櫻井語録

惑わされずに 寄り添っていて。

毎日思うこと。

空想と回顧、時間論。

2005年10月31日 | 日々思う(ブログ版)
いろいろやっていると一日なんてあっという間に過ぎてしまうものだ。
今日で10月も終わりだし。あんまりノルマはこなせていない。時間を確保できるようにしないといけないなぁ。本を読むつもりでも計画が送れててしまっている。多少英語には触れているんだけど。

青山学院、法政、明治、中央の赤本で英語を解いてみました。実感としては、難易度は今書いた順かな。学部も不ぞろいなので、一概には言えないけど。青学の方は対策範囲が広そうだ。法政大学はgoogleについての評論が出題されていたなぁ。基本的に長文中で文法問題が問われるときは、前置詞の用法が重要となってくる。前置詞の意味に注目した永田英語の意義は感心するなぁ。と今日も学問的な話題から。

コンタクトをつけないで今は生活しているけど、そろそろ買わないとなぁと思っています。データが残っている遠くのコンタクト屋と、近くのコンタクト屋に変えるのとどっちがいいかなぁと考えています。どうしよう??

とりあえず、ぐわっと毎日書いてみたので、ブログの先頭のカレンダーは全部オレンジ色になりました。来月は手元にPCがなかったりするので、毎日更新はできないかなぁと思っています。自分としても残念。また、ひとつ齢を重ねてしまう。しかし、ほとんど何も思わなくなっていているんだけどね。

身の回りに「生涯で3回モテる時期が来る」と言っている人が複数人いる。そういうものかなぁとも思うし、そんなこともないような気もする。結構自分の場合はいろんなことが一定だたったりするので、よくわかならないなぁ。でも、いろいろ過去の経験や教訓を思い出したりすることは多いタイプだということに気がついた。そんなに周りの人間に回顧趣味はないらしい。

この自分の懐古主義は、現実の肯定と矛盾するものではないと考えてはいる。時間論のなかで、未来を想像することはできないという話について以前書いたが、そういった時間論に基づいている人も、過去は存在したとみなすと考えているというのを読んだ。だとすると、時間感覚については私の考えていることとかなり近い。過去を振り返るのは、過去のみが現に存在していたからなのだと思う。

また、空想にふける人もいるように、人間のそれはいわゆる時間つぶしであったりするものではないだろうか。本を読むこと、ネットをすること、ゲームをすること、すべてそれらを時間つぶしと考えれば、そう言えないこともない。空想、回顧どちらも意識を非現実に向かわせてはいるが、現実に存在しないことに意識を向けるか、現実に存在したことに意識を向けるかの相違ではないだろうか、と、考察してみる。