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「小5の妹を孕ませた内縁の父に殺意を持って…」私はこうして“暴力団員”になりました

2021-03-25 15:30:00 | 日記

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生まれた時から背負う社会的ハンデとは
 人は生まれてくる家を選ぶことはできません。ですから、家庭環境や貧困など生来的なハンデは、それが遠因で暴力団員になった人たちにとってどうしようもなかったことであり、同情の余地があると考えます。もっとも、不幸な家庭に生まれても非行や犯罪に走らない人もいます。だから「それだって、自己責任なんだよ」と仰るむきがあることも承知しています。しかし、不幸にも濃淡、強弱、割合というものがあります。筆者が聴取した暴力団離脱者の中には、成育環境が不幸の一言で片付けられるレベルではない人もいました。我々が当たり前に享受してきた少年時代の生活が、彼らには望めなかったのです。
 公的調査・研究では、暴力団組織への加入につき、家庭環境や地域社会からの社会的孤立が個人を暴力団へ押し込むプッシュ要因であり、暴力団組織所属者とのつながりや交友関係が、個人を暴力団へ引き込むプル要因となっていると分析しています
 なぜなら、構成員の暴力団への加入理由を最終学歴別にみたとき、特に中学校卒業者で「暴力団以外に居場所がなかったから」63.9%、高等学校中退者で「信じられる人が暴力団にいたから」32.4%と高い割合を示しており、家庭にも地域社会にも居場所がなかった暴力団加入者の状況が見て取れます。ちなみに、暴力団加入検討時に暴力団以外に「信じられる人がいなかった」とする人の多くが「経済的に苦しかった」ことも加入理由にしています。
 この分析は、次項に紹介する人物たちの半生をみても肯定できるものです。
 子ども時代の家庭の貧困、親からの放置や虐待が自己責任でしょうか。子どもには重すぎる何かを背負って生まれてきた境遇が自己責任と非難されるべきでしょうか。筆者が考えるに、陽光あふれる船のデッキしか知らない人には、薄暗い船底に木霊する重たい軋みは、想像できないと思います。その重く暗い軋みとはどのようなものなのか──
そして男はヤクザになった
 まず、元暴Eさん。彼のことを書くのに、筆者はメモを見るまでもありません。あまりにも凄絶なその人生は、一度聞くと、忘れることができないものでした。子ども時代の概要を、本人の言葉でご紹介しましょう。
 ちなみに、この元暴Eさんとは、2014年に関西で出会い、話を聞くことができました。年齢は筆者とほぼ同年で、身長が170センチを少し超えるガッチリとした体格の持ち主です。風貌で印象的な点は、鬼のような入墨の眉毛。太さが通常の倍はあります。『北斗の拳』のケンシロウも真っ青です。暴力団員として生きているときは非常に有効な眉毛であったと思いますが、カタギの中で生活するためには、いつもソフト帽を目深にかぶっていました。指も数本が欠損していますから、バルタン星人のようでした。その後、元の暴力団組織に幹部として戻ったと彼の消息を風の便りに聞いたのは、2019年の秋です。
父親は指名手配犯
「おれの家は、親父が指名手配犯やったんですわ。せやから、あちこち逃げ回る生活でしたんや。おれが小学校に上がる前の年に関東で死にまして、オカンはおれを連れて、郷里に帰ってきたんです。そんとき、オカンの腹には妹がいてましたんや。
 帰郷して直ぐに、親父の友人いうんがなんや世話焼くいうて、家に出入りし、そんうちにオカンと内縁関係になりよりました。おれとしてはどうということは無かったんですが、ある事件──いうてもしょうもないことですわ──を切っ掛けに、虐待が始まったとですわ。
 あるとき、まあ、おれが小学校1年位やった思います。そのオッちゃんから『おまえ、そないにアイスばっか食いよったら腹下すで』と言われたんで、『関係ないわ』というような返事しよったん覚えています。そんなことでも、まあ、殴る、蹴るの虐待の毎日ですわ。こっちは子どもですやん、手向かいできんかったですわ。それからですよ、路上出たんは。
 まあ、小学校低学年ですやろ、公園のオッちゃんらのタンタン(たき火)当たりたいですが、怖いやないですか。で、あるとき、気づいたんですわ。こん人らが飲みよる酒(ワンカップ)持っていったら仲間に入れてもらえんちゃうかとね。子どもの手は、自販機に入りますから、相当抜いて持っていきましたわ。案の定、喜びはって『若!』『大将!』とか呼ばれて仲間になってましたわ。
アニキとの出会い
 小学校3年位に、おれみたいな仲間とスリ団つくって、電車専門のスリやりよりました。腹減ったら、デパ地下の試食くいまくりです。そないなことばっかしてますと、何度もポリの厄介になるわけですわ。小学生で、新聞にも載った位ワルさしましてん。子どもの頃は、アオカン(野宿)か児童相談所(児相)、教会の養護施設のどれかにおったような気がします。
