩の育成をせよとの辞令である。遠方からも組合員たちが押しかけ、名残を惜しんで送別会を開いてくれた。長老の一人は「理事さん、家族の食べる分はわしらが出すから、残ってくれ」と泣き声で言った。

 その後、重松は金融組合の教育部長などを努めて、後輩の育成に邁進した。戦争が終わると、朝鮮総督府関係の有力者として逮捕状が出たが、養鶏で学資を得て出世した人物たちが、密かに手配して重松を日本に脱出させることに成功した。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html

b. JOG(204) 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営
 朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と朝鮮人の平等・融和のチームワークだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog204.html

c. JOG(178) 日韓の架け橋・李方子妃
 日本皇族から、朝鮮王朝最後の皇太子妃、そして韓国障害児の母へ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog178.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』★★★、草思社、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4794217471/japanontheg01-22/

 

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韓国退役軍人 ベトナム戦争の殺戮暴いた新聞社に突撃し破壊

2014-04-05 07:56:03 | 政治

韓国退役軍人 ベトナム戦争の殺戮暴いた新聞社に突撃し破壊

  2014年04月04日 07時00分提供:NEWSポストセブン

 

  民間人に大量の銃弾を浴びせ、若い女性は強姦後に殺害――。ベトナムで残虐の限りを尽くした韓国兵の蛮行について、本誌は前号、前々号と2度にわたって現地からのレポートを掲載し、大きな反響を得た。

  日本の読者に衝撃を与えたのも無理はない。そもそも、当の韓国社会でさえ、その事実が知られるまでには、多くの時間を要した。

  きっかけは、ベトナム戦争終結から24年後の1999年5月、ハンギョレ新聞社が発行する週刊誌『ハンギョレ21』(1999年5月6日号)が行なった報道だった。

  ベトナム通信員として活動していた韓国人の女性研究者が、ベトナム当局から資料を入手し現地取材と生存者への接触を重ね、韓国軍による殺戮の実態を白日の下に晒したのである。

  この記事が当時、韓国社会に与えた衝撃はすさまじいものがあった。

  同誌はその後も定期的に続報を打ちキャンペーンを張ったが、新聞やテレビなど大メディアによる後追い報道はほぼなかった。自国の暗部を暴いたことで保守層から大きな反発を招いたからだ。特に、ベトナム戦争に参加した退役軍人たちは同誌に対し、猛烈な抗議活動を行なった。

  彼らの怒りが頂点を迎えたのが翌年(2000年)の6月だった。迷彩の戦闘服を着た約2400人もの退役軍人が、ソウル市内中心部にあるハンギョレ新聞社の前に集結した。

 「ベトナム民間人虐殺の報道が、戦友たちの名誉を失墜させた」と主張し、同新聞社を糾弾するデモと集会を開いたのだ。

  だが、集会後も怒りの収まらない一部の軍人たちが暴挙に出た。角材などを振り回しながら新聞社の社屋に突撃。窓ガラスを割り、デスクやパソコンなど編集部内の物を次々に破壊していったのだ。

  韓国人ジャーナリストがいう。

 「彼らの狙いは新聞社の制作機能停止でした。パソコンなどだけでなく、輪転機を破壊し電力供給線も切断。新聞や雑誌の印刷を停止させた。さらに新聞を運ぶ貨物車を炎上させたり、新聞代金の領収書の束を数千枚も積み上げ火をつけたりと暴徒と化していた。

  彼らは“ベトコン(南ベトナム解放民族戦線の兵士のこと)を民間人だというハンギョレ新聞社は赤(共産主義者)だ!”という垂れ幕を掲げていた。殺した相手は民間人ではなく、ベトコンだったと主張し虐殺を正当化したかったのでしょう。そこで、新聞社を自由主義の敵と見なし、暴挙に出たのです」

  その場にいた新聞社の記者や従業員たちも暴行を受け、10人以上が負傷。社屋は彼らによって半日間占拠され、同社の幹部らは監禁された。

  6000人余りの警察が投入されたことで、ようやく事態は沈静化。その後、暴力行為で4人が逮捕された。

  この暴動の主体となった団体は、主にベトナム戦争の退役軍人で作られる『大韓民国枯葉剤後遺症戦友会』(以下、枯葉剤戦友会)だった。

  この枯葉剤戦友会は朴槿恵(パク・クネ)大統領への絶対的な支持を表明している有力な政治団体だ。2011年に開かれた「枯葉剤戦友会14次定期総会」には、与野党の多くの政治家が自ら出席を打診した。しかし枯葉剤戦友会から拒否され、唯一、招待された政治家が朴氏だった。

※週刊ポスト2014年4月18日号


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