読書・映画日記

 読んだ、観た情報をもう一度思い返して感想を書くことによって理解を深めるために始めました。

「瞬」を観て -その1-

2010年07月22日 | 映画
 今日も苦しい一日だった。最近は休日でもずっと苦しい。精神的にも肉体的にもずっと疲れている。満たされず、ずっと何かに追いかけられているようだ。
 今日は映画館に行ってみた。道中のドライブが楽しかったな。トンネルに入ると黒いシルエットにすっぽりと世界が包み込まれてようやく気分が落ち着いたのを覚えている。そこからは少し前向きな気持ちになって映画館に向かった。本当は帰りに風呂屋に行こうと計画していたけれど、あまり人の多いところにはいきたくなかったので止めた。
 映画は面白かった。帰り道ではずっと映画の事を考えていた。以前よりもすんなりと映画の事が理解できるようになったと実感した。作り手の気持ちをとても敏感に汲み取っている。ただ、それだけなんだけれども。

 この映画は主に優しさを巧みに描いていたと思う。
  主人公の兄貴の粗暴ながらじんわりと温かい優しさ
  主人公の父親の見守るような優しさ
  花屋の女主人の信じぬく優しさ
  おばあさんのよりそう優しさ
  弁護士の妹の寛大な愛
  弁護士の父親の贖罪の愛
  弁護士の贖罪の愛
  ジュンの命を賭けた愛

 臨床心理師は優しさの描写は無かったように思う。ちょっと人を選ぶタイプの人間だったのかも知れない。

 主人公は結局救われたのか?その答えは正直分からない。例のトンネルで主人公の記憶はほぼ回復し、凄惨な事故シーンが始まる。そこからジャンプ、主人公の笑顔に切り替わる。最後に弁護士と抱き合い、別れる。ジュンの母親に会い、改めて感謝される。ジュンの思い出の場所に赴き、そこでおばあさんに出会う。おばあさんは失った夫の話を主人公に聞かせる。おばあさんは、小康とでもいうのだろうか、それなりに人生を楽しんできたようでもある。主人公はラスト、ジュンの霊感を得る。このとき、主人公は言う「生きている」と。過去、現在、未来がそのとき、つながる。事故からの自分、今生きている自分、ずっと想いを秘めて生きたおばあさん。みんな、つながる。彼女は救われたのだろうか?それは分からない。ただもう、後戻りはしないだろう・・・。

 僕個人的には弁護士の涙を流すシーンが印象に残っていて、僕自信もうるると来た。父親が仕事でミスをしてから豹変したと語られていたが、いったいなにがあったのか具体的なところはぼかされている。ミスをしたから職場での立場が無くなったとも見れるし、元々極端な気質の人だったのかも知れない。家庭の場では感情が抑えられなくなったのだろう、母親と妹にとりかえしのつかない暴力をふるってしまう。そして、父親は自らの意思で去るのである。長女は不思議な事にその父親同様、以来自分を責め続ける。しっかりと父親の遺伝子を受け継いでいるように思えるのは僕だけだろうか?妹は私を恨んでいると思い続ける。上京してずっと孤独にサバイバルをしてきたのだ。だが誰に対しても厳しい態度で臨む彼女にはにじむような優しさが、悲しさが漂っている。それは妹と共に置いてきた優しさだったのかもしれない。その心の氷が主人公の力を借り溶けてゆく・・・。妹は何もかも理解してくれていた、そして寛大な愛で自分を、自分の妹への恐れも、自身への憎しみも理解してくれていた。これ以上の愛があるだろうか、彼女は救われた・・・。

映画:「瞬またたき」
監督・脚本:磯村一路
原作:川原れん 「瞬またたき」

「いのちの食べかた」を観て -その1-

2010年07月15日 | 映画
 今日、「いのちの食べかた」と言うDVDを観た。このDVDは主に屠畜(とちく)場の凄惨な現場を批判したDVDだ・・・と思っていた。しかし映像として写るものは真実だろうと思い、ショップでレンタルしてみたんだが、どうやら僕の想像は間違っていたようだ。