 そないな生活のなか、初めて遊園地や動物園に連れて行ってくれたんは、近所のアニキでした。この人は、筋金入りの不良やってましたんやが、おれら子どもには優しかったんですわ。アニキに連れて行ってもらった動物園、生まれて初めて見るトラやキリン……今でも鮮明に覚えてますわ。いい時間やった。
小5の妹を孕ませた内縁の父
 おれもこのアニキのようになっちゃる思うて、不良続けよったある日、まあ、いつものように年少(少年院)から帰って、妹の通う小学校に行ったんですわ。すると、担任が『おまえの妹はここにおらんで』言うて、児相に行け言うとですわ。『はて、おれのようなワルとは違って、妹は大人しいんやがな』て不審に思いましたよ。で、児相に行って、『おい、兄ちゃんや、帰ったで』言うても、妹はカーテンの陰に隠れよるんですわ。『なんやね、おまえ』言うて、カーテンめくったら、ショックで言葉なかったですね。小学校5年生の妹の腹が大きいやないですか。『なんや、おまえ、どないしたんや』と問い詰めますと、妹は、泣きながら『聞かんといて』言うてました。聞かんわけにいきませんがな、とうとう口割らせましてん。まあ、あの時が、最初に人に殺意抱いた瞬間やったですわ。家に入り込んで、おれを虐待したオッちゃんにやられた言いよりますねん。もう、アタマの中、真っ白ですわ。出刃持って家に帰りましたら、ケツまくって逃げた後やったです。あの時、もし、そのオッちゃんが家におったら、間違いなく殺人がおれの前歴に刻まれとった思います。
 ヤクザになったんは、それから数年してからです。動物園とかに連れて行ってくれたアニキと、久々に街で会いまして、『おまえ、どないしてんのや』言うんで、『まあ、不良やっとります』言うたんです。そしたら『そうか、ブラブラしとんのやったら、おれん方来い』と言うてくれました。それからですわ、ヤクザなったの。『よし、おれはアニキだけ見て生きてゆこう。アニキ立てるんがおれの仕事や』と、決心しましてん。アニキと看護婦の嫁さん、それとおれの3人での生活がはじまったんです」
暴力団辞めたら即カタギ、とは簡単にいかないワケ
 人間は社会的動物です。この世に生を享け、最初に社会化(*1)されるのは家族社会です。この家族社会から躓くと、その後の人生は危ういものになります。手段の合法・非合法にかかわらず、生き抜くことしか考えません。筆者がこれまでに話を聞いた、13人の元暴や現役暴力団員の人たちの家庭環境も大同小異でした。彼らは、子ども時代から非合法的な社会の文化に親しんでいたといえます。子どもの頃にはコトの善悪は分かりませんから、そうした非合法な文化における価値観に染まるのは、彼らの責任だけではないと思うのです。
*1 社会化とは、人が社会規範への同調を習得する過程であり、社会の存続を可能にし、世代間の文化の伝達を可能にする過程をあらわす。
 自分自身、義務教育を父親の判断で殆ど受けられず、家庭内で日常的に暴力を受け、反発し、非行的な文化に染まった後に、そこからやっとのことで抜け出した筆者は、この主張には力をこめたいと思います。
 我々が常識と考えることは、暴力団の世界では非常識であり、またその逆も然りかもしれません。いずれにしても、暴力団をはじめとする非合法な社会の文化から立ち直ることは、非常に困難を伴うものであり、社会全体の支援なしには難しいというのが筆者の考えです。
カタギに転向する際の文化的な葛藤
 筆者が取材現場で見てきた暴力団真正離脱者の多くは、正業に就き更生するまでの間、合法と非合法の社会をドリフトするようにして、徐々に社会復帰しています。彼らもまた成長過程で、非合法な文化において社会化されてきました。そして、暴力団に加入し、暴力団の文化の中で暴力や脅しが日常的で、犯罪的な生活を送ってきています。このような犯罪組織における文化を、犯罪学では「非行副次文化」あるいは「非行サブカルチャー」といいます。
 暴力団社会の文化とカタギ社会の文化とでは、基本的に様々な違いがありますから、カタギ転向する際、離脱者は文化的な葛藤を経験します。それはたとえば、日常的な言葉遣いや態度、習慣というものから、感情の表出の仕方などです。ですから、「今日から足を洗って犯罪とは無縁のカタギになります」と言っても、いきなり別の人間になれるわけではなく、カタギ文化に受け入れられ、そこに馴染むよう努力することで、徐々に立ち居振る舞いが変わっていくものなのです。
 筆者が見る限り、社会復帰に成功している人は、地域社会に支えてくれる人がいた場合、あるいは、慣習的な社会に居場所などを持ちえた人でした。社会的に孤立した人、職場などのイジメに耐えられなかった人は、更生に至らず、再犯で逮捕されるか、元の組織に戻っています。


