作家は、作品を仕上げるのに、表現には十二分な推敲を重ねて完成しなければならないが、不可解な状況設定、不自然な人物のせりふなどというのが目につくと、その後の読み進む熱意が大いに損なわれてしまうのだ。
Yという多作な、現役の売れっ子作家の下町市井もの。
「冬がそこまで来ているてえのは、もちろん承知だがよう。それにつけても、ひどく凍えた朝じゃねえか。」
ある短編小説の冒頭の第1行。
結構いい年の大工が10月下旬明け六ツ(午前6時)、裏長屋の共同便所で放尿しているときの寒さに文句をいっている独り言だという。
大工が寝床を離れ、まず寝起きの小用をしようとするとき、こんな説明口調の独白を言うって、私なら考えられない。レポーターやアナウンサーじゃあるまいし、饒舌すぎる大工なのだ。
「寒う」「うう」ぐらいしか口から出てこないと思うのです。
会話調の文体にするとしたら、状況説明は独り言以外の情景描写で補強するべきなのだ。
この小説は、この独り言の後で、同じ長屋の年長の荷売り屋が出てきて、朝の会話から始まって人との絡みの物語になってくるのだ。
始めの第1行のせりふが不自然で気になったら、あと、読み進む意欲が減ってくる。
あらが感じられたら、不信感が湧いてくるのです。
フィクションを売り物にするのだからこそ、不自然なのは信用できなくなるのです。
その点、山本周五郎の作品は、破綻のない、突き詰めた、究極の時代小説なのだと、これは賛嘆するのです。
(二人の小説を、図書館で同時に借りて読んでるんです。)
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