 DVDは始まっていきなり僕を現場に連れて行ってしまった。僕は気づけばその現場に居て、「え、なにここ・・・」ときょろきょろ見回していた。壁のように続く真っ二つの豚の死体がぶらぶらとゆれていて恐ろしかった。その部屋の中で男が黙々と水のようなものを散布していた。
 この映画にナレーターは無い、説明も無く、ただ映像が流れてゆく。さまざまな”食材”の作り方が映し出されていく。でもよく目を凝らせばその場その場で行われている作業の意味が見えてくる。真実そのものが描かれている。
 後半、牛がある機械に入ってこちらを見ているシーンがあった。その機械のとなりには牛の死体が転がっていた。機械は死んだ牛を排出する仕掛けになっていた。牛はその機械に入っているときはどのようにしても身動きができなくなる仕組みだ。そこへふらりと作業着の男が現れる。右手に黒い道具を持っていて、手のひらに収まるくらいだ。それを牛の額にあてようとする。しかし、何故か牛は体全身で震えだして男の手から逃れようと首を振り続ける。右に、左に首を振り続けて最後、男の顔を見た。男はそのわずかな瞬間に道具を額に押し当て、何かの操作をした。牛はぐっと上を向いて体ごと落ちた。静かになった。機械がぐるりと回転して、ごろりと牛が外に排出された。男が牛の足元に回りこみ、足首を天井から下がっている機械に固定した。牛が逆さづりになって運ばれていった。
 惨い、と僕は思った。でも自分が同じ立場ならば、やったであろう。同じようにしていただろう。どうしてそんな惨い事が平気で出来るのだろう。いや・・・これが分業化された現代社会のありのままなのだ。自分はお腹が空いていなくても殺せばお金がもらえるのだ。そしてそのお金でお腹が空いているときに何処かで誰かが育て、殺した肉を頬張るのだろう。ああ、でも何も知らない人も居るのかと思うとぞっとする。こんな簡単な事も知らずに、利益誘導された情報を垂れ流すメディアだけを真実として受け止めている人々には、動物達のほとんどは広々とした農場で、チェック柄のよく似合う農場主に面倒見よく育てられているように映っているだろう。隠匿しようと意思する力が大きすぎて、今誰も真実を知らないのではないだろうか。

 シンプルな事を言えば、人は自分の食料を自分で生産して食べるのが一番良い。それこそ食の"安心(安全とはまた少し違う)"は申し分ないはずだ。また、それは自らの手で一般的に言われる"命"と言うものを奪う事でもある。そして普通なら痛みをできるだけ少なく、効率的に食べようと思うはずである。特に動物に対してはそう思う。動物は体温があって、体を近づければ自分達と同じように呼吸し、脈動し、ほんのりと温かい。そして、穏やかだ。加工の工程を全て理解していれば、食の安心を問うことなどそもそも無い。
 食料生産技術は機械化によって凄まじく発展した。そしていつの間にかそれは社会の隅においやられ、こっそりと行われるようになった。誰が生産したのか分からないような肉がどこでも手に入り、その工程を問う事も無く口に入れている。
 鳥のキャラクターが面白可笑しい格好でテレビの中で歌い、最後に僕を食べてねと宣伝してゆく。「あなたに食べてほしい」そんなメッセージで覆われ、隠された真実を知る事は容易ではない、屠畜業界のグループではマスコミに対して一定の情報規制を敷いていて、暗黙のうちに制御されている。映像の持つ力をとても恐れている。この映画は勇敢にもその現実と立ち向かい、そして受け入れられた。カメラクルーは現場で監視される事もあったらしいが、時間がたつにつれて対応が緩やかになっていくのを感じたと言う。誰も彼もが本当は気づいている、この誤った認識を変えなければいけないということに。

映画:「いのちの食べかた」
監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター
公式HP:http://www.espace-sarou.co.jp/inochi