団塊を団塊ジュニアが介護する「2025年問題」にどう備える?

2021-03-25 13:30:00 | 日記

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2025年問題とは、我が国の人口の最大のボリュームゾーンである「団塊の世代」が、「後期高齢者」に突入する構造変化のことを指します。
 現在の日本の「平均寿命」は、男性が81歳、女性が87歳ですが、「日常生活に支障なく暮らせている」と答える最高年齢の平均、つまり「平均健康寿命」は、それより9~12歳前後若い、男性72歳、女性75歳です。
 すなわち、「後期高齢者」になるということは、この「日常生活になんらかの支障がありながら日々生活する確率が高いゾーンに入ってくる」ということであり、実際の統計値をみても、「要介護認定率」も「投下される医療費」もその前に比べて格段に上がる年代となります。
 一方、日本の人口ピラミッドをみると、他の年代に比べて格段に人口が多いボリュームゾーンが2つあります。1つは「団塊の世代」。そしてもう1つが、その子供たちの世代である「団塊ジュニア世代」です。
 つまり、「団塊の世代」が後期高齢者ゾーンに入るということは、人口の多いこの2つの年代層が、一斉に「老い」と「介護」に向き合い始めるということです。ここから数十年は、この前の数十年とは大きく異なる、「本格的な超高齢社会への突入」を象徴する構造変化が起きると思います。
「介護家族の若年化」と「仕事と介護両立問題」の加速
 そしてもう一つ忘れてはならないのは、少子化が進み、共働き世帯も急速に増えている、という構造変化も同時並行で起きているということです。
 これは何を意味しているかというと、家族・親族の中で「ケアする側の人数」よりも「ケアされる側の人数」のほうが多く、かつ、「ケアする側が仕事を持っている割合は格段に高くなった」ということです。
 この結果、最近の「介護」の問題は、その下の孫世代にまで影響を及ぼしつつあります。これまで同様、家族がメインで関わっていく介護モデルを維持する限り、その下の世代まで巻き込まなければ、構造的にリソースが足りない状況になるからです。
 「ヤングケアラー」という言葉が注目され始めている通り、10代から祖父母の介護などに関わる若者も増えてきました。
7割以上が「介護が始まったら仕事を続けられない」と考える現実
 リクシスの調査でも、「既に要介護認定者を日常的にサポートしている」と答えた企業従業員の割合は、20~30代でも15~30人に1人の割合で存在し、「3年以内に介護が始まる可能性を感じている」企業従業員の割合は、実に全体の3割に上ることが分かっています。
 これから先の20年は、これまでの20年とは構造的に大きく違います。仕事と介護の両立は、年齢・性別を問わず、多くの人が「自分事として直面する」時代に突入していくということでしょう。
問題は「離職防止」ではなく「通常通り働き続けることができるか」
 「仕事と介護の両立」がこれだけのインパクトを持つ事象になってくると、ただでさえ生産人口が減っていく日本社会において、企業にとっても、私たち個人にとっても重要なのは、「いかに柔軟に休んで離職しないようにするか」ではなく、「いかに通常通り働きながら介護と両立するか」です。
