三蟠鉄道研究会

今はなき岡山の三蟠軽便鉄道の歴史を探り、後世に伝承していくための活動をしています。

三蟠鉄道から目の前に見えた筈の砲台跡

2022-12-15 10:04:41 | 三蟠軽便鉄道沿線案内

当時の面影をとどめている砲台跡の石積み

 

 

 

私の地元平井には六丁目に小字で「杦下(すぎした)」⦅杉下とも⦆と呼ばれる土地が残っている。名前の由来を調べていくと、杉林があったと云う事では無く、辺たり一面杉菜が生い茂っていた場所だった。現在ワールドオプティカルカレッジの裏側に位置している。杉土手の部分は、少し盛り上がっていて、現在車の通る道の一部で、その法面が約50メートルほど石垣に覆われている。古老に聞くと、江戸末期に造成されたものたが、現在は大型車も頻繁に通り拡幅されていて、往時の姿を見る事は出来ない。しかし当時の国際情勢と大きく関わっている。池田家文庫の御後園諸書留帳(以下「留帳」(俗に後楽園日誌とも)によると、この位置は大砲での射撃訓練場である。石垣の上は隠れて見えないものの砲台跡であった。留帳に「殿様、杉土手大筒御覧」の記事が残されていて、天保14年(1843)7月26日には藩主池田慶政が大筒の実写訓練を御覧になるとき、御後園奉行が殿様の昼食と茶菓を届けることとなっていたためである。留帳では杉土手が何処にあるか、弁当が陸送されたのか舟送されたのかは分からない。

天保13年に、清国が英国に香港を割譲していて、日本も植民地になるかもとの危機感があった。弘化4年(1947)7月1日幕府は関東沿岸の防備強化を命令している。嘉永2年(1849)7月1日には米艦が長崎へ、英艦が浦賀へ来航している。嘉永6年6月にはペリー率いる米艦隊4隻が来航、同11月岡山藩は幕府より房総半島の沿岸警備を命じられ、千五百人を派遣している。この年には危機感が高まり、6月13日、6月23日、6月24日、7月21日と4回視察した。安政2年(1855)9月2日、同9月10日、そして安政3年(0856)6月27日と合計10回の視察歴が記録されている。この留帳の記載は大筒の稽古を殿様が現地で御覧になられた回数であり、杉土手での実射訓練はこの何倍にも実施されていたと思われる。次ぎの池田茂政の時代には、大筒御覧の記事は無い。

 この時世は1840年にアヘン戦争が始まり、我が国周辺に西欧諸国の艦船が次々と来航の緊迫した時代だった。

大筒は平井村の小高い山の中腹に向かって砲撃していたことから、太平洋戦争後にも、砲弾が多数見つかり、着弾した地元の古老は昔、農作業の合間に回収したと語っている。着弾地は山陽学園大学の正門北付近に集中して居る。

岡山藩が実射訓練したのはもちろん実戦に備えてのことだ。当時は旭川を遡上してきた場合を想定してのことで、西に向かっての砲撃を意識しているはずだ。そちらにも石垣があったはずだが、道路は何度も改修されていて確認はできない。

 尚、すぐ目の前には平成27年の三蟠軽便鉄道開通100周年記念事業の一環として鉄道のアバット跡と共に紹介する記念看板も三蟠鉄道研究会によって設置されている。

 

 一つ羅は霧の絶ゑ間に見え初めて平井の濱に落つる雁金

                    作者 岡山藩主池田綱政公

 岡山のお台場今や苔むすも当時の名残を残す石積み

 最新鋭の砲弾田畑着弾も地雷ではなく農夫拾ひし

 後の世に三蟠鉄道乗客は史跡眺めて列車の窓から合掌したり


岡山歴史のまちしるべ看板設置へ

2021-09-19 16:05:37 | 三蟠軽便鉄道沿線案内

岡山市に申請して、様々な歴史的由来を現地で紹介し、市民や観光客がまち歩きを楽しめるよう環境を整備する為説明看板の設置が決定しました。

設置できるのは年を明けて今年度中に工事完工予定です。

先日現地で岡山市と打ち合わせて設置するポイントなど、ほぼ決定しました。

写真の看板はイメージです。 看板盤面の編集作業は年内完成の予定です。

進行中の記録集出版にも掲載します。

 かつての湊駅周辺の景色

湊駅周辺のアバット跡 倉安川と交差しており、県道旭東三蟠線敷設による改修で陸橋は崩された。

みなと駅周辺の三蟠鉄道の陸橋跡(アバット跡) 昭和48年

近景

倉安川鉄橋を下る蒸気機関車  舟が陸橋の下をくぐるところ、機関手が見ている


三蟠軽便鉄道沿線案内

2018-06-27 13:45:09 | 三蟠軽便鉄道沿線案内


この三蟠軽便鉄道沿線案内は鉄道沿線の鳥瞰図の裏面に書かれていたものです。
発行されたのは、大正13年11月25日です。

大正時代には全国的に軽便鉄道が走っていた時代です。
各鉄道は、乗客確保のために、
鳥瞰図と鉄道沿線案内をセットにして、六つ折小冊子として配布していました。
この三蟠軽便鉄道の案内は支配人だった吉田茂 氏が各駅の名勝地を紹介し、
車窓からは、備前八景と呼ばれるすばらしい景色の全てが展望できるという
ふれこみの元に、観光客などの誘致に使われました。
 その鉄道案内の全文を当時の言葉のまま、眺めてみましょう。

始発駅だった国清寺駅周辺の史跡や名勝地紹介から始まって、
網浜駅と湊駅と続けて史跡や名勝地を紹介しています。


平井村の、湊駅から、上平井駅、下平井駅と、三蟠村に入り、
宮道駅と駅周辺の名所、観光地など照会しています。



三蟠村の、浜中駅、終点の三蟠駅を紹介しています。


三蟠駅周辺は多くの景勝地のみならず、東児島方面の景勝地も紹介しています。


最後に、三蟠駅から、乗り継いでいく船便の紹介と、三蟠鉄道の乗車賃を掲載しています。


名勝地一部紹介

当時最も賑わった宮道駅は、近くに三蟠鉄道が運営していた宮道海水浴場があり、
宮道はその名のとおり、沖田神社に通じる道と云う事で、乗降客は年間を通じて多く、
宮道海水浴場のイメージを紹介します。




三蟠軽便鉄道沿線案内

2017-07-19 13:01:28 | 三蟠軽便鉄道沿線案内
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三蟠軽便鉄道沿線案内

この沿線案内は鳥瞰図の裏面に掲載されています。

三蟠軽便鉄道株式会社支配人だった、吉田茂 氏が制作したもので、顧客誘致を目的として各駅の特徴と周辺名所を紹介しています。



三蟠軽便鉄道沿線案内1



三蟠軽便鉄道沿線案内2



三蟠軽便鉄道沿線案内3



三蟠軽便鉄道沿線案内4



三蟠軽便鉄道沿線案内5