自作小説(未完)

2010年07月13日 | 自作小説
 白い壁に囲まれた薄暗い部屋でドレスを着た女が椅子に座っている。男は顔の無い女の肩に手を置いた。そっと撫でながら腰を落とし、女のまたぐらへ頭をうずめた。ドレスから伝わる体温に包まれるような感覚に男は堕ちてゆく。男をもっとも安心させ、男を唯一救うのはこの女のまたぐらであった。
 男はずっと南極の研究室で生活していた。男は日夜研究に没頭し、眠りにつく時、女を抱きしめた。南極に住む以前は有名な大学の研究室で生活していたが、社会の制約に耐え切れなくなり、男は一人南極で生活を始めた。男を縛るものはいろいろあった。それは生死の倫理観であったり、法律であったりした。
 女には首から上が無かった。正確には、首から上はわずかな脳を残して男に切り取られているのである。切り口には生命維持に必要な装置が埋めこまれており、そこから栄養を摂取している。女の生理現象の全ては男が管理していた。女に名前はなく、男は呼ぶ事も必要としていなかった。
 しばらくした後、男は女のまたぐらから離れた。木製の扉を閉めるときふと女を振り返った。女は椅子に座って壁に体を向けていた。両手をひざに添えて背筋を伸ばしている。男は部屋の電気を消した。扉を閉めた。研究所の暗い廊下を歩いた。
 外からごうごうと吹雪の音が聞こえてくる。研究所各所の外へ通じるドアの鍵をチェックしていく。一つ一つを「よし」と確認し、研究室の前に立った。冷たい緑色のドアは重く、分厚い。ゆっくりと明けて体を滑り込ませるように入り、すぐにドアの鍵を締めた。カキンと音がドアの内側で響き、手に伝わった。部屋の電気をつけた。
 弓を弾くような音と共に部屋が照らされ、研究室が露になった。部屋の中心では腕と足の無い裸の男が椅子に固定されていた。男の頭には機械が装着され、顔全体をすっぽりと覆っている。頭頂部からはガラスケースを通して男の脳が露になっており、無数の電極が差し込まれていた。

死に至る病を読んで その1

2010年07月09日 | 読書日記
 最近更新ができなかったのでちょっと焦り気味だったんだけど、やっとのことで一冊読みきりました。今回の本は、キェルケゴール作の「死に至る病」です。この本の内容をざっと回想しますと・・・誤った解釈かもしませんが僕なりにやってみます。

1.死に至る病とは絶望である。
2.絶望とは精神の病である。
3.キリスト者は神の前において無限なる自己を獲得する(ちょっと自分でも名何言ってるか分からない)。
4.死ねないけど生きられない、それが一番強い絶望である。

 こんな感じかな。ウィキでは絶望を三つの分類に分けて説明しているって書いてあった。
 正直、この本は僕には難しすぎた。けど、この本を通して人間の「意識」や「幸福」について考えさせられた。僕達が普段、「普通の生き方」として見ているものが実は絶望していると言えなくも無い状態なんだと教えられた。それをいくら否定しようとしてもできないカラクリがあるようだ。
 何故ならば人は苦しみを知って楽を知るからだ。その逆もある。事、幸福に関してはこの関係から離れる事はできない。そういった意識も持たずに、たとえばお金持ちになれば幸福になれると信じてがんばって働いたとしても、その過程で多くの苦しみを抱いている事に気がつかないまま生きていく事になる。また、お金持ちになったとしてもそのお金には限りがあるし、それまで己自身を支えていた労働すら捨ててまた新たな生き方を探して行かねばならない。結局、己を見ずして、絶望を知らずして真の幸福にたどり着く事などできないのだろうと思った。
 では真の幸福とは何か?それを知っている事だと僕は思う。そしてそれは多分、キリスト教を通して見た神の前にあるのではいだろうか。

タイトル:死に至る病
作者:キェルケゴール
出版社:岩波