 実際、介護休業や介護休暇という法的にも認められた「休む制度」はどの企業でもそろっていますが、実際に制度を活用する方は今でも非常に少ないといわれています。皆さんもそうだと思いますが、「たとえ介護問題が家族に発生したとしても、できる限り働き方を大きく変えず、通常通り働き続けたい」というのが、多くのビジネスパーソンの本音ではないでしょうか。
 しかし、現状ではその見通しを持てていない。ほとんどのビジネスパーソンが「できる限り通常通り働き続けたい」と思っているのに、7割以上が「介護が始まったら仕事は続けられない/続けられるか分からない」と思っている、というのが実態なのです。
 この10年で健康寿命を延ばすための研究も進み、仕事と介護の両立を可能にする様々な選択肢が増え、「エイジングリテラシーの有無」によって負担の程度も大きく変わり得るようになりました。にもかかわらず、2025年問題が目前に迫っている今でも、なぜ多くのビジネスパーソンが「丸腰」かつ「見通しが持てない」状態に陥っているのでしょうか。
なぜ、エイジングリテラシーを上げる“介活”は一般的にならないのか
 実際、「仕事と介護の両立準備」については企業側でも人事がサポートするテーマの1つとしてかなり前から取り扱っており、休暇制度、介護セミナー、ハンドブック、相談窓口、と多くの企業で様々な支援が提供されています。
 でも、皆さんの中でも介護セミナーや研修を受けたことがない、ハンドブックも読んだことがない、という方のほうが多いのではないでしょうか。
 たとえ研修を受けたこと、ハンドブックを読んだことがあったとしても「介護が始まる前に、具体的に準備を進めた/行動した」という方はさらに少ない、というのが実態だと思います。
 実際、「介護中または1~3年以内に介護が始まると想定しているビジネスパーソン」に要介護申請のタイミングや、介護対象者の理解など、必須のリテラシーの有無を調査したこともあるのですが、実に6~8割の方が「知らない」というのが実態でした。
 「超高齢社会は確実にやってくるし、自分ごとでもある」と、多くの方々が分かっているにもかかわらず、実際に知識を得て準備を進めたり、家族と会話をしたり、事前に行動したりする“介活(介護活動)”までには、なかなか至らない──。
 2025年問題が目前に迫る中、私たちはこの「なかなか準備が進まない」構造を、どのように解決していけばよいのでしょうか。


眞子さまの結婚問題、天皇陛下のお言葉でレベルが一段上へ? 秋篠宮家には円満であってほしい

2021-03-25 11:00:00 | 日記

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国民の関心事である眞子さまの結婚問題。天皇陛下は、お誕生日の際に行われた会見で、記者からの質問に答えるかたちでこの問題に初めて言及された。陛下が内親王の結婚について、決まっていない段階で発言されるのは異例のことだという。今回の陛下のお言葉にはどのような意味があるのか。「女性自身」の記者で、皇室ジャーナリストの近重幸哉さんに聞いた。

