オリンピックのころ、両親は埼玉に居て、私は大阪でサラリーマン、豊中とか、高槻、生駒市に住んでいた。
東京オリンピックのころ、独身で、両親が埼玉にいるので、上京してオリンピックを見た。
だから、オリンピックは新大阪から東京を往復したのが私にとって最初の新幹線。
そのあと、両親は次第に高齢となり、私は大阪でビジネス、いろいろ変転もあったりして、ついには東京へ単身赴任するようになって、そのステージ次第で東京大阪を新幹線で往復することが結構あったのだった。
その間、結婚もしたし、子供もできたり、他社に出向したりと、いろんなことがあった。
新幹線との付き合いは、東海道のひかりがほとんど、あとからほうぼうに新幹線ができたが、それらにはあまりご縁がなかったのだ。
その新幹線、ひかりに乗ってどうだったのか。
殆ど指定席に一人での乗車だった。
ビジネスだからといって、仕事仲間と行を共にすることはまずなかった。
単身赴任で、単身旅行、単身帰郷みたいな往復だった。
初めは、新幹線の新大阪・東京間は3時間10分だった。食堂車があって、時間にゆとりがあり、面白半分食堂車を利用したりした。空席があるとは限らず、なければ食堂車は諦めた。
新幹線でファイル拡げて仕事の準備をする勤労者もよく見かけたが、私はそれはやらない。
窓際に座って、車窓の景色を眺め、とりとめなく思いを巡らすばかりなのであった。
でも、それらの時代は、ビジネス優先の日常だった。
妻子と新幹線で旅するというのは、無くはなかったが、そんなことは滅多になくて、今頃済まなかったなと微かに思うのだ。
ポケットサイズの携帯ラジオをもらって、音楽を聴いたり、座席の肘掛けに差し込みがあって、ミュージックトリップみたいなのを聞いたりした。
食堂車がなくなって、車内販売の弁当を食べることも増えた。
でも、私は、ビールなどは滅多に飲まなかった。
どうせ一人だし、飲んでも別に面白くも何ともない。アルコールにはちっとも飢えていない。
でも、そんな、あくせく系の行き来だったが、思い出すことはさまざまある東海道新幹線だったのでした。
これからはどうする?
年を食ってしまったけれど、これからは、東海道以外の新幹線にも、家内と一緒に乗ることにしよう。
追伸
昭和41年に日本の総人口が1億人を突破したんだ。
それで、高度成長になったんだ。
それで、あくせく忙しくなったんだ。
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