*  *  *
「眞子内親王の結婚については、国民の間で様々な意見があることは私も承知しております。このことについては、眞子内親王が、ご両親とよく話し合い、秋篠宮が言ったように、多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております」

 秋篠宮家の長女眞子さまと小室圭さんの結婚について、陛下はこのように述べられた。2月23日の天皇誕生日に際し、2月19日に赤坂御所で開かれた記者会見でのことだ。眞子さまの結婚につい尋ねた質問への回答だった。

 質問は事前に陛下に伝えられていたが、記者らは当日、さらに「多くの人が納得し喜んでくれる状況に何が必要か」と関連質問を重ねた。それに対して陛下は以下のように返された。

「この件に関しましては、先ほど申し上げたこと以上のことは、今はお答えは差し控えさせていただきたいと思います」

 これらの陛下のお言葉に国民も注目。国民の間には「踏み込んだ内容ではない」というものや「眞子さまが発表したお気持ちと今回の天皇陛下のお言葉には大きな開きがある」といったものまで、さまざまな解釈があるが、これまでの経緯を踏まえると、今回のお言葉にはどのような意味があると受け止めるのが妥当なのだろうか。

 皇室取材歴30年の近重さんは、まず、今回陛下がお言葉で触れたこと自体が前例のないことだと指摘する。

「眞子さまと小室さんはご婚約内定の会見は開きましたが、それでだけは結婚が決まったといえる段階ではありません。また眞子さまは皇族とはいえ、これは秋篠宮家のご家族のことなのです。つまりまだ確定していない他家の結婚について、天皇陛下がお言葉で触れるというのは異例のことなのです。本来ならば、結婚が決まった段階で、“末永い幸せを願っております”といった内容となるのが天皇陛下のお言葉であるはずです」

 眞子さまに対する国民の心配の声が大きくなっている現状を受け、言いづらいことではあるが、陛下は敢えておっしゃったということのようだ。

 近重さんは、陛下がお言葉に込めれられた思いを次のように読み解いた。

「国民から祝福されるかたちで眞子さまには結婚してほしい、そして秋篠宮家にも円満であってほしいという気持ちがおありなのでしょう」

 陛下のお言葉は、秋篠宮さまの昨年と一昨年の誕生日の際のご発言を踏まえたものでもある。秋篠宮さまは、眞子さまと小室さんの結婚については「多くの人が納得し喜んでくれる状況」が必要だと述べられた。裏を返せば、眞子さまの結婚について現状では国民の支持を得られているとはいいがたいということ。昨年11月のお誕生日の会見では次のように述べられた。

「長女の結婚について反対する人もいますし、賛成する人もいますし、全く関心の無い人もいるでしょう。どれをもって多くというふうに客観的に言うことができるかというとなかなかそれは難しいわけですけれども、あくまで私の主観になりますけれども、感じとしては決して多くの人が納得し喜んでくれている状況ではないというふうに思っています」

 もちろん、眞子さまの結婚について国民の間にも賛成、反対、両方の声がある。若い世代や皇室に興味のない人たちの中には「お2人の自由意思で結婚して幸せになればいい」という意見もあるだろう。ただ、世間の反応を見る限り厳しい意見が目立つのも事実。特に、もともと皇室に関心がある国民の多くは不信感を抱いている様子だ。そうした人たちは、お相手である小室圭さんが結婚に向けて誠実な対応をしてきたという印象は持てておらず、さらにはコロナ禍にあって「眞子さまには私たちの苦しさを理解していただけないようだ」と残念な気持ちを抱いている人も少なくない。

 このような状況の、皇室にとっての意味を近重さんは解説する。

「皇室に興味がある人たちから内親王の結婚を反対されるのは、皇室としても看過できない事態なのです。国民からの支持があり、敬愛を受けてこその皇室ですから。たとえば、批判や反対の声が、一般の人々へ調査した結果のおよそ半数であっても、それは大変なことです。本来、皇室の慶事は8、9割の人が賛成というのが自然なのです」

 そうした状況下、秋篠宮さまは昨年11月、「結婚は認める」としつつも、「結婚と婚約は違います」と述べられている。これについては少し説明が必要だろう。近重さんは言う。

「秋篠宮殿下の『結婚は認める』という部分だけが世間でクローズアップされてしまった感じがありますが、ご発言の全体を理解すればもっと深い意味がわかると思います」

 憲法24条では、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」と定められている。簡単に言うと、二人の合意さえあればいつでも籍を入れるという形の結婚はできるということ。一方、女性皇族が結婚する場合、一般の結納にあたる「納采の儀」を経て、「告期の儀」、「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」、「朝見の儀」などの一連の儀式を順番どおりに行った後に、結婚式、披露宴を催し皇室を離脱するという流れになる。

「秋篠宮殿下のお気持ちは、父親としては2人の気持ちを尊重したいということ。そして憲法で定められた結婚は認めるということです。しかし、秋篠宮殿下が宮家として婚約をお認めにならない限り、納采の儀をはじめその後に続く一連の儀式は行えません。つまり、皇室としての結婚は、今のままでは難しいということなのです」

 今回、陛下は「ご両親とよく話し合い、秋篠宮が言ったとおり……」とご発言。秋篠宮さまと同じ思いがあるとおっしゃったともいえるのだ。

「今回の陛下のお言葉については、上皇陛下と美智子さまにもお伝えしていると思います。上皇陛下が裁可されたのだから、反対されるのは難しいという意見もありましたが、小室さんの母親の金銭問題、小室さんのアメリカ留学などは裁可の後のことなのです。一連の儀式が延期となって以降、3年間に及ぶ国民の不信感を考えれば、上皇陛下も美智子さまも心配されているはずです」

 近重さんによると、御代が平成から令和に変わったことも大きいという。

「天皇陛下はご自身の御代に、国民の信頼を損なうような結婚は天皇としては望んでおられないと思います。今回、陛下が言及されたということは、皇室が一つになってのお言葉だということも意味します。これまでは、眞子さまにはご両親との関係で考える問題だったかもしれませんが、天皇陛下のお言葉があった以上、これまでのようにそのまま放っておくことはできません」

つまり、これまでとはこのご結婚問題のレベルが一段上がったということ。言葉の重みを考えて、眞子さまと小室さんは国民の理解と祝福を得ることが必要になったということだ。

「そして、天皇陛下に言及された以上、秋篠宮殿下も娘の眞子さまと対話をしなければならないということです。これまでのように結婚問題については長女と口を利かないという状況ではなく、秋篠宮ご夫妻も眞子さまとしっかりと話をされ、眞子さまも秋篠宮さまと向き合われて、今、国民が不安に感じている問題をクリアしなければならなくなったのです」

 自分の気持ちや都合を相手に押し付けるのではなく、歩み寄って問題の解決をはかってほしい、相手の理解を得るために尽くしてほしいということだろう。それは天皇陛下が大事にされている姿勢のようだ。

「新型コロナウイルスに関するご発言で、天皇陛下は、『心を一つにして』という言葉を使われました。これはかつて、東日本大震災の追悼式典で上皇陛下が使われた言葉でもあります。国民に『心を一つにして』と求めるのならば、皇室もそうでなければならないという思いがあるはずです。ご家族単位でも同様に思われているのではないでしょうか。眞子さまの結婚について国民の理解と納得を得られるように、秋篠宮家も心を一つにしてほしいとお考えだと思います」

 短いながらも、深い意味が込められている天皇陛下のお言葉。国民も眞子さまと心を一つにできる日が来ることを切に願っている。

(まとめ/AERAdot.編集部 鎌田倫子)


橋田壽賀子と安楽死#1「そろそろ、おさらばさせて下さい」という権利があってもいい

2021-03-25 08:30:00 | 日記

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「私は安楽死で逝きたい」。2016年12月号『文藝春秋』に掲載された1本の記事が大きな反響を呼んだ。原稿を寄せたのは、92歳の人気脚本家の橋田壽賀子さん。「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」はじめ名作ドラマを生み出した脚本家がごく私的な思いから綴った記事は、本人の予想を超えて共感を呼び、その年の読者賞を獲得する。関心が高いが、口にするにはためらいのある「安楽死」について、ご本人が明言するに至った背景を伺った。
◆◆◆
私が安楽死を望むわけ
 人さまに迷惑をかける前に死にたい。それが私の望みです。
 家族がいれば、子どもや孫の成長を見届けたかったり、できるだけ生きていて欲しいと望まれることでしょう。けれども私は、夫に先立たれ、子どもはなく、親しい友人もいない。天涯孤独の身の上です。
 仕事は嫌というほどやったし、世界中の行きたい場所へ行きました。もうじゅうぶん生きて、やり残したこともなく、思いを残す相手もいません。
 いまはまだ自分で生活できていますが、足腰が立たなくなったらどうしましょう。行きたいところへ行けず、食べたいものを食べられなくなったら。いつの間にか認知症になって、何もわからなくなってしまったら。
 食事から下の世話まで人さまの手を借りるなら、そうなる前に死なせてもらいたい。これは、尊厳とプライドの問題です。死ぬときに、痛いのや苦しいのも嫌です。だからいつどうやって死ぬか、自分の意思で決めさせてもらいたい。それには安楽死しかありません。
 ヨーロッパのいくつかの国やアメリカのいくつかの州では、安楽死が合法です。だから日本でも認めてもらって、わざわざ外国へ行かなくてすむようになれば助かります。
 こんな願いは私だけだろうと思いながら『文藝春秋』(2016年12月号)に「私は安楽死で逝きたい」を寄稿したところ、読者の方々から賛同の声がたくさん寄せられました。「私も安楽死に賛成です」「頑張って、法制化の旗振り役になってください」と、声をかけられる機会も増えました。
 そんな大それたことはできませんけど、私と同じように考える人は思いのほか多いようです。そんな人たちが、安楽死という死に方をごく当たり前に選べるようになればいいな、と思います。ある程度の年齢になったら、「そろそろ、おさらばさせて下さい」と申し出る権利があっていいのではないですか?
誕生日ごとに「死に方」を考えよう
 当たり前の話ですが、人は誰でも死にます。しかも、いつ死ぬかわかりません。なのに死は忌むべきものとされ、死について語ろうとすれば「縁起でもない」と言われます。日本人は、死というものや自分の死に方に、無関心すぎるのではないでしょうか。
 私たち戦争を経験した世代の死生観は、その後の人たちとはまるで違います。人の死を身近に見すぎたせいで、死ぬことが怖くないんです。終戦のとき私は20歳で、勤労動員された学生でした。戦争中は「今日死ぬか、明日死ぬか」ばかり考えていました。ようやく戦争が終わったあとも「今日の食べ物をどうするか」で精一杯。青春などありませんでした。
 若い頃は直面していた死について、再び考えるようになったのは、90歳を目前にした頃でした。そして「死んでも公表しない。葬式も、故人を偲ぶ会もやらない」と決めて、周りの人に頼んであります。けれども、もっと早く準備しておけばよかったと思うんです。
 たとえば、自分が死んだときに臓器を提供するかどうか、15歳から意思表示ができるようになっています。同じように、20歳になったら毎年の誕生日ごとに、自分がどんな死に方をしたいか考えたらどうでしょうか。お誕生日は、ひとつ年を重ねたお祝いであると同時に、いつやってくるかわからない死に一年近づいたことを意味する日です。そこで、この一年生きてこられたありがたさを噛み締めつつ、死に方について考えるのもいいのでは? 去年「延命治療は一切拒否」と決めたとしても、そのあとで恋人ができたり家族が増えたから、今年は「少しでも延命の可能性があるなら、生かして欲しい」と変わったってかまわないのです。『安楽死で死なせて下さい』(橋田壽賀子 著)
 いますぐ安楽死したいと考えている私だって、今日はお医者さんに行ってきました。血液検査をして、お薬をもらってきました。いつ死んでもいいけど、生きているうちは元気でいたいからです。大型客船「飛鳥Ⅱ」の来年の世界一周クルーズに申し込んで、お金も払いました。身の回りのことを自分でできて、楽しみがあるうちは、もうちょっと生きていてもいいかな、と思っているんです。
 若いときから死に方について考えることは、生き方を見つめ直すことになるし、人生を豊かにしてくれるはずです。

橋田壽賀子と安楽死#2「子どもがいないから可哀そう」と言った友人の可哀そうな最後

子供は親に頼るな、親は子供に期待するな
 私は家族がいなかったから、ホームドラマがたくさん書けたと思っています。かりに息子などいて「お母さんはこんなこと考えてたのか」なんて思われたら、好きなように書けないじゃありませんか。手加減したりカッコつけたドラマが、面白いはずありません。親も夫も子供もいないから、誰にも遠慮せず本音が書けるのです。
 かりに親が健在だったら、私はこう言います。
「老後の世話をするのは嫌だから、自分のお金でちゃんと自分の始末をしてほしい。その代わり、遺産は一銭も要らないわ」
 冷たいですか? でも、もしも子どもがいたならば、
「自分の最期は自分で準備するから、あなたに面倒を見てもらうつもりはない。自分で稼いだお金は全部使って死ぬから、遺すつもりもない」
 と告げたでしょう。
 世の中の親は我が子のために節約を重ね、少しでも財産を遺そうとします。しかし私は反対です。私の知人の女性は、旦那さんを亡くしたあと、お姑さんの面倒を見ながら息子と娘を育てました。息子のお嫁さんも娘も働いていたので、幼い孫たちをよく預かっていました。そうやって家族の世話をすることが、彼女の生き甲斐でした。いつも私に、
「壽賀子さんは可哀そうだ。子どもがいないから」
 と言いました。子どもがいなくてよかったと思っている私には、彼女こそこき使われて可哀そうに見えたのですが、何も言わずにいました。やがて彼女は、長男一家と一緒に暮らすつもりで3階建ての二世帯住宅を建てました。ところがそのあとになって、お嫁さんが「一緒に住むのは嫌だ」と言い出したのです。
広い二世帯住宅で迎えた結末とは…『安楽死で死なせて下さい』(橋田壽賀子 著)
「息子も娘も会いに来てくれない。孫だって、あんなに面倒見てやったのに、ちっとも寄り付かない」
 とこぼすようになった彼女を、
「子どもや孫が可愛くてやってあげたんだから、いいじゃない。あとの人生は自分の好きなことをしなさいよ」
 と慰めたものです。しかし家族に尽くすだけの人生を送ってきた彼女には、別の生き甲斐が見つかりませんでした。そのうち、
「壽賀子さんは、独りを覚悟しているからいいね」
 と言うようになり、八十歳をすぎたばかりなのに、広い二世帯住宅で孤独死しました。成人した我が子は、新しい家族と新しい生活を築くのが当たり前です。彼女は、期待をかけすぎてしまったのでしょう。
 口では「子どもの世話になんか、なりたくないですよ」と言う人が多いですが、みなさん心の中では期待しているんじゃないですか。けれども、裏切られた期待は、恨みに変わることがあります。期待さえしなければ、思いがけず感謝が生まれる場合もあるのです。「お金を遺してあげるから、老後は面倒見てね」と見返りを求めるくらいなら、最初からそのお金で介護の人を雇うべきです。
 子供もまた、親に頼らず、親のお金を当てにしないこと。最近の男はマザコンが多いくせに、親の老後の面倒を見ようとしません。「お金は遺して欲しいけど、世話はしたくない」なんて、もってのほかです。
 大切なのは、親が元気なうちによく相談をして、老後や最期の迎え方についてどう考え、葬式や墓をどうしたいと思っているのか、知っておくことです。よく話し合っておかないとお互いに誤解が生まれ、それが恨み節へと変わるのです。